母ちゃんの記憶

俺が母ちゃんについて憶えていることは、たった一つしかない。

ブランコの鎖が、右と左で違う音を立てていたことだ。

右がカ、左がコ。

それだけだ。

顔は、仏壇の写真でしか知らない。

声も、たぶん本当は憶えていない。

俺は四つだった。

四つで残る記憶なんて、そんなものらしい。

いま俺は三十五で、庄内の町で建具屋をやっている。

親父の代からの、看板の文字がもう読めない店だ。

木を削っていると、一日じゅう音を聞くことになる。

鉋の音。鑿の音。蝶番の軋み。

職業柄、音で物の具合がわかる。

建て付けの悪い戸は、閉まる寸前に「た」と鳴く。

油を差せば「と」に変わる。

だから、あの鎖の音だけが残ったのだと思う。

俺がいちばん最初に憶えた音だったから。

町の外れ、製材所の裏に小さな児童公園がある。

ブランコが二基。砂場。鉄棒。桜が一本。

三十年前、俺は毎日そこにいた。

夕方になると、みんなの母ちゃんが迎えに来る。

「ごはんだよ」

「手を洗ってからね」

そういう声が、順番に子どもを連れて行く。

砂場の型抜きが一つずつ減って、最後に俺のだけが残る。

迎えの順番は、だいたい決まっていた。

最初がヨシオんとこ。あそこの母ちゃんは声が大きい。

次がミチルちゃん。手を引かれて、いつも振り返って帰る。

最後から二番目が、名前を忘れた、鼻の下がいつも光っていた子。

その子の母ちゃんは、俺にも「暗くなるよ」と声をかけてくれた。

「うん」

俺はそう返して、砂場に残った。

あの人はたぶん、うちの事情を知っていた。

知っていたから、それ以上は言わなかったのだと思う。

子どもの俺には、その黙り方の意味がわからなかった。

うちの母ちゃんは、市立病院の四階にいた。

入院が長かった。

親父は建具屋で、日が落ちてからが仕事の追い込みだ。

帰っても、家には誰もいない。

だから、暗くなっても公園にいた。

六つ上の姉貴が、部活の帰りに公園の前を通る。

クラリネットのケースを籠に乗せて、自転車を押して。

「帰るよ」

それだけ言って、姉貴は先に歩き出す。

俺は膝の砂を払って、後ろをついて行く。

それが日課だった。

面会は週に二度だった。

病院の廊下は、いつも同じ匂いがした。

消毒液と、床用のワックスと、その下に隠れている何か。

四階のいちばん奥が母ちゃんの部屋だった。

窓際に、親父が作った衝立が置いてあった。

欅の枠に、細い格子を組んだ小さなやつだ。

風よけだと親父は言っていたが、四階の窓に風なんか吹き込まない。

あとで知った。

隣のベッドの人が入れ替わるたび、母ちゃんがそれを見ないで済むようにだった。

母ちゃんはよく、りんごを剥こうとした。

痩せた手でナイフを持つと、皮が三センチくらいで途切れる。

皿の上に、短い皮がぱらぱらと落ちていく。

「今日は下手だなあ」

母ちゃんは笑って、途切れたところからまた剥き始める。

俺はそれを、ずっと見ていた。

りんごの匂いが、消毒液の匂いを少しだけ押しのけるのが好きだった。

「どうしていつも病院にいるの」

俺は毎回、同じことを聞いた。

何度でも聞いた。

聞けば答えが変わるかもしれないと思っていたのだと思う。

「ここが母ちゃんの仕事場だから」

母ちゃんはいつもそう言った。

「なんの仕事」

「いい子が来るのを待つ仕事」

「それ、仕事なの」

「いちばん難しい仕事だよ」

俺は納得しなかった。

納得しないまま、次の週もまた同じことを聞いた。

母ちゃんのベッドからは、窓の外に製材所の煙突が見えた。

細くて、先の少し曲がったやつだ。

「あそこ、見えるか」

「みえる」

「あの煙突から煙が出てる日は、父さんが仕事してる日だ」

「じゃあ、毎日でてる」

「そうだな。毎日出てるな」

母ちゃんは笑って、窓の桟に指を置いた。

「母ちゃんはな、あれを見て、うちのほうがどっちか確かめてる」

俺はその日から、どこにいても煙突を探す子どもになった。

公園の桜の枝の間からも、あの煙突は見えた。

見えると、なんとなく安心した。

うちがまだそこにある、という印だったのだと思う。

七夕の日、看護婦さんが病室に笹を持って来た。

廊下じゅうの部屋に、同じ笹が配られていた。

母ちゃんが短冊を二枚もらって、一枚を俺にくれた。

俺はひらがなで書いた。

「ままがかえってきますように」

それを見て、母ちゃんはしばらく何も言わなかった。

「上手に書けたな」

それから、自分の短冊に何か書いて、二つに折って笹に結んだ。

「なんて書いたの」

「内緒」

「みせて」

「これはな、見せると叶わなくなるやつ」

俺はしつこく引っぱったが、母ちゃんは笹の高いところに結んでしまった。

四つの俺の手が、どうやっても届かない高さに。

親父は、毎晩、袋を持って病院へ行った。

紙の米袋に、その日出た鉋屑を詰めて。

俺はてっきり、病院で燃やしてもらっているのだと思っていた。

子どもの理屈だ。

あの袋の中身が何のためだったか、俺が知るのは二十年以上あとになる。

親父は無口だった。

母ちゃんの話を、自分からしたことは一度もない。

ただ、俺の髪だけは自分で切った。

風呂場に新聞紙を敷いて、バリカンで。

耳の後ろのところで必ず引っかかって、俺は毎回痛いと言った。

「動くからだ」

親父はそれだけ言って、また同じところで引っかかる。

あとになって、姉貴に聞いた。

母ちゃんが、髪だけは人に頼まないでくれと言ったのだそうだ。

理由は、姉貴も聞かなかったという。

姉貴は、母ちゃんが亡くなってからクラリネットを吹かなくなった。

部活は続けた。楽器だけ持って、音を出さなかったらしい。

顧問に何か言われて、秋に辞めた。

理由を、俺は長いこと知らなかった。

姉貴が泣いたところを、俺は一度も見たことがない。

葬式でも、あの人だけは背筋を伸ばして立っていた。

高校生の姉が、四つの弟の手を離さずに立っていた。

いま思えば、あれは泣かなかったんじゃない。

泣く順番が、あの家には回ってこなかったのだ。

あの日のことを、俺は順番では憶えていない。

憶えているのは、いくつかの断片だけだ。

あの日、砂場で作っていたのは家だった。

四角い山に、指で窓を四つ開けたやつだ。

窓が四つあれば家になる、と俺は本気で思っていた。

姉貴が遅かった。

コンクールが近い時期だったのだと、あとで知る。

街灯が一つ点いて、砂場の半分だけが明るくなった。

俺は明るいほうの砂を集めて、屋根を高くしていた。

砂が湿っていたこと。

もう暗くて、砂場の縁の木がどこにあるか手探りだったこと。

それから、名前を呼ばれたこと。

振り向いたら、桜の下に母ちゃんが立っていた。

病院の寝間着の上にカーディガンを羽織って、サンダルで。

肩で息をしていた。

「ママー」

俺は馬鹿みたいに叫んで走った。

それだけは、はっきり憶えている。

母ちゃんは、しゃがんで俺を受け止めた。

受け止めた、というより、俺の勢いでいっしょに倒れそうになった。

母ちゃんの手は冷たかった。

けれど、カーディガンの中は温かかった。

「ブランコ、乗ろう」

母ちゃんはそう言って、俺の手を引いた。

膝の上に俺を乗せて、鎖を握った。

母ちゃんの腕はもう、ほとんど力が入っていなかったのだと思う。

ブランコは、ほんの少ししか揺れなかった。

それでも、鎖は鳴った。

右がカ、左がコ。

「聞こえるか」

「うん」

「右と左で、音がちがうべ」

「ちがう」

「錆びてるほうが低い音」

母ちゃんは、鎖を少し揺すってみせた。

カ。

コ。

「数えててな」

「なにを」

「これ。母ちゃんが押すから、数えててな」

俺は数えた。

「いち」

「に」

「さん」

母ちゃんの声は、俺より半拍うしろにいた。

追いつこうとしているのか、置いていかれまいとしているのか。

四つの俺には、その違いがわからなかった。

いまでも、わからない。

いくつまで数えたかは、憶えていない。

憶えているのは、途中で母ちゃんの声が重なってきたことだ。

俺の数える声に、少し遅れて、同じ数字が。

それから、桜の枝の間から街灯が見えていたこと。

母ちゃんのカーディガンから、木の匂いがしたこと。

病院の匂いじゃなかった。

うちの作業場の匂いだった。

その何日かあとに、母ちゃんは病院で息を引き取った。

葬式のことは、断片も残っていない。

四つの記憶というのは、そういうものだ。

残るものは残り、残らないものは何をしても残らない。

俺は長いあいだ、あの夕方を自分の作り話だと思っていた。

入院中の人間が、三キロ離れた公園まで歩いて来られるわけがない。

寂しかった子どもが、あとから都合よくこしらえた記憶だろうと。

そう思っていたほうが、楽でもあった。

作り話なら、あれこれ考えなくて済む。

三十を過ぎた春、親父が入院した。

腰の手術で、二週間ほどの短いやつだ。

病室は、市立病院の四階だった。

廊下の匂いは、三十年前と同じだった。

窓際のベッドで、親父は退屈そうにしていた。

俺は椅子に座って、りんごを剥いた。

皮が途切れた。

三センチくらいで、ぱらぱらと皿に落ちた。

親父が、それを見ていた。

それから、ぽつりと言った。

「あの日な」

主語がなかった。

それでも、どの日の話か、俺にはすぐわかった。

「あの人は、看護婦さんに黙って出たんだ」

「歩いてか」

「歩いてだ。三キロある」

親父は天井を見たまま話した。

「帰ってから、三日熱が下がらんかった」

「なんて言って出て行ったんだ」

俺は聞いた。

親父は、しばらく黙っていた。

「売店に行く、と」

「それだけか」

「それだけだ。財布も持たんで」

看護婦さんが気づいたのは、二時間近くあとだったらしい。

病院じゅうを探して、最後に電話が鳴った。

公園の向かいの、煙草屋の店先の電話だった。

母ちゃんが、自分でかけたのだそうだ。

「迎えに来てくれ、と」

「親父に」

「俺にだ。歩いて帰るつもりだったが、無理だと思ったんだろう」

親父は、そこで一度、天井のほうを向いた。

「軽トラの助手席で、あの人は何も言わんかった」

「怒らなかったのか」

「怒れるか」

それきり、親父は目を閉じた。

俺は、りんごを持ったまま動けなかった。

「怒られなかったのか」

「怒られた。俺も怒られた」

「なんで親父が」

「連れて帰るのに、俺が呼ばれたからだ」

そこで初めて、親父は俺のほうを見た。

「玄関で、あの人が言った」

「なんて」

「四つの記憶は、ほとんど残らん」

親父は、そこで少し黙った。

「だから、一つだけ残るように来たんだ」

俺はその夜、姉貴に電話した。

姉貴は隣の市で、二人の子を育てている。

「知ってたのか」

「なにを」

「母ちゃんが、公園に来た日のこと」

電話の向こうで、しばらく音がしなかった。

「知ってた」

姉貴の声は、少しだけ低くなった。

「あたし、毎日、病院に電話してたんだ」

「電話」

「公衆電話。部活のあと」

「なんの用で」

「今日もあいつは公園にいる、って報告」

俺は受話器を持ち替えた。

「母ちゃんに頼まれてたのか」

「うん。何時に迎えに行ってるか、毎日聞かれた」

だから、母ちゃんはあの時間を知っていた。

どの木の下に立てば、俺から見えるかも。

姉貴が電話で渡していたのは、時間じゃない。

母ちゃんが最後に一度だけ使うための、地図だった。

「なんで教えてくれなかった」

「怖かった」

姉貴は、そう言った。

「あんたが憶えてなかったら、あの日がなかったことになる」

「憶えてたよ」

「うん。だから、今日まで黙ってた」

あの袋のことも、そのとき聞いた。

親父が毎晩持って行った、鉋屑の米袋。

母ちゃんが、木の匂いがすると家にいるみたいだと言ったからだそうだ。

看護婦さんに頼んで、枕元の棚に袋の口を開けて置いてもらっていた。

だからあの夕方、母ちゃんのカーディガンから作業場の匂いがした。

病院の匂いを消して来たわけじゃない。

母ちゃんはずっと、うちの匂いの中で寝ていたのだ。

俺は三十年、順番を逆に憶えていた。

母ちゃんが公園に来たのだと思っていた。

そうじゃない。

あの人は、家のほうへ帰ろうとして、その途中に俺がいたのだ。

親父が退院した週に、押入れの奥から菓子の空き缶が出て来た。

母ちゃんの物が、それだけ入っていた。

診察券。ほどけた数珠。俺の描いた絵が何枚か。

いちばん下に、色の抜けた短冊が一枚あった。

二つに折られたままだった。

開いた。

「この子が、なにか一つでも憶えていてくれますように」

字は、途中から少し震えていた。

見せると叶わなくなるやつ、と母ちゃんは言った。

だから三十年、誰にも見せずに折ったままだったのだと思う。

俺は缶の蓋を閉めて、しばらく押入れの前に座っていた。

叶っていた。

たった一つだけ、ちゃんと叶っていた。

千夏には、母ちゃんの話を一度だけした。

付き合って二年目の、なんでもない晩だった。

作業場のストーブの前で、俺は鉋の刃を研いでいた。

「憶えてるのが、ブランコの音だけなんだ」

「音だけ」

「顔も声も憶えてない。音だけ」

千夏は、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。

「じゃあ、その音は、お母さんが選んだんだね」

俺は手を止めた。

砥石の上で、刃がまだ濡れていた。

そんなふうに考えたことは、一度もなかった。

残ったのではなくて、残されたのだと。

来月、結婚する。

相手は、隣町でパン屋をやっている家の娘だ。

先週、挨拶に行った。

通されたのは台所の隣の、こたつのある部屋だった。

向こうのお袋さんが、りんごを剥いてくれた。

皮が、途切れなかった。

皿の縁を一周して、まだ繋がっていた。

俺はそれをじっと見ていたらしい。

「どうしたの」

「いえ」

「あら、剥きすぎたかしら」

「途切れないんですね」

変なことを言った、と自分でも思った。

向こうのお袋さんは、少し笑った。

「切れたっていいのよ」

「そうですか」

「食べるとこは、同じだもの」

俺は下を向いた。

三十五にもなって、りんごの皮で泣きそうになる男がどこにいる。

それでも、下を向いているあいだ、俺はずっと数を数えていた。

帰り道、千夏が言った。

「今度、公園に連れて行って」

「なんもないぞ。ブランコと砂場だけだ」

「それでいい」

街灯の下で、千夏はりんごの入った紙袋を抱え直した。

「音、聞きたいから」

今日の午前中、道具箱を持って公園に行った。

ブランコは、まだ二基とも残っていた。

鎖は、三十年ぶんの錆で真っ茶色だった。

軍手をして、ワイヤーブラシで落として、継ぎ目に油を差した。

鎖の継ぎ目は、油を差すと、しばらく黒い汁を垂らす。

三十年ぶんの錆が溶けて出てくるのだ。

軍手が真っ黒になった。

座板の裏のボルトも一本、緩んでいた。

締めながら、こんなものはとうに交換されているものだと思っていた自分に気づいた。

誰かが、直しながら残していたのだ。

俺が来るまで、ずっと。

建具屋の仕事じゃない。

それでも、油を差すのは俺の仕事のうちだ。

一つずつ、鎖を揺すって音を確かめる。

右が、カ。

左が、コ。

合っていた。

三十年、俺は間違って憶えていなかった。

「母ちゃん」

誰もいない公園で、声に出した。

「来月、結婚するよ」

風が桜の枝を鳴らして、それきりだった。

「向こうのお袋さんは、俺が大事にすっから」

「母ちゃんの分も」

それだけ言って、俺はブランコを押した。

誰も乗っていないブランコが、ゆっくり揺れる。

右がカ、左がコ。

今度は、俺が数える番だった。

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