
俺には母親がいない。
俺を産んですぐ、事故で死んでしまったらしい。
産まれた時から耳が聞こえなかった俺は、物心ついた時にはもう、簡単な手話を使っていた。
耳が聞こえないことで、俺は随分と苦労した。
普通の学校には行けず、障害者用の学校で学童期を過ごした。
片親だったせいもあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから、何を言われたかは覚えていない。
ただ、あの見下すような、馬鹿にしたような顔は、今でも鮮明に覚えている。
その時は、自分がなぜこんな目に遭うのか理解できなかった。
しかし、やがて障害者であることが理由だと知り、俺は心を塞ぎ込んだ。
思春期のほとんどを、家の中で過ごすようになった。
自分に何の非もないのに、不幸な目に遭うことが悔しくて仕方がなかった。
だから俺は父親を憎んだ。
そして、死んだ母親すら憎んだ。
なぜ、こんな身体に産んだのか。
なぜ、普通の人生を俺にくれなかったのか。
手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えてぶつけた。
時折爆発する俺の気持ちに、父は抵抗せず、ただただ涙を流しながら、
「すまない」
と手話で言い続けていた。
その頃の俺は、何もやる気が起きず、荒んだ生活を送っていた。
※
そんな生活の中で、唯一の理解者がいた。
それが、俺の主治医だった。
俺が産まれた後、耳が聞こえないとわかった時から、ずっと診てくれていた先生だ。
俺にとっては、もう一人の親のような存在だった。
何度も、悩み相談に乗ってくれた。
父親を傷つけてしまった時も、優しい目で、何も言わずに話を聞いてくれた。
咎めるでもなく、慰めるでもなく、ただ静かに受け止めてくれる先生が、大好きだった。
※
ある日、どうしようもなく傷つく出来事があった。
泣いても泣き切れない、悔しくてたまらない経験だった。
俺はまた、先生のもとを訪ねた。
長い愚痴のような相談を続ける中で、多分、
「死にたい」
という想いを手話で表した時だったと思う。
突然、先生が怒り出した。
そして、俺の頬を思い切り殴った。
びっくりして顔を上げると、さらに驚いた。
先生が泣いていた。
そして、震える手で、静かに話し始めた。
※
ある日、父親が赤ん坊の俺を抱えて、先生のもとにやってきたという。
検査結果は最悪で、俺の耳が一生聞こえないだろうと告げたという。
父親は、どうにかならないかと凄い剣幕で詰め寄ったらしい。
そして、先生が俺に語った。
「君は不思議に思わなかったかい。物心ついた時には、もう手話を使えていたことを」
確かに、俺は特別に手話を習った覚えはない。
じゃあ、なぜ…。
「君の父親はね、こう言ったんだ。
『声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通の生活を送れますか』と」
驚いた。
小さい頃から手話を自然に覚えられるように、父親は声をかけるように手話を使い続けたのだ。
それは簡単なことではない。
全てを投げ捨てて、手話の勉強に専念しなければできないことだった。
先生は続けた。
「その無謀な挑戦の結果は、君が一番よく知っているはずだよ。
君の父親はね、何よりも君の幸せを願っているんだ。
だから、死にたいなんて言っちゃ駄目だ」
涙が止まらなかった。
父さんは、その時していた仕事を捨て、俺のためだけに手話を覚えたのだ。
俺はそんなことも知らず、父親を馬鹿にしていた。
間違っていた。
父さんは、誰よりも俺の苦しみを知り、誰よりも俺の悲しみを知り、そして誰よりも俺の幸せを願ってくれていた。
濡れる頬を拭うこともせず、俺は泣き続けた。
そして、父さんに暴力を振るった自分自身を心底憎んだ。
なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。
父さんは、俺の親だったのに。
耳が聞こえないことに負けたくない。
父さんが負けなかったように。
幸せになろう。
そう、心に決めた。
※
現在、俺は手話を教える仕事をしている。
そして、春には結婚も決まった。
俺の障害を理解した上で、愛してくれる最高の人だ。
父さんに紹介すると、にこやかに、
「母さんに報告しなきゃな」
と言った。
でも、遺影に向かい線香をあげる父さんの肩は、小刻みに震えていた。
そして、遺影を見つめたまま、静かに話し始めた。
※
俺の障害は、先天的なものではなかった。
事故によるものだったらしい。
俺を連れて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んできたのだ。
運良く父さんは軽症で済んだが、母さんと俺は酷い状態だった。
俺は何とか一命を取り留めたが、母さんは回復せず、命を落とした。
母さんは、最後の瞬間に父さんへ遺言を残したという。
「私の分まで、この子を幸せにしてあげてね」
父さんは、強く頷いて、約束した。
しかし、やがて俺に異常が見つかった。
父さんは語った。
「焦ったよ。お前が普通の人生を歩めないんじゃないかって。約束を守れないんじゃないかってなぁ。
でもこれでようやく、約束…果たせたかなぁ。なぁ、母さん」
それは手話ではなく、上を向きながら、静かに呟かれた言葉だった。
でも、俺にははっきりと伝わった。
涙を溢れさせながら、俺は父さんに向かって、手話ではなく声で言った。
「ありがとうございました!」
耳が聞こえない俺に、ちゃんと言えたかはわからない。
けれど父さんは、大きく肩を揺らしながら、何度も何度も頷いてくれた。
※
父さん、天国の母さん、そして先生。
ありがとう。
俺、今、本当に幸せだよ。