パパしっかり

妻へ。

君がいなくなって、二日目の夜だ。

台所の電気を消したあと、どうしても眠れなくて、こうして便箋を広げている。

こんなふうに手紙を書くのは、結婚前に一度きりだったと思う。

あのときも、僕は言いたいことの半分も書けなかった。

今夜も、たぶん同じだ。

それでも、書いておかないと、朝が来ない気がした。

まだ高校生だけど、しっかり者の一人娘を遺してくれて、ありがとう。

あの子は、君に似て、僕よりずっと芯が強い。

昨日の君のお通夜には、寂しくないようにと、たくさんの友達を連れてきてくれた。

焼香の列が途切れないのを見て、君がどれだけ慕われていたかを、僕は初めて知ったよ。

君はいつも、自分のことばかりは話さない人だったから。

娘は、弔問の方々に、ひとりひとり、しっかりとお辞儀をしていた。

僕がうまく言葉を返せないでいると、娘がそっと横から、母に代わって挨拶を継いでくれた。

その姿に、僕は何度も、君の面影を重ねた。

夜遅く、最後の弔問客を見送ったあと、娘はぽつりと言った。

「ママ、最後まで、わたしのお弁当のことを心配してたんだよ」

病室で君と娘が、二人だけでそんな話をしていたことを、僕は知らなかった。

君は、自分の痛みよりも、明日の娘の昼ごはんを案じていたんだね。

君と初めて会ったのは、僕が二十二の冬、町の小さな食堂でだった。

僕が頼んだ定食の味噌汁を、隣の席の君が、こぼれそうだと言って僕の前へ寄せてくれた。

それだけのことだったのに、僕は次の日から、毎日その食堂へ通うようになった。

君は、よく笑う人だった。

僕みたいな口下手な男のどこがよかったのか、今でも分からない。

一度だけ訊いたことがあるね。

君は「困った顔がかわいかったから」と言って、また笑った。

結婚した頃は、本当にお金がなかった。

六畳一間のアパートで、卓袱台ひとつを挟んで、二人で安い鍋をつついた。

それでも君は、不満をひとつも口にしなかった。

窓辺に小さな植木鉢を並べて、毎朝それに水をやるのが、君の楽しみだった。

枯れかけた葉を見つけると、君は鼻歌を歌いながら、丁寧にそれを摘んでいた。

あの鼻歌の節を、僕は今でも、ふとした拍子に口ずさんでしまう。

結婚式は、親戚だけのささやかなものだった。

指輪を買う余裕もなくて、僕は安い銀の指輪を、何ヶ月もかけて少しずつ用意した。

それを差し出したとき、君は「一生もの」と言って、左手の薬指にそっとはめた。

その指輪は、今も君の手に光っている。

明日、それだけは外さずに、君と一緒に送らせてもらおうと思う。

娘がまだ小さかった頃、夏に一度だけ、三人で海へ行ったね。

安い民宿に泊まって、夜は花火をした。

線香花火が最後の一本になったとき、君は娘を膝に乗せて、火の玉が落ちるのをじっと見ていた。

「きれいだね」と君が言って、娘が「きれいだね」と繰り返した。

あのときの、潮の匂いと、君の横顔を、僕はきっと一生忘れない。

高い場所へ家族旅行に連れて行ってやれなかったことだけは、今も少し、心残りだ。

思えば、君と出会ってからの二十年は、君に支えられてばかりの二十年だった。

小さな町工場で、安い給料で、何度も辞めたくなった。

そのたびに君は、僕の背中をぽんと叩いて、こう言ったね。

「パパしっかり」

たった六文字の、君の口ぐせ。

その言葉に、僕は何度、踏みとどまったか分からない。

娘が生まれたとき、僕がおろおろしているあいだも、君は笑って同じことを言った。

あの子が高い熱を出した夜のことを、僕はよく覚えている。

僕はただ右往左往するばかりで、何の役にも立たなかった。

君は一晩じゅう、濡らした手ぬぐいを取り替えながら、あの子の枕元に座っていた。

朝、ようやく熱が下がったとき、君は疲れた顔で、それでも僕に「パパしっかり」と笑った。

あのとき僕は、しっかりしなければならないのは僕のほうだと、心の底から思ったんだ。

運動会の朝も、入学式の朝も、君はネクタイを直しながら、僕にそう言った。

「パパしっかり」は、いつのまにか、我が家の合言葉になっていた。

思い返せば、その言葉に背中を押されて、僕はずっと歩いてこられたのだと思う。

昇進の話を断って、定時で帰れる仕事を選んだときも、君は文句ひとつ言わなかった。

「お金より、三人でごはんを食べる時間のほうが大事」と、君は笑っていた。

そのおかげで、僕は娘の運動会も、授業参観も、一度も欠かさずに行けた。

君が守ってくれていたのは、僕の給料ではなく、家族で過ごす時間そのものだったんだね。

君が病気だと分かったのは、去年の秋だった。

君は、自分のことよりも先に、娘の進路のことを心配していた。

病室のベッドの上で、君は娘の制服の採寸の話や、来年の文化祭の話ばかりしていた。

自分の体のことを、僕の前で弱音として口にしたことは、一度もなかった。

最後の入院の朝、君は僕の手を握って、いつもより小さな声で言った。

「あの子のこと、お願いね」

そして、消え入りそうな声で、もう一度だけ。

「パパ、しっかり」

僕は、うなずくのが精一杯で、何も気の利いたことを返せなかった。

あのとき、もっと違う言葉をかけられなかったことを、今も悔やんでいる。

君がいなくなってからの台所は、勝手が分からないことだらけだ。

味噌汁の出汁の取り方も、娘の弁当の詰め方も、僕は何ひとつ知らなかった。

流しの上の棚には、君の字で「だしパック」「のり」と書かれた付箋が、まだ貼ってある。

君は、僕が困らないようにと、家じゅうの引き出しに小さな付箋を貼っていた。

「ゴミは火曜と金曜」「電球の予備はここ」「娘の月謝は毎月25日」。

今になって、その一枚一枚が、君からの最後の手紙のように思えてくる。

君はきっと、自分がいなくなったあとの僕を、ずっと案じていたんだね。

僕は、その付箋を、しばらく剥がさずに残しておくつもりだ。

君は、いつか僕がこうなることを、知っていたのだろうか。

今朝、茶碗を出そうとして、戸棚の前で手が止まった。

いつもの癖で、君のぶんの茶碗まで、伏せたまま二つ取ろうとしていた。

一つだけ戻すのに、ずいぶん長い時間がかかった。

君の鏡台の引き出しには、僕の知らない小さなノートがあった。

開いてみると、そこには娘の成長の記録が、几帳面な字でびっしりと綴られていた。

初めて歩いた日。初めて「パパ」と言った日。運動会で転んでも泣かなかった日。

そのどのページにも、僕が見落としていた、あの子の小さな瞬間が残されていた。

君は、家族の時間を、こんなにも丁寧に拾い集めてくれていたんだね。

僕は、稼ぐことばかりに気を取られて、そのほとんどを見過ごしていた。

これからは、その続きを、僕が書いていかなければならない。

うまく書けるかは分からないけれど、君の字を真似てでも、続けていくつもりだ。

でも、やっぱり寂しくて。

昨日の夜、娘と二人、声を上げて泣いてしまった。

父親なんだから、あの子の前では泣くまいと、ずっと決めていたのに。

情けない話だ。

今日は一日じゅう、弔問に来てくださる方々に頭を下げ続けた。

君の昔の同僚だという女性が、君に何度も励まされたのだと、涙ながらに話してくれた。

君は、自分が大変なときほど、人を励ます側に回る人だった。

その話を聞きながら、僕はまた、こらえきれずに目頭を押さえてしまった。

君を送る側のはずの僕が、こうして人に慰められている。

順番が、まるで逆だ。

娘の手前、最後まで気丈に振る舞うつもりだったのに、僕のほうが先に崩れてしまった。

君に叱られそうだ。

それでも、君に伝えたいことがある。

泣き止んだあと、娘が、濡れた目で僕の背中をぽんと叩いたんだ。

そして、娘が、君と同じ声で「パパしっかり」と言った。

その瞬間、僕は息が止まりそうになった。

君の口ぐせは、ちゃんと、あの子に受け継がれていた。

君がいなくなっても、あの六文字は、この家から消えていなかったんだ。

僕は、娘に背を向けたまま、ありがとう、と小さく言うのがやっとだった。

正直に言うと、今日もまだ、君をしっかり見送る自信なんてない。

明日の告別式で、僕はまた、人前で泣いてしまうかもしれない。

喪主の挨拶も、何度書き直しても、途中で字がにじんでしまう。

君と過ごした夕食の時間を思い出すと、なおさら手が止まってしまう。

君はいつも、いちばん最後に箸をつける人だった。

僕と娘が食べる様子を眺めて、それから自分の茶碗に手を伸ばしていた。

「おいしい」と言うと、君は決まって、少し照れたように下を向いた。

そんな何でもない夕食の風景が、いちばん戻ってこないものだと、今になって分かる。

明日の挨拶では、そういう日々をくれた君に、ありがとうと言えたらと思う。

きっと、最後まで言い切れずに、声が詰まるだろうけれど。

だから、お願いがある。

これから先、僕がまた挫けそうになったら。

娘の弁当を焦がしたり、参観日の日付を間違えたり、しょうもないことでつまずいたら。

そのときは、どこか高いところから、いつものように見守っていてくれるんだよね。

そして、あの六文字を、もう一度、僕に言ってくれるんだよね。

「パパしっかり」

その声さえ届けば、僕はきっと、もう少し頑張れる。

娘は大丈夫だ、と思う。

あの子のなかには、君がちゃんと生きている。

僕は、君がいなくなったぶんまで、あの子の背中を叩いてやろうと思う。

うまくできるかは、分からない。

でも、君に「パパしっかり」と言われ続けた二十年が、僕のなかにある。

だから、たぶん、なんとかやっていける。

君がいない朝は、これからも続いていく。

植木鉢の水やりも、娘の弁当も、出汁の取り方も、ひとつずつ覚えていくしかない。

きっと、何度も失敗するだろう。

そのたびに、君ならどうしただろうと、考えるのだと思う。

でも、それでいいのだと、今は思えている。

君を思い出しながら手を動かすことが、君と一緒に暮らし続けることなのだろうから。

今朝、初めて自分で味噌汁を作ってみた。

君の付箋の通りに出汁を取ったのに、なぜか君のものより、ずいぶん薄い味になった。

それでも娘は、一口飲んで「ママの味に近い」と、無理に笑ってくれた。

あの子のそういう優しさも、全部、君が育ててくれたものだ。

台所に立っていると、背中に君の気配を感じる気がして、つい振り返ってしまう。

もちろん、そこには誰もいない。

それでも、なぜだか、ひとりきりだとは思わなかった。

君が遺してくれた付箋も、ノートも、娘も、みんなこの家にいる。

君は、形を変えて、ちゃんとここに残ってくれているのだと思う。

だから僕は、もう少しだけ、強くなれそうな気がしている。

明日からも、薄い味噌汁を、少しずつ君の味に近づけていくよ。

そろそろ、便箋がにじんで、字が書けなくなってきた。

今夜はこのへんにしておくよ。

明日は、ちゃんと背筋を伸ばして、君を送り出す。

そして、いつか僕も、そっちへ行く。

そのときは、二十年ぶんの「ただいま」を、君に言わせてもらうよ。

それまでは、君のぶんまで、この家の灯りを消さないようにしておく。

娘が独り立ちする日も、いつか孫を抱く日も、僕がちゃんと見届けるよ。

そして、そのたびに、心のなかで君に報告するつもりだ。

またいつか、会える日まで。

ダメなパパより。

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