
母は、泊まっていた三日のあいだ、一度も私のポケベルを鳴らしませんでした。
使い方が分からないのだろうと、私は思っていました。
思っただけで、教えもしませんでした。
あれから十五年、私はそのことをときどき思い出します。
ポケベルで食べていたころ
人付き合いが下手で、私は勤めていた会社を辞めました。
辞めた理由を、当時はうまく説明できませんでした。
いまなら少しは言えます。
人の顔色を読むのが下手なのではなく、読みすぎて疲れる人間だったのです。
一人で始めたのは、電気製品の修理と取り付けの仕事でした。
軽自動車の後ろに工具箱とテスターと脚立を積んで、呼ばれたところへ行きます。
エアコンの取り付け、換気扇の交換、テレビが映らないという電話。
そのころ、携帯電話はまだ高いものでした。
本体も月々も、私には手が出ませんでした。
そこで、事務所の番号にかかってきた電話を留守番電話で受けて、それをポケベルに転送していました。
ベルが鳴ると、公衆電話を探します。
十円玉を並べて、留守電を聞いて、それから折り返す。
いま思えば、ずいぶん手間のかかるやり方です。
それでも、その手間の分だけ仕事が来ていました。
会社を辞めた日のこと
会社を辞めると決めた日、私は上司に理由をうまく言えませんでした。
人が嫌いなわけではありません。
朝礼の輪のなかで、自分の立ち位置をずっと計算している。
その計算に、一日ぶんの力を使い切ってしまうのです。
夕方には、仕事そのものに向ける分が残っていませんでした。
「向いてないんです」
私はそう言いました。
上司は、しばらく黙ってから、一つだけ訊きました。
「次、あるのか」
「ないです」
正直に答えたのは、その一言だけでした。
母には、辞めたことを半年間言いませんでした。
言わずにいるあいだ、実家からの電話に出るのが苦しかったのを覚えています。
怒鳴られた夏
独立して二年目の夏に、私はある団地の一室で一時間、立たされたことがあります。
エアコンの取り付けで、配管を通す穴の位置が図面と違っていました。
先方は、そんなことは知らないと言いました。
実際、知らなくて当然のことでした。
それでも、玄関先で一時間、私は聞いていました。
途中でポケベルが鳴って、私はそれを止めることもできませんでした。
鳴り終わるまで、相手の声とベルの音が重なっていました。
帰りの車のなかで、私は一度もラジオをつけませんでした。
あの夏、私は自分の仕事の何が下手なのかを、ようやく分かり始めました。
技術ではなく、あらかじめ断っておくことが下手だったのです。
それを覚えるのに、また何年かかかりました。
十円玉の音
公衆電話というのは、話しているあいだ、ずっと十円玉が落ちます。
用件が長引くと、その音が急に大きく聞こえてくるのです。
そうなると、こちらの喋り方が変わります。
早く済ませようとして、結局、伝わりが悪くなります。
あのころ私は、電話のたびに少しずつ雑になっていました。
母に電話をしなくなったのも、たぶん同じ理由です。
金の話ではなく、金の音の話でした。
十円玉が落ちるところで話すのが、母に対して申し訳なかったのです。
その申し訳なさを、私は連絡を減らすという形で処理していました。
いちばん間違ったやり方でした。
松戸の一間
住んでいたのは、松戸のアパートの二階でした。
六畳と、台所と、窓の外に鉄の階段があるだけの部屋です。
冬は、窓の内側が白くなりました。
台所には、鍋が一つと、フライパンが一つありました。
どちらも、ほとんど使っていませんでした。
帰るのはいつも遅く、帰ってから火を使う気力が残っていないのです。
その月に払うものを払うと、手元にいくらも残りませんでした。
親には、何も言っていませんでした。
言えば、心配のかたちで何かが送られてくると分かっていたからです。
それが嫌なのではなく、受け取ったら負けだと思っていました。
三十を前にした男の考えることは、だいたい間違っています。
※
諫早から来た
母が来たのは、五月の連休が終わったころでした。
諫早の母は、農協の直売所で働いていました。
朝の四時に起きて、野菜を並べて、昼過ぎに帰る仕事です。
父が早くにいなくなってから、ずっとその暮らしでした。
手が荒れていて、冬になると指の関節が割れます。
それを、私は帰省のたびに見ていました。
見ていて、何も言いませんでした。
言えば、大したことなかとよ、と返ってくると分かっていたからです。
母は、自分のことを話さない人でした。
話さない代わりに、こちらのことをよく見ている人でした。
長崎の諫早から、夜行のバスと電車を乗り継いで来ました。
「来るなら言ってよ」
「言うたら、来んでええって言うやろ」
玄関で、母は靴を揃えてから上がりました。
部屋を見て、何も言いませんでした。
散らかっている、とも、狭い、とも言いませんでした。
私は、その沈黙を責められているように受け取りました。
「すぐ出るから。仕事だから」
「うん」
「勝手にしてていいから」
「うん」
いま書き写していても、ひどい言い方だと思います。
遠くから来た人に向かって、私はそういう口の利き方をしていました。
三日間
三日のあいだ、母は部屋のことをしていました。
窓を拭き、風呂場のカビを落とし、たまっていた洗濯を全部やりました。
一日目、母は何もしませんでした。
あとで思えば、あれは見ていた日です。
どこに何があるか、私が何時に帰るか、どの棚を開けないか。
二日目から、母は動き始めました。
三日目には、押し入れの布団が干してありました。
鉄の階段の手すりに、二枚並べて掛けてあったのを覚えています。
二階の廊下から見下ろすと、布団の影がコンクリートに落ちていました。
あんなものを、私は自分では一度も干していませんでした。
私が帰ると、部屋が明るくなっていました。
電球を替えたのだそうです。
「あんた、切れとったよ。片方」
「気づかんかった」
「気づかんくらい、帰っとらんとよ」
私は、それにも返事をしませんでした。
母は、洗濯物のたたみ方が独特でした。
作業着の袖を、内側に折り込んでからたたむのです。
そうすると、次に着るときに手が通しやすい。
直売所で覚えたやり方なのだと、あとで妹に聞きました。
私の仕事着も、全部その形になっていました。
母が帰ってから一ヶ月ほど、私は自分でたたむときに同じ折り方をしました。
できているかどうかは、自分では分かりませんでした。
それでも、そうしていました。
夜、母は台所に立って、翌日のぶんを作っていました。
油の匂いのする部屋で眠るのは、久しぶりでした。
それが心地よかったことを、私は母に一度も言っていません。
ポケベルは、その三日のあいだも何度か鳴りました。
鳴るたびに、私は上着を掴んで出ていきました。
母は、そのたびに玄関まで来て、戸を開けて待っていました。
「行ってらっしゃい」
それだけ言って、あとは何も訊きませんでした。
三日目の夜だけ、母と少し長く話しました。
私が珍しく早く帰った日です。
母は、テレビの音を小さくして、こう訊きました。
「仕事、面白かと」
私は、少し考えてから答えました。
「面白いかは分からん。けど、呼ばれるのは嬉しか」
「そうね」
母は、それ以上訊きませんでした。
訊かれなかったので、私はもう少し喋りました。
直したテレビが映った瞬間に、年寄りの客が手を叩いた話をしました。
母は、笑って聞いていました。
あの晩、私が自分から仕事の話をしたのは、家を出て以来だったと思います。
火を使わずに食べられるもの
母が帰る日の朝、冷蔵庫が満杯になっていました。
それに気づいたのは、母を送り出したあとです。
いなり寿司、煮物、佃煮、卵焼き、切ってあるかんぼこ。
それから、下の段に牛乳とヨーグルトと果物。
どれも、そのまま食べられるものでした。
火を使うものが、一つもなかったのです。
台所に立たない息子を、母は三日で見抜いていました。
見抜いて、何も言わずに、そのぶんの支度をして帰ったのです。
お礼を言う相手は、もういませんでした。
母が帰ったあとの一週間、私は毎晩、冷蔵庫を開けました。
減っていくのが、こわかったのを覚えています。
最後に残ったのは、いなり寿司が二つでした。
それを食べてしまうと、母が来たことの証拠がなくなる気がしたのです。
結局、私はそれを食べました。
食べるのが供養だと、そのときはうまく言えませんでしたが、そう感じていました。
※
見送らなかった朝
私は、母を見送りませんでした。
朝いちばんに川崎の現場が入っていたのは本当です。
それでも、三十分あれば駅までは行けました。
行けたのに、行きませんでした。
「気をつけて」
「うん。あんたも」
玄関で、それだけです。
母が階段を降りる音を聞きながら、私は工具箱を確かめるふりをしていました。
音が消えるまで、部屋のなかで待っていました。
ずいぶんあとになって、大家さんに言われました。
「お母さん、あの日ね、しばらく道に立っとったよ」
「道に」
「うちの前の道。ここを、ずっと見上げて」
大家さんの話には、続きがありました。
「声かけようかと思ったんだけどね」
「かけてくれてよかったのに」
「かけたら、お母さん、帰りにくくなるでしょう」
私は、その言い方に胸をつかれました。
この人も、母と同じ側の考え方をする人でした。
黙って見ていて、黙って行かせる。
そういう人が、あの朝、うちの前に二人いたのです。
母は、バスを一本遅らせていたそうです。
私は、窓のすぐ内側にいました。
カーテンを開けさえすれば、目が合っていたのです。
手紙と封筒
その日の夜、仕事から帰って、私は卓の上のものに気づきました。
茶封筒が一つ、置いてありました。
なかに、便箋が一枚とお金が入っていました。
『仕事頑張って下さい。少しですがこれで携帯電話でも買って、声を聞かせて下さい』
下さい、下さい、と二度書いてありました。
母は、息子に対しても、頼むときはそういう書き方をする人でした。
便箋は、直売所の裏紙ではありませんでした。
ちゃんとした便箋を、母はどこかで買ってきていたのです。
封筒も、封をしてありませんでした。
糊で閉じてしまうと、こちらが気づかず捨てるかもしれないと思ったのでしょう。
置いた場所も、卓の真ん中ではありませんでした。
私がいつも鍵を置く場所の、すぐ横でした。
三日のあいだに、母はそこまで見ていたのです。
見られていたことに、私はまるで気づいていませんでした。
私は、封筒を持ったまま座り込んで、わあわあ泣きました。
三十近い男が、一人の部屋で声を出して泣いたのは、あれが最初で最後です。
母が遺したフィルムという話を読んだとき、私はこの封筒のことを思い出しました。
母親というのは、こちらが見ていないところで、こちらのために何かを残しておく人たちです。
封筒の金額のことを、私は長いあいだ勘違いしていました。
母が貯めてくれた金だと思っていたのです。
そうではありませんでした。
妹によると、母はいつも、決まった額を家に置いていたそうです。
「あんたたちに何かあったときのお金」と呼んでいたそうです。
それを、母は松戸へ持ってきて、置いて帰りました。
何も起きないほうに賭けて、備えのぶんを渡してしまったのです。
私はそのことを、母が亡くなってから知りました。
※
五十件
次の週に、私は駅前の店で携帯電話を買いました。
いちばん安いものです。
写真も撮れない、文字も送れない、電話帳は五十件までしか入らない機種でした。
それでも、私の仕事はそこから変わりました。
公衆電話を探さなくてよくなっただけで、一日に回れる件数が増えたのです。
お客さんからの「いま出られますか」に、その場で答えられるようになりました。
その電話に、どれだけ助けられたか分かりません。
いちばん最初に登録したのは、実家の番号でした。
登録したのに、その日はかけませんでした。
翌日もかけませんでした。
かけたのは、三日目の夜です。
「もしもし」
「……あら」
母の声は、すぐには続きませんでした。
「買うたと」
「買うた」
「そう」
それだけの電話です。
用件は何もありませんでした。
三日目にかけたのは、私が意地を張っていたからです。
すぐにかければ、待たれていたことを認めることになる気がしました。
あとで妹に聞いて、私はその意地を悔やみました。
「母さんね、あんたが買うたって言うてから、しばらく電話の前に座っとったよ」
「座っとった」
「新聞読むふりして。あそこ、寒かとにね」
諫早の家の電話は、廊下にありました。
五月とはいえ、朝晩は冷える廊下です。
そこに椅子を出して、母は座っていたのだそうです。
電器屋のメモ
母のことを本当に知ったのは、それから十年以上あとです。
母の財布のなかに、折りたたんだ紙が入っていました。
諫早の電器屋の名前が刷ってある、小さなメモ用紙です。
そこに、店の人の字で手順が書いてありました。
番号を押す。少し待つ。合図の音がしたら、こちらの番号を押す。最後に、シャープを押す。
母は、松戸へ来る前に、その店で教わっていました。
電器屋の主人は、まだ店をやっていました。
メモを見せると、自分の字だとすぐに言いました。
「ああ、書いたね。何度も書き直させられたよ」
「何度も」
「うん。字が大きすぎるって。財布に入るようにしてくれって言われてね」
母は、電器屋でその手順を三度、声に出して読まされたそうです。
主人が、覚えるまで帰さなかったのだと言っていました。
「押し間違えると、変なとこにかかるからね」
母は、それを笑わずに聞いていたそうです。
母は、その紙を持ち歩くつもりだったのです。
持ち歩いて、いつでも押せるようにしておくつもりだったのです。
妹に訊くと、覚えていました。
「行っとったよ。あんたとこ行く前の週」
「なんで、そんなこと」
「なんでやろね」
鳴らさなかったのは、使い方を知らないからではありませんでした。
母は、鳴らし方を、来る前に諫早の電器屋で教わっていました。
※
一件目
なぜ教わって、なぜ一度も鳴らさなかったのか。
私は、本人には訊けませんでした。
ただ、あの三日を思い返せば分かります。
ベルが鳴れば、私は上着を掴んで出て行きました。
母は、それを三日のあいだ、何度も見ていました。
鳴らせば、息子が走る。
だから、覚えたまま、一度も押さなかったのです。
そういう覚え方をする人が、この世にはいます。
姉さんと呼べなかった二十年という話を読んだときにも、私は同じことを思いました。
言わずに持っている時間の長さが、そのまま気持ちの量になる人たちがいるのです。
母がいなくなってから、私は諫早の家を片づけました。
廊下の椅子は、まだそこにありました。
電話台の横に、少し斜めに置いてあります。
座ってみると、玄関の戸がちょうど見える向きでした。
電話を待つ場所であり、誰かが帰ってくるのを待つ場所でもあったのです。
その椅子だけは、いまも私の家にあります。
私の携帯は、あれから五度、機種が変わりました。
五十件までだった電話帳は、いまは何百件も入ります。
それでも、電話帳の一件目だけは動かしていません。
もう繋がらない番号を、消さずに置いてあります。