父の練習帳は挨拶から始まっていなかった

俺の手は、人より少しだけ、指の付け根が硬い。

手話を仕事にしているせいだと、周りは思っている。

違う。

親父の手が、そうだったからだ。

同じ形に動かしているうちに、同じところが硬くなった。

その硬さの意味を、俺はずいぶん長いあいだ知らずにいた。

母のいない家と、最初から使えていた手話

俺に母親の記憶はない。

俺を産んですぐ、事故で亡くなったと聞かされて育った。

耳は、物心ついたときからほとんど聞こえない。

不思議だったのは、その物心ついた頃には、もう簡単な手話を使えていたことだ。

誰かに習った覚えがない。

気づいたら、そこにあった。

言葉というのはそういうものだと、俺は疑いもしなかった。

寄宿舎で一緒だった遠山に、一度だけ言われたことがある。

遠山の親は手話ができず、家では筆談だった。

「お前、家で喋れるんやろ」

「喋れるけど」

「ええな」

それだけの会話だった。

俺はそのとき、何を羨ましがられているのかわからなかった。

家に帰れば言葉が通じる。

そんなものは、空気みたいに当たり前だと思っていた。

当たり前にするために、誰かが仕事を減らしていたなどとは、考えもしない。

家は、静岡の富士宮にあった。

親父は市場の仲卸で、朝が早く、夜はいつも先に寝ている人だった。

台所に、食器がいつも二人分だけ伏せてあった。

親父は俺に背を向けて飯を作り、こちらを向いてから口を動かす。

今にして思えば、あれは全部、俺に唇を見せるための向き直りだった。

台所の蛍光灯だけが、家じゅうでいちばん明るかった。

手が見えないと、うちでは会話にならないからだ。

俺は地元の学校には行けず、静岡の聾学校の寄宿舎に入った。

金曜の夕方に親父が軽トラで迎えに来て、日曜の夜に送ってくる。

片道で一時間半かかる。

市場の朝は三時起きだから、日曜の夜の運転は相当きつかったはずだ。

信号で止まるたび、親父は必ずこちらを向いて何か言った。

暗い車内では手も唇も見えないのに、それでも向いた。

俺はうるさそうに窓のほうを見ていた。

近所の子には、よく囃された。

何を言われたかは、当然、わからない。

ただ、あの顔だけは覚えている。

神社の石段のところで囲まれたことがある。

一人が俺の手をつかんで、勝手に動かして、みんなで笑った。

手話をふざけて真似されるのは、言葉をふざけて真似されるのと同じだ。

そのことを説明する言葉を、俺はまだ持っていなかった。

口の端を持ち上げて、こちらを見て、隣の子と顔を見合わせる、あの動き。

音が聞こえないぶん、顔だけが焼きつく。

片親で、耳が聞こえない。

その二つが理由らしいと知ったのは、もう少し大きくなってからだ。

知った日から、俺は家に籠もった。

思春期のほとんどを、六畳の部屋で過ごした。

自分に何の落ち度もないのに、こうなっている。

その理不尽を、俺はいちばん近くにいる人間にぶつけた。

親父を憎んだ。

顔も知らない母のことまで憎んだ。

なぜこんな体に産んだのか。

なぜ普通の人生をくれなかったのか。

手話では言い足りない分を、俺は物と体で表した。

茶碗を投げた。壁を蹴った。親父の胸ぐらをつかんだ。

親父は一度も抵抗しなかった。

床に座り込んだまま、涙を流して、同じ手話を繰り返した。

「すまない」

その手だけが、俺の目の前でずっと動いていた。

「すまない」を作るとき、親父は必ず一度、手を胸の高さで止めた。

教本ではそこで止めない。

俺はその止め方を、憎むほど覚えてしまった。

先生が、初めて俺を殴った日

そんな時期に、俺には一人だけ、逃げ込める場所があった。

主治医の田名部先生だ。

俺が生まれてすぐ、耳のことがわかったときから診てくれている人だった。

先生は手話ができた。

耳鼻科の医者が全員できるわけではない。

あとで知ったことだが、先生が手話を覚えたのも、親父が診察室に来たあとだった。

患者の父親に「僕が覚えます」と言われて、医者のほうが黙っていられなくなったらしい。

それも、教科書どおりの手話ではなく、俺の癖に合わせた崩し方をした。

診察の予約もないのに、俺は病院の待合の隅によく座っていた。

先生は仕事の合間に出てきて、何も言わずに向かいに座る。

咎めもせず、慰めもせず、ただ受け止める。

俺にとっては、もう一人の親のような人だった。

先生は、俺が親父の悪口を言っても、一度も庇わなかった。

庇えば、俺が話しに来なくなると知っていたのだと思う。

その代わりに、たった一度だけ、あの日に殴った。

ある日、学校でどうしようもなく傷つくことがあった。

内容はここには書かない。

ただ、悔しくて、悔しさの持って行き場がなかった。

俺はその足で病院に行き、待合の隅で先生に長い愚痴をこぼした。

途中で、たぶん俺は、消えてしまいたいという意味の手話をした。

そこから先は、一瞬だった。

先生が立ち上がって、俺の頬を打った。

驚いて顔を上げて、もっと驚いた。

先生が泣いていた。

あの人が感情を表に出すのを、俺は初めて見た。

先生は震える手で、ゆっくりと話し始めた。

待合のテレビは点いていて、外来の人が何人か座っていた。

それでも先生は、声を使わなかった。

俺にだけ伝わる速さで、手だけを動かした。

「君は不思議に思わなかったか」

「物心ついたときには、もう手話を使えていたことを」

思っていた。

ずっと思っていて、そのまま置いてあった。

先生は続けた。

赤ん坊の俺を抱えて、親父が診察室に来た日のことだった。

検査の結果は良くなかった。

この子の耳は一生聞こえないだろうと、先生は告げた。

親父はすごい剣幕で詰め寄ったという。

どうにかならないのか、と。

それから、少し黙って、こう訊いた。

「声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通に暮らせますか」

親父は、その日から手話を覚えにかかった。

声をかけるのと同じ回数、同じ場面で、手を動かす。

おはよう。飯だぞ。危ないぞ。そっちに行くな。

言葉を覚える前の赤ん坊に、毎日ずっと。

やってみればわかるが、これは片手間でできることではない。

親父は市場の仕事を減らし、夜は手話サークルに通った。

三十を過ぎてから始めて、いちばん下の席に座り続けた。

あとになって、そのサークルを主宰していた杉本さんに会う機会があった。

杉本さんは、親父のことをよく覚えていた。

「お父さん、絶対に前に座らんかったんですよ」

「何回勧めても、いちばん後ろの、しかも斜めの席で」

理由を聞いても、親父は笑って答えなかったという。

俺には見当がついた。

正面から見る手話と、横や下から見る手話は、形が違って見える。

抱かれている赤ん坊が親の手を見る角度は、正面ではない。

親父は、赤ん坊の目に映る形を確かめながら覚えていたのだ。

教室でいちばん効率の悪い席を、わざわざ選んで。

「その無謀な挑戦の結果は、君がいちばんよく知っているはずだ」

先生の手が、そこで一度止まった。

「君のお父さんは、何よりも君の幸せを願っている」

「だから、消えたいなんて言うんじゃない」

涙が止まらなかった。

親父は仕事を削って、俺のためだけに、言葉をもう一つ手に入れたのだ。

俺はそれも知らずに、その手をつかんで揺さぶっていた。

間違っていた。

負けたくないと思った。

親父が負けなかったように。

幸せになろうと、その日に決めた。

親を責めることでしか自分を保てなかった時期のことは、いま思い出しても苦い。母が欠けさせなかった茶碗のように、黙って続けられていたものにこそ、いちばん時間が使われている。

手のひらだけで届く言葉があることを、俺は仕事にしてから毎日思い知っている。岬の灯台と手のひらの声のような伝わり方は、けっして特別なものではない。

遺影の前で、父が上を向いた

いま、俺は手話を教える仕事をしている。

そして春に、結婚が決まった。

俺の耳のことを承知のうえで、まっすぐに好きだと言ってくれた人だ。

彼女は、付き合い始めてすぐに手話を習いに行った。

「あなたに合わせてもらうのは違うと思ったから」

そう言われたとき、俺は返す言葉を探して、結局見つからなかった。

初めて家に連れて行った日、親父はにこにこして手を動かした。

彼女はまだ手話が拙くて、途中で何度も止まった。

そのたびに親父は、待った。

先回りして言葉を継がず、彼女の手が動き出すまで、ただ待っていた。

待たれる側の気持ちを、あの人は誰よりも知っている。

「母さんに報告せんとな」

仏間で線香をあげる親父の肩が、小刻みに揺れていた。

そして遺影を見たまま、親父は初めて、事故の話をした。

俺の耳は、生まれつきではなかった。

事故によるものだった。

俺を抱いて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んだ。

親父は運よく軽傷で、母と俺はひどい状態だった。

俺は一命を取り留め、母は戻らなかった。

最後の時間に、母は親父に言い残したという。

「私の分まで、この子を幸せにしてあげてね」

親父は強く頷いて、約束した。

その数か月後に、俺の耳の異常が見つかった。

「焦ったよ」

親父はそう言った。

「お前が普通に生きられんのやないかと思ってな」

「約束、守れんのやないかと思ってな」

「でもこれで、ようやく果たせたかなあ」

それは手話ではなく、上を向いて、口だけで言われた言葉だった。

それでも、俺にははっきりと届いた。

俺は手話ではなく、声で言った。

「ありがとうございました」

ちゃんと言えていたかはわからない。

親父は大きく肩を揺らして、何度も何度も頷いた。

頷きながら、右手だけを胸の高さで止めていた。

「すまない」と同じ止め方だった。

意味は、たぶん違っていた。

俺には聞けないテープ

テープは、俺には再生する意味がない。

それでも翌朝、俺は親父の前にそれを置いた。

「これは」

親父は湯呑みを持ったまま、少し困った顔をした。

それから、湯呑みを置いて、両手を空けた。

うちでは、話すときに手を空ける。

「母さんの声や」

入院しているあいだに、看護師さんが録ってくれたものだという。

生まれてくる子に聞かせるつもりで、母は吹き込んだ。

そのあとで、俺の耳のことがわかった。

「聞かせられんようになってしもた」

親父はそう言って、少し笑った。

「聞いたことあるの」

「年に一回だけな」

母の命日の夜に、一度だけ再生する。

それ以外は、引き出しの奥に戻す。

「何回も聞いたら、擦り切れるやろ」

テープの話をしているのだと、俺は最初思った。

擦り切れる、と親父は言った。

だが年に一度なら、テープはそう簡単に擦り切れない。

擦り切れるのを恐れていたのは、たぶん、自分のほうだ。

毎日聞けば、いつか母の声を「音」として聞き流すようになる。

親父はそれを、自分に許さなかったのだと思う。

その日、俺はもう一度ノートを一冊目から見直した。

一冊目の裏表紙に、まだ見ていないページがあった。

そこには、同じ一語だけが、何十通りも描いてあった。

手の形を少しずつ変えて、下に短い書き込みがある。

「これやと、かたい」

「これやと、よその子に言うみたいや」

「もっと、近い言い方」

描かれていたのは「しあわせ」だった。

最後の一つには、丸が打ってあった。

その形は、俺が子どもの頃から見てきた形と同じだった。

親父はもう何十年も、その一語だけを、決めた形で使い続けている。

母が最後に親父に言い残した、あの一言のなかの一語だ。

親父は、母の言葉をそのまま俺に渡すための形を、三十年探していた。

俺は仏間に戻って、親父に訊いた。

「なんで見せんかったが」

親父はしばらく黙っていた。

それから、ゆっくり手を動かした。

「約束のために育てたんやと、お前に思わせたないやろ」

俺はその意味が、すぐにはのみ込めなかった。

のみ込めてから、また泣いた。

親父はたぶん、俺が生まれたときから、ずっと同じことを恐れていた。

この子が、自分は誰かの約束の続きなのだと思ってしまうこと。

母の遺言は、親父にとっては支えだったかもしれない。

だが息子にとっては、重りになりうる。

親父はその重りを、三十年、自分だけで持っていた。

「これは、母さんと俺の宿題やから」

「宿題は、終わったが」

俺がそう訊くと、親父は首を横に振った。

「終わらんほうがええやろ」

そう言って、親父はノートを閉じた。

閉じた表紙を、手のひらで一度だけ押さえた。

指の付け根が硬い理由

その夜、俺は仏間に残って、遺影の下の引き出しを開けた。

子どもの頃に見て、��られた引き出しだった。

入っていたのは、大学ノートが何冊もと、古いカセットテープが一本。

テープには、母の字でも親父の字でもない、病院の事務のような字があった。

日付だけが書いてある。

母が入院していた時期のものだった。

ノートは全部、手話の練習帳だった。

表紙に通し番号が振ってある。

いちばん古いものは、表紙の色が抜けて何色だったかもわからない。

俺はそれを畳に並べた。

三十冊を超えたところで、数えるのをやめた。

一ページに一語ずつ、手の形を鉛筆で描いて、その下に日付が入っている。

初めのほうの絵は、指の本数さえ合っていない。

市場の伝票の裏に描かれたものもあった。

紙が波打っているページが何枚もあった。

市場から帰ってすぐ、手を拭ききらずに書いたのだろう。

俺は一冊ずつめくって、あることに気づいた。

語の並びが、五十音順でも、教本の順でもない。

いちばん最初のページは「あぶない」だった。

次が「まって」、その次が「こっち」。

親父が最初に覚えたのは、挨拶ではなかった。

俺を止めるための言葉から覚えていた。

ノートの何冊目かで、日付が一年ぶん飛んでいた。

飛んだ先の最初のページには、手の絵の代わりに、走り書きが一行だけあった。

「今日は手が動かんかった」

その日付は、俺が親父の胸ぐらをつかんだ日だった。

その日、親父は俺に何も言わなかった。

俺は自分の部屋で、壊した茶碗の欠片を集めもせずに寝た。

翌日から、また手の絵が始まっていた。

飛んでいたのは、たった一日だった。

ノートの途中には、市場の仲間の名前が書いてあるページもあった。

魚の名前の手話を、その人たちに聞かれて教えていたらしい。

親父は、自分が覚えたぶんを、周りにも配っていた。

俺が寄宿舎から帰る週末に、店先で誰かが下手な手話をしてくることがあった。

あれは、そういうことだったのだ。

いちばん下の一冊は、ほかより新しかった。

日付は、俺が手話を教える仕事に就いたあとのものだ。

そこに描かれていたのは、俺の癖のついた手話だった。

教本にはない、俺だけの崩し方。

親父は、いまも覚え直していた。

息子の言葉が変わっていくのに、遅れないように。

ノートの最後のページに、母の名前で一行あった。

「今日も、この子はよう笑うとった」

手話の練習帳は、母への報告帳でもあった。

親父は三十年、毎日、母に返事を書いていたことになる。

俺は、自分の手のひらを見た。

指の付け根の、硬いところ。

親父の手の、同じ場所。

親父の手が硬かったのは、市場で荷を持っていたからではなかった。

俺の言葉を、毎日、同じ形に作り続けたからだった。

式には親父を呼ぶ。

手話通訳は頼まない。

親父が自分の手で、母に報告できるようにしておきたいからだ。

その日、俺は上を向かない。

親父の手を、まっすぐ見ている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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