母の愛、娘の成長

桜

娘の成長を目の当たりにして、私はようやく母の気持ちに追いついた。

きっかけは、娘の成人式のために振り袖を選びに出かけた、ある土曜日のことだった。

十九歳になった娘と並んで歩くと、肩の高さがほとんど変わらない。

生まれた日のことは昨日のように覚えているのに、いつの間にこんなに大きくなったのだろう。

そう思った途端、母の顔がふいに浮かんだ。

私の母は、サッパリした人だった。

表情に乏しく、嬉しいときも悲しいときも、あまり顔に出さない。

そんな母が、一度だけ、見たことのない顔で笑った日がある。

その日のことを、書き残しておきたい。

娘の成長を映す試着室

呉服店は、駅前の商店街を抜けた先にある、古い木造の建物だった。

暖簾をくぐると、樟脳のにおいがかすかにした。

店員さんが、反物を次々に広げてくれる。

朱色、藍色、若草色、白地に小さな花を散らした柄。

娘は迷いながら、一枚ずつ鏡の前で肩に当てていった。

白地に紅の梅をあしらった一枚の前で、娘の手が止まった。

「これ、おばあちゃんの好きそうな色だね」

何気ないその一言に、私は少し驚いた。

いつの間にこの子は、人の好みまで思いやれるようになったのだろう。

「お母さん、これ、どう?」

「うん、顔が明るく見えるよ」

私はそう答えながら、衿の合わせを直してやろうと手を伸ばした。

伸ばした指が、途中で止まった。

娘はもう、自分で衿を整えられる年齢なのだ。

それでも私は、手を出したくてたまらない。

帯の位置を気にして、袖の長さを確かめて、足袋のサイズまで心配している。

世話を焼いて、気を揉んで、そのたびに「母である」という実感が胸に満ちてくる。

採寸のあいだ、娘はおとなしく腕を広げて立っていた。

巻き尺が肩から袖口へ滑っていくたびに、私は数字を目で追った。

去年より、三センチ伸びている。

その数字が、どんな言葉よりも雄弁に思えた。

娘の成長を喜んでいるはずなのに、どこかに小さな寂しさも混じっていた。

成人式まで、あと半年。

この子がこの着物で外に出ていく日は、同時に、手を離す日でもある。

鏡の中の娘が、こちらを向いて笑った。

その笑顔を見ながら、ふと考えた。

母も、こんなふうに私を見ていたのではないか。

赤と黒の振り袖

私は中学二年の夏から、一年間入院した。

退院してからの人生は、いつも「自分の足で立つこと」とともにあった。

高校受験、下宿での一人暮らし、卒業後の就職、そして結婚。

節目のたびに、私は黙って自分で決めてきた。

家族に連絡するのは年に数回で、ホームシックを感じた記憶もない。

母は電話口でも、ほとんど用件しか話さない人だった。

正月に帰省しても、炬燵の向こうで新聞を読んでいるだけだ。

台所に立つ背中は、いつも少しだけ急いでいた。

私が「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる。

それ以上の会話は、たいてい、お茶を淹れる音に溶けてしまった。

「元気にしてる?」

「うん」

「そう。ならいいわ」

それで終わりである。

私はそれを、気楽なものだと思っていた。

むしろ、干渉されないことをありがたがってさえいた。

夜の寮の廊下で、友人たちが親と長電話をしているのを、不思議な気持ちで眺めたこともある。

連絡をしなくても、心は繋がっている。

家族を愛している気持ちは、言葉にしなくても伝わる。

今になって思えば、ずいぶん自己中心的な考えだった。

私が二十三歳の秋、就職先の事務所に、母から電話がかかってきた。

「ご家族の方からです」と言われて、受話器を持つ手が固まった。

母のほうから電話をくれたことなど、それまで一度もなかったからだ。

「あんたの振り袖姿を、写真に撮りたいのよ」

母はそれだけ言って、少し黙った。

受話器の向こうで、咳払いが聞こえた。

「忙しいなら、いいんだけど」

私は週末に休みをもらい、久しぶりに実家へ帰った。

最寄りの駅から続く坂道は、記憶よりも短く感じられた。

玄関の格子戸を開けると、母が割烹着のまま立っていた。

髪に、白いものが増えている。

「遠かったでしょう。ご飯、できてるから」

それだけ言って背を向けた母の肩が、少し丸くなっていた。

写真館は、母が昔から家族写真を撮っていた、商店街の小さな店だった。

私は赤と黒の振り袖を着せてもらい、慣れない草履で、白い背景の前に立った。

母は、カメラの後ろの椅子に腰かけていた。

写真館の主人は、母の古い知り合いらしかった。

「お嬢さん、きれいになりましたねえ」

主人がそう言うと、母は照れたように首を振った。

否定しながらも、頬のあたりが明るくなったのを、私は見逃さなかった。

膝の上でバッグを握りしめたまま、じっと私を見ている。

「もう少し、顎を引いてください」

カメラマンの声に合わせて私が首を傾けると、母の口元がほんの少しゆるんだ。

数日後に出来上がった写真を、母は台所の食卓に広げた。

「いいわね。私の宝物」

そう言って、何度も眺めていた。

帰りの電車で、私はその言葉を繰り返し思い返した。

表情の乏しい母が、あんなに嬉しそうな顔をしたのは初めて見た。

後日、実家の居間を訪ねたとき、あの写真は仏壇の隣の小さな写真立てに収まっていた。

電話台の上にも、同じ写真が置かれていた。

母は来客のたびに、さりげなくそれを見せていたらしい。

「うちの娘なの」と言うときだけ、声が半音高くなるのだという。

それを教えてくれたのは、近所の人だった。

病室で剥いてくれた林檎

十九歳の春、私はまた入院した。

体重は三十九キロまで落ちていた。

当時の私は、すでに家を出て自立していた。

四人部屋の窓際のベッドで、私は毎日、天井の染みを数えていた。

点滴の落ちる音と、廊下を行き交うワゴンの車輪の音だけが、時間の目印だった。

母に頼ることも、弱音を吐くことも、甘えることもなかった。

病院から連絡がいったのだろう。母は電車を乗り継いで、見舞いに来た。

大きな紙袋から林檎を取り出し、果物ナイフで皮を剥き始める。

皮は途切れず、細く長く垂れ下がっていった。

「ほら、食べなさい」

白い皿に並んだ林檎は、うさぎの形ではなく、ただの四つ切りだった。

それでも私は、一切れずつ口に運んだ。

母は何も言わず、私が食べる様子を見ていた。

甘酸っぱい果汁が、乾いた喉にしみた。

久しぶりに、食べ物の味がはっきりと分かった気がした。

私が三切れ目に手を伸ばすと、母の肩から力が抜けるのが見えた。

帰り際、ベッドの脇でコートを着ながら、母がぽつりと言った。

「母さんはね、一応あんたの歳も経験して今があるの」

意味がよく分からず、私は「ふうん」と返した。

母は少し笑って、病室を出ていった。

廊下を遠ざかる足音を、私は枕に頭を預けたまま聞いていた。

のちに里帰り出産をしたとき、母は誰よりも喜んだ。

初めて孫を抱いた母の腕は、不器用に震えていた。

私が家にいることが、母にはきっと幸せだったのだ。

あの頃の私は、それに気づかなかった。

退院の日、母は荷物を抱えて、改札まで一緒に歩いてくれた。

私が振り返って手を振ると、母は片手を少しだけ上げた。

それが、母の精いっぱいの見送りだったのだと、今なら分かる。

十九歳の娘と母の寂しさ

娘が十九歳になり、私は母としての感情を、少しずつ理解し始めている。

一つ屋根の下で暮らす娘の足音が、毎朝、階段を下りてくる。

弁当の中身、洗濯物の山、玄関に脱ぎ散らかされた靴。

煩わしいと思う日もある。

けれど、この子がいない暮らしを想像すると、家の中が急に静かになる。

私が十九歳のとき、母は、その静けさの中で暮らしていたのだ。

連絡をよこさない娘の部屋を、母はどんな気持ちで見ていたのだろう。

きっと、掃除機をかけるたびに、主のいない机を拭いたのだ。

季節が変わるたびに、送り先のない冬物を押し入れから出しては、しまったのだ。

近くに置いておきたかったのではないか。

心配で、世話を焼きたくて、それでも言い出せなかったのではないか。

娘の成長を見守る今だからこそ、母の沈黙の重みが分かる。

あの林檎の皮のように、母の思いは途切れずに、細く長く続いていたのだ。

私はそれを、受け取っていたことにも気づかなかった。

「お母さん…。寂しかったよね」

誰もいない台所で、私は小さくつぶやいた。

母は今、六十七歳になる。

先週、電話をかけてみた。

母は「どうしたの、急に」と少し慌てた声を出した。

「ううん、声が聞きたくなって」

「そう。……元気にしてるわよ」

短い沈黙のあと、母は小さく笑った。

受話器から聞こえたその笑い声は、写真館の椅子で見たあの顔と、同じ響きをしていた。

私が八十歳になったとき、母の気持ちを、もっと深く知るのだろう。

そのときの私が、孤独や寂しさに暮れていませんように。

縁側で、娘の撮った写真を眺めている自分の姿を、ふと思い浮かべる。

娘を生んで良かったと思える、幸せな人生であるようにと、願っている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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