妻へ。
君がいなくなって、二日目の夜だ。
台所の電気を消したあと、どうしても眠れなくて、こうして便箋を広げている。
こんなふうに手紙を書くのは、結婚前に一度きりだったと思う。
あのときも、僕は言いたいことの半分も書けなかった。
今夜も、たぶん同じだ。
それでも、書いておかないと、朝が来ない気がした。
※
まだ高校生だけど、しっかり者の一人娘を遺してくれて、ありがとう。
あの子は、君に似て、僕よりずっと芯が強い。
昨日の君のお通夜には、寂しくないようにと、たくさんの友達を連れてきてくれた。
焼香の列が途切れないのを見て、君がどれだけ慕われていたかを、僕は初めて知ったよ。
君はいつも、自分のことばかりは話さない人だったから。
娘は、弔問の方々に、ひとりひとり、しっかりとお辞儀をしていた。
僕がうまく言葉を返せないでいると、娘がそっと横から、母に代わって挨拶を継いでくれた。
その姿に、僕は何度も、君の面影を重ねた。
夜遅く、最後の弔問客を見送ったあと、娘はぽつりと言った。
「ママ、最後まで、わたしのお弁当のことを心配してたんだよ」
病室で君と娘が、二人だけでそんな話をしていたことを、僕は知らなかった。
君は、自分の痛みよりも、明日の娘の昼ごはんを案じていたんだね。
君と初めて会ったのは、僕が二十二の冬、町の小さな食堂でだった。
僕が頼んだ定食の味噌汁を、隣の席の君が、こぼれそうだと言って僕の前へ寄せてくれた。
それだけのことだったのに、僕は次の日から、毎日その食堂へ通うようになった。
君は、よく笑う人だった。
僕みたいな口下手な男のどこがよかったのか、今でも分からない。
一度だけ訊いたことがあるね。
君は「困った顔がかわいかったから」と言って、また笑った。
※
結婚した頃は、本当にお金がなかった。
六畳一間のアパートで、卓袱台ひとつを挟んで、二人で安い鍋をつついた。
それでも君は、不満をひとつも口にしなかった。
窓辺に小さな植木鉢を並べて、毎朝それに水をやるのが、君の楽しみだった。
枯れかけた葉を見つけると、君は鼻歌を歌いながら、丁寧にそれを摘んでいた。
あの鼻歌の節を、僕は今でも、ふとした拍子に口ずさんでしまう。
※
結婚式は、親戚だけのささやかなものだった。
指輪を買う余裕もなくて、僕は安い銀の指輪を、何ヶ月もかけて少しずつ用意した。
それを差し出したとき、君は「一生もの」と言って、左手の薬指にそっとはめた。
その指輪は、今も君の手に光っている。
明日、それだけは外さずに、君と一緒に送らせてもらおうと思う。
※
娘がまだ小さかった頃、夏に一度だけ、三人で海へ行ったね。
安い民宿に泊まって、夜は花火をした。
線香花火が最後の一本になったとき、君は娘を膝に乗せて、火の玉が落ちるのをじっと見ていた。
「きれいだね」と君が言って、娘が「きれいだね」と繰り返した。
あのときの、潮の匂いと、君の横顔を、僕はきっと一生忘れない。
高い場所へ家族旅行に連れて行ってやれなかったことだけは、今も少し、心残りだ。
※
思えば、君と出会ってからの二十年は、君に支えられてばかりの二十年だった。
小さな町工場で、安い給料で、何度も辞めたくなった。
そのたびに君は、僕の背中をぽんと叩いて、こう言ったね。
「パパしっかり」
たった六文字の、君の口ぐせ。
その言葉に、僕は何度、踏みとどまったか分からない。
娘が生まれたとき、僕がおろおろしているあいだも、君は笑って同じことを言った。
あの子が高い熱を出した夜のことを、僕はよく覚えている。
僕はただ右往左往するばかりで、何の役にも立たなかった。
君は一晩じゅう、濡らした手ぬぐいを取り替えながら、あの子の枕元に座っていた。
朝、ようやく熱が下がったとき、君は疲れた顔で、それでも僕に「パパしっかり」と笑った。
あのとき僕は、しっかりしなければならないのは僕のほうだと、心の底から思ったんだ。
運動会の朝も、入学式の朝も、君はネクタイを直しながら、僕にそう言った。
「パパしっかり」は、いつのまにか、我が家の合言葉になっていた。
思い返せば、その言葉に背中を押されて、僕はずっと歩いてこられたのだと思う。
昇進の話を断って、定時で帰れる仕事を選んだときも、君は文句ひとつ言わなかった。
「お金より、三人でごはんを食べる時間のほうが大事」と、君は笑っていた。
そのおかげで、僕は娘の運動会も、授業参観も、一度も欠かさずに行けた。
君が守ってくれていたのは、僕の給料ではなく、家族で過ごす時間そのものだったんだね。
※
君が病気だと分かったのは、去年の秋だった。
君は、自分のことよりも先に、娘の進路のことを心配していた。
病室のベッドの上で、君は娘の制服の採寸の話や、来年の文化祭の話ばかりしていた。
自分の体のことを、僕の前で弱音として口にしたことは、一度もなかった。
最後の入院の朝、君は僕の手を握って、いつもより小さな声で言った。
「あの子のこと、お願いね」
そして、消え入りそうな声で、もう一度だけ。
「パパ、しっかり」
僕は、うなずくのが精一杯で、何も気の利いたことを返せなかった。
あのとき、もっと違う言葉をかけられなかったことを、今も悔やんでいる。
※
君がいなくなってからの台所は、勝手が分からないことだらけだ。
味噌汁の出汁の取り方も、娘の弁当の詰め方も、僕は何ひとつ知らなかった。
流しの上の棚には、君の字で「だしパック」「のり」と書かれた付箋が、まだ貼ってある。
君は、僕が困らないようにと、家じゅうの引き出しに小さな付箋を貼っていた。
「ゴミは火曜と金曜」「電球の予備はここ」「娘の月謝は毎月25日」。
今になって、その一枚一枚が、君からの最後の手紙のように思えてくる。
君はきっと、自分がいなくなったあとの僕を、ずっと案じていたんだね。
僕は、その付箋を、しばらく剥がさずに残しておくつもりだ。
君は、いつか僕がこうなることを、知っていたのだろうか。
今朝、茶碗を出そうとして、戸棚の前で手が止まった。
いつもの癖で、君のぶんの茶碗まで、伏せたまま二つ取ろうとしていた。
一つだけ戻すのに、ずいぶん長い時間がかかった。
君の鏡台の引き出しには、僕の知らない小さなノートがあった。
開いてみると、そこには娘の成長の記録が、几帳面な字でびっしりと綴られていた。
初めて歩いた日。初めて「パパ」と言った日。運動会で転んでも泣かなかった日。
そのどのページにも、僕が見落としていた、あの子の小さな瞬間が残されていた。
君は、家族の時間を、こんなにも丁寧に拾い集めてくれていたんだね。
僕は、稼ぐことばかりに気を取られて、そのほとんどを見過ごしていた。
これからは、その続きを、僕が書いていかなければならない。
うまく書けるかは分からないけれど、君の字を真似てでも、続けていくつもりだ。
※
でも、やっぱり寂しくて。
昨日の夜、娘と二人、声を上げて泣いてしまった。
父親なんだから、あの子の前では泣くまいと、ずっと決めていたのに。
情けない話だ。
今日は一日じゅう、弔問に来てくださる方々に頭を下げ続けた。
君の昔の同僚だという女性が、君に何度も励まされたのだと、涙ながらに話してくれた。
君は、自分が大変なときほど、人を励ます側に回る人だった。
その話を聞きながら、僕はまた、こらえきれずに目頭を押さえてしまった。
君を送る側のはずの僕が、こうして人に慰められている。
順番が、まるで逆だ。
娘の手前、最後まで気丈に振る舞うつもりだったのに、僕のほうが先に崩れてしまった。
君に叱られそうだ。
※
それでも、君に伝えたいことがある。
泣き止んだあと、娘が、濡れた目で僕の背中をぽんと叩いたんだ。
そして、娘が、君と同じ声で「パパしっかり」と言った。
その瞬間、僕は息が止まりそうになった。
君の口ぐせは、ちゃんと、あの子に受け継がれていた。
君がいなくなっても、あの六文字は、この家から消えていなかったんだ。
僕は、娘に背を向けたまま、ありがとう、と小さく言うのがやっとだった。
※
正直に言うと、今日もまだ、君をしっかり見送る自信なんてない。
明日の告別式で、僕はまた、人前で泣いてしまうかもしれない。
喪主の挨拶も、何度書き直しても、途中で字がにじんでしまう。
君と過ごした夕食の時間を思い出すと、なおさら手が止まってしまう。
君はいつも、いちばん最後に箸をつける人だった。
僕と娘が食べる様子を眺めて、それから自分の茶碗に手を伸ばしていた。
「おいしい」と言うと、君は決まって、少し照れたように下を向いた。
そんな何でもない夕食の風景が、いちばん戻ってこないものだと、今になって分かる。
明日の挨拶では、そういう日々をくれた君に、ありがとうと言えたらと思う。
きっと、最後まで言い切れずに、声が詰まるだろうけれど。
だから、お願いがある。
これから先、僕がまた挫けそうになったら。
娘の弁当を焦がしたり、参観日の日付を間違えたり、しょうもないことでつまずいたら。
そのときは、どこか高いところから、いつものように見守っていてくれるんだよね。
そして、あの六文字を、もう一度、僕に言ってくれるんだよね。
「パパしっかり」
その声さえ届けば、僕はきっと、もう少し頑張れる。
※
娘は大丈夫だ、と思う。
あの子のなかには、君がちゃんと生きている。
僕は、君がいなくなったぶんまで、あの子の背中を叩いてやろうと思う。
うまくできるかは、分からない。
でも、君に「パパしっかり」と言われ続けた二十年が、僕のなかにある。
だから、たぶん、なんとかやっていける。
※
※
君がいない朝は、これからも続いていく。
植木鉢の水やりも、娘の弁当も、出汁の取り方も、ひとつずつ覚えていくしかない。
きっと、何度も失敗するだろう。
そのたびに、君ならどうしただろうと、考えるのだと思う。
でも、それでいいのだと、今は思えている。
君を思い出しながら手を動かすことが、君と一緒に暮らし続けることなのだろうから。
今朝、初めて自分で味噌汁を作ってみた。
君の付箋の通りに出汁を取ったのに、なぜか君のものより、ずいぶん薄い味になった。
それでも娘は、一口飲んで「ママの味に近い」と、無理に笑ってくれた。
あの子のそういう優しさも、全部、君が育ててくれたものだ。
台所に立っていると、背中に君の気配を感じる気がして、つい振り返ってしまう。
もちろん、そこには誰もいない。
それでも、なぜだか、ひとりきりだとは思わなかった。
君が遺してくれた付箋も、ノートも、娘も、みんなこの家にいる。
君は、形を変えて、ちゃんとここに残ってくれているのだと思う。
だから僕は、もう少しだけ、強くなれそうな気がしている。
明日からも、薄い味噌汁を、少しずつ君の味に近づけていくよ。
そろそろ、便箋がにじんで、字が書けなくなってきた。
今夜はこのへんにしておくよ。
明日は、ちゃんと背筋を伸ばして、君を送り出す。
そして、いつか僕も、そっちへ行く。
そのときは、二十年ぶんの「ただいま」を、君に言わせてもらうよ。
それまでは、君のぶんまで、この家の灯りを消さないようにしておく。
娘が独り立ちする日も、いつか孫を抱く日も、僕がちゃんと見届けるよ。
そして、そのたびに、心のなかで君に報告するつもりだ。
またいつか、会える日まで。
ダメなパパより。