底の焦げた鍋で仲直りした
朝、私は妻がよそった味噌汁を腕で払い、底の焦げた鍋を床に落とした。弁当も持たずに家を出た。夜、二階の窓に明かりがあり、玉ねぎとバターの匂いがした。妻がその鍋で四…
朝、私は妻がよそった味噌汁を腕で払い、底の焦げた鍋を床に落とした。弁当も持たずに家を出た。夜、二階の窓に明かりがあり、玉ねぎとバターの匂いがした。妻がその鍋で四…
レンタル屋の駐車場で、せーので同時に送信した二通のメール。俺のメールには、あと一年しか持たないという告白が、彼女のメールには、妊娠したという報告があった。同棲貯…
学生の頃、市立美術館の公募展の受付で、彫刻の審査員の先生と並んで座りました。私が咳をするたびに「手を出しなさい」と言い、のど飴の缶を三度振って、一粒だけ手のひら…
旅立った恋人が最後まで気にしていたのは、毎晩2ゲットを取られて悔しがる、画面の向こうの「3の人」だった。一周忌の午前四時、僕が叩いたF5キーの先で、返ってきた一…
妹の入院中、五歳の甥が青い恐竜のリュックを背負って実家へやって来た。昼間は元気に遊び、夜になると「あしたかえるね」と小さな声で言う。毎朝一枚ずつ救急箱から持ち出…
耳の聞こえない私の手話には、左右が入れ替わる癖がある。教わった父が、図書館の本と洗面所の鏡だけで覚えたからだ。鏡の前の手話しか知らなかった父の三年間を、私は十七…
父の作業台の抽斗には、売り物にしない蝋細工の膳が、年にひとつずつ増えていた。失敗作だと聞かされていたので、抽斗を開けたのは十三回忌の今日が初めてだ。十七の膳に書…
実家のアルバムは中学二年の夏で写真が途切れ、そこから先は白いままの台紙だった。二十三の私を写真館に連れて行き、赤に黒の振袖を撮らせた母が「私の宝物」と呼んだもの…
無愛想で友だちの少なかった私を、電車で四十分かかる高校にまで、中学の頃の噂といじめが追いかけてきた。なぜか半年でそれが消えていった頃、心臓の弱い隣の家のジュンが…
母の家の三和土には、誰も履かない小さなサンダルが、いつも同じ角度で揃えて置いてあった。妹のお古だと、俺はずっと思っていた。彼女の親に別れさせられた秋、母は泣きな…
県外への進学を、父だけが最後まで大反対しました。理由は一度も言ってくれません。勝手に決めて出て行った娘が、父の車のダッシュボードから折りたたんだ地図を見つけたの…
朝四時から製麺所へ向かう父の先を歩いていた茶トラ猫のみぃ。父の護衛は、棺の小窓を一晩じゅう掘り続け、骨上げの日に忽然と姿を消した。四十九日の朝、玄関で鳴いていた…
事故で恋人を失い、右脚も失った彼女は、ある朝、彼がいちばん好きだった紺のワンピースで駅へ向かった。券売機の前で落とした百円玉を拾ったのは、見覚えのない年配の男性…
諫早から松戸まで訪ねてきた母は、三日のあいだ一度も私のポケベルを鳴らしませんでした。使い方を知らないのだと、私は十五年ものあいだ思い込んでいたのです。冷蔵庫に残…
右手を失った友人は、ゲームに誘うたびに同じ言葉で断りました。ベッドの下の雑誌は背表紙が奥を向いていて、私はそれを隠しているのだと十四年のあいだ思い込んでいたので…