人とのご縁
自分は三人兄弟の真ん中として、どこにでもある中流家庭で育ちました。
父はかなり堅い会社のサラリーマンで、性格も真面目一筋。それは厳格で厳しい父親でした。
母は元々小学校の教員をしており、典型的な箱入り娘。真面目なのだけど、どこか気の抜けた天然の入った、憎めない人でした。
そんな家庭で育った俺も何不自由する事なく、中学、高校とエスカレーター式の私学に通いました。特に問題を起こす事もなく、親の言われるがままに毎日を過ごしていました。
でも何もかも自分の敷いたレールに子供を乗せないと気が済まない親のやり方に納得が行かなくなり、徐々に親に対して憎しみが湧いて行き、気が付けば毎日親と喧嘩ばかりしていました。
自分自身、親との距離を空けるようになり、気が付けば地元の不良とばかりつるむようになっていました。
行かせてもらった学校も中退し、毎日のように遊び呆けていました。
※
ある時期から親も俺に何も言わなくなり、ただ悲しそうな顔で、俺の事を見守り続けていました。
俺自身もこのままじゃいけないという事を感じていましたが、手を切る事によって仲間や先輩から報復が来るのが怖く、ずるずる毎日を過ごしていました。
最初はほんの興味本位で首を突っ込んだ世界が、自分がその本質に気付いた時には全てが手遅れでした。
チーム同士が抗争した時は、相手側が俺の家の窓ガラスを破って乗り込んで来た事もありました。
警察のお世話にもなり、親が泣きながら警官に謝っている姿も見ました。
自分らは極道事の一つもせず、真面目にやって来たのに、怖かったやろう、悔しかったやろうと思います。
※
徐々に母親の精神が持たなくなり、常に安定剤と睡眠薬を服薬しないといけない体になっていました。
『俺のせいだ!』
悔やんでも悔やみ切れない自責の念が、自分を襲いました。
でもその時にはもう手遅れで、自分では変えようもない環境と現実がそこにありました。
そして出した結論が、自ら育った環境を、家族を捨てるという事でした。
自分が居なくなる事が今自分が出来る最高の親孝行だって、そう自分に言い聞かせ、家を出る決意をしました。
※
親に啖呵を切って出て来たものの、行き場所が無く途方に暮れた自分が真っ先に思い付いた所が『西成愛燐地区』でした。
前テレビのドキュメンタリー番組で見て、日雇い労働の方々が集まって来る場所というのは知っていたので、
『自分は若いし体力もあるし、仕事は何ぼでもあるやろ』
と思って行ったのですが、現実はそんな甘いものではありませんでした。
僕が西成に着き、最初の衝撃だったのが、その人の多さでした。
朝の4時にも関わらず、労働センターではワゴン車が立ち並び、日雇いのおっちゃん達が仕事を探し、何やら雇い主のような人と交渉を行っていました。
自分も負けじと見様見真似で声を掛けて行ったのですが、
「仕事、定員まだ空いてますか?」
「もう来る人間全部決まってるわ」
と、面白いように返って来る答えが同じで、そして次々と定員を満たした車が出発して行きました。
その時はもうすっかり自分にも余裕が無くなって、必死に片っ端から声を掛けていました。
しかし自分の思うように仕事は見つからず、更に追い討ちを掛けるように雇い主から
「それはそうと兄ちゃん、手帳は持ってるんか?」
「は? 手帳? 何ですか、それ?」
「手帳も知らずに西成来たんかいな? ここで働くのに必要な証明書みたいなもんや」
「どこで発行してもらえるんですか? 今日中にもらえますか?」
「ここのセンターの二階が発行元やけど、例え今日手続きしたとしても、もらえんの最低半年は覚悟せなあかんで」
「は、半年!?」
「そらそうやがな。ていうかそれなかったら、間違いなくどこも雇ってはくれへんで」
不安が自分の中で絶望に変わった瞬間でした。
※
絶望に打ちのめされた俺は、センターの近くの一角で倒れるように、へたり込みました。
不安や希望、悲しみといった感情の糸が切れてしまい、生きて行く気力が全く無くなってしまったのです。
着の身着のままで出て来ている分、とっくの昔にお金は底をついていました。
後々考えたら煮炊き場などもあったのですが、その時は本当にそこまで考える余裕も無く、このまま自分が死ぬ事まで覚悟しました。
生まれて初めて、死と向き合った瞬間でした。
そしたら、親の事、兄弟の事、ツレや当時付き合っていた彼女の事などが思い出され、止め処なく涙がポロポロ流れて来ました。
とことん自分を責め、悔やみました。
そして僕に関わった全ての人の幸せを、心から願いました。
不思議と死にたくないという感情は生まれて来ませんでした。
※
そして何日が過ぎ、いよいよ自分の意識が起きているか寝ているか分からない状態になった時、
「おい、お前見た感じ若そうだけど、何してんだ。こんなとこで」
と、ある男性から声を掛けられました。
その人こそ命の恩人でした。
※
「何だ、若いのに青い顔して。飯食ってないんだろう」
「はい」
「ほれ見てみろ。今にも死にそうな顔して。飯くらい奢ってやるから付いて来い」
と半分訳の解らぬまま、おじさんに付いて行き、自分が西成に来るまでの経緯を全て話しました。
おじさんは黙って俺の話を一通り聞いた後、
「馬鹿な事しやがって」
と吐き捨てるように言いました。
そして長い長い沈黙の後、
「坊主、ちょっと付き合え」
と突然店を出て歩き出しました。
自分はまた訳も解らないまま、付いて行く事にしました。
※
シティホテルの前でおじさんが突然立ち止まり、
「お前はそこで待ってろ」
と一人フロントに入って行きました。
暫くして自分も呼ばれ、ホテルの一室の中に通されました。
「暫くだけど、この部屋を寝泊りに使っていいぞ」
「いや、そんな事してもらったら申し訳ないですよ」
「一文無しの分際で知ったような口聞いてんじゃねぇ!!」
「でも…」
「いいんだよ。今日パチンコで大勝ちしたから」
そんな遣り取りがあり、俺はその部屋で二週間、寝泊りする事になりました。
※
その二週間のうちに、おじさんと色々な話をしました。
おじさんは本当に良い人で、言葉数は少ないしすぐ怒るんだけど、真っ直ぐな人で、照れ屋で…。
おじさんも若かった頃は九州でバリバリ働いて、妻子も養っていたのだけど、病気で体を壊して会社をクビになり、妻子にも逃げられ、流れ流れて行き着いた先が西成だったらしい。
ちょうど息子が順調に生きていたら、今頃は俺ぐらいの年で、実の息子には何もしてやれんまま離れ離れになったから、路上で野垂れ死に寸前の俺を見て、息子の代わりにこの子に出来る事があればしてあげよう。
そう思ったらしい。
※
そして一日一日が嘘のように、あっと言う間に過ぎて行きました。
おじさんは本当に良くしてくれました。
朝は一緒に喫茶店でモーニングを食べ、食べ終わったらおっちゃんは日雇いの仕事へ行く。
そして自分の食べる昼ご飯と、俺が日中に食べる分をいつも買ってくれて
「いい子で待ってろよ」
と、まるで子供扱いでした。
俺は何度も仕事手伝うよと言ったけど、最後まで付いて行かせてくれませんでした。
そして晩は晩で一緒に食べに行き、本当に親子のような関係でした。
おっちゃんが店のマスターに、
「子供さん連れて来はったのですか?」
と聞かれ、本当に嬉しそうな顔で否定していたのを憶えています。
俺も今までこんなに人から親切にしてもらった事はなかったから、本当に嬉しかった。
世の中捨てたもんじゃねぇなって。
初めて心から信用出来る大人に出会えた喜びで一杯だった。
でも同時に、俺の存在がおじさんに負担を掛けている現実が堪らなく辛かった。
この生活はいつまでも続くものじゃないと、何より自分が解っていたから。
いつ自分からこの事を言い出そうかと悩んでいた。
※
そしてある晩、おじさんから俺の部屋に入って来て、話し始めた。
「この二週間、お前と知り合えて楽しかったよ。でもいつまでもお互いにこんな生活続けて行かれへん。お前、これからどうするつもりや?」
「うん。取り敢えず西成を出て、仕事を探しながら交通費を貯めて、知り合いの所を訪ねて行くつもりやねん」
「そうか。その方がええ。この街なんか一日も早く離れ、養ってもらえる所があるんやったら、そこに行きなさい」
おっちゃんはそう言って、最後に五千円を俺のポケットにねじ込んでくれました。
「いや、おっちゃんかまへんって。そこまでせんといて」
「かまへん。とっとけ。
ええか? おっちゃんと約束してくれ。
まず二度とこの西成に戻って来んな。この街は人間の墓場みたいな所や。
お前にはおっちゃんと違って若さという可能性を持ってる。だからこんなとこでお前の限りない可能性を無駄にはするな。
ほんである程度生活が安定したら、両親に連絡したれ。元気で頑張ってる、の一言でええから。
どんな子供だって、親からしたら子供は宝であり、夢や希望や。
子供に幸せになってもらいたいと願わん親は無い。
だから絶対、連絡はしたれ。約束できるな」
「うん…」
もうその時は泣けて泣けて、人との別れでこんなに悲しいのは初めてでした。
「あほ。男やったらいちいちピーピー泣くな…。また明日な」
とだけ言い残し、おじさんは部屋を出て行きました。
※
その日の朝は、喫茶店でモーニングを食べている時から、二人とも黙ったままでした。
そして別れの時、ホームでおじさんがポツリと
「俺が甲斐性無いばっかりに、すまんかった」
「そんなん言わんといて。今までほんまありがとう。俺、お礼言っても言い尽くされへんわ」
「もしお前がどーしても頑張ってまた挫折した時は西成帰っておいで。また出会ったあの場所で会おう。わしも偶に見に行くようにするから。ほんま体に気を付けて」
そして、おじさんとは地下鉄の動物園前のホームで別れました。
5年前の暑い夏の日でした。