ミルと父

公開日: ちょっと切ない話 | ペット |

公園の隅

家には、十年ものあいだ一緒に暮らしていた猫がいた。

名前は「ミル」。白地に淡い灰色の柄が入った、シャム猫とどこかの雑種のような子だった。

その出会いは、広場の隅に停められた古い車の中。まだ子猫だったミルは、そこで眠っていた。

ある日、俺と姉ちゃんはその子を見つけて、どうしても放っておけず、家の庭まで連れ帰ってしまった。

餌をやりながら世話をするうちに、すっかり家族のような存在になった。

ただ――唯一の問題があった。

父親は、極度の猫嫌いだったのだ。

庭でミルに餌をやっている俺たちを見つけるたび、父は怒鳴り声をあげていた。

だからこそ、母親がミルを家の中で飼うことを許してくれたときは、驚いた。

のちに聞いたところによると、母も実は動物好きで、陰でこっそりとミルに餌をあげていたらしい。

俺と姉ちゃんは、自然と「ミル」と名前をつけた。

でも、父親は一度としてその名を口にしなかった。

近づいてくれば追い払おうとするし、目すら合わせない。ミルに対してだけ、まるで見えない壁を作っているようだった。

そんなある日、休日の朝のことだった。

父の部屋から、寝起きの低い声が聞こえてきた。

「こいつ、いつのまに寝てたんだ…」

部屋を覗くと、父の腹の上に、ミルが気持ちよさそうに丸くなっていた。

思わず吹き出した俺と姉ちゃんは、「お父さん、動けないじゃん! ミルの復讐かもね(笑)」とからかう。

けれど父は、いつものような仏頂面のまま、「…一体いつまで寝るんか。暑いったいね」と小さくつぶやいた。

それは、どこか呆れたようで、嬉しそうで――微かに笑みがにじむ顔だった。

それから、父のミルへの態度は少しずつ変わっていった。

ただ不思議だったのは、いつも餌をやったり遊んだりしていた俺や姉ちゃんよりも、ミルはなぜか父を一番に慕ったことだ。

昼寝は必ず父の部屋の座布団の上。夜になると、屋根裏部屋の急な階段をよじ登り、父のベッドで眠るのが日課となっていた。

家族はみな「なんであんな臭い部屋に行くの」と笑ったが、それでもミルは必ず父のもとへ行った。

父も、もう追い払うことはなかった。避けることもなかった。

けれど――やはり、ミルの名を呼ぶことはなかった。

年月は流れ、俺は高校三年に、姉ちゃんは社会人になった。

ミルは相変わらず元気で、病気ひとつせず暮らしていた。

一度だけ猫風邪をひいたことがあったが、すぐに回復して以来、特に大きな問題もなかった。

しかし、再び風邪のような症状を見せたミルは、今度はなかなか良くならなかった。

最初は大したことないと家族で話していた。

でも、一週間が過ぎても、二週間が過ぎても、ミルの様子は改善せず、鼻水も止まらなかった。

階段を登るのも、見るからに辛そうだった。

獣医さんに検査をしてもらうことになった。

検査結果が出たその日、俺は学校だった。

夕方、玄関を開けて「ただいまー」と声をかけると、母が真っ赤な目で椅子に座っていた。

その姿を見た瞬間、全てを悟った。

「ミル、どうだったの…?」

母は静かに言った。

「だめなんだって…白血病、なんだって…」

理解が追いつかず、涙が溢れた。

どうして。風邪じゃなかったのか。治るって信じていたのに――。

その夜の食卓は静まり返っていた。

父が帰ってきて、ビールを取り出す。

ミルのことを気にしているのは明らかだったが、なかなか口には出さなかった。

母がぽつりと「ミルね、もう治らないんだって…」と伝えると、父は驚いたように目を見開いた。

そして、悲しげな表情を一瞬だけ浮かべると、すぐにいつもの顔に戻って、「そうか…治らんはずだよな…」とだけつぶやき、ビールをぐっと飲んだ。

それだけだった。

けれど、父なりの悲しみの深さは、伝わってきた。

病気の発覚から一ヶ月、ミルはほとんど動けなくなった。

それでも餌を食べ、トイレに行こうとし、必死に生きていた。

父の部屋の座布団で静かに横たわるミルの姿を見るたび、俺も姉ちゃんも涙が込み上げた。

誰よりも先にミルに声をかけ、頭を撫でた。

その夜は、家族が揃ってテレビを見ていた。

突然、廊下から「ゴン」という音が響いた。

慌てて駆けつけると、そこには、ふらつきながらもトイレへ向かおうとするミルの姿があった。

何度も転びながら、それでも歩こうとしていた。

ようやくトイレを済ませたミルは、またゆっくりと父の部屋へ戻ろうとした。

その姿に、俺たちは声を上げて泣いた。

母がミルを抱き上げようとしたその瞬間――ミルは転び、そのまま動かなくなった。

荒くなった呼吸。尻から流れる血。そして、これまで聞いたことのない、苦しげな鳴き声。

「ウワォァー、ウワォァー、ウワォァー」

その時だった。

父が、ミルの小さな胸を押し始めた。

人間で言う心臓マッサージのように、必死に。

「ぐぅっ!…しなん!!…しなんでくれ!!…ミル!!!しなんとって!!」

父は泣いていた。

声を震わせ、涙を流しながら、何度も何度もミルの胸を押していた。

その姿を見て、俺も姉ちゃんも母も、大声を上げて泣いた。

そして――ミルの呼吸は、止まった。

一番長く泣いていたのは、父だった。

その後、ミルの体はタオルで包まれ、リビングに運ばれた。

家族みんなで、何度も撫でた。

その夜は、誰も部屋に戻らず、ずっとミルと一緒にいた。

そして、ミルとの思い出をたくさん語り合った。

ただ、父は何も話さなかった。

言葉ではなく、涙でミルへの愛を伝えていた。

ミルは、確かに父の一番大切な存在になっていた。

最後まで名前を呼ぶことはなかったけれど――ミルはきっと、わかっていたと思う。

「おまえが一番、俺のことを好きでいてくれたんだな」って。

関連記事

親子(フリー写真)

生んでくれてありがとう

母が死んで今日で一年が経つ。 高齢出産だったこともあり、俺の同年代の友達の親と比べると明らかに歳を取っていた。 「何でもっと若い頃に生んでくれなかったの!?」 と責め…

柴犬

最後まで守った芝犬

昔、私の近所に、亡き夫を偲びながら一人暮らしをしていたお婆ちゃんがいました。彼女の家には一匹の柴犬がいて、その犬はお婆ちゃんの日々の寂しさを癒していたようです。 お婆ちゃんは心…

ウェットフードを食べる猫(フリー写真)

猫エサ缶とコーヒー

俺はコンビニで一人夜勤をしている。 いつも夜中の3時くらいに、猫エサ缶とコーヒーを買って行くおっちゃんがいる。 おっちゃんが、 「うちの猫はこれしか食べないんだよ」 …

学校の机(フリー写真)

君が居なかったら

僕は小さい頃に両親に捨てられ、色々な所を転々として生きてきました。 小さい頃には「施設の子」とか「いつも同じ服を着た乞食」などと言われました。 偶に同級生の子と遊んでいて、…

新婦(フリー写真)

父が隠していた物

友人(新郎)の結婚披露宴での出来事。 タイムスケジュールも最後の方、新婦の父親のスピーチ。 ※ 「明子。明子が生まれてすぐ、お前のお母さんは病気で亡くなりました。 お前…

アスレチックで遊ぶ双子(フリー写真)

兄ちゃんはヒーローだった

兄ちゃんは、俺が腹が減ったと泣けば、弁当や菓子パンを食わせてくれた。 電気が点かない真っ暗な夜は、ずっと歌を唄って励ましてくれた。 寒くて凍えていれば、ありったけの毛布や服…

犬(フリー写真)

愛犬が繋いだ絆

11年間、飼っていた愛犬が亡くなった。 死ぬ前の半年間、自分はろくに家に帰らず、世話も殆どしなかった。 その間にどんどん衰えて行っていたのに、あまり見ることも触ることもなく…

猫

最期に選んだ場所

物心ついた頃から、ずっと一緒にいた猫が病気になった。 毎日名前を呼ぶと、必ず腕の中に飛び込んできていたあの子が、もう元気に動くことすらできなくなっていた。 獣医さんからも…

バー(フリー写真)

大好きな姉

20歳を迎えたその日、姉が雰囲気の良いショットバーに連れて行ってくれた。 初めてのバーに圧倒されている俺を見て、姉は 「緊張してんの? 何か子供の頃のアンタみたい」 …

チワワ

脳梗塞で亡くなったチワワ

今から3年程前の事です。 飼っていたチワワ(以下、まーちゃん)が脳梗塞で亡くなりました。 14歳でした。 まーちゃんは亡くなる前日まで元気で、死因が脳梗塞と聞いた時…