
山あいの温泉街でタクシーを走らせるようになって、もう十年になる。
俺がこの仕事を選んだのは、逃げるためだった。
教壇に立っていた頃の自分から、どこか遠くへ行きたかった。
故郷に帰って、父が残したタクシーのハンドルを握った。春も夏も秋も、山道を走っていると余計なことを考えなくて済んだ。朝の靄の中を走り、夕方の橙色に染まる峠道を抜け、夜の星しか見えない山の道を一人で走った。その繰り返しが、俺には合っていた。
あの頃のことを、完全に忘れたわけじゃない。
ただ、毎日タクシーを走らせていると、過去は少しずつ遠のいていった。忘れるというより、薄まっていく感じだった。水に溶かした墨のように、形はあるのに掴めない。
でもある一つの場面だけは、何度も何度も繰り返し浮かんできた。
折り紙を、ゴミ箱に投げ捨てた瞬間のことだ。
※
あれは十一月の終わり、冷え込みが本格的になってきた夜のことだ。
駅前の乗り場で客を待っていると、タクシーのドアが開いた。
乗り込んできたのは、白髪の女性だった。七十代くらいだろうか、上品な雰囲気の老婦人で、胸元に小さな風呂敷包みを大事そうに抱えていた。
「奥の温泉まで、お願いできますか」
柔らかな声だった。俺はバックミラーで軽く会釈して、車を走らせた。
山道に入ると街灯が途切れ、ヘッドライトだけが暗い木立を照らした。どこかの旅館から三味線の音が流れてきて、すぐに消えた。
「運転手さん」
しばらく沈黙が続いた後、老婦人が口を開いた。
「この辺りに、昔、中学校がありましたよね」
胸のどこかがざわついた。
「……ええ、今もあります」
「息子が通っていたんです。もう十二、三年前のことになりますが」
俺は何気なく聞き返した。
「そうですか。お名前は?」
「鈴木、といいます。鈴木悠太」
ハンドルを握る手が、固まった。
※
鈴木悠太。
俺が中学の担任をしていたときのクラスに、その名前の生徒がいた。
やんちゃというより、ひとりで完結しているタイプの子だった。授業中もノートを取らず、机の下でひたすら折り紙を折っていた。鶴、箱、花、蛙。気づけばいつも、手の中に小さな何かがあった。
当時の俺は、三十代の半ばで、クラスの成績を上げることに必死だった。進学校ではなかったが、それでも教師としてのプライドがあった。テストの平均点、提出率、授業態度の評価。数字で測れるものを上げることが、俺の使命だと思っていた。
だから俺は毎日怒鳴った。
「そんなものを折っている暇があるなら、教科書を開け」
悠太は反抗するでもなく、ただ黙って俺を見た。その目が妙に落ち着いていて、それがまた腹立たしかった。教師に怒鳴られて、涙を堪えるでも口答えするでもなく、ただ静かに見返してくる。その目の深さが、俺の何かを揺らした。
今思えば、俺は怖かったのだと思う。どれだけ怒鳴っても動じない生徒を、どう扱えばいいかわからなかった。教師としての自分の無力さを、悠太に見透かされている気がして、その分だけ声が大きくなった。
ある日、俺は悠太の机の上に広げられていた折り紙を、全部まとめてゴミ箱に捨てた。
「こんなものに時間を使うな」
そう言った瞬間、悠太の目に何かが揺れた。今まで見たことのない表情だった。怒りでも悲しみでもなく、もっと静かな、深いところにある何かだった。俺はそれを見て、ひどく後悔した。でも「やりすぎた」と思いながらも、謝れなかった。
翌日から、悠太は学校に来なくなった。
一週間、二週間と経つうちに、俺も他の業務に追われ、家庭訪問を一度しただけで終わってしまった。悠太はそのまま学校に戻ってこなかった。その翌年、俺は教師を辞めた。悠太のことが唯一の理由ではなかったが、あの目だけが、ずっと頭の中に残っていた。
※
「……俺が、その担任です」
気づいたら、そう口にしていた。
老婦人はしばらく黙っていた。バックミラー越しには表情がよく見えなかったが、驚いているのか、それとも困っているのか、風呂敷包みを両手で包み直す動作だけが見えた。
「……あら」と老婦人は静かに言った。
「俺は悠太のことを、ずっと気にしていました。あのとき折り紙を捨てたことは、今でも後悔しています。先生として、失敗だったと思っています」
老婦人は何も言わなかった。山道がカーブを描いて、奥の温泉宿の灯りが遠くに見えてきた頃、老婦人がようやく口を開いた。
「先生、悠太はね、今、パリにいるんですよ」
俺は思わずスピードを落とした。
「パリ、ですか」
「折り紙の作家をしています。折り紙を使ったアート作品で、ヨーロッパで展覧会をしているんです。先月も大きな賞をもらったと連絡がきて」
俺の頭の中で、何かがゆっくりと形を変えていった。
「息子ったらおかしな子で、先生に怒鳴られるたびに帰ってきて、その日の夜もずっと折り紙を折るんです」老婦人の声が、少し柔らかくなった。
「先生が折り紙をゴミ箱に捨てた日の夜も、台所で黙って折っていて、私が声をかけたら言ったんです。先生は折り紙が嫌いなんじゃなくて、俺のことが心配なんだって」
胸が、痛かった。
「悠太はそれからも、先生に怒鳴られるたびに、先生の言葉を折り紙の中に折り畳んでいたみたいで。ノートを取れって言われたら、大事なことを記録する折り紙を作る。勉強しろって言われたら、知識を積み重ねるように折り続ける。あの子なりのやり方で、先生の言葉を受け取っていたんだと思います」
俺は何も言えなかった。
「先生のことが、大好きだったんだと思いますよ。大好きな人の言葉だから、全部折り紙にして手元に残したかったんじゃないかしら」
車が温泉宿の前に着いた。
老婦人は風呂敷をそっとほどいた。中から出てきたのは、白い一羽の折り鶴だった。小さくて、丁寧で、羽の一枚一枚に筋が通った、びっくりするくらい美しい鶴だった。
「今回こちらに来るって言ったら、悠太に頼まれたんです。もし縁があって先生に会えたら、渡してほしいって」
俺の手のひらに、折り鶴が乗った。
軽かった。こんなに軽いのに、ずっしりと重かった。
「ありがとうございます」としか言えなかった。
※
老婦人を見送って、俺はしばらく車の中に座っていた。
ダッシュボードの上に折り鶴を置いて、じっと見た。
山の夜は深く静かで、エンジンを切ると、遠くの沢の音だけが聞こえた。
あの日、ゴミ箱に捨てた折り紙のことを、悠太はずっと覚えていたのだろう。腹を立てていたわけでも、恨んでいたわけでもなく、ただ、先生の言葉を折り畳んで持ち続けていた。
俺が捨てたのは、あのとき、折り紙だけじゃなかったのかもしれない。でも悠太は、捨てられた言葉まで丁寧に拾って、海を越えていった。
窓を開けると、冷たい山の空気が流れ込んできた。冬の星が、山の稜線の上にいくつか出ていた。
俺は折り鶴を両手で包んで、目を閉じた。
お前が今もどこかで折り続けていることを、ずっと願っていた。
知らなかっただけで、俺はずっと、そう祈っていたのかもしれない。
エンジンをかけた。
山道をゆっくり下り始めると、ダッシュボードの白い鶴がヘッドライトに照らされて、静かに光っていた。