妻が逝ってから、家の中で時計の音がやけに大きく聞こえるようになりました。あれほど賑やかだった台所が、しんと静まり返っているのです。
妻は、去年の冬に、長い闘病の末に旅立ちました。まだ三十を少し過ぎたばかりでした。息子の翔太が、四歳になったばかりの頃のことです。
残されたのは、私と、幼い息子の二人きり。慣れない手つきで弁当を作り、保育園の送り迎えをし、夜は山のような洗濯物と向き合う。そんな日々が始まりました。
何より私を苦しめたのは、翔太に、母親の死をどう伝えればいいのか、わからなかったことでした。
妻が元気だった頃、家事のほとんどは、彼女が当たり前のようにこなしていました。私は仕事にかまけて、米のとぎ方ひとつ、ろくに知りませんでした。今になって、その一つひとつを、見よう見まねで覚えていくのです。
焦がした卵焼きを、翔太は文句も言わずに食べてくれました。形のいびつなおにぎりを、「パパのおにぎり、おもしろいかたち」と笑ってくれました。その健気さが、かえって胸に刺さりました。
夜、翔太を寝かしつけたあと、私はよく、台所で一人になりました。妻の使っていたエプロンが、まだフックにかかったままでした。それを見るたびに、ここに彼女がいないという事実が、改めて胸に押し寄せました。
※
「ママは、どこにいったの?」
妻の葬儀のあと、翔太は何度も、そう尋ねました。私はそのたびに、言葉に詰まりました。四歳の子に、死というものを、どう説明すればいいのでしょう。
私はようやく、こう答えるのが精いっぱいでした。
「ママはね、お空の上の、天国っていうところに行ったんだよ」
「てんごく?」
「うん。遠いけど、いつも翔太のことを、見ててくれてるところだよ」
翔太は、わかったような、わからないような顔で、こくんとうなずきました。それからしばらく、「ママ、てんごく」と、口の中でつぶやくようになりました。
保育園の帰り道、翔太はよく空を見上げました。雲の切れ間や、夕焼けの色を指さして、「あれ、ママのおうち?」と尋ねるのです。私は、そのたびに「そうかもね」と答えるしかありませんでした。
飛行機が空を横切ると、翔太は手を振りました。ママに届くように、と。その姿を見るたびに、私は、こみあげるものを必死にこらえました。子どもの想像力というのは、ときに、大人の胸を打つほどまっすぐなのです。
その小さな背中を見るたびに、私は台所のほうを向いて、こっそり涙を拭きました。父親が泣いていては、この子が安心できない。そう思って、必死にこらえていました。
夜になると、翔太はときどき、ふと目を覚まして、隣を探りました。妻が、いつも添い寝をしていたからです。誰もいないとわかると、小さな声で「ママ」と呼ぶのです。
私は、その小さな体を抱き寄せて、背中をとんとんと叩きました。妻がいつもそうしていたように。けれど、私の手は、母のそれより大きくて、ごつごつしていました。それでも翔太は、やがて、また寝息を立て始めるのでした。
こんな小さな子に、こんなに早く、母親との別れを経験させてしまった。そのことが、私には、何よりもつらく、申し訳なく思えました。せめて、この子の前では、明るい父親でいよう。それだけを、心に決めていました。
※
妻が遺したもののひとつに、古い料理ノートがありました。新婚の頃から、つくった献立や、家族の好物を書きためていた、分厚いノートです。
翔太の離乳食のレシピも、私の好きな肉じゃがの味付けも、そこに、丸い文字で書いてありました。私は料理が苦手で、毎晩そのノートを開いては、妻の字をたどりながら、不格好な夕飯を作りました。
翔太は、そのノートが大好きでした。読めもしないのに、膝の上で広げては、ママの字を指でなぞるのです。
「これ、ママの字?」
「そうだよ。ママが、翔太のために書いたんだ」
そう言うと、翔太はページに頬をすりよせて、嬉しそうに笑いました。妻の文字の中に、まだ母のぬくもりが残っていることを、幼いなりに感じ取っていたのかもしれません。
妻は、料理をしながら、よく鼻歌を歌う人でした。翔太は、その歌をそばで聞きながら育ちました。台所に立つと、今でもその鼻歌が、どこからか聞こえてくるような気がします。
病院のベッドで、妻が最後に私に託したのも、このノートでした。やせ細った手で、それを私に手渡して、彼女は言いました。
「翔太に、ちゃんとごはん、食べさせてね。このノートがあれば、だいじょうぶだから」
あのときの妻の、安心したような微笑みを、私は忘れることができません。だから私は、どんなに不器用でも、毎晩このノートを開き続けているのです。これは、妻が遺してくれた、家族をつなぐ糸なのですから。
※
ある晩のことです。翔太が、私の手を引いて、思いつめた顔でこう言いました。
「パパ、じをおしえて」
「字を? どうして急に」
「あのね、ひらがな、かけるようになりたいの」
私は少し驚きました。保育園では、まだ字の練習など始めていないはずです。それでも、息子が自分から何かを学びたいと言うのは、嬉しいことでした。
どうせすぐに飽きるだろう。そう思いながらも、私は毎晩、寝る前の時間を使って、ひらがなを教え始めました。
四歳の手には、鉛筆はまだ大きすぎました。「あ」の一文字を書くのにも、翔太はぎゅっと舌を出して、真剣な顔で取り組みました。線がはみ出すたびに、悔しそうに、何度も消しゴムをかけました。
「もう、いいんじゃないか。今日はよくがんばったよ」
私がそう言っても、翔太は首を振って、やめようとしません。
「ううん、もっと、れんしゅうする」
その熱心さが、私には不思議でなりませんでした。けれど、忙しさにかまけて、深くは尋ねませんでした。子どもの気まぐれだろう、くらいに思っていたのです。
翔太は、来る日も来る日も、ひらがなの練習を続けました。覚えた字が増えるたびに、得意げに私に見せにきました。「ぱ」「ま」と、つたない字が、少しずつ形になっていきました。
小さな指は、すぐに疲れてしまいます。それでも翔太は、晩ごはんのあとの三十分を、決して欠かしませんでした。眠そうに目をこすりながらも、鉛筆を握り続けました。
「ぱ、が、むずかしい」
丸が、どうしても、うまく書けないのです。私が手を添えて教えると、翔太は何度も何度も、その形を練習しました。ノートのマス目は、消しゴムのあとで、灰色になっていきました。
私は、その熱心さを、わが子の成長として、ただ微笑ましく見ていました。まさか、その小さな手が、あんな手紙を書こうとしているなどとは、思いもしませんでした。
※
そんなある日、保育園の先生から、私の携帯に電話がかかってきました。
「お忙しいところ、すみません。少し、お話ししたいことがありまして」
先生の声は、いつもより少し、湿っているように聞こえました。何か翔太がしでかしたのかと、私は身構えました。
「実は今日、翔太くんから、こう頼まれたんです」
先生は、そこで一度、言葉を切りました。
「『せんせい、このおてがみ、てんごくのママにとどけて』って……」
私の心臓が、ことりと音を立てました。手紙、という言葉が、うまく頭に入ってきませんでした。
「翔太くんが、自分で折りたたんだ紙を、私に渡してくれて。中を読んでもいいか聞いたら、いいよ、って」
先生は、声を震わせながら、その手紙の中身を読み上げてくれました。
※
『ままへ。 ぼく、いいこにします。 だから、かえってきてください。 おねがいします。 しょうた』
つたない、けれど一文字ずつ、心をこめて書かれたであろう、ひらがなでした。
受話器を握ったまま、私は、その場に立ち尽くしました。
翔太が、あの晩、急に字を覚えたいと言い出した理由が、ようやくわかったのです。あの子は、天国のママに手紙を書くために、必死に、ひらがなを練習していたのでした。
「いいこにするから、かえってきて」。たった四歳の子が、母を取り戻すために考えついた、たったひとつの方法。それが、字を覚えて、手紙を書くことだったのです。
電話の向こうで、先生も泣いていました。私も、こらえていたものが、もう、どうにもなりませんでした。台所の床に膝をついて、声を殺して泣きました。
あの子は、母がいなくなったことを、本当はちゃんと、わかっていたのかもしれません。だからこそ、自分にできる精いっぱいの方法で、母をこの世に呼び戻そうとしていたのです。
いい子にしていれば、約束を守れば、きっとママは帰ってくる。その純粋な信じる心が、四歳の小さな体を、毎晩の練習へと突き動かしていたのでした。
私は、父親として、何をしていたのだろうと思いました。自分が泣くまいとすることに必死で、息子の心の奥にある願いに、まったく気づいてやれなかったのです。
その夜、仕事から帰る道すがら、私は何度も立ち止まりました。翔太に、なんと声をかけてやればいいのか、考えあぐねていたのです。ママは帰ってこないのだと、本当のことを告げるべきなのか。それとも、夢を見させたままにすべきなのか。
答えは、なかなか出ませんでした。けれど、家の灯りが見えてきたとき、ひとつだけ、はっきりとわかったことがありました。この子の母を想う気持ちを、決して否定してはいけない、ということです。
※
その日の夜、私は翔太を膝に抱いて、ノートを開きました。妻の遺した、あの料理ノートです。
「翔太。ママにお手紙、書いたんだってな」
翔太は、少しびくっとして、私の顔を見上げました。叱られると思ったのかもしれません。
「うん……。だめ、だった?」
「だめじゃないよ。すごく、上手に書けてた。ママ、きっと、すごく喜んでるよ」
私がそう言うと、翔太の顔が、ぱっと明るくなりました。そして、思いがけないことを言ったのです。
「あのね、ママ、もうすぐ、かえってくるんだよ」
「……どうして、そう思うんだ?」
「だって、ぼく、いいこにするって、やくそくしたもん。やくそく、まもったら、かえってくるでしょ?」
私は、なんと答えればいいのか、わかりませんでした。最近、翔太が前より明るくなった理由が、これでやっと、腑に落ちました。あの子は、母が帰ってくる日を、本気で信じて、待っていたのです。
※
私は、しばらく考えてから、翔太の小さな手を、両手で包みました。
「翔太。ママはな、お空の天国から、ちゃんと帰ってきてるんだよ」
「えっ、どこ?」
翔太が、きょろきょろと部屋を見回しました。私は、自分の胸に、そっと手を当てました。
「ここだよ。翔太がママのことを思うとき、ママは、いつもここに帰ってきてる。翔太のことを、いちばん近くで見ててくれてるんだ」
翔太は、しばらく自分の胸を、ぺたぺたと触っていました。それから、何かを納得したように、こっくりとうなずきました。
「じゃあ、ぼくのおてがみも、ママ、よんでくれた?」
「もちろん。いちばん最初に、読んでくれたよ」
翔太は、にっこりと笑いました。その笑顔が、亡くなった妻に、驚くほどよく似ていました。
※
あれから、月日が流れました。翔太は、すっかり字が上手になりました。今では、ノートいっぱいに、長い手紙を書けるようになっています。
母の日には、毎年、天国のママへ手紙を書きます。最近の出来事や、がんばっていること。私には内緒の、ママだけへの報告も、たくさんあるようです。
書き終えた手紙は、二人で、妻の写真の前に供えます。そして、線香の煙が、それを天国まで運んでくれるのだと、私たちは信じています。
初めて二人で手紙を供えた母の日のことは、今でもよく覚えています。翔太は、写真の前に正座をして、手紙を読み上げました。
「ママ、げんきですか。ぼくは、げんきです。きょうも、ぱぱのごはん、ぜんぶたべました」
たどたどしいその声を聞きながら、私は写真の中の妻に、心の中で語りかけました。見てるか、翔太は、こんなに立派になったぞ、と。写真の妻は、いつもと変わらぬ笑顔で、私たちを見つめていました。
翔太は、手紙の最後に、必ずこう書き添えます。「ぼくは、いいこにしています」と。あの日の約束を、あの子は今も、ずっと守り続けているのです。母が帰ってくると信じていた頃の、まっすぐな心のままで。
妻が遺した料理ノートは、今も毎晩、台所で活躍しています。翔太は近頃、その隣で、自分の覚えた料理のことを、新しいノートに書きためるようになりました。
日曜日には、二人で台所に並んで、ママのノートを見ながら料理をします。翔太は、踏み台に乗って、慣れない手つきで野菜を洗います。
「ぱぱ、にくじゃがの、おにくは、どれくらい?」
「ええと、ママのノートには、こう書いてあるな……」
二人でノートをのぞきこむと、妻の丸い文字が、台所の灯りに照らされます。まるで、彼女がそこに立って、私たちに作り方を教えてくれているようでした。
できあがった肉じゃがを、翔太は得意げに頬張りました。「ママのあじに、なった?」と聞くので、私は「ああ、そっくりだ」と答えました。半分は本当で、半分は、そうあってほしいという、私のささやかな願いでした。妻の味を覚えていくたびに、翔太の中に、母が少しずつ宿っていくような気がするのです。
そうやって、妻の味は、息子の手へと、少しずつ受け継がれていきます。レシピというのは、ただの作り方ではなく、その人の生きた証なのだと、私はこの頃、思うようになりました。
「ぼくもね、おおきくなったら、ママみたいに、ノートかくの」
そう言って、つたない字で「にくじゃが」と書いている息子の横顔を見ると、私はまた、胸が熱くなります。
妻はもう、この世にはいません。けれど、あの子の書く一文字ずつの中に、妻は確かに、生きています。文字には、人を想う気持ちを、時を超えて運ぶ力があるのですね。
あの日、保育園の先生がかけてくれた一本の電話を、私は一生忘れません。あの電話がなければ、私は息子の心の奥を、知らないままだったかもしれないのですから。
悲しみは、消えるものではありません。ふとした瞬間に、妻のいない寂しさが、胸を締めつけることもあります。それでも私たちは、手紙という形で、今も妻とつながっています。会えなくても、想いは届く。それを、幼い息子が、私に教えてくれました。
翔太の机の上には、いつのまにか、ひらがなだけでなく、漢字も少しずつ増えてきました。妻の名前を、漢字で書けるようになった日、翔太は飛び上がって喜びました。母の名を、自分の手で書ける。それが、あの子にとっては、何よりの誇りなのです。
今夜も、翔太は天国のママへ、せっせと手紙を書いています。その小さな背中を見守りながら、私は、写真の中の妻に、心の中でそっと話しかけるのです。なあ、翔太は、こんなに優しくて、こんなに強い子に育ったよ。君が遺してくれたノートのおかげだよ、と。