眠れない夜の数だけ、あの子はわたしの布団に潜り込んできました。
茶トラの雄猫で、名前をチャタといいました。姉が「茶トラだからチャタ」と、ものの十秒で決めた名前です。
ひどい雨の日に、姉が学校帰りに拾ってきたのです。わたしが中学二年、姉が高校一年の秋でした。
濡れた段ボールの中で、子猫は文句を言うでもなく、ただ静かに座っていました。
「お母さん、この子、鳴かないの。ずっと我慢してるの」
姉は玄関で泣きそうな顔をして、母が根負けするまで動きませんでした。
母は「お父さんに訊いてからよ」と言いながら、もう古いバスタオルを出していました。ああいうとき、母の手は口より正直なのです。
翌日連れて行った動物病院で、生後二ヶ月ほどの雄ですと言われました。雨に三日は打たれていたはずなのに、風邪ひとつ引いていない。「強い子ですよ」と先生は笑いました。
飼ってみてわかったのは、チャタが本当に「我慢の子」だということでした。
子猫の頃、一度だけカーテンに登って落ちたことがあります。それきり、二度と登りませんでした。失敗を黙って学ぶ猫でした。やんちゃの時代がないまま、あの子は大人になったのです。
ご飯の催促をしない。爪とぎは決まった場所でしかしない。抱き上げられれば、嫌でも腕の中でじっとしている。
その代わり、夜になると必ず、誰かの布団に潜り込みました。
ニョロニョロと足元から入ってきて、布団の中を一周し、背中と腰のあいだのくぼみに、ずしりと寄りかかって眠るのです。
湯たんぽよりも重くて、湯たんぽよりも温かい。それがわたしの家の、冬の標準装備でした。
チャタが布団に入ってくると、わたしは寝返りが打てなくなります。それでも、どかそうと思ったことは一度もありませんでした。あの重みは、家の中でいちばん確かな「大丈夫」だったからです。
真夏だけは、さすがに布団へ入って来ません。その代わり、敷居の向こうに前足をきちんと揃えて座り、家族の寝顔を順番に見て回っていたようです。夜中に目を覚ますと、廊下の暗がりに丸い影がありました。
父は「猫は外で飼うもんだ」と言っていたくせに、真冬にチャタが父の布団から出てこなくなっても、何も言いませんでした。朝、誰よりも早く起きてこっそり煮干しをやっていたのを、家族全員が知っていました。
母は母で、台所仕事のあいだ、足元のチャタに一日の出来事を報告していました。「お醤油が値上がりしたのよ」とか、「町内会の班長が回ってきちゃった」とか。チャタはうちの家族全員の、小さな聞き役でした。
※
チャタが来てから七年目に、姉が家を出ました。
進路のことで父と言い合いになり、売り言葉に買い言葉のまま、ボストンバッグ一つで出て行ったのです。家出といえば家出ですが、姉はもう二十三で、誰にも止める力はありませんでした。
玄関の戸が閉まる音を、わたしは台所で聞きました。
その夜から、家は静かになりました。
食卓の会話が減り、母は姉の茶碗を出しかけてはやめるようになり、父は新聞を読む時間が倍になりました。
姉からの連絡は、半年に一度の短いメールだけになりました。元気です、心配しないで。それだけ。母はそのメールを何度も読み返しては、畳の上のチャタに向かって「あの子、ちゃんと食べてるかしらね」と訊いていました。
チャタだけが、変わりませんでした。誰の布団にも公平に潜り込み、空気の固い食卓の下を、いつも通りの足取りで横切りました。あの足音に、家族みんなが救われていたと思います。
わたしは家では出来るだけ明るく振る舞いました。誰かがそうしないと、家の空気ごと固まってしまう気がしたからです。
でも本当は、わたしにも話したいことが山ほどありました。
職場の人間関係のこと。同期が先に昇進したこと。三年付き合った人との、うまくいかなくなりかけていた話。
一度、わたしのものではない発注ミスを押し付けられたことがありました。違いますと言えないまま頭を下げて、帰りの電車では窓の外ばかり見ていました。家に着く頃には、ちゃんと笑える顔を作っていました。
友達には、話せませんでした。家のことも、職場のことも、口にした瞬間に「重い人」になってしまう気がして。誰にでも明るいわたしでいるために、夜のチャタが必要だったのです。
そういう柔らかい話のできる空気は、あの夜、姉と一緒に玄関から出て行ってしまったのです。
だからわたしは、夜の布団の中で、チャタに話しました。
「ねえ、チャタ。今日ね、課長にまた書類を突き返されたんだ」
「お姉ちゃん、元気にしてるのかな。連絡ぐらいくれたっていいのにね」
「ねえ、チャタ。わたし、今日も言えなかったよ。違いますって、たった五文字なのにね」
チャタは何も言いません。当たり前です、猫ですから。
ただ、わたしが話している間は喉を鳴らすのをやめて、話し終わると、思い出したようにごろごろと鳴らすのでした。
まるで「聞き終わったよ」の合図みたいに。
その音を聞いていると、涙が出ました。誰かに聞いてもらえるというだけで人は眠れるものなのだと、あの頃のわたしは毎晩知りました。
思えば、贅沢な聞き役でした。相槌も打たない。助言もしない。ただ、そこにいて、温かい。悩みの答えは出ないのに、悩みの重さだけが、確かに軽くなっているのです。
※
一番ひどかった夜のことを、今でも覚えています。
結婚の話まで出ていた人と、別れた夜です。
理由は、ここに書くほどのことでもありません。ただ、三年分の予定が一晩で消えて、わたしは布団の中で声を殺して泣きました。
指輪を返して、駅の改札で別れて、家までの道をどう歩いたのか覚えていません。覚えているのは、玄関を開けたとき、上がり框にチャタが座っていたことだけです。まるで、帰りの遅い家族を案じる顔で。
家族を起こしたくなくて、タオルを口に当てて泣きました。
すると、足元から、いつもの重みが入ってきたのです。
チャタはその夜に限って、背中ではなく、わたしの胸の前に回り込みました。
濡れた頬のすぐ横に座って、ざらざらの舌で一度だけ、わたしの目尻を舐めました。
「……しょっぱいよ、チャタ」
それだけ言って、わたしは猫の毛に顔を埋めて眠りました。朝起きると、チャタはまだ枕元にいて、わたしの顔をじっと見ていました。
我慢の子が我慢をやめて、わたしを舐めたのは、後にも先にもあの夜の一度きりでした。
※
チャタは十六年、生きました。
最後の一年は腎臓を悪くして、点滴に通う日々でした。
異変に最初に気づいたのは、やっぱり夜でした。布団に入ってくる足音が、妙に遅いのです。水を飲む回数が増え、あんなにずしりとしていた重みが、少しずつ軽くなっていきました。軽くなっていく重みほど、悲しいものはありません。
週に二度の点滴は、わたしが会社を半休して連れて行きました。待合室のキャリーバッグに指を入れると、チャタは必ず、乾いた鼻先をちょんと当ててくれました。大丈夫、の合図だと勝手に決めていました。
病院の帰りのキャリーバッグの中でも、チャタは相変わらず文句ひとつ言いませんでした。
「我慢強い子ですね」と先生に言われるたび、わたしは胸の奥がきしみました。我慢なんて、しなくていいのに。
ある日先生は数値の紙を見ながら、もって春までかもしれません、と静かに言いました。帰り道、自転車を押しながら、わたしはキャリーバッグに何度も話しかけました。話しかけていないと、泣いてしまいそうだったのです。
家では食が細くなり、好物の鰹節さえ残すようになりました。それでも夜の見回りだけはやめず、よろよろと階段を上がっては、誰かの布団に潜り込みました。
最期は、春の朝でした。
縁側に薄く日が差して、チャタは母の膝の上で、眠るのと区別のつかない息の引き取り方をしました。
母が「チャタ」と呼んで、わたしが駆け寄って、父が新聞を持ったまま立ち尽くして。最後に撫でた背中は、まだ陽だまりみたいに温かでした。
最後の夜も、チャタはわたしの布団に来ていました。もう潜る力がなくて枕元で丸くなっただけでしたが、朝までずっと、小さく喉を鳴らしていました。
裏庭の隅、金木犀の根元に埋めることにしました。
穴を掘りながら、わたしは便箋を一枚、ポケットに入れていました。前の晩に書いた、チャタへの手紙です。
手紙は、何度も書き直しました。ありがとうだけでは足りなくて、ごめんねは違う気がして。結局、いちばん素直な言葉だけが残りました。
「いろいろお話を聞いてくれてありがとう。チャタがいたから、わたしはあの家で笑っていられました。オバケでもいいから、時々会いに来てね」
手紙はタオルにくるんで、チャタの胸のあたりに入れました。
母は「猫に手紙なんて」と笑いかけて、最後まで笑えませんでした。
土を被せ終わった頃、門の外にタクシーが停まりました。十年ぶりに見る姉は、少し痩せて、髪が短くなっていました。母が、電話だけはしていたのです。
姉は裏庭まで来ると、小さな土の盛り上がりの前にしゃがんで、「遅くなってごめんね」と言いました。チャタにか、家族にか、両方にか。誰も訊きませんでした。
その晩、姉は十年ぶりに家の食卓に着きました。チャタの思い出話だけで、二時間が経ちました。あの子は最後の最後に、一番大きな仕事をして逝ったのだと思います。
※
それから五年が経ちました。
わたしは相変わらず同じ会社に勤めていて、家には新しい猫がいます。キジトラの、よく鳴く賑やかな子です。
この五年のあいだに、わたしは三十を越え、職場の顔ぶれも変わりました。それでも、ストレスの種というのは形を変えて尽きないものです。
キジトラの子は、チャタの匂いの残った座布団が今でも好きです。猫同士にしかわからない引き継ぎが、あったのかもしれません。
賑やかな子はかわいい。でも、布団には入ってきません。足元の上に乗って寝るのが好きな子なのです。
比べてはいけないと思いながら、冬の夜、あのくぼみの空白にふと手をやってしまうことが、何度かありました。
つい二、三日前のことです。
人間関係の細々したストレスが積もって、夕方、立ちくらみを起こしました。貧血気味だから横になりなさいと母に言われ、早々に布団に入ったのです。
枕に頭をつけた途端、今日あった嫌なことが順番に顔を出してきます。こういう夜に限って、眠りはなかなか来てくれません。
うとうとと、眠りの縁を行ったり来たりしていたときでした。
足元の布団が、ふっと持ち上がりました。
ニョロニョロと、何かが布団の中を進んでくる気配がします。
ああ、キジトラの子が珍しく入ってきたんだな。寝ぼけた頭で、そう思いました。
その何かは布団の中をゆっくり一周して、それから、背中と腰のあいだのくぼみに、ずしりと寄りかかったのです。
ほんのりと温かくて、ずしりと重い。
湯たんぽよりも重くて、湯たんぽよりも温かい。
全身の眠気が、すうっと引きました。
この重み、知ってる。
この子じゃない。キジトラの子は、こんなに重くない。こんなふうに、くぼみにぴったり収まったりしない。
「……チャタ?」
「心配して、来てくれたの?」
布団をそっとめくると、重みはすうっと消えて、そこには誰もいませんでした。
廊下の先から、キジトラの子の鈴の音が聞こえました。あの子はずっと、居間にいたのです。
怖いという気持ちは、不思議なくらいありませんでした。
その代わり、申し訳なさが込み上げてきました。
死んでから五年も経つのに、まだこの子に心配をかけている。
三十をいくつも過ぎて、いまだに布団の中で励まされている。
情けなくて、ありがたくて、わたしはしくしく泣きました。あの夜と同じように、タオルを口に当てて。
そのまま泣きながら眠ると、夢を見ました。
夢の中で、チャタはご飯を食べていました。
若い頃の艶々の毛並みで、よく晴れた縁側で、カリカリと音を立てて食べていました。
わたしが見ていることに気づくと、ほんの一瞬だけ顔を上げて、また食べ続けました。
「聞き終わったよ」の、あの合図に似ていました。
目が覚めたとき、窓の外が白み始めていました。頬に涙の乾いた痕があって、それなのに、胸の中は不思議なくらい軽くなっていました。悩みの重さだけ、また持っていってくれたのです。
※
朝起きて、仏壇に線香を上げました。
チャタの小さな写真の前に、猫の餌をひとつまみ、お供えしました。
台所で母に昨夜の話をすると、母は味噌汁の手を止めずに「チャタなら、やるわよ」と言いました。その言い方があんまり当たり前で、二人で少し笑ってしまいました。
線香の煙の向こうで、写真のチャタは相変わらず文句のなさそうな顔をしています。我慢の子は、写真の中でも我慢の子でした。
それから少し迷って、姉に電話をかけました。
姉とは、あれから時間をかけて、少しずつ普通に話せるようになっていました。チャタの葬式の日に、十年ぶりに家の敷居をまたいだのが姉でした。
「もしもし、どうしたの、朝から」
「あのね。笑わないで聞いてね。昨日、チャタが布団に入ってきた」
電話の向こうで、姉がしばらく黙りました。
「……やだ。何それ」
「ほんとだってば」
「違うの。そうじゃなくて。私も先週、夢で見たの。チャタがご飯を食べてる夢。縁側で、カリカリ食べてた」
今度は、わたしが黙る番でした。
姉妹で同じ猫の話をして、朝から二人でちょっと泣いて、最後は笑いました。
「あの子、昔からそうだったよね。一番しんどい人のところに行く子だった」
姉の言葉で、思い出したことがあります。姉が家を出る前の晩、チャタは姉の布団にいたそうです。
ずしりと寄りかかって、朝まで動かなかったそうです。
それを聞いて、ようやく腑に落ちました。あの子はずっと、家中の「言えない夜」を、ひとつずつ背中で受け止めて回っていたのです。
電話を切る前に、姉が言いました。「今度の休み、そっち帰るね。チャタのお墓、草取りしなきゃ」。金木犀の根元は、もうすぐ夏草の季節です。
昨夜、キジトラの子が初めて、わたしの布団に入ってきました。
足元でしばらくもぞもぞして、結局、膝のあたりで丸くなりました。くぼみの場所は、まだ空けてあります。
あそこはたぶん、これからもチャタの席です。
あれから、布団に入る前に、くぼみのあたりを軽くぽんぽんと叩くのが癖になりました。おいで、の合図です。来ても、来なくても、いいのです。
人に話せば、寝ぼけていたのでしょうと言われるかもしれません。それでも構わないと思っています。あの重みの確かさは、十六年のあいだ、毎晩この背中で覚えたものなのですから。
悩みは、今もなくなりません。けれど、どうにもならない夜には思い出すのです。布団の中で喉を鳴らすのをやめて、じっと聞いていてくれた、あの小さな聞き役のことを。
だからこの話は、自慢でも怪談でもなく、ただのお礼です。
オバケでもいいから、時々会いに来てね。
あの手紙の願いは、ちゃんと届いていました。だからわたしも、もう少しだけ、ちゃんと生きようと思います。