同時に送ったメールと残りの一年

ハート(フリー素材)

『大事な話があるから、会えるかな』

彼女から、そんなメールが届いたのは、木曜の夜だった。

俺は、同じ文面を、打ち込んでいる最中だった。

同じ時間に、同じことを考えるんだな、俺たちは。

そう思うと、不安の底に、ほんの少しだけ、可笑しさが混じった。

画面の中で、二つの『大事な話』が、すれ違った。

土曜の夕方、いつものレンタル屋の駐車場で、待ち合わせた。

車を停めて、エンジンを切る。

助手席のドアが開いて、彼女が乗り込んでくる。

どちらも、すぐには口を開かなかった。

別れ話だと、お互いに、思っていたからだ。

ハンドルを握る俺の掌は、汗でびっしょり濡れていた。

これは、俺たちが、それぞれの『大事な話』を、同時に送信した日の話だ。

そして、残りの一年が、始まった日の話でもある。

彼女と出会ったのは、二年前の春だった。

俺の職場の近くに、古い定食屋があって、彼女は、そこのホールで働いていた。

俺は、週に三回は、その店で、唐揚げ定食を頼んだ。

三回目の来店で、彼女が、「いつもの、ですよね」と言った。

その一言で、俺の昼休みは、少しだけ特別な時間になった。

彼女は、働き者で、少しそそっかしかった。

お盆を持ったまま、テーブルの脚に、よくつまずいていた。

味噌汁をこぼしそうになるたびに、「セーフ」と小さく呟く。

その「セーフ」が聞きたくて、俺は、わざと奥の席に座った。

初めて二人で出かけたのは、梅雨の晴れ間の、日曜日だった。

海沿いの道を、俺の古い軽自動車で走った。

窓を全開にすると、潮の匂いが、車内に流れ込んでくる。

「海、久しぶり」と、彼女は、嬉しそうに髪を押さえた。

防波堤に並んで座って、コンビニで買ったおにぎりを食べた。

「具は、何が好き?」と、彼女が聞いた。

「ツナマヨ」

「子どもみたい」

そう言って、彼女は、声を出して笑った。

その笑い声が、波の音に、よく似合っていた。

夕暮れの防波堤で、彼女は、ぽつりと、昔の話をした。

「前の彼氏にね、お金、貸したことがあるの」

「いくら」

「三十万。結婚資金のつもりで貯めてたやつ」

彼女は、堤防の端から、足をぶらぶらさせていた。

「ある日、連絡が取れなくなってね。アパートも、引き払われてた」

「……ひどいな」

「うん。ひどかった。だから、しばらく、人を信じるのが、怖かったの」

波が、コンクリートにぶつかって、白く散った。

「でも、あなたは、私の『セーフ』を、聞きに来てくれたでしょう」

「聞きに来たって、唐揚げを食べに来ただけだよ」

「それでも、うれしかったよ」

俺は、その言葉に、返す言葉を、持っていなかった。

ただ、この人を、二度と、泣かせたくないと思った。

その夜、帰りの車で、俺は、いつもよりゆっくり運転した。

助手席の彼女の寝息を、一秒でも、長く聞いていたかったから。

同棲貯金の缶

付き合い始めて、半年が過ぎた頃だ。

俺は、空になった缶の菓子箱を、一つ買ってきた。

蓋に、マジックで、「いつか」と書いた。

「何それ」と、彼女が聞いた。

「同棲貯金。お金が貯まったら、一緒に住もう」

「いつか、って書いてあるけど」

「いつか、だよ。すぐじゃなくて、いつか」

彼女は、缶を両手で持って、ふふっと笑った。

「じゃあ、いつかまで、ちゃんと貯めてね」

毎月の給料日に、俺は、二万円を、缶に入れた。

千円札が、だんだん、缶の底を隠していった。

その秋、彼女は、初めて、俺の部屋に泊まった。

六畳一間の、狭いアパートだ。

彼女は、部屋の真ん中に立って、ぐるりと、見回した。

「二人で住むなら、もう少し、広いほうがいいね」

「いつか、な」

「いつか、ね」

彼女は、床に新聞紙を広げて、寝転がった。

「ここに、ソファ。ここに、小さい本棚」

指で、空中に、家具の位置を、描いていく。

「で、ここが、赤ちゃんのスペース」

「気が早いだろ」

「いいの、いつかの話だもん」

俺は、天井の染みを数えながら、笑った。

その染みが、彼女の指の先と、重なって見えた。

彼女は、遊びに来るたびに、缶を振って、中の音を確かめた。

「重くなってきたね」と、嬉しそうに言いながら。

数えてみたら、その夏の終わりには、十二万円になっていた。

いつか、が、少しずつ、近づいてくる気がした。

ある日、缶を開けたら、見覚えのない千円札が一枚、増えていた。

折りたたまれた札の間に、付箋が挟んであった。

『利子。ちゃんと、育ててね』

彼女の字だった。

俺は、その付箋を、缶の蓋の裏に貼った。

その一枚の、軽い紙が、どんな札束より、重く思えた。

彼女の誕生日には、缶から千円だけ抜いて、小さな花束を買った。

「缶、減っちゃうよ」と、彼女は花に顔をうずめて、笑った。

「いいんだ。花の分は、あとで、倍にして入れる」

「ほんと? 約束ね」

その約束を、俺は、翌月の給料日に、きっちり守った。

缶の底から、花の分だけ、また一枚、千円札が増えた。

背中の痛みと診断

最初に気づいたのは、背中の痛みだった。

その頃、缶の中身は、三十八万円になっていた。

目標の百万円には、まだ、遠かった。

計算してみた。

このペースだと、同棲できるのは、あと二年半後だ。

その計算を、俺は、診断の前の晩に、していたのだ。

一年では、足りない。

その事実が、診断の日から、頭の中で、ずっと、鳴っていた。

初冬の頃から、腰の少し上のあたりが、鈍く重かった。

仕事で重い荷物を運んでいたから、そのせいだと思っていた。

湿布を貼って、風呂で温めて、それでも痛みは引かなかった。

体重が、気づかないうちに、七キロ落ちていた。

「痩せたね」と、彼女が言った。

「ダイエット、成功」と、俺は笑ってごまかした。

けれど、その笑顔が、うまく作れていない気がした。

年の瀬の、仕事納めの日、俺は、初めて病院へ行った。

問診票を書く手が、少し震えた。

検査は、一日では終わらなかった。

血液を採られ、造影剤を打たれ、狭い機械の中で、じっと息を止めた。

結果を聞きに行ったのは、年が明けた、冷たい雨の日だった。

診察室の机の上に、白黒の画像が、何枚も並べられていた。

先生は、画像を指で示しながら、静かに説明してくれた。

専門用語が、耳の横を、素通りしていった。

覚えているのは、最後の一言だけだ。

「進行していて、手術は難しいです。このままだと、あと一年くらいかと」

俺は、「そうですか」と答えた。

不思議なほど、普通の声が出た。

診察室を出て、会計の列に並んだ。

診察室の時計が、秒針の音を、やけに大きく刻んでいた。

窓の外の雨が、窓枠で、細く跳ねていた。

前の席の、おばあさんが、飴をひとつ、俺にくれた。

「顔色が、悪いよ」と、おばあさんは言った。

俺は、「ありがとうございます」と頭を下げて、その飴を、ポケットに入れた。

駐車場に戻って、運転席に座った。

ハンドルに額をつけて、しばらく、そのままでいた。

雨が、フロントガラスを、ゆっくり流れていく。

最初に浮かんだのは、缶のことだった。

いつか、と書いた、あの缶。

いくら貯まっていたのか、思い出せなかった。

次に浮かんだのは、彼女の「セーフ」という声だった。

その声を、一年後には、もう聞けなくなる。

そう思った瞬間に、息が、うまく吸えなくなった。

残りの一年。

その言葉を、頭の中で、何度も転がした。

三百六十五日を、もう一度、数え直した。

待合室で、人の流れが、遠くなっていくのを感じながら、俺は、スマホを開いた。

彼は何時何分かだけ聞いたのような、誰かの話を、読もうとした。

けれど、一行も、頭に入ってこなかった。

帰りの車の中で、決めたことがある。

彼女には、顔を見て、話そう。

そして、彼女を、自由にしてあげよう。

一年後にいなくなる男に、彼女の時間を、縛らせてはいけない。

そう、自分に言い聞かせた。

本当は、ただ、怖かっただけなのかもしれない。

彼女が、泣くところを、見るのが。

正月、俺は、実家に帰った。

玄関を開けると、出汁の匂いがした。

母が台所で、雑煮の鍋を、かき混ぜていた。

「痩せたんじゃないの。ちゃんと食べてるの」

「食べてるよ」

父は、居間で、餅を切っていた。

ごつごつした、節くれだった指だった。

その指を見ながら、俺は、言おうとして、言えなかった。

父の背中が、去年より、少し小さく見えた。

「今年も、よろしくな」と、父が言った。

「うん。よろしく」

その「今年」が、俺には、最後の一年なのだ。

そう思うと、雑煮の餅が、喉を通らなかった。

帰りの電車の中で、彼が明日と言った踵のゴムの見出しを、何度も、開いては閉じた。

窓の外では、冬の田んぼが、白く凍りついていた。

二つの大事な話

その週の木曜の夜、俺は、何度も、メールの文面を書き直した。

『話したいことがある』

消した。

『大事な話があるから、会えるかな』

その文面で、送信ボタンを押そうとした、ちょうどそのときだった。

受信箱に、新しいメールが一通、届いた。

彼女からだった。

『大事な話があるから、会えるかな』

一字一句、同じだった。

俺は、携帯を持ったまま、しばらく動けなかった。

大事な話。

それは、別れ話の、いつもの前置きだ。

彼女も、きっと、俺の様子が、変なことに気づいている。

そして、見切りをつけようとしているのだ。

そう、思った。

そうであっても、おかしくはないと、思ってしまった。

返信は、短く打った。

『土曜の夕方、いつものとこで』

『了解』

後になって、彼女から聞いた話だ。

その週、彼女は、定食屋の更衣室で、一度、声を殺して泣いたらしい。

店主のおじさんが、「今日は、早く上がりな」と、黙って帰してくれたそうだ。

帰り道に、薬局で、検査薬を買った。

トイレの小さな窓の下で、赤い線が、はっきり浮かんだ。

「別れ話を切り出されても、産もうって、その場で決めた」と、彼女は笑った。

「だって、あなたに似た子が、見てみたかったから」

その決意を、彼女は、たった一人で、固めていたのだ。

その二文字を見て、俺は、携帯を、ベッドの上に投げた。

金曜は、仕事が、まるで手につかなかった。

上司に、二度、名前を呼ばれた。

昼の休憩室で、先輩が、自分の弁当の唐揚げを、一つ、俺の蓋に乗せた。

「お前、最近、食ってないだろ。食え」

俺は、「すみません」と言って、それを口に入れた。

衣が、じゅわっと、舌の上で崩れた。

彼女の店の唐揚げと、同じ味がした気がして、箸が止まった。

「どうした」

「いえ。うまいです」

そう答えるのが、精一杯だった。

仕事帰り、いつもは通らない遠回りの道を、わざと選んで走った。

信号待ちのたびに、助手席の空っぽを見た。

明日、そこに彼女が座っていることが、奇跡のように思えた。

昼休みに、いつもの定食屋の前まで行って、入らずに、引き返した。

彼女の「セーフ」を聞いたら、泣いてしまいそうだったからだ。

土曜の夕方が、来た。

レンタル屋の駐車場は、週末のせいで、いつもより、混んでいた。

俺は、いちばん奥の、端の区画に、車を停めた。

彼女は、約束の五分前に、来た。

薄いグレーのカーディガンに、細いジーンズ。

助手席に座ると、ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。

彼女は、シートベルトを、なかなか締めなかった。

両手を、お腹の前で、そっと組んだまま。

そんな座り方を、俺は、それまで、一度も見たことがなかった。

気になったが、そのときは、緊張しているせいだと思った。

しばらく、二人とも、前を向いたままだった。

フロントガラスの向こうで、親子連れが、DVDの袋を提げて、出てきた。

子どもが、袋を振り回して、母親に叱られていた。

窓の向こうに広がる、ありふれた土曜の景色が、急に、遠い国の景色のように見えた。

俺は、この景色の中に、あと一年しか、いられない。

「あのさ」と、俺が言った。

「あのね」と、彼女が言った。

同時だった。

「どうぞ」

「そっちから」

また、同時だった。

彼女が、先に、小さく噴き出した。

「何これ。私たち、変だね」

「変だな」

「ねえ、口で言ったら、きっと、泣いちゃうから」

彼女は、ポケットから、携帯を取り出した。

「メールで言おう。せーので、同時に送ろう」

「同時に?」

「そう。お互い、大事なことを書いて、せーので、送信」

残りの一年の始まり

断る理由は、なかった。

いや、本当は、少しだけ、ほっとしていた。

声に出さずに済むなら、まだ、言える気がした。

文字は、不思議だ。

声だと震えてしまう言葉も、親指でなぞると、まっすぐになる。

俺たちは、それぞれの携帯に、向き合った。

親指が、画面の上を、ゆっくり動く。

車内に、ボタンを押す音だけが、小さく響いた。

「書けた?」

「うん。そっちは」

「もうちょっと」

彼女は、唇を噛んで、最後の一文を、打ち込んでいた。

「いくよ」

「せーの」

二つの送信音が、重なった。

俺のメールは、こうだった。

『俺、ガンになったみたいで、あと一年くらいしか持たないんだって。』

『○○の事、本当に愛してるよ。』

『出会えて良かった。』

『○○のおかげで、凡人の一生の幸せ、三人分はもらったよ(笑)。』

『お金が貯まったら同棲して、いつか結婚しようって約束、守れなくてごめん。』

『正直、最後まで一緒に居て欲しいけど、無理にとは言わないから、○○の自由にしてくれ。』

『俺の最後の恋人が○○なのは、運命なのかな?』

『だとしたら、最高の人生だわ。』

彼女のメールは、こうだった。

『実は、妊娠しました。』

『生理が遅いなあと思って、放置してたんだけど、もしかしたらと思って、病院に行って来た。』

『「いつか同棲して結婚」って約束したの、覚えてる?』

『その「いつか」ってのすぐでもいい?』

『お金ないけど、やっていけないこともないだろうし。』

『本当に、○○と出会えて良かったと思うよ。』

『今まで、男に裏切られて来たけど、○○は違うって、解った。』

『もしかしたら運命の出会いなのかも、ってちょっぴり思ったよ(笑)。』

『でも、無理はしなくていいからね。』

『もし、改めてプロポーズしてくれるなら、早めにね。』

『もうちょっと待ってと言われたら、待つから。』

『子供を産んで、三人で幸せになりたいけど、○○が好きなようにしていいからね。』

二人とも、携帯を持ったまま、黙っていた。

車の外で、誰かが、カートを押す音が、遠くに聞こえた。

先に、画面から目を上げたのは、彼女だった。

「前から、思ってたけど」

彼女は、俺の顔を見て、泣きながら笑っていた。

「私たち、似たもの同士だよね」

俺は、うなずくことしか、できなかった。

喉の奥が、ぎゅっと詰まって、声が出なかった。

彼女は、俺のメールを、もう一度、頭から読み直していた。

「三人分も、もらったの?」

「ああ」

「私は、まだ、足りないくらいなんだけど」

そう言って、彼女は、俺の肩に、こつんと額をぶつけた。

「だから、一年じゃ、足りないよ。ね」

「あと一年しか、一緒に居られないのかあ」

彼女は、ゆっくり、息を吐いた。

それから、俺の手に、自分の手を重ねた。

その掌は、少し冷たくて、少し震えていた。

「自分の体の事で、結婚を辞めるってのは、やめてね」

「……ああ」

「あなたがいなくなっても、私ひとりで頑張るから」

「……ああ」

「だから、ね」

彼女は、涙を、親指の腹で拭った。

右の頬に、小さな笑みが、浮かんだ。

「残りの一年、最高の時を過ごせる気がするから」

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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