母が遺したフィルム

母が遺したフィルム

母がカメラを買ったと電話で聞いたのは、雪のちらつく三月のことでした。

港町の実家を離れ、私が都会の小さな割烹で包丁を握るようになって、もう十二年が経っていました。

「リサイクルショップでね、すごく安くなってたから」

受話器の向こうの母は、子どものようにはしゃいでいました。

買ったのは、誰かが手放した古いフィルムカメラだったそうです。

デジタルでもスマートフォンでもなく、わざわざフィルムを入れて、指で巻き上げる、あの旧式の機械でした。

「写したらね、駅前のお店で現像してもらうんだって。面白いでしょう」

機械が苦手な母が、よりによって一番手のかかる道具を選んだことに、私は内心あきれていました。

「スマホで撮ればいいじゃないか。いまどき、誰もフィルムなんて使わないよ」

「だって、あんたが昔くれたスマホ、難しくて。これは、押すだけだから」

押すだけ、と母は言いましたが、その押すだけの一枚に、お金も手間もかかるのです。

私はそのとき、母の声の奥に滲んでいた淋しさに、まるで気づいていませんでした。

「現像できたら、見せてあげる」

「いいよ、別に。忙しいから」

そう言って、私は電話を切りました。

窓の外では、湿った春の雪が、音もなく積もっていました。

※

思えば母は、ずっと一人でした。

父は私が高校二年の冬に、時化の海で亡くなりました。

小さな漁船ごと、波にさらわれたのです。

それからは、母が女手ひとつで、私を育ててくれました。

父が遺した港町の小さな食堂を、母は一人で切り盛りしました。

朝の暗いうちから市場へ通い、その日揚がった魚をさばき、夜は遅くまで洗い物をしていました。

割烹着の袖はいつも濡れていて、手の甲はあかぎれだらけでした。

冬になると、その割れ目に血が滲んでいるのを、私は何度も見ました。

「痛くないの?」

「慣れたよ。これがお母さんの勲章」

母はそう言って、笑っていました。

私が料理の道に進んだのは、たぶん、あの働く母の背中を見て育ったからです。

高校を出て、私は都会の料理屋に住み込みで入りました。

母は反対しませんでした。

ただ、駅のホームで、いつまでも手を振っていました。

その姿を、私は窓越しに、わざと見ないふりをしました。

照れくさかったのです。

いま思えば、あれが、母をきちんと見た最後だったような気もします。

思い返せば、写真にまつわる記憶が、ひとつだけありました。

父がまだ生きていた頃、港で一度だけ、家族三人で写真を撮ったことがあります。

通りすがりの観光客に頼んで、防波堤を背に並んだ、たった一枚でした。

父が亡くなったあと、母はその写真を、茶の間の柱に、ずっと飾っていました。

母の煮付けには、いつも、たっぷりの生姜がきいていました。

子どもの頃、熱を出して寝込んだ夜、母は枕元に、湯気の立つ白い粥を運んでくれました。

「ゆっくりお食べ。逃げやしないから」

あの声を、あの手のひらの温かさを、私はいつのまにか、当たり前のものだと思い込んでいました。

当たり前のものほど、失って初めて、その重さに気づくのだと思います。

「写真はね、その人がいなくなっても、そこに残るから」

幼い私に、母はそう言ったことがあります。

あのとき母は、もう、知っていたのかもしれません。

形に残しておかなければ、いつか消えてしまうものがある、ということを。

※

都会での修業は、厳しいものでした。

朝は誰よりも早く厨房に立ち、夜は片づけが終わるまで帰れません。

何年もかけて、私はようやく自分の店を持ちました。

けれど店を持てば持ったで、毎日は数字と仕込みに追われました。

実家へ帰るのは、年に一度か二度になっていました。

帰っても、長くて二泊。

母が何か話しかけても、私は「悪い、店に電話しなきゃ」と、途中で遮ってばかりでした。

それでも母は、私が帰ると必ず、私の好きな金目鯛の煮付けを炊いて待っていてくれました。

甘辛い醤油の匂いと、湯気の立ちのぼる狭い台所。

それが私にとっての、ただひとつの、実家の匂いでした。

「もっと、ゆっくりしていけばいいのに」

「うん、また今度な」

その「また今度」を、私は何度、口にしただろうと思います。

※

フィルムカメラを買ってから、母は、ことあるごとに写真を撮るようになりました。

帰省するたび、玄関で靴を脱ぐ間もなく、母はあのカメラを構えました。

「ちょっと、こっち向いて」

「やめてよ、撮らないで。疲れた顔してるんだから」

私は手のひらで、荒れた顔を隠しました。

母が写すのは、台所に立つ私の背中。

庭の山茶花。縁側で丸くなる、近所の三毛猫。錆びついた郵便受け。

どこにでもある、なんでもないものばかりでした。

「そんなつまらないもの撮って、もったいない。フィルム代がかかるんだろ」

私がそう言っても、母はただ笑って、またシャッターを切りました。

巻き上げる、ジ、ジ、という小さな音が、換気扇の音にまぎれていたのを、いまでも覚えています。

「お母さん、写真館でも開くつもり?」

「そんなんじゃないよ。ただね、撮っておきたいだけ」

何を、とは聞きませんでした。

聞いておけばよかったと、いまになって、悔やんでいます。

台所のガラス窓に、私と母が並んで映っていたのを、ふと思い出します。

あのとき振り返って、母の顔を、まっすぐ見ていれば。

※

その年の盆に帰省したとき、母は現像したばかりの写真を、嬉しそうに差し出しました。

「ほら、これ。よく撮れてるでしょう」

そこには、いつかの私の、台所での後ろ姿が写っていました。

「なんで、こんなの撮るんだよ。私ばっかりじゃないか」

「だって、あんたが来ないと、撮るものがないんだもの」

母は、冗談めかして笑いました。

私は、その笑いの奥にあるものを、深く考えようとしませんでした。

「いらないよ、こんなの」

そう言って、私はその一枚を、ちゃぶ台の隅へ押しやりました。

母は何も言わずに、その写真を、そっとエプロンのポケットにしまいました。

いま思えば母は、私の帰らない日々を、シャッターを切ることで、埋めていたのかもしれません。

※

その年の夏のはじめ、母から電話がありました。

「フィルムってね、最後まで撮らないと、お店に出せないんだって。あと何枚かしらねえ」

「知らないよ、説明書に書いてあるだろ」

ちょうど店が立て込む時間で、私の声は、自分でもわかるほど刺々しくなっていました。

「それより、もういい歳なんだから、無駄遣いしないでよ。つまらないものばっかり撮ってるからだろ」

言ってしまってから、しまった、と思いました。

少しの沈黙のあと、母は小さな声で言いました。

「……そうね。ごめんね、忙しいのに」

その「ごめんね」が、妙に耳に残りました。

謝らせるつもりなど、なかったのです。

ただ私は疲れていて、母の淋しさを受け止めるだけの余裕を、どうしても持てませんでした。

電話を切ったあと、火にかけた出汁が吹きこぼれて、私は誰にともなく舌打ちをしました。

「また今度、ちゃんとかけ直そう」

そう思ったまま、私は母のことを、忙しさの隅に押しやってしまいました。

その「また今度」が来ることは、二度と、ありませんでした。

※

母が倒れたという報せは、木枯らしの吹く十一月に届きました。

食堂の常連だった、隣の魚屋のおばさんからの電話でした。

「あんた、すぐ帰っといで。お母さん、店で倒れて」

新幹線と電車を乗り継いで駆けつけたときには、もう、言葉を交わすことはできませんでした。

病室の窓から、生まれ育った港の灯りが、涙でにじんで見えました。

潮の匂いがしました。

子どもの頃、毎日吸っていたはずのその匂いを、私はずいぶん長いあいだ、忘れていたことに気づきました。

母の手を握ると、あの、あかぎれだらけの手は、驚くほど冷たく、そして小さくなっていました。

「ごめん」と、私は言いました。

「もっと、帰ればよかった。もっと、話を聞けばよかった」

返事は、ありませんでした。

ただ、指先がかすかに動いて、握り返してくれたような気が、いまでもしています。

その夜、母は静かに息を引き取りました。

窓の外で、港の灯台が、ゆっくりと光を回していました。

※

※

通夜の晩、私の知らない人たちが、たくさん訪ねてきました。

「お母さんには、ほんとうにお世話になってねえ」

食堂の常連だったという年配の漁師が、節くれだった手で、私の手を握りました。

「あんたが小さい頃の話、よう聞かされましたよ」

漁師町の人々は、母の食堂で温かい飯を食べてから、暗い海へ出ていったのだそうです。

時化で船が出せない日には、母は売れ残りの魚で、こっそり煮付けをふるまっていたといいます。

「お代はいいから、食べていきな。母さん、いつもそう言ってねえ」

私の知らない母が、そこには、たくさん、いました。

私は結局、母のことを、ほとんど何も知らなかったのだと思いました。

知ろうとして来なかった年月の重さが、線香の煙とともに、ゆっくりと胸に沈んでいきました。

葬儀が終わり、誰もいなくなった実家で、私はひとり、遺品を片づけました。

欠けた湯呑み。きれいに畳まれた割烹着。

私が小学校で使った連絡帳まで、母は捨てずに取ってありました。

連絡帳の隅に、子どもの私が書いた「おかあさん、いつもありがとう」という拙い字が、そのまま残っていました。

その下に、母の字で、小さく「こちらこそ、ありがとう」と、書き添えてありました。

いつ書いたものか、わかりません。

私は、その連絡帳を、しばらく胸に抱えていました。

そして、茶の間の簞笥の引き出しの奥から、あのフィルムカメラが出てきました。

布巾でていねいにくるまれて、まるで宝物のように、しまわれていました。

中には、撮りかけのフィルムが、まだ入ったままでした。

私はそのカメラを、しばらく手のひらで包んでいました。

ジ、ジ、と、巻き上げの音だけが、誰もいない家に、ぽつんと響きました。

※

四十九日が過ぎて、私は、母が遺した食堂を畳む手続きに行きました。

古い厨房は、母の匂いのまま、時間が止まっていました。

レジの脇の、油で黄ばんだ壁に、一枚の写真が、画鋲で留めてありました。

白い調理服を着て、厨房に立つ、私の写真でした。

いつ撮られたものか、まるで覚えのない一枚です。

その下に、母の字で「自慢の息子です」と、書いてありました。

常連だった、隣の魚屋のおばさんが、後ろから声をかけてきました。

「お母さんね、来るお客さん来るお客さんに、これ見せてたのよ」

「うちの子は、都会で立派な店を持ってるんだって。それはもう、自慢で」

私は、その場に、思わずしゃがみ込んでしまいました。

※

それからしばらくして、私はそのフィルムを、母が通っていたという駅前の写真屋に持って行きました。

「現像、お願いします。母の、撮りかけのもので」

年老いた店主は、フィルムを受け取ると、しばらく私の顔を、じっと見ていました。

「あなた、息子さんね。お母さん、よう来てくれてました」

「母が、ですか」

「ええ。撮るたびにね、嬉しそうに持ってきてね。できあがると、いつも一枚ずつ、わたしに見せてくれてね」

「見せて……何を、ですか」

「息子さんの写真ばっかりでねえ。これがうちの自慢の子なんですって、それは嬉しそうに」

私は、何も言えませんでした。

数日後、私は、仕上がった写真の束を受け取りました。

店の駐車場で、立ったまま、震える手で封を開けました。

一枚目は、台所に立つ私の背中でした。

二枚目も、三枚目も、私でした。

帰省するたび、私が嫌がって隠したはずの顔。

居間でうたた寝してしまった寝顔。庭でぼんやり煙草を吸う横顔。

母の手料理を、無言でかきこんでいる、不機嫌そうな食べる姿。

どれもこれも、私が「つまらない」と言って撮らせなかった、私自身の姿ばかりでした。

何十枚もの中に、母自身が写ったものは、ただの一枚も、ありませんでした。

私は一枚ずつ、冷たいアスファルトの上に、並べていきました。

春の写真。夏の写真。秋の写真。

季節がめぐるたびに、母は私の帰りを待ち、私が来ると、レンズを向けていたのです。

私が忘れてしまっていた年月を、母は一枚ずつ、確かに、刻みつけていました。

最後の一枚は、ピントの甘い、暗い写真でした。

夜の居間で、ソファに転がって眠っている、四十を過ぎた私の寝顔。

帰省した晩、酒に酔って先に寝てしまった私を、母はそっと、写していたのでした。

その裏に、母の細い字で、ひとことだけ、書いてありました。

「この子が、わたしのいちばんの宝物」

※

私は駐車場で、立ったまま、声を上げて泣きました。

つまらないものなど、ひとつも、なかったのです。

母にとっては、なんでもない私の毎日こそが、最後まで撮り続けたい、たったひとつの景色だったのです。

押すだけ、と母は言いました。

けれど、その押すだけの一枚に、母は、言葉にできなかった愛を、すべて込めていたのです。

あの夜の電話の「ごめんね」を、私は一生、現像し続けるのだと思います。

いまも私は、自分の店の、誰にも見えない棚のいちばん奥に、あの古いカメラを置いています。

仕込みの手を止めて、ときどき、ジ、ジ、と巻き上げる音を、ひとりで鳴らしてみるのです。

そうすると、台所に立つ私の背中に、いまも母のレンズが、そっと向けられているような気がするのです。

※

写真の束を、私は都会の部屋へ持ち帰りました。

夜、仕事から帰ると、私はその一枚一枚を、何度も、見返しました。

見るたびに、母の声が聞こえてくる気がしました。

こっち向いて。ちょっとだけ。よく撮れてるでしょう。

あんなに鬱陶しいと思っていた言葉が、いまは、どれほど聞きたいことか。

私は結局、母の「ごめんね」に、「ごめん」を返せませんでした。

その代わりのように、私は母の遺したカメラを、毎晩、手に取りました。

ジ、ジ、と巻き上げる音だけが、ひとり暮らしの部屋に、静かに響きました。

※

あれから、三度目の春が来ました。

私はいま、自分の店で、月に一度だけ、金目鯛の煮付けを出しています。

母が私に作ってくれた、あの甘辛い味です。

厨房の、私にしか見えない柱には、二枚の写真を貼っています。

一枚は、港の防波堤で撮った、家族三人の古い写真。

もう一枚は、白い調理服を着た私を、母が「自慢の息子です」と書いて飾っていた、あの一枚です。

金目鯛を炊くとき、私はいつも、その二枚に、目をやります。

「いらっしゃい」

暖簾の向こうから客が入ってくるたび、私は、母が常連に私の写真を見せていた姿を、思い出すのです。

自慢の息子に、私はまだ、なれていないかもしれません。

それでも、母が最後まで向け続けてくれたレンズに、いつか胸を張って写れるように。

そう願いながら、私は今日も、出汁の湯気の向こうで、静かに包丁を握っています。

親というのは、子が思うよりずっと多くを、黙って胸にしまっているものなのかもしれません。

そして子は、それに気づくのが、いつも少しだけ、遅いのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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