彼女は袖口を一度だけ引いた

彼女は袖口を一度だけ引いた

鉋の刃を研いでいた朝

親父が消えた日の朝も、俺は鉋の刃を研いでいました。

大川の建具屋は、朝がはやいのです。六時前に工場の戸を開けて、砥石を水に沈めて、ラジオの天気予報を聞きながら刃を当てる。筑後川の河口から上がってくる風には、いつも少しだけ泥のにおいが混じっています。

その日は、親方より先に着いたのが自慢でした。研ぎ上がった刃を陽に透かして、まっすぐかどうかを確かめて、指の腹でそっと返りを落として。

それを握ったまま、俺は事務所の電話に出ました。

母さんでした。

「あんた、お父さんから、なんか聞いとらんね」

ふだんの母さんの声ではありませんでした。低くて、平らで、何かをすでに一度飲み込んだあとの声です。

「聞いとらんよ」

「そうね」

それだけで、電話は切れました。

親父がサラ金に手を出していたことを知ったのは、その日の夕方です。二人で住んでいたアパートは鍵も掛けずに開いていて、冷蔵庫だけが低い音を立てていました。押し入れの布団はそのまま、俺の中学の卒業アルバムもそのまま、親父の背広だけがありませんでした。

俺は、握ったままだった鉋の刃を、そのとき初めて手から離しました。

とうの昔に別居していた人と、暮らす

母さんとは、中学に上がるころから別々に暮らしていました。理由を聞いたことはありません。聞いてはいけないのだと、子どもなりに決めていました。

その母さんの家に、十九の俺が転がり込むことになったのです。

市営住宅の二階、階段の踊り場に自転車が三台。玄関を開けると、線香と、油と、洗剤のにおいが順番に来ました。母さんは大川の家具団地で、椅子の座面に布を張る仕事をしていました。

「狭かけど、まあ、寝るとこはあるけん」

そう言って母さんは、押し入れから客用の布団を出しました。ビニールを掛けたままの、一度も使っていない布団でした。

母さんの手は、指の関節が太くて、爪がいつも短く切ってありました。座面に布を張る仕事は、鋲を打つときに指で布を押さえます。何十年もそれをやると、人差し指の腹が平らになるのだそうです。

夜勤明けの日、母さんは風呂から上がると、その指をぬるま湯につけていました。台所の流しの前で、洗い桶にお湯を張って、両手を沈めて、じっとしている。俺が通りかかると、あわてて手を出して、蛇口を締める。

「なんしよるん」

「なんも。あったかいだけ」

あの人は、痛いと一度も言いませんでした。

強いのはどっちだったのか、いまなら分かります。俺が明るく振る舞っていたのと同じことを、この人は俺の十倍の年月やってきたのです。

俺は、その日から明るく振る舞うことに決めました。

朝は自分から起きて、飯も自分でよそって、工場から帰れば風呂を洗って。友達から親父のことを聞かれても、笑って「逃げ足だけは速かったばい」と返して。

母さんは、そんな俺を見て、よくこう言いました。

「あんたは強い子やな」

そのたびに、腹の底が冷たくなりました。

強いわけがないのです。ずっと一緒に暮らしよった親父やぞ、と言いたかった。飯を作ってくれよった親父やぞ。運動会に来てくれよった親父やぞ。この人は十年近く離れて暮らしとったやないか、と。

でも、言えるわけがありませんでした。

言えば、この人がいちばん傷つくことくらい、十九でも分かります。だから俺は、飲み込んだぶんだけ、よその場所で吐き出すようになりました。

直美の右手

直美とは、高校の同級生でした。

三年のとき、俺が一年かけて口説いて、卒業の少し前にやっと付き合ってくれた人です。振られた回数は三回。三回とも「うちでよかとね」と言われました。あのころは謙遜だと思っていました。

ちなみに一回目の告白は、体育館の裏で「うちでよかとね」と言われて終わりました。二回目は、模試の帰りに駅のホームで言って、同じ返事でした。三回目のときに、俺はとうとう腹が立って「よかとねやなくて、よかとか悪かとか答えてくれん」と言いました。

直美は目を丸くして、それから声を出して笑いました。

「じゃあ、よか」

そういう決まり方でした。いまでもこの話をすると、直美は「あんた、あのとき顔が真っ赤やった」と言います。

直美は家具団地の塗装場で働いていました。ウレタンを吹く仕事です。休みの日に会うと、指の爪の縁に、うっすらと透明な膜が残っていました。

そして直美は、会うたびに、俺の作業着の右の袖口を、一度だけ引きました。

手をつなぐ前でも、話しはじめる前でもなく、必ず最初に、袖口を親指と人差し指でつまんで、下に一度。それだけです。理由を聞いたことはありません。癖だと思っていました。

「なんね、それ」

「なんも」

「引っぱるとよ、いつも」

「引っぱっとらん」

そう言って、直美は笑うのです。

組んだ枡をばらす親方

俺が入った内田建具は、組子をやる工場でした。

釘を使わずに、細い桧の木を切り欠いて、麻の葉や胡麻殻の模様に組んでいく仕事です。一本の狂いが全体に出ます。爪の先ほどの厚みの差が、六尺の建具の端で指一本ぶんになる。

親方は、俺が組み上げた枡を、必ず一度ばらしました。

「もういっぺん」

それだけ言って、目の前で、組んだものを崩していく。三時間かけたものが、二十秒で板の束に戻ります。最初の半年は、そのたびに泣きそうになりました。

「なんでばらすとですか」

いちど、我慢できずに聞いたことがあります。親方は手も止めずに答えました。

「上手にできたとを取っとくとが仕事やなか。ばらしても、また組めるとが仕事たい」

組子の枡は、木を切り欠いた溝どうしで支え合っています。一本だけ強い材を入れると、そこだけが持ちこたえて、隣が先に負ける。だから親方は、強い材を探すのではなく、狂いの方向をそろえろと言いました。

「同じほうに反っとるもんは、組んだら止まる。ばらばらに反っとるもんは、いつまでも動く」

そのころの俺は、木の話としてしか聞いていませんでした。

意味が分かるまでに、何年もかかりました。

塗装場の裏の自販機

親父がいなくなってからのふた月、俺は毎日、昼の休みに直美の職場まで自転車を飛ばしていました。

塗装場の裏には自販機が一台あって、そこだけコンクリートの塀が日陰を作っています。シンナーのにおいと、川のにおいと、缶コーヒーの甘いにおい。

直美は、俺が着くと必ず袖口を一度引いて、それから缶を二本買いました。自分のぶんは、いつも半分残して俺にくれるのです。

「うち、そんなにいらんとよ」

「もったいなか」

「もったいなくても、飲まれんもんは飲まれん」

そういう、どうでもいい話をしていました。俺は親父の話を一度もしませんでした。直美も一度も聞きませんでした。

いま思えば、あの二か月で救われていたのは、明らかに俺のほうだったのです。

俺が当たった夜

十一月の、雨の日でした。

その日、親方に枡をばらされました。四度目でした。同じところで同じように狂う。自分の手が信用できなくなって、帰り道はずっと、自転車のハンドルを握る指に力が入りませんでした。

家に帰ると、母さんが夜勤明けで、台所に立っていました。

「あんた、ごはん」

「いらん」

「食べんと持たんよ」

「いらんて言いよろうが」

母さんは何も言いませんでした。ただ、火を止めて、湯気の立った鍋に蓋をしました。その蓋の音が、やけに静かでした。

俺は部屋に入って、直美に電話をかけました。

何を言ったのか、正直、半分は覚えていません。仕事がうまくいかないという話から始まって、いつのまにか、直美が悪いという話になっていました。連絡が遅い、休みが合わん、うちのことを何も聞かん、そもそもなんで付き合ったとか、かわいそうやったからやろう、と。

言いながら、自分の口から出ているのが全部でたらめだと分かっていました。分かっていて、止められませんでした。

言い終わって、電話の向こうは、しばらく無音でした。

ああ、また喧嘩か。そう思いました。

がんばろうや

直美は、ゆっくり息を吸って、こう言いました。

「うちでよかったら、支えちゃるし、助けてあげる」

俺は黙っていました。

「でも、あんたはお母さんの支えになってあげないかんやろ」

雨の音が、急に大きく聞こえました。

「がんばろうや」

「……」

「辛いことあったら、うちが支えになっちゃるし、聞いてあげるけん。がんばろ」

馬鹿みたいに泣いてしまいました。

受話器を耳から離せなくて、鼻をすする音が向こうに聞こえるのが恥ずかしくて、それでも切れなくて。直美は何も言わずに、ずっと待っていてくれました。

電話を切ってから、台所に行きました。鍋の蓋を取ると、まだ温かいままの豚汁がありました。母さんは布団に入っていました。俺は一人で二杯食べて、鍋を洗って、伏せて、それから自分の部屋で、もういちど泣きました。

袖口の意味

年が明けて、直美と二人で、彼女の実家に行きました。

大川から車で二十分ほどの、有明の海に近い集落です。直美の母さんは、こたつの上に蜜柑を山ほど出して、俺の顔を見るなり笑いました。

「あんたが、袖の人ね」

意味が分かりませんでした。直美が慌てて母親の肩を叩きましたが、母さんは平気な顔で続けました。

「この子のお父さんもね、建具屋やったとよ」

初めて聞く話でした。直美の父親は、直美が小学校四年のときに、家を出たそうです。理由までは聞きませんでした。

「うちの人はね、帰ってきたら、まず袖口の鉋屑を払いよったとよ。仕事のできた日は、袖に細かいとが、ようけついとる。うまくいかん日は、なんもついとらん」

直美は、蜜柑の皮をむきながら、下を向いていました。

「うち、それ見て、今日は話しかけてよか日かどうか、決めよったと」

そう言って、直美は初めて、あの癖の説明をしました。

「袖口を引きよったとは、鉋屑がついとるかどうか、見よったとよ」

俺は、自分の右の袖口を見ました。

付き合って一年、直美は一度も「今日はどうやった」と聞いてきませんでした。聞かなくても、袖を一度引けば分かっていたのです。ついている日は放っておいてくれて、ついていない日は、缶コーヒーを一本多く買っていました。

あの雨の夜。俺は思い出しました。あの日の作業着には、鉋屑が一つもついていませんでした。ばらされた枡を組み直せないまま、俺は鉋を一度も掛けていなかったのです。

直美は、電話を取る前から、知っていたことになります。

「や」の一文字

帰りの車で、俺は直美に聞きました。

「あの、がんばろうやってさ」

「うん」

「あれ、どっかで聞いた言い方やねって、ずっと思いよったと」

直美はしばらく黙って、それからフロントガラスのほうを向いたまま言いました。

「お母さんが、毎晩言いよったとよ」

父親が家を出たあと、直美の母親は、寝る前に必ず娘の枕もとに座って、同じ言葉を言ったのだそうです。がんばりなさい、でもなく、がんばってね、でもなく。

「がんばろうや、って」

筑後の言葉の「や」は、誘う「や」です。一緒にやろう、の「や」。

がんばろうやの「や」は、一人でがんばれという意味やなかったとです。

直美が俺にくれたのは、慰めではありませんでした。母さんの支えになってあげないかんやろ、という一言も、突き放したのではなかった。あれは、あんたの荷物のうちの一つは、うちが持つ、という宣言だったのです。

「うちでよかとね」と三回言った意味も、そのとき初めて分かりました。謙遜ではありませんでした。同じことをした父親を持つ自分に、誰かを支える資格があるのか。直美はずっと、それを疑っていたのです。

展示会の記帳

それから七年が経ちました。

俺は内田建具に残り、親方の下で組子をやり続けています。母さんは家具団地を定年で辞めて、いまは公民館で椅子の張り替えを教えています。直美は俺と一緒に暮らしています。

去年の秋、大川の家具の展示会に、自分の組んだ衝立を出しました。麻の葉に胡麻殻を混ぜた、六尺の一枚です。三度組み直しました。

衝立を仕上げる二週間は、毎晩九時まで工場にいました。麻の葉の中心が一分でもずれると、遠目に模様がにごります。三度目にばらしたとき、親方は初めて手を貸してくれました。

「ここの一本だけ、逆に入れてみい」

言われたとおりにすると、それまでどうしても閉じなかった六角が、音もなく合いました。

「な。全部そろえるとやなか。一本だけ、逆に持たせる」

その一本がどこにあるかは、ばらしてみないと分からないのだそうです。

会場の入口には、記帳のノートが置いてあります。展示が終わって、片づけのときに何気なくめくって、俺は手を止めました。

二日目の欄に、見覚えのある字がありました。

癖のある「一」の書き出しと、はねない「く」。子どものころ、連絡帳の保護者欄で毎日見ていた字です。住所の欄は空白で、名前だけが書いてありました。

俺は、そのページを写真に撮りませんでした。破りもしませんでした。ノートを閉じて、元の場所に戻して、それだけです。

家に帰って、直美に言いました。

「来とったばい」

直美は、俺の作業着の右の袖口を、一度引きました。それから、何も聞かずに、こう言いました。

「ついとるね」

その日の袖には、細かい桧の鉋屑が、たしかについていました。

ばらしても、また組める

親方が枡をばらす意味を、俺はいまも毎日考えます。

上手にできたものを取っておくのが仕事ではない。ばらしても、また組めるのが仕事だ。あれは木の話ではなかったのだと、七年かかって思うようになりました。

親方も、若いころに一度、家をばらした人でした。それを教えてくれたのは母さんです。母さんが公民館で親方の奥さんと知り合って、笑い話のように聞いてきたのだそうです。

その年の暮れ、母さんが公民館の張り替え教室で使う古い椅子を、俺が直したことがあります。座面の裏を外すと、前の職人が入れた新聞紙が出てきました。日付は俺が生まれる四年前でした。

「こういうとが、たまに出ると」

母さんはそれを丁寧にたたんで、また同じ場所に戻しました。捨てんとね、と聞くと、笑って言いました。

「入れた人が、いちばん見てほしかったとやろ」

親父のことを、俺はもう憎んではいません。赦したとも言いません。ただ、あの人がいなくなった年に、俺の手のなかには鉋の刃と、袖口を引く指と、豚汁の鍋の蓋がありました。それだけは、はっきり覚えています。

いま、うちの工場には見習いが二人います。俺は彼らが組んだ枡を、一度ばらします。二十秒で板の束に戻します。そして、こう言うことにしています。

「もういっぺん、一緒に組もうや」

「や」は、一人でがんばれという意味ではないのです。

今朝も、直美は玄関で、俺の右の袖口を一度だけ引きました。

まだ何もついていない、洗ったばかりの袖でした。

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