俺が捨てた折り鶴

折り鶴

山あいの温泉街でタクシーを走らせるようになって、もう十年になる。

俺がこの仕事を選んだのは、逃げるためだった。

教壇に立っていた頃の自分から、どこか遠くへ行きたかった。

故郷に帰って、父が残したタクシーのハンドルを握った。春も夏も秋も、山道を走っていると余計なことを考えなくて済んだ。朝の靄の中を走り、夕方の橙色に染まる峠道を抜け、夜の星しか見えない山の道を一人で走った。その繰り返しが、俺には合っていた。

あの頃のことを、完全に忘れたわけじゃない。

ただ、毎日タクシーを走らせていると、過去は少しずつ遠のいていった。忘れるというより、薄まっていく感じだった。水に溶かした墨のように、形はあるのに掴めない。

でもある一つの場面だけは、何度も何度も繰り返し浮かんできた。

折り紙を、ゴミ箱に投げ捨てた瞬間のことだ。

あれは十一月の終わり、冷え込みが本格的になってきた夜のことだ。

駅前の乗り場で客を待っていると、タクシーのドアが開いた。

乗り込んできたのは、白髪の女性だった。七十代くらいだろうか、上品な雰囲気の老婦人で、胸元に小さな風呂敷包みを大事そうに抱えていた。

「奥の温泉まで、お願いできますか」

柔らかな声だった。俺はバックミラーで軽く会釈して、車を走らせた。

山道に入ると街灯が途切れ、ヘッドライトだけが暗い木立を照らした。どこかの旅館から三味線の音が流れてきて、すぐに消えた。

「運転手さん」

しばらく沈黙が続いた後、老婦人が口を開いた。

「この辺りに、昔、中学校がありましたよね」

胸のどこかがざわついた。

「……ええ、今もあります」

「息子が通っていたんです。もう十二、三年前のことになりますが」

俺は何気なく聞き返した。

「そうですか。お名前は?」

「鈴木、といいます。鈴木悠太」

ハンドルを握る手が、固まった。

鈴木悠太。

俺が中学の担任をしていたときのクラスに、その名前の生徒がいた。

やんちゃというより、ひとりで完結しているタイプの子だった。授業中もノートを取らず、机の下でひたすら折り紙を折っていた。鶴、箱、花、蛙。気づけばいつも、手の中に小さな何かがあった。

当時の俺は、三十代の半ばで、クラスの成績を上げることに必死だった。進学校ではなかったが、それでも教師としてのプライドがあった。テストの平均点、提出率、授業態度の評価。数字で測れるものを上げることが、俺の使命だと思っていた。

だから俺は毎日怒鳴った。

「そんなものを折っている暇があるなら、教科書を開け」

悠太は反抗するでもなく、ただ黙って俺を見た。その目が妙に落ち着いていて、それがまた腹立たしかった。教師に怒鳴られて、涙を堪えるでも口答えするでもなく、ただ静かに見返してくる。その目の深さが、俺の何かを揺らした。

今思えば、俺は怖かったのだと思う。どれだけ怒鳴っても動じない生徒を、どう扱えばいいかわからなかった。教師としての自分の無力さを、悠太に見透かされている気がして、その分だけ声が大きくなった。

ある日、俺は悠太の机の上に広げられていた折り紙を、全部まとめてゴミ箱に捨てた。

「こんなものに時間を使うな」

そう言った瞬間、悠太の目に何かが揺れた。今まで見たことのない表情だった。怒りでも悲しみでもなく、もっと静かな、深いところにある何かだった。俺はそれを見て、ひどく後悔した。でも「やりすぎた」と思いながらも、謝れなかった。

翌日から、悠太は学校に来なくなった。

一週間、二週間と経つうちに、俺も他の業務に追われ、家庭訪問を一度しただけで終わってしまった。悠太はそのまま学校に戻ってこなかった。その翌年、俺は教師を辞めた。悠太のことが唯一の理由ではなかったが、あの目だけが、ずっと頭の中に残っていた。

「……俺が、その担任です」

気づいたら、そう口にしていた。

老婦人はしばらく黙っていた。バックミラー越しには表情がよく見えなかったが、驚いているのか、それとも困っているのか、風呂敷包みを両手で包み直す動作だけが見えた。

「……あら」と老婦人は静かに言った。

「俺は悠太のことを、ずっと気にしていました。あのとき折り紙を捨てたことは、今でも後悔しています。先生として、失敗だったと思っています」

老婦人は何も言わなかった。山道がカーブを描いて、奥の温泉宿の灯りが遠くに見えてきた頃、老婦人がようやく口を開いた。

「先生、悠太はね、今、パリにいるんですよ」

俺は思わずスピードを落とした。

「パリ、ですか」

「折り紙の作家をしています。折り紙を使ったアート作品で、ヨーロッパで展覧会をしているんです。先月も大きな賞をもらったと連絡がきて」

俺の頭の中で、何かがゆっくりと形を変えていった。

「息子ったらおかしな子で、先生に怒鳴られるたびに帰ってきて、その日の夜もずっと折り紙を折るんです」老婦人の声が、少し柔らかくなった。

「先生が折り紙をゴミ箱に捨てた日の夜も、台所で黙って折っていて、私が声をかけたら言ったんです。先生は折り紙が嫌いなんじゃなくて、俺のことが心配なんだって」

胸が、痛かった。

「悠太はそれからも、先生に怒鳴られるたびに、先生の言葉を折り紙の中に折り畳んでいたみたいで。ノートを取れって言われたら、大事なことを記録する折り紙を作る。勉強しろって言われたら、知識を積み重ねるように折り続ける。あの子なりのやり方で、先生の言葉を受け取っていたんだと思います」

俺は何も言えなかった。

「先生のことが、大好きだったんだと思いますよ。大好きな人の言葉だから、全部折り紙にして手元に残したかったんじゃないかしら」

車が温泉宿の前に着いた。

老婦人は風呂敷をそっとほどいた。中から出てきたのは、白い一羽の折り鶴だった。小さくて、丁寧で、羽の一枚一枚に筋が通った、びっくりするくらい美しい鶴だった。

「今回こちらに来るって言ったら、悠太に頼まれたんです。もし縁があって先生に会えたら、渡してほしいって」

俺の手のひらに、折り鶴が乗った。

軽かった。こんなに軽いのに、ずっしりと重かった。

「ありがとうございます」としか言えなかった。

老婦人を見送って、俺はしばらく車の中に座っていた。

ダッシュボードの上に折り鶴を置いて、じっと見た。

山の夜は深く静かで、エンジンを切ると、遠くの沢の音だけが聞こえた。

あの日、ゴミ箱に捨てた折り紙のことを、悠太はずっと覚えていたのだろう。腹を立てていたわけでも、恨んでいたわけでもなく、ただ、先生の言葉を折り畳んで持ち続けていた。

俺が捨てたのは、あのとき、折り紙だけじゃなかったのかもしれない。でも悠太は、捨てられた言葉まで丁寧に拾って、海を越えていった。

窓を開けると、冷たい山の空気が流れ込んできた。冬の星が、山の稜線の上にいくつか出ていた。

俺は折り鶴を両手で包んで、目を閉じた。

お前が今もどこかで折り続けていることを、ずっと願っていた。

知らなかっただけで、俺はずっと、そう祈っていたのかもしれない。

エンジンをかけた。

山道をゆっくり下り始めると、ダッシュボードの白い鶴がヘッドライトに照らされて、静かに光っていた。

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