
我が家には、コロという名前の雑種犬がいました。
長く伸びた白と茶の毛が、風が吹くたびにふわふわと揺れる犬でした。
私が中学と高校に通っていた頃、コロは毎日、同じ場所で私を待っていました。
通学路がいちばんよく見える、石垣の上です。
夕方になると、私の帰りを待っていたコロの姿が、坂の上に小さく見えました。
今でも目を閉じると、その輪郭が浮かびます。
石垣の上の見張り番
コロが我が家に来たのは、私が小学五年生の春でした。
父が会社の同僚から、生まれたばかりの子犬をもらってきたのです。
段ボールの中で、白い毛玉がきゅうきゅうと鳴いていました。
「名前は、お前が決めていいぞ」
父にそう言われて、私は迷わず答えました。
「コロ。ころころしてるから」
単純な理由でしたが、コロは自分の名前をすぐに覚えました。
最初の夜は、台所の隅に置いた段ボールの中で、ずっと小さな声で鳴いていました。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえる夜でした。
私は毛布を一枚持って、段ボールの横に座り込みました。
指先を差し出すと、子犬は生ぬるい舌でそっと舐めてくれます。
やがて鳴き声が止まり、小さな寝息に変わりました。
その寝息を聞きながら、私は朝までそこを動きませんでした。
この子を守るのだと、小学五年生なりに、本気で決めた夜でした。
呼べば耳を立て、尻尾を大きく振って駆けてきます。
賢い犬でした。
散歩の途中で、私が信号を見落としそうになると、リードを軽く引いて止めてくれます。
雨の日は、玄関で傘をくわえて待っていてくれたこともありました。
中学生になって部活が忙しくなると、帰りの時間はまちまちになりました。
それでも、不思議なことがありました。
どんなに遅くなっても、コロは坂の上の石垣に座って、私の帰る方角をじっと見ていたのです。
母は笑って言いました。
「コロは、あんたの足音が聞こえるんじゃない」
「それ、本当?」
「だって、曲がり角を曲がる前から、もう尻尾を振ってるのよ」
私が角を曲がると、コロはほんとうに全身で喜びました。
雨の日も、雪の日も、コロは石垣の上にいました。
濡れた毛が体に張りつき、いつもの倍ほど細く見えます。
「コロ、中に入ってなよ」
そう叫んでも、コロは首を横に振るように動かず、私の姿が見えるまで待っていました。
私が傘も差さずに駆け寄ると、冷たい鼻先が頬に押しつけられます。
家に帰ってタオルで拭いてやると、犬の体から立ちのぼる湿った匂いが、台所いっぱいに広がりました。
母に叱られながら、二人で笑ったのを覚えています。
石垣から飛び降り、私の足に体を押しつけ、鼻先を手のひらにこすりつけます。
その温かさが、一日の疲れを全部溶かしてくれました。
学校で嫌なことがあった日も、友達と喧嘩した日も、コロの前では素直に泣けました。
言葉のわからない相手に、いちばん多くの本音を話していたと思います。
石垣の上で小さく丸まるコロの背中に、私は何度も「ただいま」と言いました。
狭い庭と長い夜
コロが十歳を過ぎた頃、父の転勤が決まりました。
引っ越し先の借家は、庭が小さく、隣の家との距離も近い場所でした。
石垣も、坂道も、そこにはありません。
引っ越しの日、コロは車の後部座席に座らされました。
窓の外を流れていく景色を、不安そうに見つめていた横顔を、私はいまも思い出せます。
見慣れた石垣が、ミラーの中でだんだん小さくなっていきました。
コロは最後まで、後ろを振り返っていました。
あの石垣のそばに、自分の居場所があったことを、きっと知っていたのでしょう。
コロは新しい家の庭に連れて来られても、しばらく落ち着きませんでした。
鼻を地面に押しつけて、知らない匂いをひとつずつ確かめていました。
それでも一週間もすると、庭の隅に自分の寝床を決めました。
十七歳になる頃、コロの足は急に弱くなりました。
立ち上がろうとして、何度も後ろ足を滑らせます。
散歩に出ても、数十メートルで座り込むようになりました。
やがて目が白く濁り、耳もほとんど聞こえなくなりました。
獣医さんは言いました。
「年齢を考えれば、よく頑張っていますよ」
「何か、してあげられることはありますか」
「なるべく、そばにいてあげてください。それが一番です」
私は社会人になっていました。
朝早く家を出て、夜遅くに帰る毎日でした。
そのうえ、コロは夜中に大きな声で吠えるようになったのです。
遠吠えのような、長く尾を引く声でした。
隣の家の窓が開く音がして、母が謝りに行く姿を何度も見ました。
借家なので、コロを家の中に入れることもできません。
父も母も、疲れた顔をするようになりました。
「ごめんね、コロ。静かにしてくれる?」
私が声をかけても、コロの耳には届きませんでした。
吠え声は、毎晩のように続きました。
残業で帰りが遅くなる日が、ひと月に何度もありました。
終電を降りて家に向かう頃には、いつも日付が変わっていました。
玄関の鍵を開ける前に、庭の隅から、かすかな鼻息が聞こえることがありました。
そっと近づくと、コロは濡れた鼻先をこちらへ向けて、尻尾を一度だけ振るのです。
それだけで、一日の疲れが半分になりました。
玄関の灯りの下で、コロの毛の白さだけが、ぼんやりと浮かんでいました。
私はしゃがんで、背中を何度も撫でました。
指のあいだを抜けていく毛は、昔よりずっと細く、軽くなっていました。
「ごめんね、遅くなって」
そう呟くと、コロは目を細めて、私の袖に鼻先を押しつけます。
家族に気づかれないよう、私は小さな声で「おやすみ」を言い、部屋へ上がりました。
その夜、庭の吠え声は、いつもより早く止みました。
翌朝、母は「今日は静かだったわね」と、不思議そうに笑っていました。
私は黙って、味噌汁をすすりました。
私はその理由を、深く考えようとしなかったのです。
帰りを待っていたコロへ
冬が深まった、ある週末のことでした。
その日は、久しぶりに仕事が早く終わりました。
家に着いたのは、まだ夕方の五時前でした。
庭に回ると、コロが寝床から顔を上げ、濁った目をこちらへ向けました。
耳は聞こえないはずなのに、私の足音がわかったかのように、尻尾がゆっくりと揺れました。
「ただいま、コロ」
手のひらで頭を撫でると、コロは私の指をぺろりと舐めました。
そのとき、ふと気づいたのです。
夜中の遠吠えが始まるのは、いつも私が帰る時間の少し前でした。
私が深夜に玄関を開けて、庭のコロの頭を撫でると、吠え声はぴたりと止まります。
ただの偶然だと思っていました。
でも、違ったのかもしれません。
コロは石垣の上にいた頃と同じように、私の帰りを待っていたのです。
目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、待つことをやめなかったのです。
私は庭に座り込み、コロの背中に額をつけました。
体温は、昔より少し低くなっていました。
「ごめん。ずっと、待たせてたんだね」
コロは何も答えませんでした。
ただ、静かに目を閉じました。
その夜、私は父と母に頼みました。
「今夜は私が、コロのそばにいる」
毛布をかぶって、庭の寝床の隣に座り込みました。
風は冷たく、息が白く立ちのぼりました。
庭の土は冷え切っていて、座っているだけで足の先が痺れました。
それでも、毛布の中でコロの体を引き寄せると、わずかな温もりが胸に伝わってきました。
遠くの踏切が鳴り、電車が通り過ぎる音がしました。
いつもなら、この音を合図にコロは吠えはじめる時間でした。
けれど今夜、庭は水を打ったように静かでした。
コロの喉が、ときどき小さく鳴るだけです。
私は耳元で、ゆっくりと名前を呼びました。
「コロ。ここにいるよ」
聞こえないはずの耳が、ぴくりと動いた気がしました。
星は、驚くほどよく見えました。
コロはその夜、一度も吠えませんでした。
今度は私が、コロを待っていたからです。
明け方、空が白み始める頃、コロの呼吸はゆっくりと遠のいていきました。
体を撫でていた手のひらに、最後の鼓動が静かに伝わって、そして止まりました。
十八歳の誕生日を目前にした、冬の朝でした。
翌日、私は家族と一緒に、焼き場でコロとお別れをしました。
重い扉が閉じられた瞬間、頭に浮かんだのは、石垣の上のコロでした。
私の帰りを待っていたコロの姿でした。
あの背中は、今も私の中で、坂の上に座っています。
帰りを待っていたコロは、いまも私の記憶の中で、曲がり角のずっと向こうを見つめています。
曲がり角を曲がると、尻尾を振って、駆け下りてきてくれるのです。
「コロ、ただいま」
そう呟くと、胸の奥が、ほんの少し温かくなります。
動物との別れを描いた話に、猫のアンやリードを噛み千切りがあります。
どの話にも、待つ側の気持ちが、まっすぐに描かれています。
コロ、本当にありがとう。
あなたの優しい姿は、私の中でいつまでも生き続けます。