
美咲の指輪のサイズを、私は糸で測った。
眠っている左手の薬指に、裁縫箱の白い糸を一周させて、重なったところに爪で印をつけた。
あの夜のことを、美咲は一度も口にしなかった。
口にしなかった理由を、私は手紙で知った。
指輪のサイズを測った夜から、美咲がいなくなるまで、九か月。
その九か月を、順番に書いておきたい。
幼稚園のバスの隣
私(晃彦)と美咲は、沼津の同じ幼稚園のバスで、毎朝隣に座っていた。
最初の記憶は、美咲が私の上履きの左右を直してくれたことだ。
「ちがうよ。こっちが右」
四歳の美咲は、もうそういう子だった。
それから小学校、中学校、高校。
別々のクラスになった年も、帰り道は同じだった。
中学のとき、美咲は踏切の手前で、いつも私を待っていた。
電車が通り過ぎるまでの二分間、何も話さずに並んで立った。
その二分が、一日のうちで一番長い時間だった。
電車の最後の車両が過ぎると、美咲は決まって「行こ」と言って先に歩いた。
私は、その背中の半歩後ろを歩くのが好きだった。
高校の卒業式の帰り、海沿いの道で、美咲が先に言った。
「一緒に住もう」
私が言うつもりだった言葉を、美咲はいつも先に言った。
高校を出て、私は市内の自動車整備工場に就職し、美咲は歯科医院の助手になった。
二十歳の春、港の近くの古いアパートで一緒に暮らし始めた。
引っ越しの日、美咲が最初に運び込んだのは、祖母にもらった古い裁縫箱だった。
「これだけは、自分で持つ」
桐の箱で、蓋の裏に、小さな針山が縫い付けてあった。
美咲の母親は、最初、同居に反対した。
「結婚もしないで」
美咲は「する。順番が違うだけ」と答えた。
その言葉を、私は隣で聞いていた。
家賃は五万二千円。
二階の窓から、漁船の灯りが見えた。
夜、美咲はその灯りを数えた。
「今日は七つ」
「昨日は」
「九つ。二つ、沖にいる」
風呂の追い焚きが壊れていて、二人目はいつもぬるい湯に入った。
「先に入っていいよ」
「晃彦、油の匂いするから先に入って」
「じゃあ美咲がぬるいの」
「ぬるいの、慣れた」
美咲が湯から上がると、髪の先からぬるい湯が首に落ちて、いつも「冷たい」と言った。
慣れた、というのも嘘だったのだと、いまは思う。
給料日前は、二人で三百円のうどんを分けた。
美咲は、七味を入れすぎて、毎回むせた。
貧乏だったと思う。
けれど、美咲が「貧乏」と言ったのを聞いたことがない。
お帰りなさい、と美咲は毎晩、玄関に出てきて言った。
私の作業着の袖を両手で持って、油の匂いを嗅いで、「今日はブレーキの日」と当てた。
エンジンオイルの日、ミッションの日、洗車だけの日。
当たらない日はなかった。
「鼻がいいんだね」
「晃彦の匂いだけ」
休みの日、美咲は裁縫箱を開けて、私の作業着の膝を縫った。
針を持つ左手の薬指が、糸を押さえるたびに少し反った。
その指の形を、私は何度も見ていた。
美咲は、髪をかき上げるとき、必ず左手を使った。
その薬指に何もないことを、私は五年間、見ていた。
五年経って、私は二十五になった。
工場で正社員になり、給料が少し上がった。
プロポーズをしようと決めたのは、その年の夏の終わりだ。
指輪のサイズ
指輪のことは、何も知らなかった。
工場の先輩に聞くと「サイズが要る」と言われた。
「どうやって測るんですか」
「寝てる間に糸で測れ。俺はそうした」
先輩は、真面目な顔で言った。
その先輩の結婚式に、八月、美咲と二人で出た。
帰りのバスで、美咲が窓の外を見ながら言った。
「指輪って、石がないほうがいいな。仕事で手を洗うから」
「ふうん」
私は、そのとき、もう指輪のことを考え始めていた。
美咲は、それを知っていたのかもしれない。
いまは、知っていたのだと思う。
九月の夜、美咲が寝たあとに、私は裁縫箱から白い糸を出した。
桐の蓋を開ける音が、思ったより大きかった。
美咲は、左手を枕の横に伸ばして眠る癖がある。
薬指に、糸を一周。
重なったところに、爪で印をつけた。
息を止めていたので、終わったあと、大きく息を吐いた。
美咲の呼吸は、変わらなかった。
翌日、糸を持って駅前の宝石店へ行った。
店員は、糸を金属の棒に当てて「八号ですね」と言った。
「糸で測られたんですか」
「はい」
「皆さん、そうされますよ」
店員は、笑わなかった。
ショーケースに、二つの指輪が並んでいた。
小さな石のものと、石のないもの。
石のない方を選んだ。
美咲は、歯科医院で毎日手を洗う。
石があると、引っかかる。
バスの中で美咲が言ったとおりに、私は選んだ。
「お届けは十一月の頭になります」
領収書は、工場の自分の工具箱の底に隠した。
鍵のかかる場所が、そこしかなかった。
先輩が「工具箱に鍵なんかかけるな」と言った。
「見られたくないものがあるんです」
「指輪か」
先輩は、それ以上聞かなかった。
私は、十一月の第二土曜に、市内で一番洒落た店を予約した。
窓際の席。
海が見える、と店の人は言った。
それから二か月、私は台詞を考え続けた。
作業中にも考えた。
ボルトを締めながら「ずっと」と言い、トルクレンチを戻しながら「一緒に」と言った。
先輩に「独り言が多い」と笑われた。
その日の帰り、美咲が玄関で袖を嗅いで「今日は、何の日かわからない」と言った。
初めて、当たらなかった。
私は、台詞のことで頭がいっぱいで、その意味も考えなかった。
十月、美咲が二度、頭痛で仕事を早退した。
迎えに行った歯科医院の裏口で、美咲は壁にもたれて、左手でこめかみを押さえていた。
「歯医者さん、ずっと下向いてるから」
美咲は、そう言って笑った。
私は、信じた。
信じる方が、楽だった。
十月の半ば、美咲が予約の時間を書き間違えて、院長に叱られた。
帰ってきて、台所で、美咲は小さく言った。
「字が、ずれるの」
「疲れてるんだよ」
「そうだよね」
美咲は、メモ帳を閉じて、鞄にしまった。
十月の終わり、美咲が冷蔵庫の前で、少しの間立ち止まっていた。
「どうした」
「何を取りに来たか、忘れた」
「俺もよくある」
「そうだよね」
美咲は、牛乳を取って、戻した。
その夜、ぬるい風呂に入る順番を、美咲が初めて「先にいい?」と聞いた。
私は「いいよ」と答えた。
指輪のサイズのことで頭がいっぱいで、その順番の意味を考えなかった。
風呂場の重い音
十一月の木曜。
プロポーズの前々日だった。
指輪は、その日、宝石店から受け取って、作業着のポケットに入っていた。
工場から帰って、美咲が風呂に入っているのを確かめてから、台所で小箱を開けた。
石のない指輪が、天井の灯りを小さく返した。
台詞を、もう一度、声に出さずに言った。
そのとき、風呂場でガタガタッと音がした。
洗面器が倒れる音ではなかった。
重いものが、タイルに当たる音だった。
「美咲?」
返事がなかった。
扉を開けると、美咲が浴槽の縁にもたれるように倒れていた。
顔が、湯の色より白かった。
頭の中が、一度、真っ白になった。
救急車を呼んだ声が、自分の声に聞こえなかった。
救急車の中で、私は美咲の左手を握っていた。
薬指が、九月より細かった。
そのことに、私は気づいていながら、気づかないふりをした。
病院の廊下で、二時間待った。
自動販売機の音と、看護師の靴の音だけがした。
美咲の母親に電話をかけた。
三回かけ直して、やっと声が出た。
医者は、私を小さな部屋に呼んだ。
「美咲さんは脳腫瘍があります。場所が悪く、もう長くありません。はっきり申し上げますと、手遅れの状態です」
私は、その言葉を、言葉として聞くことができなかった。
音として聞いた。
「手遅れ、というのは」
「数か月、と考えてください」
運命を呪う前に、私は自分を呪った。
頭痛を、下向きの仕事のせいにしたのは、私だ。
字がずれると言った夜に、疲れだと言ったのも、私だ。
廊下の長椅子で、ポケットの小箱を握った。
角が、掌に食い込んだ。
その痛みだけが、自分がまだここにいることを教えていた。
明け方、美咲の母親が着いた。
私を見て、何も言わずに、頭を下げた。
「晃彦くん。ごめんね、こんなことになって」
謝られる理由が、わからなかった。
その日の昼、着替えを取りにアパートへ戻った。
玄関で、誰も「お帰りなさい」と言わなかった。
裁縫箱の蓋を開けると、あの白い糸がそのまま入っていた。
爪の印が、まだ残っていた。
私は、それを作業着の胸ポケットに入れた。
窓の外に、漁船の灯りが三つ見えた。
数える人が、隣にいなかった。
朝、工場に電話をして、休みをもらった。
先輩は「わかった」とだけ言った。
翌日、美咲の意識が戻った。
私は、何をどう伝えるべきか、朝まで考えていた。
けれど、美咲は目を開けて、天井を見て、私を見て、最初にこう言った。
「ごめんね」
全部わかっている人の、言い方だった。
私は、堪えきれなかった。
美咲の手を握って、声を出して泣いた。
美咲は、泣かなかった。
「晃彦。泣くと、油の匂いが濃くなるね」
そう言って、笑った。
病室の窓際のベッド
その日の夜、私は決めた。
予約した店に電話をかけて、事情を話した。
店の人は、少し黙ってから「お弁当をお作りします」と言った。
「それと、窓際の席の写真を、撮らせてもらえませんか」
店の人は、翌朝の開店前に、私を窓際の席に座らせてくれた。
海が、本当に見えた。
私は、その海を一枚だけ撮った。
翌日、病室で、私はプロポーズをした。
窓際のベッドだった。
海は見えなかった。
隣の棟の屋根と、鳩が二羽、見えた。
ベッドの上に、店の弁当を二つ並べて、海の写真を窓に貼った。
「窓際の席、ここでいい?」
「海、見えるね」
「貼っただけ」
「じゃあ、いい」
二か月考えた台詞は、一つも出てこなかった。
「結婚しよう」
それだけだった。
小箱を開けて、石のない指輪を出した。
美咲は、嬉しいような、悲しいような顔をした。
「石、ないんだね」
「手、洗うだろ」
「ありがとう。ごめんね」
そう言いながら、左手を出した。
薬指に、指輪を通した。
指輪は、少し大きかった。
第二関節で止まらず、根元まですっと落ちて、そこで回った。
美咲は、右手で指輪を押さえた。
「大きい?」
「ちょうどいい」
美咲は、そう言った。
私も、そう言った。
二人で、嘘をついた。
糸で測った指輪のサイズは、間違っていなかった。
間違ったのは、測ってから渡すまでの、二か月だった。
弁当は、二人で半分ずつ食べた。
美咲は、七味がないと言って笑った。
私は、売店で七味を買ってきた。
美咲は、入れすぎて、むせた。
看護師さんが、驚いて走ってきた。
それから二か月、私は仕事が終わると毎日病院へ行った。
美咲の母親と、交代で付き添った。
美咲の身体は、思うように動かなくなっていった。
最初は箸、次に、ペン。
看護師さんが、美咲の左手の指輪を、テープで止めてくれた。
「落ちちゃうから」
美咲は、そのテープの上から、指輪を何度も撫でた。
「回らなくなった」
「よかった」
「よくない。回る方が、好きだった」
私は、病室で美咲の髪を洗った。
洗面器の湯は、いつもぬるくした。
「追い焚き、まだ壊れてるの」
「直してない」
「直さないでいいよ」
「どうして」
「晃彦が先に入るから、ぬるいのは私でしょ」
美咲は、笑った。
話せる言葉が、日に日に少なくなった。
十二月の初め、美咲が私にメモ帳を見せた。
歯科医院で使っていた、患者さんの予約を書き込むメモ帳だ。
「これ、持って帰って。仕事の人に返す」
「わかった」
私は、鞄に入れた。
中を見なかった。
美咲が、ペンを握れなくなったのは、その三日後だった。
最後の一週間、美咲は私の名前と、「ごめんね」と、「ありがとう」だけを言った。
十二月の終わり、私が付き添う中で、美咲は眠るように静かになった。
笑っていた。
左手の指輪が、テープの下で、小さく光っていた。
窓の海の写真は、朝の光で、少し色が褪せていた。
メモ帳に挟まれた手紙
それからの私は、何もできなかった。
小さい頃から支えられて生きてきた支えが、突然なくなった。
朝、起きる理由がなかった。
玄関に、お帰りなさいを言う人がいなかった。
工場の先輩が、上司に話をつけて、私に二週間の休みをくれた。
その休みの間に、病室から持ち帰った美咲の荷物を整理した。
歯ブラシ、タオル、読みかけの文庫本。
そして、あのメモ帳。
仕事の人に返す、と美咲は言った。
返す前に、中を確かめた。
最後のページに、折り畳んだ便箋が挟まっていた。
美咲の字だった。
最初の数行は、しっかりしていた。
後半になるほど、字が大きく、斜めになっていた。
『こんな時、何を書いていいのか分からないね。
小さい頃からの付き合いだけど、本当に晃彦と出会えて一緒にいられて幸せだった。
出来ることなら、おじいちゃん、おばあちゃんになるまで、ずっと一緒にいたかった。
……ごめんね。
でもね、こんな私でも、夢に見たプロポーズをしてもらえて、とても嬉しかったです。
晃彦にはまだ先があるから、新しい人を見つけて、今度こそ幸せな家庭を築いてね』
そのあとに、思い出が、たくさん書いてあった。
幼稚園のバス。
上履きの左右。
踏切の二分間。
三百円のうどんと七味。
ぬるい風呂。
漁船の灯りの数。
そして、最後の方に、こう書いてあった。
『九月の夜、糸で指を測られたとき、起きてたよ。
笑いそうで、我慢した。
そのころ、もう頭が痛かった。
病院には、八月に一度、一人で行ってた。
先輩の結婚式の帰りに、石がないほうがいいって言ったのは、晃彦に選ばせたかったから。
でも、晃彦が糸を持っている手が震えてたから、言えなかった。
晃彦が指輪を注文してくれる前に言ったら、晃彦は注文しないと思った。
私は、注文してほしかった。
だから黙ってた。
指輪、大きかったよね。
糸で測った夜から、私の指は少しずつ細くなってた。
晃彦は、気づいてた。
気づいて、何も言わなかった。
晃彦のそういうところが、好きだった。
メモ帳、返さなくていいよ。
こうすれば、晃彦が開けると思って。
これまで、ありがとう。
心から、晃彦を愛してます。
……美咲』
私は、便箋を持ったまま、台所の床に座った。
指輪は、少し大きかった。測った夜、美咲はもう痩せ始めていた。
美咲は、私が測った指輪のサイズを、最後まで「ちょうどいい」と言い続けた。
私は、泣きながら笑っていた。
美咲がもういないということと、お互いが最後まで同じ嘘をついていたということを、そこで初めて、本当のこととして受け取った。
美咲の分も、生きようと思った。
それが、できるかどうかは、わからなかった。
それから一年が経つ。
私は、いまも同じアパートに住んでいる。
風呂の追い焚きは、直さなかった。
一人で入る湯は、いつもぬるい。
気がつけば、美咲と撮った写真を見てしまう。
それでも、前を向いて、足掻きながら、精一杯生きている。
工場では、工具箱の鍵をかけなくなった。
隠すものが、なくなったからだ。
石のない指輪は、桐の裁縫箱の中にある。
あの白い糸と、一緒に。
「美咲。私は、独りでも何とかなりそうだ。美咲が残してくれた手紙のおかげだよ。ありがとう。……私も、心から美咲を愛しています」
玄関で、そう言ってから、仕事に出る。
返事はない。
ただ、作業着の袖から、今日もブレーキの匂いがする。