
あの電話の最初の一言を、僕は今でも一字一句、覚えている。
四月の研修中、廊下で鳴った知らない番号だった。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、おじさんとの約束を、律儀に守った人の声だ。
大学生のころに通った、日雇いの現場。
そこで出会った五十代の男性との、短くて長い話をしたい。
休憩室の白髪の人
僕が日雇いのアルバイトを始めたのは、大学二年の春だった。
仕送りだけでは、教科書代にも足りなかったからだ。
前の晩に派遣会社へ電話をして、翌日の現場を割り振ってもらう。
朝は駅前のロータリーで、送迎のワゴンを待った。
仕事は、主に引っ越しと倉庫のピッキングだった。
段ボールの角で、指先に何度も切り傷ができた。
雨の日の倉庫は、湿った段ボールの匂いが鼻についた。
昼の弁当は、冷めたコンビニのおにぎりが定番だった。
海苔のぱりぱりという音だけが、静かな休憩室に響いた。
フォークリフトの警告音が、遠くで規則正しく鳴り続けていた。
冷凍倉庫の中では、軍手の下で指の感覚が消えた。
そんな現場の休憩室で、僕はあの人と出会った。
僕はタバコを吸わないので、喫煙所のない小さな休憩室に逃げ込んでいた。
パイプ椅子が六脚と、壊れかけの自動販売機があるだけの部屋である。
そこに、いつも先客がいた。
五十代前半の男性だった。
整った白髪に、度の強い丸眼鏡。
銀行の支店長か、市役所の部長のような雰囲気だった。
作業ベストの下から、アイロンの利いたワイシャツの襟がのぞいている。
その人もタバコを吸わなかった。
だから僕たちは、いつも同じ部屋で並んで座った。
最初の数日は、会釈だけだった。
一週間ほど経った日、僕のほうから声をかけた。
「あの、どうしてこの仕事をされてるんですか」
失礼な質問だとわかっていた。
けれど、どうしても気になったのだ。
おじさんは眼鏡を外し、ハンカチで丁寧に拭いてから答えた。
「平日は、普通の仕事をしていてね」
「公的な機関なんだ。土日だけ、ここに来ている」
「どうしてですか」
「生活費が、足りなくなってしまってね」
彼はそう言って、少しだけ笑った。
ありがとうの練習帳
おじさんは、家族の住む家には帰っていなかった。
古いアパートに一人で暮らしているのだという。
理由は、妻との関係がこじれたからだった。
浮気をしたわけではない。
子どもたちと不仲なわけでもない。
ただ、妻への感謝の気持ちを、うまく言葉にできなかった。
それが、長い年月のうちに、取り返しのつかない溝になった。
「ありがとうって、言えなくてね」
おじさんは、紙パックの麦茶にストローを刺しながら言った。
「若いころは、照れくさくて」
「年を取ってからは、今さら言えなくなって」
「そうやって、三十年が過ぎてしまった」
僕は、軽い気持ちで返してしまった。
「感謝してるなら、言えばいいじゃないですか」
おじさんは、ストローをくわえたまま、少し黙った。
やがて、困ったように眉を下げた。
「そうなんだけどね。簡単なことが、一番むずかしい」
それから、おじさんは自分の胸ポケットから、小さな手帳を取り出した。
表紙の角が、手の脂で黒く光っている。
中を開くと、同じ五文字が、びっしりと並んでいた。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
行を埋め尽くすその字は、几帳面で、少し震えていた。
「毎晩、百回ずつ書いているんだ」
おじさんは、照れたように言った。
「十年言わなかった言葉は、舌が固まってしまうらしい」
「だから、少しずつほぐしているところでね」
僕は笑わなかった。
笑えなかった。
休憩室の自動販売機が、低い音で唸っていた。
おじさんは、休憩のたびに紙パックの麦茶を二本買った。
一本は自分用。もう一本は、僕に差し出した。
「ありがとうの練習だよ」
そう言って、僕の手に押しつけるのである。
「受け取る側も、練習になるだろう」
僕は、毎回「ありがとうございます」と頭を下げた。
それを聞いて、おじさんは満足げに頷いた。
ある日、同年代の学生アルバイトが、陰でおじさんのことを笑っていた。
「あの人、昔は部長か何かだったらしいぜ」
「それが今は、段ボール運びかよ」
僕は思わず、持っていた台車を止めた。
「やめろよ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「あの人は、毎晩、練習してるんだ」
「練習? 何の」
「……ありがとうの」
彼らは笑った。僕は説明をやめた。
わかってもらえなくていい。
あの手帳の中身を知っているのは、僕だけでいい。
そう思った。
おじさんとの約束の日
夏が過ぎ、秋が来た。
十二月の終わり、現場は朝から雪だった。
トラックの荷台から、おじさんが先に飛び降りて、僕の足元に軍手を一枚投げた。
「穴が開いてるだろう。こっちを使いなさい」
「おじさんのが、なくなりますよ」
「予備を持ってきているから、いいんだ」
ベストの内側から、新品の軍手が、もう一組出てきた。
いつから用意していたのだろう。
指先に残った毛糸の温度が、その日の寒さを少しだけ和らげてくれた。
おじさんは相変わらず、土日のたびに現場にいた。
家に戻れない事情も、少しずつ聞いた。
奥さんとは、月に一度、電話で事務的な話をするだけらしい。
子どもたちは、独立して別々の街に住んでいる。
「息子にだけは、会えているんだ」
おじさんは、一枚のスナップ写真を手帳から出して見せた。
海辺で笑う、二十代の青年だった。
日に焼けた腕が、おじさんの肩に回されていた。
「去年の夏に、二人で撮ったんだ」
「似てますね」
「眼鏡の形だけだよ。中身は母親にそっくりだ」
おじさんは、愛おしそうに写真の縁を指でなぞった。
おじさんは、そう言った。
「間に入ってもらって、仲直りの機会をうかがっている」
「いい息子さんですね」
「できすぎた息子だよ」
同じように、不器用な優しさに救われる話を、強面上司の不器用な優しさでも読んだことがある。
言葉にできない感謝の形なら、本当の優しさという話もあった。
やがて、僕が登録していた派遣会社が、主要な取引先との契約を失った。
倉庫の仕事が、一つずつ消えていった。
最後は、引っ越しの現場が中心になった。
同じころ、僕の就職も決まった。
三月の終わり、派遣のアルバイトは辞めることになった。
最後の現場の日、いつもの休憩室で、麦茶が二本出てきた。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「就職、がんばれよ」
「おじさんも」
言葉が、そこで途切れた。
僕は、伝えておきたいことがあった。
「あの」
「うん」
「奥さんのところに戻れたら、連絡をもらえませんか」
おじさんの眼鏡の奥が、わずかに揺れた。
「俺の番号は、これです」
僕は、自分の電話番号を書いたメモを渡した。
おじさんは、それを胸ポケットの手帳に、丁寧に挟んだ。
「約束するよ」
「必ず、連絡する」
それが、おじさんとの約束だった。
その声は、思ったより小さかった。
おじさんとの約束を結んだ、あの日の休憩室の空気を、僕は今でも思い出せる。
それでも、手帳を押さえた指は、固く結ばれていた。
四月の廊下で鳴った電話
四月になった。
三月の終わりから、僕は何度も携帯を確認した。
着信履歴は、友人からのものばかりだった。
おじさんとの約束が、守られないままでもいい。
どこかで元気に暮らしていてくれれば、それでいい。
そう言い聞かせて、研修の初日を迎えた。
僕は新しい会社の、研修会場にいた。
ネクタイの結び方も、名刺の渡し方も、まだ覚束なかった。
昼休みの、ほんの数分だった。
廊下の窓際で、ポケットのスマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
迷ったが、通話ボタンを押した。
「もしもし」
聞き覚えのある、低い声だった。
受話器の向こうで、おじさんは一度だけ、小さく息を吸った。
「ありがとう」
その一言は、驚くほど滑らかだった。
一度もつっかえず、少しも震えず、まっすぐに僕の耳へ届いた。
「家に、帰れたよ」
「……そうですか」
僕は、窓の外の桜を見ていた。
ビルの谷間で、花びらが風に流れていた。
「君との約束を、どうしても守りたくてね」
「妻にも、同じことを言ったんだ」
「ありがとう、って。三十年分」
僕は何も言えなかった。
ただ、喉の奥が、熱くなっていくのを感じていた。
「麦茶、おいしかったです」
やっとの思いで、それだけ言った。
おじさんは、受話器の向こうで笑った。
「あれは、練習だったんだよ。君には、いつも付き合わせた」
「いえ。僕のほうこそ」
通話は、そこで終わった。
受話器の向こうで、おじさんは一度も、つっかえずに「ありがとう」と言った。
あの手帳の五文字が、ほぐれたのだと思った。
それ以来、おじさんと会うことも、電話をすることもない。
けれど、僕は知っている。
あの人は今ごろ、自分の家の食卓で、奥さんと麦茶を飲んでいるはずだ。
きっと、家族と元気で暮らしている。
僕はそう信じている。