
春一番の日のことを、私は今でも駅前の桜並木を通るたびに思い出す。
あの日ほど、自分の小ささを思い知らされた日はない。
国道沿いのスーパーでレジに立って、三年目の春だった。
その朝、店の前の大きな立て看板が、開店前に倒れた。
胸の名札には、まだ「研修中」のシールの跡が残っていた。
慣れたつもりでいた仕事に、私はどこか、ふてぶてしくなっていたのだと思う。
風に倒れた看板
天気予報は「春一番が吹くでしょう」と告げていた。
けれど私が知っていたのは、予報の言葉だけだった。
風がどれほど人の仕事を狂わせるのか、本当には分かっていなかったのだ。
裏口の扉を開けた途端、見えない手に押し戻された。
肩で扉を支えて外へ出ると、砂がざらざらと頬に当たった。
バックヤードの棚では、結束バンドで留めたポップが一斉にはためいていた。
店の中にいても、壁を叩く風の音が絶えず聞こえてくる。
朝礼で店長は、いつもより少し早口で言った。
「今日は荒れるぞ。お客様の声は、言い返さずに最後まで聞くこと」
私は頷きながら、半分しか聞いていなかった。
「これ、ブロックでも載せないと駄目だな」
店長はそう言って、看板の足に重しを括りつけた。
けれど昼前には、また倒れた。
入口脇の鉢植えが転がって、土が通路に散らばった。
冷凍ケースの霜取りに来るはずの業者は、風のせいで二時間も遅れた。
開店からずっと、誰かが走っているような一日だった。
「今日はもう、何が起きても驚かないよ」
同僚の佐々木さんが、苦笑いしながら言った。
私は笑い返せなかった。
朝から小さなトラブルが続いて、胃のあたりが固くなっていたからだ。
お客様の前では笑顔をつくる。
そう決めて入った仕事なのに、頬の筋肉が思うように動かなかった。
昼休みの弁当も、味がしないまま十分で食べ終えた。
休憩室の窓には、細かな砂が吹きつけて、小さな音を立てていた。
ひとつ片付けると、次のひとつが足元に転がってくる。
そんな一日の、午後だった。
苛立ちを抱えたレジ
午後三時を過ぎたころ、レジの前に長い列ができていた。
風を避けて買い物に来た人が、一度に押し寄せたのだ。
列の端まで、誰かの溜め息が伝わっていくようだった。
その真ん中に、若いカップルが並んでいた。
彼氏のほうは背が高く、少し尖った目をしていた。
彼女は髪をくるくると巻いて、薄い水色のワンピースを着ていた。
買い物かごには、ヨーグルトと食パンと、小さな花束が入っていた。
花束の包みは、風のせいか少しだけ潰れていた。
バーコードを通していると、彼氏が口を開いた。
「駐車場の段ボールが飛び散って迷惑なんですけど。あのままにしておいていいんですか」
声は低く、怒りが薄くにじんでいた。
その瞬間、私の中で何かが小さく音を立てた。
こっちだって、朝から走り回っているのだ。
言い返したい気持ちが、喉の手前まで上がってきた。
けれど、列の後ろでは次のお客様が待っている。
私は息を一つ飲み込んで、頭を下げた。
「申し訳ございません。今すぐ片付けます」
口から出たのは、いつもの決まり文句だった。
けれど声は、ひどく平たかったと思う。
会計を終えたカップルは、黙って店を出ていった。
彼女が出口で一度だけ振り返り、小さく会釈をした。
私はそれを、見なかったことにした。
隣のレジから、佐々木さんが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫? 顔、怖いよ」
「大丈夫です。ちょっと、片付けてきます」
そう答えて、上着の前を合わせた。
嫌々ながら、強風の中へ出ていった。
春一番の日の駐車場
駐車場は、想像以上の有様だった。
店の裏に積んでいた空き箱が風に煽られ、一面に散らばっている。
平らな段ボールが、凧のように舞い上がっては落ちてくる。
フェンスには、潰れた箱とレジ袋が、旗のように貼りついていた。
追いかけて踏みつけても、次の風でまた浮かび上がった。
かじかんだ指に、段ボールの縁が食い込んだ。
手の甲には、細かな切り傷までできていた。
春一番の日の風は、温かいと聞いていたのに、実際には顔が痛いほど冷たかった。
集めても集めても、終わりが見えない。
気の遠くなるような作業だった。
どうせ、そのうちどこかへ飛んでいくだろう。
そんな投げやりな考えが、頭をかすめた。
実家は小さな八百屋だった。
雨の日も風の日も、父は店先の段ボールを毎朝きちんと畳んで、角を揃えて積んでいた。
「店の前は、店の顔だぞ」
子どものころ聞かされたその言葉を、私はすっかり忘れていた。
いい加減に集めて、中に戻ってしまおうか。
そう思いかけたとき、背中のほうから声がした。
「あの、すみません。これ……」
振り返ると、さっきの彼女が立っていた。
腕いっぱいに、段ボールを抱えている。
私が集めていた量より、はるかに多かった。
巻いていた髪は風でほどけて、ぼさぼさになっていた。
水色のワンピースの胸元は、埃を吸って灰色に汚れている。
それでも彼女は、汚れた段ボールを胸にぎゅっと抱えていた。
その後ろに、彼氏が立っていた。
両腕に、ぎっしりと段ボールを抱えている。
目が合うと、彼は気まずそうに視線を落とした。
「ここに置けば、いいですか」
彼女が尋ねた。
私は、返事ができなかった。
自分がとても恥ずかしくなった。
申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
束ねた段ボールの重さ
二人から受け取った段ボールの重さを、今も覚えている。
紙の重さのはずなのに、腕に深く沈んだ。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
それしか言えなかった。
深々と頭を下げると、アスファルトが目に入った。
砂粒が風に流されて、細い筋を描いていた。
「風、強いですもんね。お互い、大変ですね」
彼女はそう言って、ほんの少し笑った。
彼氏は、「さっきは言い方がきつくて、すみませんでした」と小さく頭を下げた。
私は首を横に振った。
謝るべきは、こちらのほうだった。
「あの、おばあちゃんが今日、退院なんです」
彼女は、潰れかけた花束の話をした。
「早く迎えに行きたくて、少し苛立っていたんだと思います」
彼氏が横で、照れたように頭をかいた。
急いでいたのは、私だけではなかったのだ。
二人が車で去ったあとも、しばらくその場から動けなかった。
駐車場の端の桜は、つぼみを固く閉じたまま、大きくしなっていた。
私は倒れた看板を起こし、重しを足した。
それから、集まった段ボールを紐で十字に束ねた。
束ねる指先は、さっきよりもずっと静かだった。
店に戻ると、店長が私の袖の埃に気づいた。
事情を話すと、店長は腕を組んで、しばらく黙っていた。
「お客様に手を借りたのか。ありがたい話だな」
それから、ふっと表情をゆるめた。
「朝礼で言ったろ。まず最後まで聞くんだ。聞いてから動いたほうが、風にも勝てる」
私は、返す言葉が見つからなかった。
その夜、私は家で、実家の父に電話をかけた。
「店の前、まだ毎朝畳んでるの?」
父は少し笑って、「当たり前だろう」と言った。
受話器の向こうで、懐かしい段ボールの擦れる音がした気がした。
私は何も言えないまま、ありがとう、とだけ言った。
父は理由を聞かなかった。
ただ、「風邪をひくなよ」と、短く言って電話を切った。
翌朝、いつもより三十分早く出勤した。
開店前の駐車場を一周して、飛びそうなものを先に拾い集めた。
冷えた空気が、肺の奥まで入ってきて気持ちよかった。
その朝の空気は、今でも鼻の奥に残っている。
段ボールの乾いた匂いと、土の匂いが混じっていた。
小さな親切は、あとから効いてくる。
食堂で交わされた「美味かったな」という一言の話のように、その場では気づかなくても、何年も胸の奥で灯りつづける。
あれから、二年が経つ。
先月、アルバイトに入った高校生の野村くんが、閉店間際に駐車場で足を止めた。
カートが一台、風で斜めに倒れていた。
「あのままにしておいていいんですかね」
彼は不安そうに、私の顔をうかがった。
私は少しだけ笑って、答えた。
「いい質問だね。じゃあ、一緒に行こうか」
先にカートを起こしたのは、私のほうだった。
手袋をはめた指に、春先の冷たい風が通り抜けていく。
野村くんは、カートを並べながら、ぽつりと言った。
「文句を言うだけの人より、先に動く人になりたいです」
私は、その横顔を見て、あの水色のワンピースを思い出した。
あの日の二人の名前を、私は今も知らない。
けれどレジに立つたび、潰れかけた小さな花束の色を、ふと探してしまう。
同じような話に母のガイドブックの物語があるが、あの日の私も、誰かに黙って教えられたのだと思う。
あの春一番の日に、私は客の言葉より先に、自分の心を拾い損ねていた。
それを拾い直してくれたのは、髪も服も乱れたまま立っていた、名前も知らない二人だった。
文句を言った人が、いちばん先に拾っていた。
その光景を、私は今も手の傷のように覚えている。