糊の匂いは、雨の日だけ少し甘くなる。
製本所に勤めて四年目、私はその匂いだけで外の天気を当てられるようになっていた。
川沿いのこの町は、五月の終わりになると一日おきに雨が降る。
柏木製本の作業場は、断裁機の刃が紙の束を落とす鈍い音と、糸かがり機の規則正しい振動で満ちていた。
五月二十八日。その日は、私と千夏の、はじめての結婚記念日だった。
朝、玄関で靴紐を結んでいると、千夏が背中に声をかけてきた。
「今日は、早く帰れそう?」
振り向くと、彼女は割烹着の紐を結びかけたまま、少し首をかしげていた。
「たぶん。定時で上がるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
軽く言った。言ってしまってから、その軽さを私は一日じゅう後悔することになる。
千夏は町立図書館の司書だった。結婚した年の春、彼女は返却棚の裏で押し花の栞を作っていた。傷んだ本に挟んで、借りた人にそのまま持ち帰ってもらうのだという。
私にもひとつくれた。薄紫の小さな花を、和紙の間に閉じ込めたものだった。
裏には、細い字で日付が書いてある。私たちが役所に婚姻届を出した日だ。
「なくさないでね」
「なくすわけないだろ」
私はそれを定期入れに挟んで、作業着の内ポケットに毎日入れていた。
千夏と初めて口をきいたのも、この作業場だった。
入社二年目の冬、図書館から一本の電話があった。
郷土資料の合本が背割れを起こしている、直せないか、という相談だった。
受話器の向こうの声は、事務的なのに、どこか申し訳なさそうだった。
「本文紙が酸化していて、触ると角が落ちるんです」
「触らないでください。うちに持ってきてもらえますか」
三日後、彼女は自転車の前かごに、風呂敷に包んだ本を載せてやってきた。
風呂敷の結び目が固すぎて、彼女はそれをほどくのに一分ほどかかった。
「すみません。落としたら大変だと思って」
「落とすより、結び目のほうが本には優しいですよ」
私は自分でも意味の分からないことを言った。
彼女は少し笑って、それから作業台に本を置いた。
背が割れて、糸が三本、剥き出しになっていた。
「これ、直りますか」
「直ります」
即答した。根拠はなかった。
ただ、この人の前で「無理です」と言いたくなかっただけだ。
それから半年かけて、私は仕事の合間にその合本を綴じ直した。
引き渡した日、千夏は最初のページを開いて、しばらく黙っていた。
「音がしない」
「割れてないですから」
「本って、直ると静かになるんですね」
その言葉が、私の胸のどこかに刺さって、抜けなくなった。
二年後、私たちは役所に婚姻届を出した。
引っ越しの夜は、段ボールを机にして、鍋のうどんを二人で食べた。
箸が一膳しか見つからなくて、交互に使った。
「これ、間接っていうの?」
「もう夫婦だろ」
千夏は笑いながら、汁のはねた頬を手の甲で拭った。
あの湯気の温度を、私はいまだに手のひらの記憶として持っている。
※
その日、昼を過ぎた頃に、作業場の空気が変わった。
町の四百年祭に合わせて刷った記念誌、三千部。その丁合いに、乱丁が見つかったのだ。
見つけたのは私だった。
三十二ページの次に、四十九ページが来ていた。
背表紙まで固めた本を、また一冊ずつばらして綴じ直す。三千部を。
作業場の誰も、その言葉を口に出さなかった。ただ、みんなが同じ計算をしていた。
泊まりになる。
糸かがり機の音が止まり、しばらく誰も動かなかった。蛍光灯の下で、紙の白さだけが妙にまぶしかった。
工場長の宮下さんが、老眼鏡を外して額を押さえた。
「浅井、お前が見つけたんか」
「はい。すみません」
「謝るこたない。出す前に見つけたんなら、それは手柄や」
そう言って、宮下さんは壁の時計を見た。三時十分だった。
私は言えなかった。
今日は結婚記念日なので帰らせてください、と。
この修羅場で、そんな言葉を口にできる人間ではなかった。
内ポケットの定期入れが、作業着の布ごしに胸に当たっていた。
栞の角が、肋骨の上をかすかに押していた。
※
宮下さんは、この町で三十年、柏木製本の工場長をしていた。
背は高くないが、指の関節だけが妙に太い。
糸かがりの糸を張るとき、その指は紙よりも静かに動いた。
若い工員が背をこごめて謝りに行くと、いつも同じことを言う人だった。
「本はな、綴じ直しがきく」
それが口癖だった。乱丁も、破れも、糊のはみ出しも、時間さえかければ元に戻せる。
だから宮下さんは、誰かの失敗を怒鳴ったことがなかった。
ただ一度だけ、私は宮下さんが怒った場面を見たことがある。
入社二年目の秋、若い工員が納期に追われて、断裁機の安全カバーを外したときだ。
宮下さんは機械を止めて、その工員の手首を掴んだ。
「指はな、綴じ直しがきかんのや」
作業場が静まりかえった。宮下さんの声は、大きくなかった。ただ低かった。
それから宮下さんは何も言わずに、自分の手でカバーを付け直した。
宮下さんの机の一番下の引き出しには、古い栞が一枚入っていた。
薄茶に焼けて、押し花の花びらの色はほとんど飛んでいた。
何度か開けるところを見たが、誰も何も聞かなかった。
宮下さんの奥さんが十年前に亡くなっていることは、作業場の全員が知っていた。
そして、そのことについて宮下さんが一度も話さないことも、全員が知っていた。
※
十七時を回った頃、宮下さんが私を呼んだ。
厚みのある茶封筒を、作業台の上に滑らせる。
「これ、笹倉紙器に届けてくれ」
笹倉紙器は、隣の県の山の向こうにある得意先だった。
今から車を出しても、着くのは八時をまわる。
作業場を見渡した。みんな、紙の山にかがみこんでいる。
「……今からですか」
「今からや」
「でも、丁合いが」
「人手は足りとる。届けたら直帰でええ」
直帰も何もない、と喉まで出かかった。
山道を往復して家に着く頃には、日付が変わっているかもしれない。
それでも私は、封筒を受け取った。
厚みの割に、封筒は軽かった。
不審に思って封を開けようとすると、宮下さんが手のひらでそれを押さえた。
「中身は車ん中で見い。ええから、はよ行け」
押しのけるような言い方だった。
私は「行ってきます」と言った。自分でも聞き取れないくらい低い声だったと思う。
背中に、同僚たちの気の毒そうな視線が刺さっていた。
※
駐車場のアスファルトは、昼の雨をまだ吸っていた。
エンジンをかけて、国道に出た。
川沿いを北へ走ると、やがて道は山に入る。
対向車は少なく、ヘッドライトが杉の幹を一本ずつ切り取っていった。
カーラジオは、聞いたこともない演歌を流していた。
消そうとして、消せなかった。
車内が無音になると、自分の呼吸の荒さを聞くことになるからだ。
助手席に置いた茶封筒が、カーブのたびに小さく滑る。
その音が、紙の音ではなかった。
厚紙のような、硬いものが入っている音だった。
峠の手前に、砂利を敷いた退避所がある。
私はそこへ車を寄せて、エンジンを切った。
山の匂いがした。濡れた土と、腐りかけた落ち葉と、どこか遠くの焚き火。
指先が冷えていた。私は封筒の端を、ゆっくりと裂いた。
入っていたのは、紙が一枚だけだった。
それと、押し花の栞。
薄紫の花。和紙の目。裏に書かれた、細い字の日付。
四月の初め、私が作業場のどこかで落としたものだった。
探して、見つからなくて、千夏には黙っていた栞だった。
紙には、鉛筆で三行、書いてあった。
『結婚記念日おめでとう。今日はこのまま帰りなさい。落とし物は、返しておく。』
字は、宮下さんの帳簿の字だった。
角ばっていて、線の終わりが少しだけ跳ねる。
フロントガラスに、また雨が落ち始めていた。
ワイパーを動かす気にもなれず、私は封筒を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
会社に入って、初めて泣いた。
声を殺したつもりだったが、車の中は思ったより狭かった。
栞の角が濡れないように、私はそれを両手で包んだ。
※
家に帰ると、玄関の電気が点いていた。
油の匂いがした。天ぷらだ。
千夏は、揚げ物の温度を確かめるように菜箸を鍋に入れたまま、こちらを見た。
「早いね」
「早いだろ」
「泣いてた?」
「雨」
千夏は何も言わずに、私のネクタイを緩めた。
食卓には、天ぷらと、赤だしと、小さなケーキが並んでいた。
ケーキはひとつだけで、蝋燭も立っていなかった。
「一本しか買えなかったんだけど、蝋燭、立てる?」
「いい。溶けたら、蝋がケーキに落ちる」
「そういうところ、製本所の人だね」
千夏が笑った。私も笑った。
内ポケットから栞を出して、テーブルに置いた。
千夏は、それを指の腹でそっと撫でた。
「なくしてたんだ」
「ばれてたか」
「四月から、定期入れの膨らみが違ってたもの」
何も言えなかった。
天ぷらの衣が、噛むと小さな音を立てた。
風呂を沸かす音が、壁の向こうで鳴っていた。
千夏は台所に立ったまま、ケーキの箱の紐をほどこうとしていた。
結び目が固い。二年前の風呂敷と同じだ。
「貸して」
私が指先で紐をたぐると、あっけなくほどけた。
「あなた、そういうの得意だよね」
「糸をほどくのが仕事だからな」
「綴じるのが仕事でしょ」
「ほどけないと、綴じ直せないんだよ」
言ってから、宮下さんの声を思い出した。
本は綴じ直しがきく。
あの人はいつも、そこで言葉を切っていた。
続きがあることに、私はまだ気づいていなかった。
ケーキは、生クリームが少しだけ傾いていた。
自転車の前かごに載せて帰ってきたのだろう。
「崩れちゃった」
「うまいよ」
「まだ食べてない」
食べた。甘かった。
それから私は、その日はじめて千夏の顔を正面から見た。
目の下が、少し腫れていた。
帰らないと思っていたのだ、この人は。
それでも天ぷらを揚げ、ケーキを買い、蝋燭を一本だけ選んでいたのだ。
私は謝らなかった。謝れば、この人の一日が無駄だったことになる気がした。
代わりに、皿を洗った。
背中で、千夏がテレビをつける音がした。
天ぷらの衣の音を、私はいまだに雨の日に思い出す。
※
三千部を綴じ直す作業は、三日かかった。
私は二日目の朝から加わった。
誰も、私が前夜に帰ったことを咎めなかった。
ただ一人、同期の男が、糊刷毛を渡しながら小声で言った。
「工場長、昨日ここに残ってたぞ」
「何時まで」
「朝までだ。誰も帰らせん代わりに、自分も帰らんかった」
手が止まった。
作業場の隅で、宮下さんは新しい見返しを一枚ずつ検めていた。
背を丸め、老眼鏡を鼻の先まで下げて。
私が「おはようございます」と言うと、顔も上げずに答えた。
「浅井。三十二ページの次は、何ページや」
「三十三ページです」
「そうや。そういうもんや」
それだけだった。
あの日から、私は乱丁を二度と見落とさなくなった。
※
翌年の春、宮下さんが辞めた。
奥さんの墓がある山の村に戻るのだと、事務の人が教えてくれた。
送別会は、駅前の小さな居酒屋だった。
私は宮下さんの隣に座って、ずっと言えずにいたことを言った。
「工場長。去年の、五月二十八日のことなんですが」
宮下さんは、猪口を口元で止めた。
「なんや」
「封筒の、中身のことです。ありがとうございました」
すると宮下さんは、真顔で首をひねった。
「そんなことあったか?」
とぼけている、と思った。
けれど宮下さんの目は、本当に何も思い出せない人の目をしていた。
それ以上、私は聞けなかった。
送別会の席で、宮下さんはほとんど飲まなかった。
若い工員たちが順番に礼を言いに来るのを、猪口を持ったまま聞いていた。
誰かが「工場長の一番の思い出は」と聞いた。
宮下さんは天井を見上げて、しばらく考えた。
「乱丁を出さんかった日や」
座が笑った。冗談だと思ったのだ。
私は笑えなかった。
あの人の言う「乱丁」が、本のことだけを指していないような気がした。
店を出るとき、宮下さんが私の背中を一度だけ叩いた。
叩いた手が、糸かがりの糸を張るときと同じ、静かな力だった。
※
それから十四年が過ぎた。
柏木製本の工場長は、私になった。
糸かがり機は二台になり、断裁機は新しくなったが、糊の匂いは変わらない。
雨の日は、やはり少し甘い。
去年の秋、宮下さんの訃報が届いた。
葬儀のあと、娘さんが私に小さな紙袋を渡してくれた。
「父の机から出てきたんです。会社の方に、と書いてありました」
中には、あの古い栞が入っていた。
押し花の色は、もう完全に抜けていた。
裏を返すと、薄く日付が読めた。
五月二十八日。
私たちの結婚記念日と、同じ日だった。
紙袋には、栞のほかにもう一つ、擦り切れた手帳が入っていた。
日付と、天気と、その日の出来高だけが、几帳面に並んでいる。
三十年分の、感情のない記録だった。
ただ、五月二十八日のページにだけ、毎年、同じ二文字が書き足されていた。
「雨天」
実際には晴れた年もあったはずだ。
娘さんが、湯呑みを両手で包みながら言った。
「母が亡くなった年から、ずっとそう書いていたみたいで」
「意味は、聞かれましたか」
「一度だけ。そしたら、そんなことあったか、って」
私は思わず声を上げて笑い、そのまま泣いた。
娘さんも笑って、それから同じように泣いた。
畳に、二人分の湯呑みの輪ができていた。
娘さんが、静かに言った。
「父と母の、結婚記念日です」
言葉が出なかった。
「母が入院していた年も、父は工場から帰りませんでした」
「亡くなった日も、そうでした」
雨は降っていなかった。それなのに、私は糊の匂いを嗅いだ気がした。
あの日、宮下さんは、私の落とした栞の裏の日付を見たのだ。
そして、自分の栞の裏と、同じ数字を見たのだ。
三千部の乱丁を前にして、あの人は、若い工員を一人だけ帰した。
「本は綴じ直しがきく」
あの口癖の続きを、私はそのとき初めて理解した。
宮下さんは、それを誰よりもよく知っていた。
知っていて、一度も言わなかった。
「そんなことあったか?」
あの日のとぼけた声が、耳の奥で鳴った。
※
栞というものは、本の途中に挟まれる。
読み終えれば抜かれて、机の隅に置かれる。
それでもあの薄紫の花は、四十年近く、二つの家の内ポケットにいた。
宮下さんの栞と、私の栞。
同じ日付を裏に持ちながら、どちらも表からは何も言わなかった。
本の綴じ糸は、開いたときには見えない。
見えないところで束を支える糸を、私たちは背固めと呼ぶ。
あの人は、私の一日をそうやって背から支えたのだと思う。
礼を言われることも、覚えていることも、望まずに。
綴じ直せるものと、綴じ直せないもの。
三十年、あの人は毎日その二つを手のひらで量り分けていた。
そして一度だけ、後者を、他人のために選んだ。
※
今年の五月、作業場に若い工員が入った。
綴じの手が速く、謝るのが早い子だ。
先週、彼の定期入れから、写真が一枚落ちた。
拾って返すとき、裏に日付が書いてあるのが見えた。
来月の、半ばの日付だった。
私は何も言わずに返した。
けれど手帳には、その数字を書き写した。
茶封筒は、机の引き出しに入れてある。
中身は、まだ決めていない。
ただ、あの人の字に少しでも似せて書けるように、鉛筆を削っている。
千夏は今も図書館にいる。
押し花の栞は、作らなくなった。
代わりに、私の定期入れの中で、薄紫の花が年々白くなっていく。
色が抜けても、日付だけは消えない。
雨の日の糊は、今日も少し甘い。