台所の付箋は娘の字になった

台所の付箋は娘の字になった

妻へ。

君がいなくなって、二日目の夜だ。

台所の電気を消したあと、どうしても眠れなくて、便箋を広げている。

こんなふうに手紙を書くのは、結婚前に一度きりだった。

あのときも、僕は言いたいことの半分も書けなかった。

今夜も、たぶん同じだ。

書いておかないと、朝が来ない気がした。

さっき、台所の付箋を数えた。

十九枚あった。

「だしパック」「のり」「ゴミは火曜と金曜」「電球の予備はここ」。

君の字で、家じゅうの引き出しに貼ってある。

台所の付箋は、そのうち十一枚だ。

一枚ずつ見ていて、気づいたことがある。

どの付箋も、右下の角が少し折ってあった。

折ってあると、爪が引っかかって剥がしやすい。

君はいつも、剥がす人のことを考えて貼る人だった。

それに気づくのに、僕は十九枚ぶんの時間がかかった。

残りの八枚は、洗面所と玄関と、僕の作業着の棚にあった。

作業着の棚の一枚には「上は二枚 下は三枚」と書いてある。

洗い替えの数だ。

僕は二十年、自分の作業着が何枚あるかを知らずに着ていた。

君は知っていた。

数えて、書いて、貼って、そのことを一度も言わなかった。

まだ高校生だけど、しっかり者の娘を遺してくれて、ありがとう。

あの子は、君に似て、僕よりずっと芯が強い。

昨日の通夜には、寂しくないようにと、たくさんの友達を連れてきてくれた。

焼香の列が途切れないのを見て、君がどれだけ慕われていたかを、僕は初めて知った。

君は、自分のことばかりは話さない人だったから。

通夜の受付で、娘が僕の名刺を並べ替えていた。

参列の方が字を書きやすいようにと、ペンの向きまで直していた。

誰にも教わっていない。

あの子は、君が同じことをしているのを、どこかで見ていたのだと思う。

娘は、弔問の方々に、ひとりひとり、しっかりとお辞儀をしていた。

僕がうまく言葉を返せないでいると、娘がそっと横から挨拶を継いでくれた。

その姿に、僕は何度も君の面影を重ねた。

夜遅く、最後の弔問客を見送ったあと、娘がぽつりと言った。

「ママ、最後まで、わたしのお弁当のことを心配してたんだよ」

病室で君と娘が二人だけでそんな話をしていたことを、僕は知らなかった。

君は、自分の痛みよりも、明日の娘の昼ごはんを案じていたんだね。

あの子は、通夜のあいだ一度も台所に入らなかった。

入ったのは、みんなが帰ったあとだ。

入って、冷蔵庫の扉を開けて、しばらく立っていた。

僕は、声をかけられなかった。

食堂の味噌汁

君と初めて会ったのは、僕が二十二の冬、町の小さな食堂でだった。

僕が頼んだ定食の味噌汁を、隣の席の君が、こぼれそうだと言って僕の前へ寄せてくれた。

ただそれだけのことだった。

それだけのことなのに、僕は次の日から毎日その食堂へ通うようになった。

君は、よく笑う人だった。

僕みたいな口下手な男のどこがよかったのか、今でもわからない。

一度だけ訊いたことがあるね。

君は「困った顔がかわいかったから」と言って、また笑った。

あの食堂は、駅の裏の細い路地にあった。

暖簾が煮しめたような色で、引き戸が最後まで閉まらない。

十二月は、足元から冷えた。

君はいつも、いちばん奥の壁際に座っていた。

定食は日替わりで、火曜だけ魚が二切れついた。

僕が通い始めて一ヶ月経った頃、君が先に口をきいた。

「毎日、飽きませんか」

「飽きません」

それが、僕らの最初の会話だ。

いま思うと、ずいぶん妙な答えを返している。

二度目の会話は、その三日あとだった。

君が箸を落として、僕が拾った。

拾って渡すとき、君が「ありがとうございます」と言った。

その言い方が、他の客への言い方と少し違った。

少し違うことに気づけたのは、僕が毎日そこにいたからだ。

毎日いること以外に、僕にできることは何もなかった。

あの食堂は、五年前に閉まった。

閉まる前の月に、二人で一度だけ行った。

君は同じ席に座って、同じ定食を頼んだ。

店の人は、僕たちを覚えていなかった。

帰り道で君は「覚えてなくていいよ」と言った。

「うちの話だもん」

そのときは、意味がよくわからなかった。

いまは、少しわかる気がする。

二十年のあいだ、僕らの出来事はほとんど、外の誰にも知られていない。

知られていないものを、君は一枚ずつ付箋にして残していったのだと思う。

結婚の報告に行った日、君のお父さんは僕の手を長く見ていた。

工場の油で、爪の際が黒かった。

君はそれを見て「その手が仕事してる手です」と言った。

お父さんは、それで何も言わなくなった。

僕は、あの一言に二十年助けられた。

君のお母さんは、そのとき何も言わなかった。

帰り際に、玄関で僕の背中を一度だけ叩いた。

あの叩き方が、君のとそっくりだった。

いま気づいた。

君の「パパしっかり」は、もとは君のお母さんの手つきだったのだ。

銀の指輪の跡

結婚した頃は、本当にお金がなかった。

六畳一間のアパートで、卓袱台ひとつを挟んで、二人で安い鍋をつついた。

それでも君は、不満をひとつも口にしなかった。

窓辺に小さな植木鉢を並べて、毎朝それに水をやるのが君の楽しみだった。

枯れかけた葉を見つけると、君は鼻歌を歌いながら、丁寧にそれを摘んでいた。

あの鼻歌の節を、僕は今でも、ふとした拍子に口ずさんでしまう。

植木鉢は、三つあった。

青じそと、小さな薔薇と、名前のわからない葉物。

薔薇だけは、二度枯らして三度目に根づいた。

君は枯らすたびに「今度は西日ね」と言って、置き場所を変えた。

理屈ではなく、順番に試す人だった。

その順番の付け方が、いまの付箋と同じなのだと、僕はさっき気づいたところだ。

引っ越しは、二回した。

一度目は、娘が生まれる前の春だ。

荷物が少なくて、軽トラ一台で済んだ。

薔薇の鉢だけ、君が膝に抱えて運んだ。

「揺れると根が切れるから」

そう言って、助手席で両手で持っていた。

二度目の引っ越しのときには、薔薇はもういなかった。

かわりに、玄関に君の名札が出た。

二人の名字が並んだ表札を、君はしばらく毎日拭いていた。

結婚式は、親戚だけのささやかなものだった。

指輪を買う余裕もなくて、僕は安い銀の指輪を何ヶ月もかけて用意した。

それを差し出したとき、君は「一生もの」と言って、左手の薬指にそっとはめた。

銀は柔らかいから、二十年で細くなった。

去年、君の指の付け根に、指輪の幅だけ白い跡がついているのを見た。

日に焼けなかったところだ。

「外したことないからね」

君はそう言って、手を引っ込めた。

病室でも、それだけは外さなかった。

明日、その指輪は君と一緒に送らせてもらおうと思う。

僕のほうは、同じ形のを十年前になくしている。

現場で落として、探さなかった。

君は怒らなかった。

かわりに、その晩の食卓に、僕の茶碗が新しくなっていた。

「片方なくしたら、片方が増えるの」

そう言って笑っていたね。

理屈になっていない。

理屈になっていないのに、僕はそれで救われた。

あの新しい茶碗は、いまも食器棚にある。

縁に細い金の線が入っているやつだ。

君のぶんと対になっていた。

今朝、二つ取ろうとして止まったのは、その線が二本並んで見えたからだ。

線香花火の最後の一本

娘がまだ小さかった頃、夏に一度だけ、三人で海へ行ったね。

安い民宿に泊まって、夜は花火をした。

線香花火が最後の一本になったとき、君は娘を膝に乗せて、火の玉が落ちるのをじっと見ていた。

「きれいだね」と君が言って、娘が「きれいだね」と繰り返した。

あのときの潮の匂いと、君の横顔を、僕は一生忘れない。

高い場所へ家族旅行に連れて行ってやれなかったことだけは、いまも少し心残りだ。

民宿の朝、君は先に起きて、窓を全部開けていた。

潮風が入って、畳が湿って、布団がひやりとした。

娘はまだ寝ていた。

君は「起こさないで」と言って、僕に麦茶を渡した。

三人で行った旅行は、あれ一度きりだ。

一度きりのものほど、細かいところまで残っている。

帰りのバスで、娘は君の膝で寝ていた。

君は窓の外を見たまま、ずっと同じ姿勢だった。

足が痺れただろうに、一度も動かさなかった。

僕は、それを見ていて何も言わなかった。

代われば済む話だ。

代わろうと言えなかった自分のことを、いまでも思い出す。

思えば、君と出会ってからの二十年は、君に支えられてばかりの二十年だった。

小さな町工場で、安い給料で、何度も辞めたくなった。

そのたびに君は、僕の背中をぽんと叩いてこう言ったね。

「パパしっかり」

たった六文字の、君の口ぐせ。

その言葉に、僕は何度、踏みとどまったかわからない。

娘が生まれたとき、僕がおろおろしているあいだも、君は笑って同じことを言った。

あの子が高い熱を出した夜のことを、僕はよく覚えている。

僕はただ右往左往するばかりで、何の役にも立たなかった。

君は一晩じゅう、濡らした手ぬぐいを取り替えながら、あの子の枕元に座っていた。

朝、ようやく熱が下がったとき、君は疲れた顔で、それでも僕に「パパしっかり」と笑った。

あのとき僕は、しっかりしなければならないのは僕のほうだと、心の底から思ったんだ。

工場の朝礼で怒鳴られた日も、君は同じ言葉を使った。

玄関で靴を脱いでいる僕の背中に、台所から声だけが飛んでくる。

「パパしっかり」

顔も見ずに言う日のほうが、よく効いた。

見られていないぶん、こちらも取り繕わなくてよかったからだと思う。

昇進の話を断って、定時で帰れる仕事を選んだときも、君は文句ひとつ言わなかった。

「お金より、三人でごはんを食べる時間のほうが大事」と、君は笑っていた。

おかげで僕は、娘の運動会も授業参観も、一度も欠かさずに行けた。

君が守ってくれていたのは、僕の給料ではなく、家族で過ごす時間そのものだったんだね。

割れ寒天と四十年の嘘という話を読んだことがある。

夫婦には、言わないほうがうまくいく嘘がある、という話だ。

君の嘘は、いつも僕を楽にするほうの嘘だった。

残業で遅くなった日、君は「私も今起きたところ」とよく言った。

台所の鍋は、いつも湯気が立っていた。

起きたところの人が、汁物を温め直しているわけがない。

僕は、二十年その嘘に乗り続けた。

乗り続けたことを、悪いとは思っていない。

乗ることでしか受け取れないものが、家の中にはある。

ただ、一度くらいは「起きて待っててくれたんだね」と言えばよかった。

言えば、君は照れて、たぶん怒った顔をした。

その顔を、もう一度見たかった。

台所の付箋の角

君が病気だとわかったのは、去年の秋だった。

君は、自分のことよりも先に、娘の進路のことを心配していた。

病室のベッドの上で、君は娘の制服の採寸の話や、来年の文化祭の話ばかりしていた。

自分の体のことを、僕の前で弱音として口にしたことは一度もなかった。

僕は週に四日、仕事帰りに病室へ寄った。

面会の終わりは八時で、君はいつも七時半に「もう帰りな」と言った。

帰り道の電車が混むからだ、と言っていた。

本当は、僕が疲れた顔をするのを見たくなかったのだと思う。

娘は、土曜の昼に来ていた。

僕のいない時間に、二人でどんな話をしていたのかを、僕はほとんど知らない。

いま思えば、台所の付箋が増え始めたのも、あの秋からだ。

最初は「だしパック」の一枚だけだった。

次に「のり」が貼られ、そのあとに「娘の月謝は毎月25日」が増えた。

僕は、君が物忘れをするようになったのだと思っていた。

違ったんだね。

君は、僕が困る順番に貼っていた。

いちばん最初に困るのが出汁で、いちばん最後に困るのが月謝だ。

順番まで考えて、君は一枚ずつ貼っていったのだ。

「電球の予備はここ」の付箋は、いちばん最後に貼られている。

糊の縁がまだ白い。

その一枚を貼るとき、君はもう腕を上げるのがつらかったはずだ。

台所の踏み台が、流しの前に出したままになっていた。

僕は、片づけるのを忘れているのだと思っていた。

踏み台は、いまも同じ場所にある。

僕は昨日、初めてその上に乗った。

乗って、棚のいちばん上に手を伸ばした。

君の背では、あそこまで届かなかったはずだ。

届かないところに貼った付箋は、一枚もなかった。

届く範囲だけで、君は家じゅうの段取りを残していったのだ。

最後の入院の朝、君は僕の手を握って、いつもより小さな声で言った。

「あの子のこと、お願いね」

そして、消え入りそうな声で、もう一度だけ。

「パパ、しっかり」

僕は、うなずくのが精一杯で、何も気の利いたことを返せなかった。

あのとき、もっと違う言葉をかけられなかったことを、いまも悔やんでいる。

病室の窓から、駐車場の桜が見えた。

君は「あれ、来年も咲くね」と言った。

僕は「咲くよ」としか言えなかった。

君は、それで納得したように目を閉じた。

納得したのではなく、僕に言わせたかったのだと、いまはわかる。

あの日の帰り、僕は駐車場の桜の下で少し立っていた。

枝の先に、小さな芽がもう出ていた。

来年も咲くのは本当だ。

本当のことを言っただけなのに、あんなに苦しかったのは初めてだった。

二つ目の茶碗

君がいなくなってからの台所は、勝手がわからないことだらけだ。

味噌汁の出汁の取り方も、娘の弁当の詰め方も、僕は何ひとつ知らなかった。

今朝、茶碗を出そうとして、戸棚の前で手が止まった。

いつもの癖で、君のぶんの茶碗まで、二つ取ろうとしていた。

一つだけ戻すのに、ずいぶん長い時間がかかった。

君の鏡台には、僕の知らない小さなノートもあった。

娘の成長の記録が、几帳面な字でびっしりと綴られていた。

初めて歩いた日。

初めて「パパ」と言った日。

運動会で転んでも泣かなかった日。

僕は稼ぐことばかりに気を取られて、そのほとんどを見過ごしていた。

ノートの最後のページは、去年の秋で終わっていた。

そこだけ、字が大きい。

「弁当箱 新しいのに替える」とだけ書いてある。

替えた弁当箱は、いま食器棚の下の段にある。

娘は、今朝それを使った。

中身は、僕が詰めた。

玉子焼きは、少し焦げた。

昨日の夜、娘と二人、声を上げて泣いてしまった。

父親なんだから、あの子の前では泣くまいと決めていたのに。

泣き止んだあと、娘が、濡れた目で僕の背中をぽんと叩いたんだ。

そして、君と同じ声で「パパしっかり」と言った。

その瞬間、僕は息が止まりそうになった。

君の口ぐせは、ちゃんとあの子に受け継がれていた。

あの子は、そのあと自分の部屋に戻って、しばらく降りてこなかった。

僕は流しの前で、水を出しっぱなしにしたまま立っていた。

止めたのは、階段を下りてくる足音が聞こえたときだ。

そして今朝のことだ。

出汁パックの缶の横に、見たことのない付箋が一枚増えていた。

「おみそしるは よわびで」

娘の字だった。

昨日の夜のうちに貼ったのだろう。

僕はそれを剥がそうとして、指を止めた。

角の折り方まで、同じだった。

右下だけを、爪の幅で小さく折ってある。

君が娘にそれを教えたところを、僕は一度も見ていない。

教わらずに、あの子は同じ折り方をしていた。

台所の付箋は、これで二十枚になった。

僕は、しばらく一枚も剥がさないでおくつもりだ。

剥がさないまま、増えていくのだと思う。

それでいいのだと、いまは思える。

君は、家の中に君の字を残して行ったのではない。

君の貼り方を、あの子に残して行ったのだ。

明日は、ちゃんと背筋を伸ばして、君を送り出す。

出汁は、弱火で取る。

薄い味噌汁を、少しずつ君の味に近づけていくよ。

理容椅子はまだ半回転するのように、この家にも、君のぶんだけ動き続けているものがある。

それを止めないでおくのが、僕の仕事だ。

ダメなパパより。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。