
鉋の刃を研いでいた朝
親父が消えた日の朝も、俺は鉋の刃を研いでいました。
大川の建具屋は、朝がはやいのです。六時前に工場の戸を開けて、砥石を水に沈めて、ラジオの天気予報を聞きながら刃を当てる。筑後川の河口から上がってくる風には、いつも少しだけ泥のにおいが混じっています。
その日は、親方より先に着いたのが自慢でした。研ぎ上がった刃を陽に透かして、まっすぐかどうかを確かめて、指の腹でそっと返りを落として。
それを握ったまま、俺は事務所の電話に出ました。
母さんでした。
「あんた、お父さんから、なんか聞いとらんね」
ふだんの母さんの声ではありませんでした。低くて、平らで、何かをすでに一度飲み込んだあとの声です。
「聞いとらんよ」
「そうね」
それだけで、電話は切れました。
親父がサラ金に手を出していたことを知ったのは、その日の夕方です。二人で住んでいたアパートは鍵も掛けずに開いていて、冷蔵庫だけが低い音を立てていました。押し入れの布団はそのまま、俺の中学の卒業アルバムもそのまま、親父の背広だけがありませんでした。
俺は、握ったままだった鉋の刃を、そのとき初めて手から離しました。
※
とうの昔に別居していた人と、暮らす
母さんとは、中学に上がるころから別々に暮らしていました。理由を聞いたことはありません。聞いてはいけないのだと、子どもなりに決めていました。
その母さんの家に、十九の俺が転がり込むことになったのです。
市営住宅の二階、階段の踊り場に自転車が三台。玄関を開けると、線香と、油と、洗剤のにおいが順番に来ました。母さんは大川の家具団地で、椅子の座面に布を張る仕事をしていました。
「狭かけど、まあ、寝るとこはあるけん」
そう言って母さんは、押し入れから客用の布団を出しました。ビニールを掛けたままの、一度も使っていない布団でした。
母さんの手は、指の関節が太くて、爪がいつも短く切ってありました。座面に布を張る仕事は、鋲を打つときに指で布を押さえます。何十年もそれをやると、人差し指の腹が平らになるのだそうです。
夜勤明けの日、母さんは風呂から上がると、その指をぬるま湯につけていました。台所の流しの前で、洗い桶にお湯を張って、両手を沈めて、じっとしている。俺が通りかかると、あわてて手を出して、蛇口を締める。
「なんしよるん」
「なんも。あったかいだけ」
あの人は、痛いと一度も言いませんでした。
強いのはどっちだったのか、いまなら分かります。俺が明るく振る舞っていたのと同じことを、この人は俺の十倍の年月やってきたのです。
俺は、その日から明るく振る舞うことに決めました。
朝は自分から起きて、飯も自分でよそって、工場から帰れば風呂を洗って。友達から親父のことを聞かれても、笑って「逃げ足だけは速かったばい」と返して。
母さんは、そんな俺を見て、よくこう言いました。
「あんたは強い子やな」
そのたびに、腹の底が冷たくなりました。
強いわけがないのです。ずっと一緒に暮らしよった親父やぞ、と言いたかった。飯を作ってくれよった親父やぞ。運動会に来てくれよった親父やぞ。この人は十年近く離れて暮らしとったやないか、と。
でも、言えるわけがありませんでした。
言えば、この人がいちばん傷つくことくらい、十九でも分かります。だから俺は、飲み込んだぶんだけ、よその場所で吐き出すようになりました。
※
直美の右手
直美とは、高校の同級生でした。
三年のとき、俺が一年かけて口説いて、卒業の少し前にやっと付き合ってくれた人です。振られた回数は三回。三回とも「うちでよかとね」と言われました。あのころは謙遜だと思っていました。
ちなみに一回目の告白は、体育館の裏で「うちでよかとね」と言われて終わりました。二回目は、模試の帰りに駅のホームで言って、同じ返事でした。三回目のときに、俺はとうとう腹が立って「よかとねやなくて、よかとか悪かとか答えてくれん」と言いました。
直美は目を丸くして、それから声を出して笑いました。
「じゃあ、よか」
そういう決まり方でした。いまでもこの話をすると、直美は「あんた、あのとき顔が真っ赤やった」と言います。
直美は家具団地の塗装場で働いていました。ウレタンを吹く仕事です。休みの日に会うと、指の爪の縁に、うっすらと透明な膜が残っていました。
そして直美は、会うたびに、俺の作業着の右の袖口を、一度だけ引きました。
手をつなぐ前でも、話しはじめる前でもなく、必ず最初に、袖口を親指と人差し指でつまんで、下に一度。それだけです。理由を聞いたことはありません。癖だと思っていました。
「なんね、それ」
「なんも」
「引っぱるとよ、いつも」
「引っぱっとらん」
そう言って、直美は笑うのです。
※
組んだ枡をばらす親方
俺が入った内田建具は、組子をやる工場でした。
釘を使わずに、細い桧の木を切り欠いて、麻の葉や胡麻殻の模様に組んでいく仕事です。一本の狂いが全体に出ます。爪の先ほどの厚みの差が、六尺の建具の端で指一本ぶんになる。
親方は、俺が組み上げた枡を、必ず一度ばらしました。
「もういっぺん」
それだけ言って、目の前で、組んだものを崩していく。三時間かけたものが、二十秒で板の束に戻ります。最初の半年は、そのたびに泣きそうになりました。
「なんでばらすとですか」
いちど、我慢できずに聞いたことがあります。親方は手も止めずに答えました。
「上手にできたとを取っとくとが仕事やなか。ばらしても、また組めるとが仕事たい」
組子の枡は、木を切り欠いた溝どうしで支え合っています。一本だけ強い材を入れると、そこだけが持ちこたえて、隣が先に負ける。だから親方は、強い材を探すのではなく、狂いの方向をそろえろと言いました。
「同じほうに反っとるもんは、組んだら止まる。ばらばらに反っとるもんは、いつまでも動く」
そのころの俺は、木の話としてしか聞いていませんでした。
意味が分かるまでに、何年もかかりました。
※
塗装場の裏の自販機
親父がいなくなってからのふた月、俺は毎日、昼の休みに直美の職場まで自転車を飛ばしていました。
塗装場の裏には自販機が一台あって、そこだけコンクリートの塀が日陰を作っています。シンナーのにおいと、川のにおいと、缶コーヒーの甘いにおい。
直美は、俺が着くと必ず袖口を一度引いて、それから缶を二本買いました。自分のぶんは、いつも半分残して俺にくれるのです。
「うち、そんなにいらんとよ」
「もったいなか」
「もったいなくても、飲まれんもんは飲まれん」
そういう、どうでもいい話をしていました。俺は親父の話を一度もしませんでした。直美も一度も聞きませんでした。
いま思えば、あの二か月で救われていたのは、明らかに俺のほうだったのです。
※
俺が当たった夜
十一月の、雨の日でした。
その日、親方に枡をばらされました。四度目でした。同じところで同じように狂う。自分の手が信用できなくなって、帰り道はずっと、自転車のハンドルを握る指に力が入りませんでした。
家に帰ると、母さんが夜勤明けで、台所に立っていました。
「あんた、ごはん」
「いらん」
「食べんと持たんよ」
「いらんて言いよろうが」
母さんは何も言いませんでした。ただ、火を止めて、湯気の立った鍋に蓋をしました。その蓋の音が、やけに静かでした。
俺は部屋に入って、直美に電話をかけました。
何を言ったのか、正直、半分は覚えていません。仕事がうまくいかないという話から始まって、いつのまにか、直美が悪いという話になっていました。連絡が遅い、休みが合わん、うちのことを何も聞かん、そもそもなんで付き合ったとか、かわいそうやったからやろう、と。
言いながら、自分の口から出ているのが全部でたらめだと分かっていました。分かっていて、止められませんでした。
言い終わって、電話の向こうは、しばらく無音でした。
ああ、また喧嘩か。そう思いました。
※
がんばろうや
直美は、ゆっくり息を吸って、こう言いました。
「うちでよかったら、支えちゃるし、助けてあげる」
俺は黙っていました。
「でも、あんたはお母さんの支えになってあげないかんやろ」
雨の音が、急に大きく聞こえました。
「がんばろうや」
「……」
「辛いことあったら、うちが支えになっちゃるし、聞いてあげるけん。がんばろ」
馬鹿みたいに泣いてしまいました。
受話器を耳から離せなくて、鼻をすする音が向こうに聞こえるのが恥ずかしくて、それでも切れなくて。直美は何も言わずに、ずっと待っていてくれました。
電話を切ってから、台所に行きました。鍋の蓋を取ると、まだ温かいままの豚汁がありました。母さんは布団に入っていました。俺は一人で二杯食べて、鍋を洗って、伏せて、それから自分の部屋で、もういちど泣きました。
※
袖口の意味
年が明けて、直美と二人で、彼女の実家に行きました。
大川から車で二十分ほどの、有明の海に近い集落です。直美の母さんは、こたつの上に蜜柑を山ほど出して、俺の顔を見るなり笑いました。
「あんたが、袖の人ね」
意味が分かりませんでした。直美が慌てて母親の肩を叩きましたが、母さんは平気な顔で続けました。
「この子のお父さんもね、建具屋やったとよ」
初めて聞く話でした。直美の父親は、直美が小学校四年のときに、家を出たそうです。理由までは聞きませんでした。
「うちの人はね、帰ってきたら、まず袖口の鉋屑を払いよったとよ。仕事のできた日は、袖に細かいとが、ようけついとる。うまくいかん日は、なんもついとらん」
直美は、蜜柑の皮をむきながら、下を向いていました。
「うち、それ見て、今日は話しかけてよか日かどうか、決めよったと」
そう言って、直美は初めて、あの癖の説明をしました。
「袖口を引きよったとは、鉋屑がついとるかどうか、見よったとよ」
俺は、自分の右の袖口を見ました。
付き合って一年、直美は一度も「今日はどうやった」と聞いてきませんでした。聞かなくても、袖を一度引けば分かっていたのです。ついている日は放っておいてくれて、ついていない日は、缶コーヒーを一本多く買っていました。
あの雨の夜。俺は思い出しました。あの日の作業着には、鉋屑が一つもついていませんでした。ばらされた枡を組み直せないまま、俺は鉋を一度も掛けていなかったのです。
直美は、電話を取る前から、知っていたことになります。
※
「や」の一文字
帰りの車で、俺は直美に聞きました。
「あの、がんばろうやってさ」
「うん」
「あれ、どっかで聞いた言い方やねって、ずっと思いよったと」
直美はしばらく黙って、それからフロントガラスのほうを向いたまま言いました。
「お母さんが、毎晩言いよったとよ」
父親が家を出たあと、直美の母親は、寝る前に必ず娘の枕もとに座って、同じ言葉を言ったのだそうです。がんばりなさい、でもなく、がんばってね、でもなく。
「がんばろうや、って」
筑後の言葉の「や」は、誘う「や」です。一緒にやろう、の「や」。
がんばろうやの「や」は、一人でがんばれという意味やなかったとです。
直美が俺にくれたのは、慰めではありませんでした。母さんの支えになってあげないかんやろ、という一言も、突き放したのではなかった。あれは、あんたの荷物のうちの一つは、うちが持つ、という宣言だったのです。
「うちでよかとね」と三回言った意味も、そのとき初めて分かりました。謙遜ではありませんでした。同じことをした父親を持つ自分に、誰かを支える資格があるのか。直美はずっと、それを疑っていたのです。
※
展示会の記帳
それから七年が経ちました。
俺は内田建具に残り、親方の下で組子をやり続けています。母さんは家具団地を定年で辞めて、いまは公民館で椅子の張り替えを教えています。直美は俺と一緒に暮らしています。
去年の秋、大川の家具の展示会に、自分の組んだ衝立を出しました。麻の葉に胡麻殻を混ぜた、六尺の一枚です。三度組み直しました。
衝立を仕上げる二週間は、毎晩九時まで工場にいました。麻の葉の中心が一分でもずれると、遠目に模様がにごります。三度目にばらしたとき、親方は初めて手を貸してくれました。
「ここの一本だけ、逆に入れてみい」
言われたとおりにすると、それまでどうしても閉じなかった六角が、音もなく合いました。
「な。全部そろえるとやなか。一本だけ、逆に持たせる」
その一本がどこにあるかは、ばらしてみないと分からないのだそうです。
会場の入口には、記帳のノートが置いてあります。展示が終わって、片づけのときに何気なくめくって、俺は手を止めました。
二日目の欄に、見覚えのある字がありました。
癖のある「一」の書き出しと、はねない「く」。子どものころ、連絡帳の保護者欄で毎日見ていた字です。住所の欄は空白で、名前だけが書いてありました。
俺は、そのページを写真に撮りませんでした。破りもしませんでした。ノートを閉じて、元の場所に戻して、それだけです。
家に帰って、直美に言いました。
「来とったばい」
直美は、俺の作業着の右の袖口を、一度引きました。それから、何も聞かずに、こう言いました。
「ついとるね」
その日の袖には、細かい桧の鉋屑が、たしかについていました。
※
ばらしても、また組める
親方が枡をばらす意味を、俺はいまも毎日考えます。
上手にできたものを取っておくのが仕事ではない。ばらしても、また組めるのが仕事だ。あれは木の話ではなかったのだと、七年かかって思うようになりました。
親方も、若いころに一度、家をばらした人でした。それを教えてくれたのは母さんです。母さんが公民館で親方の奥さんと知り合って、笑い話のように聞いてきたのだそうです。
その年の暮れ、母さんが公民館の張り替え教室で使う古い椅子を、俺が直したことがあります。座面の裏を外すと、前の職人が入れた新聞紙が出てきました。日付は俺が生まれる四年前でした。
「こういうとが、たまに出ると」
母さんはそれを丁寧にたたんで、また同じ場所に戻しました。捨てんとね、と聞くと、笑って言いました。
「入れた人が、いちばん見てほしかったとやろ」
親父のことを、俺はもう憎んではいません。赦したとも言いません。ただ、あの人がいなくなった年に、俺の手のなかには鉋の刃と、袖口を引く指と、豚汁の鍋の蓋がありました。それだけは、はっきり覚えています。
いま、うちの工場には見習いが二人います。俺は彼らが組んだ枡を、一度ばらします。二十秒で板の束に戻します。そして、こう言うことにしています。
「もういっぺん、一緒に組もうや」
「や」は、一人でがんばれという意味ではないのです。
今朝も、直美は玄関で、俺の右の袖口を一度だけ引きました。
まだ何もついていない、洗ったばかりの袖でした。
※
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