宇部の格納庫は、朝いちばんに開けると、石灰の白い粉の匂いがしました。
海からの風が、工場地帯の粉を運んでくるのです。
私は十八の春から二年間、その町の訓練センターで整備士になるための課程にいました。
四十人の同期がいて、全員が寮に入っていました。
この話は、そこを途中で去った一人と、彼を去らせた教官の話です。
員数点検という決まり
整備の世界に入って最初に叩き込まれるのは、技術ではありません。
数を数えることです。
私たちは毎朝、自分の工具箱を開けて、中身を一つずつ数え、紙に書きました。
員数点検といいます。
スパナ、ドライバー、ラチェット、点検鏡、トルクレンチ。
三十七点。
一本でも合わなければ、その日は作業に入れません。
※
なぜそこまでするのか、最初の週に大迫教官が話してくれました。
「工具を一本、機体の中に置き忘れる。それだけで飛べなくなる」
教官は、格納庫の床を靴の先で軽く叩きました。
「もっと悪いのは、数えていないのに、数えたと書くことだ」
その一言を、私は三十年たった今も覚えています。
整備という仕事は、やったことを書く仕事ではありません。
書いたことを、必ずやってある、という状態をつくる仕事です。
だから、記録に嘘を混ぜた人間は、この世界にいてはいけないのです。
三村という男
三村は、私の隣の作業台でした。
手先はそれほど器用ではありませんでした。
むしろ、遅いほうでした。
けれど、片づけがいつも一番早い男でした。
自分の道具を戻し終わると、黙って他人の台の油を拭いていくのです。
※
実家は徳山の小さな鉄工所でした。
父親が体を悪くして、工場をたたむかどうかという話が出ていたのを、私は寮の廊下で立ち聞きしています。
三村は月に一度、日曜に帰っていました。
帰ってきた日の夜は、必ず消灯後まで机に向かっていました。
延灯願いという紙を出せば、深夜十二時まで灯りをつけていられました。
三村の名前は、その紙にいちばん多く並んでいました。
※
あるとき、私は訊きました。
「そんなに焦って、体もつのか」
三村は、鉛筆を置かずに答えました。
「うちは、免許が要るんよ」
鉄工所を継ぐには、整備の資格がいる。
そういう計画だったのだと、私はそのとき初めて知りました。
寮の夜と、条文の覚え方
法規の暗記は、四十人全員にとって鬼門でした。
条文の番号と中身が、頭の中でどうしても結びつかないのです。
私は語呂合わせで押し切ろうとして、試験のたびに番号を取り違えていました。
※
三村は、違うやり方をしていました。
条文を、実家の鉄工所の作業に置き換えて覚えるのです。
記録の保存に関する条文なら、父親が納品書を綴じている棚の段。
点検の期限に関する条文なら、旋盤の油を差す間隔。
全部、家の中の物に紐づけていました。
※
「そんなんで頭に入るんか」
私が笑うと、三村は鉛筆の尻で机を軽く叩きました。
「うちの棚は、順番が変わらんけえ」
覚えるのが苦手な人間が、覚えられる場所を外に用意していたのです。
私はそのやり方を、あとになって自分の後輩に教えるようになりました。
教えるたびに、名前は出しませんでした。
出せば、話の続きを言わなければならなくなるからです。
法規の試験
二年目の秋、航空法規の試験がありました。
暗記の科目です。
条文の番号と中身を、そのまま覚えなければなりません。
私たちは寮の食堂で、夜ごとに問題を出し合っていました。
※
試験の日、三村の答案から、小さく折った紙が出ました。
条文の番号だけが書いてある紙でした。
それだけです。
答えそのものは書いてありませんでした。
けれど、決まりの上では、それで十分でした。
※
処分は、退所でした。
私たちは納得できませんでした。
整備の腕ではなく、暗記の紙一枚で、二年が消えるのかと思いました。
その晩、寮の一階の談話室に、三十九人が集まりました。
折られていた紙の中身
三村の答案から出た紙のことを、私は長いあいだ誤解していました。
あれは、カンニング用に用意された紙ではありませんでした。
※
試験の前の晩、三村の実家から寮に電話が入っていました。
父親が倒れて、運ばれたという連絡です。
三村は寮監に相談して、朝いちばんのバスで帰る算段までつけていました。
それでも試験は受けると言い張ったのです。
落とせば、その学期がまるごと消えるからでした。
※
あの晩、彼は電話を切ったあと、机に向かっています。
そして、覚えきれていない条文の番号だけを、紙に書き出しました。
いつもは、覚え終わったら破って捨てていた紙です。
その晩は、破らずに、たたんで作業着の胸に入れました。
翌朝、着替える余裕がありませんでした。
紙は、そのまま試験の机まで来てしまったのです。
※
これを聞いて、それなら仕方がないと思う方もおられるでしょう。
私も、十四年間そう思っていました。
けれど、三村自身が、同期会でこう言ったのです。
「事情があったら見逃す業界やったら、俺は入りたくなかった」
そのとおりだと、いまなら分かります。
整備の記録に「事情があった」という欄はありません。
やったか、やっていないか。
その二つしか書く場所がないのです。
血判状
誰が言い出したのかは、いまでも分かりません。
嘆願書を出そう、という話になりました。
紙は、製図用の厚いものを使いました。
文面は、成績のよかった者が書きました。
そして、名前の下に、一人ずつ指を切って印を押しました。
※
カッターの刃を火で焼く者もいれば、そのまま押す者もいました。
血は思ったより出ませんでした。
押しても薄くて、二度、三度と押し直す者がいました。
談話室は、誰も冗談を言わない、妙に静かな部屋になっていました。
私は自分の指を見ながら、これは意味のないことかもしれないと、心のどこかで思っていました。
それでも押しました。
※
翌朝、代表の二人が教官室へ持って行きました。
大迫教官は、紙を最後まで読んだそうです。
読んでから、こう言ったと聞きました。
「規則は、曲げられん」
それだけでした。
三村は、その週の金曜に寮を出ました。
見送りは禁じられていませんでしたが、誰も玄関まで行けませんでした。
私は二階の窓から、バス停へ歩いていく背中を見ていました。
荷物は、来たときと同じ、旅行鞄が一つだけでした。
最初に指を出したのは、誰だったか
血判状のことで、もう一つ書いておきたいことがあります。
いちばん最初にカッターを取ったのは、三村と仲の悪かった男でした。
柳井から来た、口の悪いやつです。
実技の速さで競っていて、談話室でも何度か言い合いになっていました。
※
その男が、誰よりも先に立ち上がりました。
そして、紙の一番上に押しました。
普通は、上から順に成績のいい者が押していくものです。
彼は一番でも二番でもありませんでした。
誰も、順番のことを言いませんでした。
※
あとで理由を訊いたことがあります。
彼は、鼻で笑って答えました。
「あいつに勝ってから辞めさせろっちゅう話じゃ」
いま思えば、あれは彼なりの、いちばん不器用な言い方だったのだと思います。
その男は、いま関東の航空会社で整備部門の責任者をしています。
同期会の夜、三村の隣に座って、ずっと酒を注いでいました。
二人とも、あの件については、最後まで一言も触れませんでした。
教官が言わなかった期限
あとになって、一つだけ腑に落ちないことがありました。
嘆願書を出すという話が持ち上がった夜、大迫教官は寮の見回りに来ていたのです。
談話室の前を通って、中を見て、何も言わずに行きました。
そして、廊下でこう言ったのです。
「処分の決裁は、明日の昼だ」
誰に向けたのでもない、独り言のような言い方でした。
※
あの人は、嘆願が通らないことを知っていました。
知っていて、間に合う時刻を教えていったのです。
通らないと分かっているものを、なぜ出させたのか。
私はずっと、教官の甘さだと思っていました。
違いました。
あれは、私たちに「やった」という事実を残させるためだったのです。
何もしなかった三十九人になるか、やって届かなかった三十九人になるか。
その差が、あとの人生でどれほど効いてくるかを、あの人は知っていたのだと思います。
大迫教官という人
大迫教官は、話の短い人でした。
褒めることは、ほとんどありませんでした。
ただ、格納庫の一番奥の柱に、古い工具が一本、針金で吊してありました。
錆びた、柄の短いスパナです。
※
誰の物か、私たちは知りませんでした。
卒業の日に、一度だけ教えてもらいました。
教官が若い頃、先輩の記録に一つ、書き足しがあったのだそうです。
やっていない点検の欄に、丸がついていた。
教官はそれを見て、言い出せませんでした。
相手が世話になっている先輩だったからです。
※
その機体は、翌朝の始業点検で別の者が異常に気づき、飛びませんでした。
誰も怪我はしていません。
けれど、教官は、そのとき自分が黙ったことを、生涯忘れませんでした。
柱のスパナは、そのとき現物の点検口から出てきたものだそうです。
「わしは、あのとき数えとらんかった」
それが、あの人が三十年言い続けた理由でした。
規則を曲げないというのは、冷たさではありませんでした。
一度曲げた自分を、二度と作らないための、その人なりの誓いだったのです。
紙が、一枚だけ多くなった
三村がいなくなった翌週から、おかしなことがありました。
員数の紙は、その朝から、一枚だけ多くなりました。
提出箱に入っている紙が、人数より一枚多いのです。
最初は、誰かが書き損じを捨てそびれたのだと思いました。
けれど、それが翌日も、翌々日も続きました。
※
私は一度、その紙を見ました。
三十七点、と書いてありました。
筆跡は、大迫教官のものでした。
増えた一枚は、もう誰も開けない工具箱のものでした。
三村が使っていた台の下の、番号だけが残った箱です。
※
辞めた人間の工具を数える決まりなど、どこにもありませんでした。
私はそのことを、誰にも言いませんでした。
言えば、教官が困ると思ったからです。
そして、自分の員数点検を、その日から少しだけ丁寧にやるようになりました。
十年目に、一度だけ会っている
実は私は、同期会よりも前に、一度だけ三村に会っています。
卒業から十年目の、初夏でした。
仕事で山陰へ行ったときに、バスの窓から農機具屋の看板が見えたのです。
降りるかどうか、私は一つ先の停留所まで迷いました。
※
結局、降りました。
三村は、工場の前でコンバインの下に潜っていました。
私を見て、油まみれの手を上げました。
「よう来たな」
それだけで、十年が飛びました。
※
私は、謝りに来たようなものでした。
あのとき、もっと何かできたのではないかと、ずっと思っていたからです。
三村は、缶コーヒーを二本買ってきて、片方を私に押しつけました。
そして、作業台の下から工具箱を引き出して見せました。
中身は、訓練センターのものと同じ並べ方でした。
スパナの向きまで同じでした。
「毎朝、数えとるよ」
私は、缶を持ったまま何も言えませんでした。
あの二年間で身についたものは、免許の紙より先に、手のほうに残っていたのです。
十四年後の同期会
同期会が開かれたのは、卒業から十四年後でした。
私は三十四になっていて、腰を一度やっていました。
会場は、宇部の駅前の、少し古い宴会場でした。
三村が来ると聞いたのは、当日の朝です。
※
三村は、思っていたより変わっていませんでした。
片づけの早さも、変わっていませんでした。
料理が来る前に、灰皿を全部きれいに並べ直していました。
聞けば、免許は取れないまま、山陰の町の農機具の修理工場にいるとのことでした。
トラクターと、コンバインと、草刈り機。
飛ぶものは、一つもない仕事です。
※
誰かが、あの件のことを言い出しました。
空気が固くなりました。
三村は、立ち上がって、コップを置きました。
「あのころは、悔しかった。何度も投げ出したくなった」
「自衛のつもりで、業界そのものを恨んだこともある」
誰も、うつむいたまま顔を上げませんでした。
※
三村は続けました。
「けど、十四年たって、やっと分かった」
「自分のやったことの責任は、自分で取らんといけんかった」
「あのとき、俺は責任と引き換えに夢を失った」
「かわりに、大切なものをもらった」
そう言って、上着の内ポケットから、たたんだ紙を出しました。
あの血判状でした。
三村が本当に言いたかったこと
血判状が、なぜ三村の手元にあるのか。
私たちは誰も知りませんでした。
受理されなかった書類は、その場で処分されたはずでした。
※
あとで三村に聞いて、分かりました。
大迫教官が定年で辞める年に、徳山の実家まで持って来たのだそうです。
玄関先で、封筒ごと差し出して、こう言ったと言います。
「これは、規則で預かれん書類だ」
預かれないから返す。
十四年、机の引き出しに預かってから、そう言って返したのです。
※
そして、三村が「大切なものをもらった」と言ったのは、その紙のことだけではありませんでした。
彼が寮を出た金曜の朝のことです。
鞄を持って格納庫の脇を通ったとき、大迫教官が、三村の工具箱を開けていたそうです。
そして、数え終わって、声に出して言ったのだと。
「三十七、揃っています」
※
辞める人間の工具を、点検する必要はありません。
それでも数えたということは、まだ数のうちに入れていたということです。
三村は、そこで初めて泣いたと言いました。
バス停までは、我慢したそうです。
私が二階の窓から見ていた、あの背中のことです。
いま、私が数えているもの
大迫教官は、もう十年ほど前に亡くなりました。
葬儀で、奥さんから聞いた話があります。
あの人は、家でも毎晩、財布の中の小銭を数えていたそうです。
数が合わないと、寝られない人でした。
奥さんは笑って言いました。
「不器用な人でしたから」
※
私は五十を前にして、いまも整備の現場にいます。
後輩の員数点検を見る立場になりました。
辞めていく若い子も、毎年います。
辞める子の工具箱を、私は最後の朝に一度だけ開けます。
数えて、声に出して言います。
決まりにはありません。
不器用な先輩が残したものという話を読むたび、私は大迫教官の背中を思い出します。
誰にも見えないところで積み重ねられたものについては、彼は二十一回空身で登ったという一篇も、私にとって忘れがたいものです。
※
三村の鉄工所は、いまも徳山で続いています。
息子さんが継いだそうです。
血判状は、事務所の壁に、額に入って掛かっていると聞きました。
私はまだ見に行っていません。
行くなら、手ぶらでは行けない気がしているのです。
額のことを、私は三村の息子さんから聞きました。
去年、部品の手配で電話をしたときに、向こうから言われたのです。
「父から、いつか宇部の方が来ると言われとります」
いつか、というのが、こちらの都合まで含んだ言い方でした。
親子で、そういうところが似ていました。
※
私はいまも、あの談話室の夜の静けさを覚えています。
四十人いた同期のうち、いま現場に残っているのは十二人です。
腰をやった者、目をやった者、別の道へ行った者。
それでも、集まると必ず誰かが工具の話をします。
飛ばす側でも、乗る側でもない人間の、いちばん地味な話です。
その地味さを、私は誇りに思っています。
この話が、どなたかの朝の点検を、少しだけ丁寧にできたなら嬉しく思います。
お読みいただき、ありがとうございました。