番台の上で、妻の携帯が震えた。
一度だけ、短く。
銀色の、折りたたみ式の古い携帯だ。
角の塗装は剥げ落ち、蝶番のあたりに細かい傷が並んでいる。
北陸の外れにある松の湯という銭湯を、父から継いで十七年になる。
冬の夜は、湯気が天井にぶつかって、雨のように落ちてくる。
その音を聞きながら、俺はタオルを畳む。
妻の綾は、まだ女湯の床を磨いていた。
デッキブラシの音が、規則正しく壁を這っている。
畳んだタオルを棚に積み、俺は番台の携帯をそっと裏返した。
画面を見たわけじゃない。
震えた方向を確かめただけだ。
そう、自分に言い聞かせた。
「あんた、まだ上がらんの」
暖簾の向こうから、綾の声がした。
「湯、落とすよ」
「おう」
俺は答えて、指を離した。
携帯は、ぱたりと閉じたままだった。
その夜、寝床に入ってから、俺は天井の木目を数えていた。
震えた携帯のことを、忘れられなかった。
隣で綾の寝息が、ゆっくりと上下している。
薄い肩が、掛け布団の下で小さく動いていた。
十七年、同じ布団の隣で聞いてきた音だ。
それなのに、その夜だけは知らない人の呼吸に聞こえた。
※
綾の携帯は、町でいちばん古い。
若い客に見せると、必ず笑われる。
「奥さん、それ博物館のやつやろ」
常連の大学生が言うと、綾も一緒になって笑っていた。
「ええんよ。まだ動くもん」
充電の減りは早い。
風呂掃除をしている一時間で、目盛りが一つ落ちる。
だから綾は、脱衣所の棚に置いたまま、いつも充電器に挿していた。
俺は何度も勧めた。
「新しいの、買えばいいが」
そのたび、綾は同じ答えを返した。
「まだ動くもん」
理由は聞かなかった。
聞けば、答えが返ってきて、それで終わってしまう気がした。
思えば俺は、この人にずっと質問をしてこなかったのだ。
綾と初めて口をきいたのも、この脱衣所だった。
十八年前の夏、隣町の紡績工場に勤めていた綾は、寮の風呂が壊れた三日間だけ松の湯に通ってきた。
番台の俺は、釣り銭を渡すときに指が触れるのが怖くて、いつも小銭を台の上に置いた。
四日目、寮の風呂は直ったはずなのに、綾はまた暖簾をくぐってきた。
「ここのお湯、肩まで浸かれるでしょう」
それが、綾の言った最初の言葉だった。
俺はうまく返せずに、湯温を書いた木札を裏返したり表に戻したりしていた。
一週間後、俺はやっと訊いた。
「今日は、なんで来たん」
綾は、髪を絞りながら答えた。
「肩まで浸かりたかったから」
その答えが、十七年経った今でも、俺の中でいちばん確かな返事として残っている。
父は、この結婚に賛成ではなかった。
銭湯の嫁は苦労するだけだと、そればかり言った。
綾は一度も言い返さず、ただ毎朝、父より先に釜場の火を見に行った。
父が折れたのは、翌年の正月だった。
餅を喉に詰まらせた父の背中を、綾が力任せに叩いたのだ。
父は畳に手をついて咳き込みながら、初めて綾を名前で呼んだ。
「綾さん、痛いわ」
その日から、父は綾に湯加減を任せるようになった。
※
十二年前の冬、松の湯はボイラーを壊した。
父の代から使っていた、古いやつだった。
修理に三百万かかると言われて、俺は番台の裏で膝を抱えた。
その頃、綾は昼にスーパーの惣菜場で働き、夜は銭湯の掃除をしていた。
朝、台所に立つ綾の指は、いつも赤かった。
冷たい水と、熱い油と、洗剤の匂い。
その三つが混ざった匂いを、俺は今でも覚えている。
「なあ、いっぺん休めや」
そう言った俺に、綾は油で光った手を前掛けで拭いて答えた。
「休んだら、湯が冷めるがね」
湯というのが銭湯のことなのか、それとも別の何かなのか、俺には分からなかった。
分からないまま、俺は頷いた。
その冬、綾は指のあかぎれに絆創膏を巻いて、その上からゴム手袋をはめていた。
夜、外して洗面器で手を温めるとき、絆創膏の糊が湯に溶けて白く濁った。
俺は見ないふりをして、番台の帳簿をめくっていた。
帳簿の数字は、めくってもめくっても同じだった。
一度だけ、綾が言った。
「うちの父さんも、風呂屋やったらよかったのにね」
綾の父親は、綾が中学に上がる前に家を出たきりだと、あとから知った。
綾にとって、火を落とさずに朝まで燃やし続ける釜というものが、何を意味していたのか。
それを俺は、その頃まだ考えたこともなかった。
ボイラーが直った日、綾は湯船の縁に座って、長いこと湯気を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、湯気が薄くなるまで、そこに座っていた。
※
もう一つ、思い出す夜がある。
八年前、父の葬儀の晩だ。
親戚が帰り、線香の煙だけが残った座敷で、俺は畳に転がっていた。
情けない話だが、俺は一言も泣けなかった。
泣けない自分が、父に対して失礼な気がして、余計に動けなかった。
綾は台所で、来客用の湯呑みを洗っていた。
かちゃん、かちゃん、と規則正しい音がした。
その音が止まったとき、俺の枕元に湯呑みが一つ置かれた。
中身は白湯だった。
「お父さん、いつも風呂上がりにこれ飲んどったね」
綾はそれだけ言って、隣に座った。
俺の背中に、手のひらが置かれた。
厚くて、少し硬い手だった。
俺はその手の重さを、父の背中に重ねていた。
言葉は、時に不器用だ──それでも、手のひらは温かかった。
※
三月の初め、雪が名残のように降った夜だった。
閉店後、綾は珍しく長風呂をしていた。
脱衣所の棚で、あの銀色の携帯が充電されている。
赤いランプが、規則正しく明滅していた。
俺は、手を伸ばした。
理由なんて、なかった。
ただ、あの夜の震えが、まだ耳の底に残っていたのだ。
開くと、受信ボックスには俺からの短いメールばかりが並んでいた。
「今から帰る」
「醤油買うてくわ」
「ボイラー直った」
自分の言葉の貧しさに、少し情けなくなった。
その下に、フォルダが一つあった。
「大事」という三文字が、小さな液晶に浮かんでいた。
指が滑るように、そこを開いた。
※
百八通あった。
差出人の欄には、俺の知らない番号が並んでいる。
一通目を開いた。
「今日の綾ちゃん、髪の匂いがした。ずっと嗅いでいたかった」
指が止まった。
次を開いた。
「雪、降ったな。手が冷たかったら貸せよ」
その次を。
「ボイラーみたいな男になりたい。ずっとお前をあたためられるように」
胸の奥が、火傷したように熱くなった。
俺は携帯を握りしめたまま、脱衣所の壁にもたれた。
湯気が、磨りガラスの向こうで揺れている。
その向こうに、綾の背中の影があった。
十七年、俺が守ってきたつもりの背中だった。
引き戸が開いた。
湯上がりの綾が、髪を拭きながら出てきた。
俺は、開いたままの携帯を突き出した。
「これ、誰や」
自分の声が、ひどく低いのに驚いた。
綾は、濡れた前髪の隙間から画面を見た。
そして、目を丸くした。
それから、笑った。
声を立てて、腹の底から笑った。
「あんた」
タオルを首に掛けたまま、綾は言った。
「自分の書いたもん、忘れたん」
※
差出人は、十七年前に俺が使っていた番号だった。
結婚する前、まだ父が番台に座っていた頃の番号だ。
機種を変えて、番号も変えて、俺はすっかり忘れていた。
百八通は、全部、俺が書いたものだった。
覚えていないのは、俺だけだった。
「あんた、昔はよう書いた」
綾は畳の上に正座して、携帯を両手で受け取った。
「毎晩、湯を落としたあとに一通」
「そんなに書いたか」
「百八通。除夜の鐘と同じや思て、数えとった」
俺は言葉を失って、その手元を見ていた。
液晶の右上で、電池の目盛りが一つになっていた。
赤く、細く、頼りなく光っている。
「なあ」
俺はやっと声を出した。
「機種変せんかったのは、これか」
綾は答えなかった。
代わりに、蓋を閉じて、両手で包んだ。
まるで、湯呑みを持つような手つきだった。
「今のに移したら、消えるて言われたんよ」
「店員に、笑われたけどね」
「こんな古いの、みんな捨てはるって」
俺は、盗み見た自分の指を見た。
その指が、十七年前に文字を打った指と同じものだとは、どうしても思えなかった。
綾は蓋を開け、もう一つのフォルダを俺に向けた。
「送信」と書かれた欄には、一通だけ、送られていないものが残っていた。
日付は、父の葬儀の翌日になっていた。
本文は、たった一行だった。
「今日は、あなたの分まで泣いておきました」
俺は、その一行を三度読んだ。
読むたびに、あの晩の白湯の温度が、手のひらに戻ってきた。
「なんで、送らんかった」
綾は、少しだけ首をかしげた。
「送ったら、あんたが謝ると思て」
「あの人は謝る子やって、お義父さんが言うてたから」
父が俺のことをそう呼んでいたことを、俺はその夜まで知らなかった。
知らないことばかりだった。
知らないまま、俺はこの人の隣で十七年、湯を沸かしてきたのだ。
※
その夜、俺は綾に断ってから、百八通を最初から読ませてもらった。
布団の上に二人で並んで、小さな液晶を覗き込む。
三十二通目に、こんなのがあった。
「今日、じいさんの客が湯船で歌うてた。お前に聞かせたい」
歌っていたのは、駅前で自転車を修理していた木下さんだ。
もう十年前に、店をたたんで町を出ていった。
俺はその歌を、綾に聞かせた覚えがない。
五十一通目には、こうあった。
「釜の火を見とると、お前の寝顔を思い出す」
書いたときの俺は、たぶん二十九だ。
釜場の熱で汗をかきながら、親指一本で打ったのだろう。
文字を打つのが遅くて、送信ボタンを押す頃には日付が変わっていた。
八十九通目で、俺は指を止めた。
「もし俺が先に湯を落としても、お前は肩まで浸かってくれ」
書いた記憶は、まるでない。
それなのに、書いた男の気持ちだけが、そのまま胸の底に沈んでいた。
綾は、その一通のところで蓋を閉じた。
「これはね」
「いちばん、返事に困った」
そう言って、俺の肩に頭を預けた。
髪から、いつもの石鹸の匂いがした。
十七年、変えていない銘柄だ。
遠くて近い、という言い方があるなら、この匂いのことだと思った。
※
打ち直しを始めて、七日目の夜だった。
番台の上で、新しい携帯が震えた。
一度きり、短く。
綾からの返信は、たった一行だった。
「二回目も、ちゃんと数えとるからね」
俺は暖簾の隙間から、女湯を覗いた。
デッキブラシを持った背中が、こちらに背を向けたまま動いている。
その背中が、ほんの少しだけ揺れていた。
笑っているのだと、すぐに分かった。
分かるまでに、十七年かかった。
※
謝るのに、ずいぶん時間がかかった。
「すまん」
たった二文字が、喉の奥で何度も引っかかった。
「勝手に、見た」
綾は、しばらく黙っていた。
それから、俺の額に自分の額を軽くぶつけた。
痛くはなかった。
音だけが、こつん、と鳴った。
「見られて困るもん、入れとらんよ」
「あんたのしか、入っとらんもん」
そして、綾は俺の背中に腕を回した。
湯上がりの、少し湿った腕だった。
「こんな私を、ようもらってくれたわ」
俺は、天井を見た。
そうしないと、目の奥が持たなかった。
湯気の名残が、まだ天井の梁にぶら下がっている。
雨のように、ぽたりと落ちた。
それが自分の頬に当たったのか、そうでないのか、確かめる気にはなれなかった。
※
週末、俺たちは駅前の店に行った。
若い店員は、綾の携帯を裏返して、ため息をついた。
「このメール、移せないんです」
「規格が、古すぎて」
綾は、俺の袖を軽く引いた。
もういい、と言いたいのが分かった。
俺は、店員に頼んだ。
「新しいの、ください」
「番号は、そのままで」
店員は、古い携帯を布の上に置いて、しばらく黙っていた。
それから、奥から年配の店長を呼んできた。
店長は老眼鏡をずらして液晶を覗き、小さく息を吐いた。
「奥さん、これ、電池がもうもたんですわ」
「一日、もって半日です」
綾は頷いて、両手でその携帯を受け取った。
「半日あれば、じゅうぶんです」
帰り道、雪はもう雨に変わっていた。
その途中、俺は駅前で足を止めた。
木下さんの自転車屋があった場所は、今は月極の駐車場になっている。
線を引いた白いペンキが、雨に濡れて光っていた。
「歌っとったねえ、あのおじさん」
綾が言った。
俺は、三十二通目のことを口に出していない。
それなのに、綾は同じ場所を見ていた。
「うちの湯船、あの人の声がいちばん響いたわ」
昔の携帯には、電池を入れ替える蓋がついている。
翌週、俺はその蓋を開けて、町の電器屋に持ち込んだ。
七十を過ぎた店主は、老眼鏡を外してしばらく眺めた。
「もうこの型の電池は、どこにもないわ」
「けど、似たのを削れば入るかもしれん」
一週間後、電池は入った。
純正ではないから、蓋が少しだけ浮いている。
その浮いた隙間から、赤いランプの光が漏れた。
綾はそれを見て、蓋を指の腹でそっと押さえた。
「これでええ」
「閉まりきらんくらいが、ちょうどええ」
釜も、蓋を締めきってしまえば火が消える。
そんなことを、俺はこの人にずっと教わってきたのだと思う。
綾は買ったばかりの新しい携帯を、袋のまま抱えて歩いた。
古いほうは、コートの内ポケットに入れていた。
心臓の側だな、と思ったが、口には出さなかった。
そして、その夜から俺は始めた。
古い携帯を左手に、新しい携帯を右手に持つ。
一通ずつ、読んで、打ち直して、綾に送る。
一日に、一通だけ。
書き写しながら、俺は昔の自分に何度も腹を立てた。
誤字は直せない。
「あいたい」が「あいだい」になったまま、綾はそれを十七年持っていたのだ。
指の腹で液晶を撫でると、うっすらと擦り傷がついている。
何百回、何千回、この人はここを開いたのだろう。
番台の木も、同じところだけが白くすり減っている。
父が座り、俺が座り、綾が肘をついた場所だ。
物は、触られた場所から先に減っていく。
減った分だけ、たぶん誰かの一日が積もっている。
綾は、その白くなった場所を布巾で拭くとき、いつも力を抜く。
消してしまわないように、そっと撫でるだけだ。
そういう手つきの人と、俺は暮らしている。
十七年前の俺が書いた文章は、驚くほど下手だった。
字数が足りなくて、途中で切れているものもあった。
それでも、俺はそのまま打った。
直そうとすると、あの頃の男に悪い気がした。
湯を落としたあとの、番台のうえ。
指が覚えていないその言葉を、俺は毎晩ひとつずつ思い出していく。
綾の新しい携帯が、短く震える。
一度きり。
暖簾の向こうで、デッキブラシの音が止まる。
そして、また動き出す。
百八通のうち、今夜で三十七通目が届いた。
残りを送り終える頃には、また冬が来ているだろう。
そうしたら、たぶん俺は新しい一通を書き始める。
覚えていられる自信は、まだない。
百八通のうち、今夜で三十七通目が届いた。
残りを送り終える頃には、また冬が来ているだろう。
そうしたら、たぶん俺は、新しい一通を書き始める。
覚えていられる自信は、まだない。
忘れたぶんだけ、この人が抱えてくれていたのだと知ってしまった今は、なおさらだ。
先日、綾の新しい携帯のフォルダを、こっそり覗かせてもらった。
名前は、もう「大事」ではなかった。
「二回目」と、三文字だけ打ってあった。
肩まで浸かれる湯を、あと何年沸かせるのかは分からない。
それでも釜の火は、今夜も落とさずにおく。
だから今夜も、湯気の落ちる音の下で、指を動かしている。