桂川にて — 最後の親孝行

公開日: 家族 | 悲しい話 |

河川敷

2006年2月1日、京都市伏見区・桂川の河川敷で、一組の母子が静かに“終わり”を迎えようとしていました。

事件として報じられたのは、無職の片桐康晴被告が、認知症の母親を殺害し、自らも命を絶とうとした無理心中。

19日に開かれた初公判では、その一部始終が静かに語られました。

片桐被告は、母親とふたり、静かに暮らしていました。

1995年、父親を病で亡くした頃から、母には徐々に認知症の兆しが見え始めます。

最初は、日々の小さな物忘れ。

しかし、次第にそれは「昼夜の逆転」や「深夜の徘徊」へと悪化していき、警察に保護されることも一度や二度ではありませんでした。

片桐被告は仕事を休職し、デイケアを利用することで介護負担の軽減を試みました。

けれど、それでも介護は終わらず、心身は蝕まれていくばかり。

とうとう仕事を退職。

生活保護を申請しても、失業給付金の存在を理由に却下され、頼れる支援もなくなりました。

介護と両立できる仕事も見つからず、やがて失業給付も打ち切られ、貯蓄も底をつきます。

カードローンの限度額にも達し、デイケア費、アパート代……何ひとつ払えない状態に。

追いつめられた末に、片桐被告は1月31日、ある決断を下します。

「もう、生きてはいけない」

「せめて、最後の親孝行をしよう」

翌朝、片桐被告は母を車椅子に乗せ、京都市内を巡りました。

長年介護でどこにも行けなかった母を、最後に京都の美しい街を見せてあげたかったのです。

そして早朝、桂川の河川敷にたどり着いたふたり。

静かな遊歩道に佇みながら、片桐被告は母に語りかけました。

「もう生きられへん……。此処で終わりやで」

その言葉に、母はわずかに笑みを浮かべて言いました。

「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」

言葉を失い、ただ涙が溢れた片桐被告は、「すまんな」と謝りました。

母は微笑んだまま、「こっちに来い」と、そっと呼び寄せました。

彼が額を母の額にくっつけると、母は言いました。

「康晴はわしの子や。わしがやったる」

……その言葉は、彼のすべてを許し、そしてすべてを受け入れる、母の最後の愛でした。

片桐被告はその直後、母の首を絞めて殺害。

そして、自らも包丁で喉を突き、自殺を図ります。

しかし彼は発見され、一命を取り留めました。

裁判の場で、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いたまま、淡々と語り続けました。

けれど、肩を震わせ、眼鏡を外し、右腕で涙をぬぐう姿もありました。

検察は、長年の献身的な介護の果てに失職し、追い詰められていった過程を淡々と述べ、

「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」

という彼の供述を紹介しました。

法廷は静まり返り、東尾裁判官は目を赤くし、言葉を詰まらせました。

刑務官さえ、まばたきを多くし、涙をこらえる様子が見てとれました。

誰も声を出す者はおらず、ただ静かに、深い悲しみだけがその場を支配していました。

この事件は、ただの心中ではありません。

それは、母子の静かな旅路の終わりであり、

母のすべてを背負い尽くした息子の、祈りにも似た「親孝行」だったのかもしれません。

そして今も――

「もう一度、母の子として生まれたい」と願う彼の声は、

きっと母に届いていることでしょう。

関連記事

結婚式の花嫁さん(フリー写真)

お父さんよりいい男

私の小さい頃の夢は、お父さんのお嫁さんになることでした。 お父さんに対して、嫌いと思ったことも嫌だと思ったこともありませんでした。 周りの友達よりもお父さんとは仲良しだった…

戦闘機(フリー写真)

海行かば

このお話は8年程前、九州の西日本新聞に掲載され、映画化もされました。 ご存知の方も多いはずです。特繰出身の学徒兵の方々のお話です。 当時東京に居た私は、銀座の東映に軽い気持…

手を繋ぎ歩く子供(フリー写真)

身近な人を大切に

3歳ぐらいの時から毎日のように遊んでくれた、一個上のお兄ちゃんが居た。 成績優秀でスポーツ万能。しかも超優しい。 一人っ子の俺にとっては、本当にお兄ちゃんみたいな存在だった…

猫(フリー写真)

息子が教えてくれた

ある日、子供が外に遊びに行こうと玄関の戸を開けた。 その途端、まるで見計らっていたかのように、猫は外に飛び出して行ってしまいました。 そして探して見つけ出した時には、あの子…

ちゃぶ台(フリー写真)

色褪せた家族写真

一昨年、ばあちゃんが死んだ。 最後に会ったのは、俺が中学生の時だったかな。 葬式の為に20年越しで、ばあちゃんの住んでいた田舎に行った。 次の日、遺品の整理をする為に…

ウェディングドレスを着た花嫁

大好きな娘へ

先日、俺の一人娘が嫁に行った。 目に入れても痛くない――。 そう自信を持って断言できるほど愛してきた、一人娘だった。 ※ 結婚式で娘は俺の前に立ち、はにかみな…

浅草の三社祭の提灯(フリー写真)

母のガイドブック

東京で単身赴任をしていた時、連休になるといつも嫁が来て、家事などをしてくれていた。 母にも、偶には東京に来いよと言っていたのだけど、人混みが苦手だと言い、決して来なかった。 …

浜辺を走る親子(フリー写真)

両親は大切に

人前では殆ど泣いたことのない俺が、生涯で一番泣いたのはお袋が死んだ時だった。 お袋は元々ちょっと頭が弱くて、よく家族を困らせていた。 思春期の俺は、普通とは違う母親がむかつ…

父の手(フリー写真)

受け継がれた情熱

俺の親父は消防士だった。 いつ何があってもおかしくない仕事だから、よく母に 「俺に何かあっても、お前らが苦労しないようにはしてる」 と言っていたのを憶えている。 ※…

親子(フリー写真)

父と過ごした日々

2年前、父を癌で亡くしました。 癌が発覚したのはその3年前。風邪が治らないと病院に通い、それでも治らず精密検査をしたら肺癌が見つかりました。しかもリンパにも転移していました。 …