父の練習帳は挨拶から始まっていなかった

父の練習帳は挨拶から始まっていなかった

俺の手は、人より少しだけ、指の付け根が硬い。

手話を仕事にしているせいだと、周りは思っている。

違う。

親父の手が、そうだったからだ。

同じ形に動かしているうちに、同じところが硬くなった。

その硬さの意味を、俺はずいぶん長いあいだ知らずにいた。

※

母のいない家と、最初から使えていた手話

俺に母親の記憶はない。

俺を産んですぐ、事故で亡くなったと聞かされて育った。

耳は、物心ついたときからほとんど聞こえない。

不思議だったのは、その物心ついた頃には、もう簡単な手話を使えていたことだ。

誰かに習った覚えがない。

気づいたら、そこにあった。

言葉というのはそういうものだと、俺は疑いもしなかった。

寄宿舎で一緒だった遠山に、一度だけ言われたことがある。

遠山の親は手話ができず、家では筆談だった。

「お前、家で喋れるんやろ」

「喋れるけど」

「ええな」

それだけの会話だった。

俺はそのとき、何を羨ましがられているのかわからなかった。

家に帰れば言葉が通じる。

そんなものは、空気みたいに当たり前だと思っていた。

当たり前にするために、誰かが仕事を減らしていたなどとは、考えもしない。

家は、静岡の富士宮にあった。

親父は市場の仲卸で、朝が早く、夜はいつも先に寝ている人だった。

台所に、食器がいつも二人分だけ伏せてあった。

親父は俺に背を向けて飯を作り、こちらを向いてから口を動かす。

今にして思えば、あれは全部、俺に唇を見せるための向き直りだった。

台所の蛍光灯だけが、家じゅうでいちばん明るかった。

手が見えないと、うちでは会話にならないからだ。

※

俺は地元の学校には行けず、静岡の聾学校の寄宿舎に入った。

金曜の夕方に親父が軽トラで迎えに来て、日曜の夜に送ってくる。

片道で一時間半かかる。

市場の朝は三時起きだから、日曜の夜の運転は相当きつかったはずだ。

信号で止まるたび、親父は必ずこちらを向いて何か言った。

暗い車内では手も唇も見えないのに、それでも向いた。

俺はうるさそうに窓のほうを見ていた。

近所の子には、よく囃された。

何を言われたかは、当然、わからない。

ただ、あの顔だけは覚えている。

神社の石段のところで囲まれたことがある。

一人が俺の手をつかんで、勝手に動かして、みんなで笑った。

手話をふざけて真似されるのは、言葉をふざけて真似されるのと同じだ。

そのことを説明する言葉を、俺はまだ持っていなかった。

口の端を持ち上げて、こちらを見て、隣の子と顔を見合わせる、あの動き。

音が聞こえないぶん、顔だけが焼きつく。

片親で、耳が聞こえない。

その二つが理由らしいと知ったのは、もう少し大きくなってからだ。

知った日から、俺は家に籠もった。

思春期のほとんどを、六畳の部屋で過ごした。

※

自分に何の落ち度もないのに、こうなっている。

その理不尽を、俺はいちばん近くにいる人間にぶつけた。

親父を憎んだ。

顔も知らない母のことまで憎んだ。

なぜこんな体に産んだのか。

なぜ普通の人生をくれなかったのか。

手話では言い足りない分を、俺は物と体で表した。

茶碗を投げた。壁を蹴った。親父の胸ぐらをつかんだ。

親父は一度も抵抗しなかった。

床に座り込んだまま、涙を流して、同じ手話を繰り返した。

「すまない」

その手だけが、俺の目の前でずっと動いていた。

「すまない」を作るとき、親父は必ず一度、手を胸の高さで止めた。

教本ではそこで止めない。

俺はその止め方を、憎むほど覚えてしまった。

※

先生が、初めて俺を殴った日

そんな時期に、俺には一人だけ、逃げ込める場所があった。

主治医の田名部先生だ。

俺が生まれてすぐ、耳のことがわかったときから診てくれている人だった。

先生は手話ができた。

耳鼻科の医者が全員できるわけではない。

あとで知ったことだが、先生が手話を覚えたのも、親父が診察室に来たあとだった。

患者の父親に「僕が覚えます」と言われて、医者のほうが黙っていられなくなったらしい。

それも、教科書どおりの手話ではなく、俺の癖に合わせた崩し方をした。

診察の予約もないのに、俺は病院の待合の隅によく座っていた。

先生は仕事の合間に出てきて、何も言わずに向かいに座る。

咎めもせず、慰めもせず、ただ受け止める。

俺にとっては、もう一人の親のような人だった。

先生は、俺が親父の悪口を言っても、一度も庇わなかった。

庇えば、俺が話しに来なくなると知っていたのだと思う。

その代わりに、たった一度だけ、あの日に殴った。

※

ある日、学校でどうしようもなく傷つくことがあった。

内容はここには書かない。

ただ、悔しくて、悔しさの持って行き場がなかった。

俺はその足で病院に行き、待合の隅で先生に長い愚痴をこぼした。

途中で、たぶん俺は、消えてしまいたいという意味の手話をした。

そこから先は、一瞬だった。

先生が立ち上がって、俺の頬を打った。

驚いて顔を上げて、もっと驚いた。

先生が泣いていた。

あの人が感情を表に出すのを、俺は初めて見た。

先生は震える手で、ゆっくりと話し始めた。

待合のテレビは点いていて、外来の人が何人か座っていた。

それでも先生は、声を使わなかった。

俺にだけ伝わる速さで、手だけを動かした。

※

「君は不思議に思わなかったか」

「物心ついたときには、もう手話を使えていたことを」

思っていた。

ずっと思っていて、そのまま置いてあった。

先生は続けた。

赤ん坊の俺を抱えて、親父が診察室に来た日のことだった。

検査の結果は良くなかった。

この子の耳は一生聞こえないだろうと、先生は告げた。

親父はすごい剣幕で詰め寄ったという。

どうにかならないのか、と。

それから、少し黙って、こう訊いた。

「声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通に暮らせますか」

※

親父は、その日から手話を覚えにかかった。

声をかけるのと同じ回数、同じ場面で、手を動かす。

おはよう。飯だぞ。危ないぞ。そっちに行くな。

言葉を覚える前の赤ん坊に、毎日ずっと。

やってみればわかるが、これは片手間でできることではない。

親父は市場の仕事を減らし、夜は手話サークルに通った。

三十を過ぎてから始めて、いちばん下の席に座り続けた。

あとになって、そのサークルを主宰していた杉本さんに会う機会があった。

杉本さんは、親父のことをよく覚えていた。

「お父さん、絶対に前に座らんかったんですよ」

「何回勧めても、いちばん後ろの、しかも斜めの席で」

理由を聞いても、親父は笑って答えなかったという。

俺には見当がついた。

正面から見る手話と、横や下から見る手話は、形が違って見える。

抱かれている赤ん坊が親の手を見る角度は、正面ではない。

親父は、赤ん坊の目に映る形を確かめながら覚えていたのだ。

教室でいちばん効率の悪い席を、わざわざ選んで。

「その無謀な挑戦の結果は、君がいちばんよく知っているはずだ」

先生の手が、そこで一度止まった。

「君のお父さんは、何よりも君の幸せを願っている」

「だから、消えたいなんて言うんじゃない」

涙が止まらなかった。

親父は仕事を削って、俺のためだけに、言葉をもう一つ手に入れたのだ。

俺はそれも知らずに、その手をつかんで揺さぶっていた。

間違っていた。

負けたくないと思った。

親父が負けなかったように。

幸せになろうと、その日に決めた。

親を責めることでしか自分を保てなかった時期のことは、いま思い出しても苦い。母が欠けさせなかった茶碗のように、黙って続けられていたものにこそ、いちばん時間が使われている。

手のひらだけで届く言葉があることを、俺は仕事にしてから毎日思い知っている。岬の灯台と手のひらの声のような伝わり方は、けっして特別なものではない。

※

遺影の前で、父が上を向いた

いま、俺は手話を教える仕事をしている。

そして春に、結婚が決まった。

俺の耳のことを承知のうえで、まっすぐに好きだと言ってくれた人だ。

彼女は、付き合い始めてすぐに手話を習いに行った。

「あなたに合わせてもらうのは違うと思ったから」

そう言われたとき、俺は返す言葉を探して、結局見つからなかった。

初めて家に連れて行った日、親父はにこにこして手を動かした。

彼女はまだ手話が拙くて、途中で何度も止まった。

そのたびに親父は、待った。

先回りして言葉を継がず、彼女の手が動き出すまで、ただ待っていた。

待たれる側の気持ちを、あの人は誰よりも知っている。

「母さんに報告せんとな」

仏間で線香をあげる親父の肩が、小刻みに揺れていた。

そして遺影を見たまま、親父は初めて、事故の話をした。

※

俺の耳は、生まれつきではなかった。

事故によるものだった。

俺を抱いて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んだ。

親父は運よく軽傷で、母と俺はひどい状態だった。

俺は一命を取り留め、母は戻らなかった。

最後の時間に、母は親父に言い残したという。

「私の分まで、この子を幸せにしてあげてね」

親父は強く頷いて、約束した。

その数か月後に、俺の耳の異常が見つかった。

「焦ったよ」

親父はそう言った。

「お前が普通に生きられんのやないかと思ってな」

「約束、守れんのやないかと思ってな」

「でもこれで、ようやく果たせたかなあ」

それは手話ではなく、上を向いて、口だけで言われた言葉だった。

それでも、俺にははっきりと届いた。

俺は手話ではなく、声で言った。

「ありがとうございました」

ちゃんと言えていたかはわからない。

親父は大きく肩を揺らして、何度も何度も頷いた。

頷きながら、右手だけを胸の高さで止めていた。

「すまない」と同じ止め方だった。

意味は、たぶん違っていた。

※

※

俺には聞けないテープ

テープは、俺には再生する意味がない。

それでも翌朝、俺は親父の前にそれを置いた。

「これは」

親父は湯呑みを持ったまま、少し困った顔をした。

それから、湯呑みを置いて、両手を空けた。

うちでは、話すときに手を空ける。

「母さんの声や」

入院しているあいだに、看護師さんが録ってくれたものだという。

生まれてくる子に聞かせるつもりで、母は吹き込んだ。

そのあとで、俺の耳のことがわかった。

「聞かせられんようになってしもた」

親父はそう言って、少し笑った。

「聞いたことあるの」

「年に一回だけな」

母の命日の夜に、一度だけ再生する。

それ以外は、引き出しの奥に戻す。

「何回も聞いたら、擦り切れるやろ」

テープの話をしているのだと、俺は最初思った。

※

擦り切れる、と親父は言った。

だが年に一度なら、テープはそう簡単に擦り切れない。

擦り切れるのを恐れていたのは、たぶん、自分のほうだ。

毎日聞けば、いつか母の声を「音」として聞き流すようになる。

親父はそれを、自分に許さなかったのだと思う。

※

その日、俺はもう一度ノートを一冊目から見直した。

一冊目の裏表紙に、まだ見ていないページがあった。

そこには、同じ一語だけが、何十通りも描いてあった。

手の形を少しずつ変えて、下に短い書き込みがある。

「これやと、かたい」

「これやと、よその子に言うみたいや」

「もっと、近い言い方」

描かれていたのは「しあわせ」だった。

最後の一つには、丸が打ってあった。

その形は、俺が子どもの頃から見てきた形と同じだった。

親父はもう何十年も、その一語だけを、決めた形で使い続けている。

母が最後に親父に言い残した、あの一言のなかの一語だ。

親父は、母の言葉をそのまま俺に渡すための形を、三十年探していた。

※

俺は仏間に戻って、親父に訊いた。

「なんで見せんかったが」

親父はしばらく黙っていた。

それから、ゆっくり手を動かした。

「約束のために育てたんやと、お前に思わせたないやろ」

俺はその意味が、すぐにはのみ込めなかった。

のみ込めてから、また泣いた。

親父はたぶん、俺が生まれたときから、ずっと同じことを恐れていた。

この子が、自分は誰かの約束の続きなのだと思ってしまうこと。

母の遺言は、親父にとっては支えだったかもしれない。

だが息子にとっては、重りになりうる。

親父はその重りを、三十年、自分だけで持っていた。

「これは、母さんと俺の宿題やから」

「宿題は、終わったが」

俺がそう訊くと、親父は首を横に振った。

「終わらんほうがええやろ」

そう言って、親父はノートを閉じた。

閉じた表紙を、手のひらで一度だけ押さえた。

※

指の付け根が硬い理由

その夜、俺は仏間に残って、遺影の下の引き出しを開けた。

子どもの頃に見て、��られた引き出しだった。

入っていたのは、大学ノートが何冊もと、古いカセットテープが一本。

テープには、母の字でも親父の字でもない、病院の事務のような字があった。

日付だけが書いてある。

母が入院していた時期のものだった。

ノートは全部、手話の練習帳だった。

表紙に通し番号が振ってある。

いちばん古いものは、表紙の色が抜けて何色だったかもわからない。

俺はそれを畳に並べた。

三十冊を超えたところで、数えるのをやめた。

一ページに一語ずつ、手の形を鉛筆で描いて、その下に日付が入っている。

初めのほうの絵は、指の本数さえ合っていない。

市場の伝票の裏に描かれたものもあった。

紙が波打っているページが何枚もあった。

市場から帰ってすぐ、手を拭ききらずに書いたのだろう。

俺は一冊ずつめくって、あることに気づいた。

語の並びが、五十音順でも、教本の順でもない。

いちばん最初のページは「あぶない」だった。

次が「まって」、その次が「こっち」。

親父が最初に覚えたのは、挨拶ではなかった。

俺を止めるための言葉から覚えていた。

※

ノートの何冊目かで、日付が一年ぶん飛んでいた。

飛んだ先の最初のページには、手の絵の代わりに、走り書きが一行だけあった。

「今日は手が動かんかった」

その日付は、俺が親父の胸ぐらをつかんだ日だった。

その日、親父は俺に何も言わなかった。

俺は自分の部屋で、壊した茶碗の欠片を集めもせずに寝た。

翌日から、また手の絵が始まっていた。

飛んでいたのは、たった一日だった。

※

ノートの途中には、市場の仲間の名前が書いてあるページもあった。

魚の名前の手話を、その人たちに聞かれて教えていたらしい。

親父は、自分が覚えたぶんを、周りにも配っていた。

俺が寄宿舎から帰る週末に、店先で誰かが下手な手話をしてくることがあった。

あれは、そういうことだったのだ。

いちばん下の一冊は、ほかより新しかった。

日付は、俺が手話を教える仕事に就いたあとのものだ。

そこに描かれていたのは、俺の癖のついた手話だった。

教本にはない、俺だけの崩し方。

親父は、いまも覚え直していた。

息子の言葉が変わっていくのに、遅れないように。

ノートの最後のページに、母の名前で一行あった。

「今日も、この子はよう笑うとった」

手話の練習帳は、母への報告帳でもあった。

親父は三十年、毎日、母に返事を書いていたことになる。

※

俺は、自分の手のひらを見た。

指の付け根の、硬いところ。

親父の手の、同じ場所。

親父の手が硬かったのは、市場で荷を持っていたからではなかった。

俺の言葉を、毎日、同じ形に作り続けたからだった。

※

式には親父を呼ぶ。

手話通訳は頼まない。

親父が自分の手で、母に報告できるようにしておきたいからだ。

その日、俺は上を向かない。

親父の手を、まっすぐ見ている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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