員数の紙が一枚増えた朝

宇部の格納庫は、朝いちばんに開けると、石灰の白い粉の匂いがしました。

海からの風が、工場地帯の粉を運んでくるのです。

私は十八の春から二年間、その町の訓練センターで整備士になるための課程にいました。

四十人の同期がいて、全員が寮に入っていました。

この話は、そこを途中で去った一人と、彼を去らせた教官の話です。

員数点検という決まり

整備の世界に入って最初に叩き込まれるのは、技術ではありません。

数を数えることです。

私たちは毎朝、自分の工具箱を開けて、中身を一つずつ数え、紙に書きました。

員数点検といいます。

スパナ、ドライバー、ラチェット、点検鏡、トルクレンチ。

三十七点。

一本でも合わなければ、その日は作業に入れません。

なぜそこまでするのか、最初の週に大迫教官が話してくれました。

「工具を一本、機体の中に置き忘れる。それだけで飛べなくなる」

教官は、格納庫の床を靴の先で軽く叩きました。

「もっと悪いのは、数えていないのに、数えたと書くことだ」

その一言を、私は三十年たった今も覚えています。

整備という仕事は、やったことを書く仕事ではありません。

書いたことを、必ずやってある、という状態をつくる仕事です。

だから、記録に嘘を混ぜた人間は、この世界にいてはいけないのです。

三村という男

三村は、私の隣の作業台でした。

手先はそれほど器用ではありませんでした。

むしろ、遅いほうでした。

けれど、片づけがいつも一番早い男でした。

自分の道具を戻し終わると、黙って他人の台の油を拭いていくのです。

実家は徳山の小さな鉄工所でした。

父親が体を悪くして、工場をたたむかどうかという話が出ていたのを、私は寮の廊下で立ち聞きしています。

三村は月に一度、日曜に帰っていました。

帰ってきた日の夜は、必ず消灯後まで机に向かっていました。

延灯願いという紙を出せば、深夜十二時まで灯りをつけていられました。

三村の名前は、その紙にいちばん多く並んでいました。

あるとき、私は訊きました。

「そんなに焦って、体もつのか」

三村は、鉛筆を置かずに答えました。

「うちは、免許が要るんよ」

鉄工所を継ぐには、整備の資格がいる。

そういう計画だったのだと、私はそのとき初めて知りました。

寮の夜と、条文の覚え方

法規の暗記は、四十人全員にとって鬼門でした。

条文の番号と中身が、頭の中でどうしても結びつかないのです。

私は語呂合わせで押し切ろうとして、試験のたびに番号を取り違えていました。

三村は、違うやり方をしていました。

条文を、実家の鉄工所の作業に置き換えて覚えるのです。

記録の保存に関する条文なら、父親が納品書を綴じている棚の段。

点検の期限に関する条文なら、旋盤の油を差す間隔。

全部、家の中の物に紐づけていました。

「そんなんで頭に入るんか」

私が笑うと、三村は鉛筆の尻で机を軽く叩きました。

「うちの棚は、順番が変わらんけえ」

覚えるのが苦手な人間が、覚えられる場所を外に用意していたのです。

私はそのやり方を、あとになって自分の後輩に教えるようになりました。

教えるたびに、名前は出しませんでした。

出せば、話の続きを言わなければならなくなるからです。

法規の試験

二年目の秋、航空法規の試験がありました。

暗記の科目です。

条文の番号と中身を、そのまま覚えなければなりません。

私たちは寮の食堂で、夜ごとに問題を出し合っていました。

試験の日、三村の答案から、小さく折った紙が出ました。

条文の番号だけが書いてある紙でした。

それだけです。

答えそのものは書いてありませんでした。

けれど、決まりの上では、それで十分でした。

処分は、退所でした。

私たちは納得できませんでした。

整備の腕ではなく、暗記の紙一枚で、二年が消えるのかと思いました。

その晩、寮の一階の談話室に、三十九人が集まりました。

折られていた紙の中身

三村の答案から出た紙のことを、私は長いあいだ誤解していました。

あれは、カンニング用に用意された紙ではありませんでした。

試験の前の晩、三村の実家から寮に電話が入っていました。

父親が倒れて、運ばれたという連絡です。

三村は寮監に相談して、朝いちばんのバスで帰る算段までつけていました。

それでも試験は受けると言い張ったのです。

落とせば、その学期がまるごと消えるからでした。

あの晩、彼は電話を切ったあと、机に向かっています。

そして、覚えきれていない条文の番号だけを、紙に書き出しました。

いつもは、覚え終わったら破って捨てていた紙です。

その晩は、破らずに、たたんで作業着の胸に入れました。

翌朝、着替える余裕がありませんでした。

紙は、そのまま試験の机まで来てしまったのです。

これを聞いて、それなら仕方がないと思う方もおられるでしょう。

私も、十四年間そう思っていました。

けれど、三村自身が、同期会でこう言ったのです。

「事情があったら見逃す業界やったら、俺は入りたくなかった」

そのとおりだと、いまなら分かります。

整備の記録に「事情があった」という欄はありません。

やったか、やっていないか。

その二つしか書く場所がないのです。

血判状

誰が言い出したのかは、いまでも分かりません。

嘆願書を出そう、という話になりました。

紙は、製図用の厚いものを使いました。

文面は、成績のよかった者が書きました。

そして、名前の下に、一人ずつ指を切って印を押しました。

カッターの刃を火で焼く者もいれば、そのまま押す者もいました。

血は思ったより出ませんでした。

押しても薄くて、二度、三度と押し直す者がいました。

談話室は、誰も冗談を言わない、妙に静かな部屋になっていました。

私は自分の指を見ながら、これは意味のないことかもしれないと、心のどこかで思っていました。

それでも押しました。

翌朝、代表の二人が教官室へ持って行きました。

大迫教官は、紙を最後まで読んだそうです。

読んでから、こう言ったと聞きました。

「規則は、曲げられん」

それだけでした。

三村は、その週の金曜に寮を出ました。

見送りは禁じられていませんでしたが、誰も玄関まで行けませんでした。

私は二階の窓から、バス停へ歩いていく背中を見ていました。

荷物は、来たときと同じ、旅行鞄が一つだけでした。

最初に指を出したのは、誰だったか

血判状のことで、もう一つ書いておきたいことがあります。

いちばん最初にカッターを取ったのは、三村と仲の悪かった男でした。

柳井から来た、口の悪いやつです。

実技の速さで競っていて、談話室でも何度か言い合いになっていました。

その男が、誰よりも先に立ち上がりました。

そして、紙の一番上に押しました。

普通は、上から順に成績のいい者が押していくものです。

彼は一番でも二番でもありませんでした。

誰も、順番のことを言いませんでした。

あとで理由を訊いたことがあります。

彼は、鼻で笑って答えました。

「あいつに勝ってから辞めさせろっちゅう話じゃ」

いま思えば、あれは彼なりの、いちばん不器用な言い方だったのだと思います。

その男は、いま関東の航空会社で整備部門の責任者をしています。

同期会の夜、三村の隣に座って、ずっと酒を注いでいました。

二人とも、あの件については、最後まで一言も触れませんでした。

教官が言わなかった期限

あとになって、一つだけ腑に落ちないことがありました。

嘆願書を出すという話が持ち上がった夜、大迫教官は寮の見回りに来ていたのです。

談話室の前を通って、中を見て、何も言わずに行きました。

そして、廊下でこう言ったのです。

「処分の決裁は、明日の昼だ」

誰に向けたのでもない、独り言のような言い方でした。

あの人は、嘆願が通らないことを知っていました。

知っていて、間に合う時刻を教えていったのです。

通らないと分かっているものを、なぜ出させたのか。

私はずっと、教官の甘さだと思っていました。

違いました。

あれは、私たちに「やった」という事実を残させるためだったのです。

何もしなかった三十九人になるか、やって届かなかった三十九人になるか。

その差が、あとの人生でどれほど効いてくるかを、あの人は知っていたのだと思います。

大迫教官という人

大迫教官は、話の短い人でした。

褒めることは、ほとんどありませんでした。

ただ、格納庫の一番奥の柱に、古い工具が一本、針金で吊してありました。

錆びた、柄の短いスパナです。

誰の物か、私たちは知りませんでした。

卒業の日に、一度だけ教えてもらいました。

教官が若い頃、先輩の記録に一つ、書き足しがあったのだそうです。

やっていない点検の欄に、丸がついていた。

教官はそれを見て、言い出せませんでした。

相手が世話になっている先輩だったからです。

その機体は、翌朝の始業点検で別の者が異常に気づき、飛びませんでした。

誰も怪我はしていません。

けれど、教官は、そのとき自分が黙ったことを、生涯忘れませんでした。

柱のスパナは、そのとき現物の点検口から出てきたものだそうです。

「わしは、あのとき数えとらんかった」

それが、あの人が三十年言い続けた理由でした。

規則を曲げないというのは、冷たさではありませんでした。

一度曲げた自分を、二度と作らないための、その人なりの誓いだったのです。

紙が、一枚だけ多くなった

三村がいなくなった翌週から、おかしなことがありました。

員数の紙は、その朝から、一枚だけ多くなりました。

提出箱に入っている紙が、人数より一枚多いのです。

最初は、誰かが書き損じを捨てそびれたのだと思いました。

けれど、それが翌日も、翌々日も続きました。

私は一度、その紙を見ました。

三十七点、と書いてありました。

筆跡は、大迫教官のものでした。

増えた一枚は、もう誰も開けない工具箱のものでした。

三村が使っていた台の下の、番号だけが残った箱です。

辞めた人間の工具を数える決まりなど、どこにもありませんでした。

私はそのことを、誰にも言いませんでした。

言えば、教官が困ると思ったからです。

そして、自分の員数点検を、その日から少しだけ丁寧にやるようになりました。

十年目に、一度だけ会っている

実は私は、同期会よりも前に、一度だけ三村に会っています。

卒業から十年目の、初夏でした。

仕事で山陰へ行ったときに、バスの窓から農機具屋の看板が見えたのです。

降りるかどうか、私は一つ先の停留所まで迷いました。

結局、降りました。

三村は、工場の前でコンバインの下に潜っていました。

私を見て、油まみれの手を上げました。

「よう来たな」

それだけで、十年が飛びました。

私は、謝りに来たようなものでした。

あのとき、もっと何かできたのではないかと、ずっと思っていたからです。

三村は、缶コーヒーを二本買ってきて、片方を私に押しつけました。

そして、作業台の下から工具箱を引き出して見せました。

中身は、訓練センターのものと同じ並べ方でした。

スパナの向きまで同じでした。

「毎朝、数えとるよ」

私は、缶を持ったまま何も言えませんでした。

あの二年間で身についたものは、免許の紙より先に、手のほうに残っていたのです。

十四年後の同期会

同期会が開かれたのは、卒業から十四年後でした。

私は三十四になっていて、腰を一度やっていました。

会場は、宇部の駅前の、少し古い宴会場でした。

三村が来ると聞いたのは、当日の朝です。

三村は、思っていたより変わっていませんでした。

片づけの早さも、変わっていませんでした。

料理が来る前に、灰皿を全部きれいに並べ直していました。

聞けば、免許は取れないまま、山陰の町の農機具の修理工場にいるとのことでした。

トラクターと、コンバインと、草刈り機。

飛ぶものは、一つもない仕事です。

誰かが、あの件のことを言い出しました。

空気が固くなりました。

三村は、立ち上がって、コップを置きました。

「あのころは、悔しかった。何度も投げ出したくなった」

「自衛のつもりで、業界そのものを恨んだこともある」

誰も、うつむいたまま顔を上げませんでした。

三村は続けました。

「けど、十四年たって、やっと分かった」

「自分のやったことの責任は、自分で取らんといけんかった」

「あのとき、俺は責任と引き換えに夢を失った」

「かわりに、大切なものをもらった」

そう言って、上着の内ポケットから、たたんだ紙を出しました。

あの血判状でした。

三村が本当に言いたかったこと

血判状が、なぜ三村の手元にあるのか。

私たちは誰も知りませんでした。

受理されなかった書類は、その場で処分されたはずでした。

あとで三村に聞いて、分かりました。

大迫教官が定年で辞める年に、徳山の実家まで持って来たのだそうです。

玄関先で、封筒ごと差し出して、こう言ったと言います。

「これは、規則で預かれん書類だ」

預かれないから返す。

十四年、机の引き出しに預かってから、そう言って返したのです。

そして、三村が「大切なものをもらった」と言ったのは、その紙のことだけではありませんでした。

彼が寮を出た金曜の朝のことです。

鞄を持って格納庫の脇を通ったとき、大迫教官が、三村の工具箱を開けていたそうです。

そして、数え終わって、声に出して言ったのだと。

「三十七、揃っています」

辞める人間の工具を、点検する必要はありません。

それでも数えたということは、まだ数のうちに入れていたということです。

三村は、そこで初めて泣いたと言いました。

バス停までは、我慢したそうです。

私が二階の窓から見ていた、あの背中のことです。

いま、私が数えているもの

大迫教官は、もう十年ほど前に亡くなりました。

葬儀で、奥さんから聞いた話があります。

あの人は、家でも毎晩、財布の中の小銭を数えていたそうです。

数が合わないと、寝られない人でした。

奥さんは笑って言いました。

「不器用な人でしたから」

私は五十を前にして、いまも整備の現場にいます。

後輩の員数点検を見る立場になりました。

辞めていく若い子も、毎年います。

辞める子の工具箱を、私は最後の朝に一度だけ開けます。

数えて、声に出して言います。

決まりにはありません。

不器用な先輩が残したものという話を読むたび、私は大迫教官の背中を思い出します。

誰にも見えないところで積み重ねられたものについては、彼は二十一回空身で登ったという一篇も、私にとって忘れがたいものです。

三村の鉄工所は、いまも徳山で続いています。

息子さんが継いだそうです。

血判状は、事務所の壁に、額に入って掛かっていると聞きました。

私はまだ見に行っていません。

行くなら、手ぶらでは行けない気がしているのです。

額のことを、私は三村の息子さんから聞きました。

去年、部品の手配で電話をしたときに、向こうから言われたのです。

「父から、いつか宇部の方が来ると言われとります」

いつか、というのが、こちらの都合まで含んだ言い方でした。

親子で、そういうところが似ていました。

私はいまも、あの談話室の夜の静けさを覚えています。

四十人いた同期のうち、いま現場に残っているのは十二人です。

腰をやった者、目をやった者、別の道へ行った者。

それでも、集まると必ず誰かが工具の話をします。

飛ばす側でも、乗る側でもない人間の、いちばん地味な話です。

その地味さを、私は誇りに思っています。

この話が、どなたかの朝の点検を、少しだけ丁寧にできたなら嬉しく思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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