両親への感謝

教室

教員になって三十一年目の春、私は最後の授業をしました。

その授業のテーマは、両親への感謝です。

私が考える教育の究極の目的は、「親に感謝し、親を大切にする」ことだと思っています。

高校生は、自分の力でここまで来たと錯覚しがちです。

三年間見てきて、その思い込みの強さに何度も驚きました。

お弁当の中身に文句を言う生徒がいました。

迎えの車の中で、返事もしない生徒がいました。

そのたびに、私は胸の内で思っていました。

いつか、きちんと伝えなければならない、と。

その機会を、私は最後の卒業式の日に決めました。

前の晩、職員室で一人、配る資料も持たずに、話す順番だけを何度もなぞりました。

この授業を思いついたのには、理由があります。

私自身が、父の手を握った記憶が、ほとんどないのです。

父は、私が大学を出る前の冬に、亡くなりました。

病室で最後に握った手は、驚くほど軽く、冷たいものでした。

もっと早く、あの手に礼を言っておくべきだった。

その悔いが、三十年たっても、私の中に残っています。

生徒たちには、同じ思いをしてほしくなかったのです。

だからこそ、両親への感謝を、まだ手の届くうちに伝えてほしかったのです。

言葉にするのが照れくさいなら、手を握るだけでもいい。

そう考えて、この形を選びました。

両親への感謝と視聴覚室

その年の卒業式は、よく晴れた日でした。

式が終わり、体育館のざわめきが遠のいたころです。

私は三年生全員と保護者に、視聴覚室へ集まってもらいました。

卒業証書の筒を抱えた生徒たちは、少しはしゃいでいました。

写真を撮ったり、袖のボタンを交換したりしていました。

保護者の方々は、慣れない場所で、きちんと背筋を伸ばしていました。

仕事を休んで来た方も、いらっしゃったと思います。

スーツの袖口が、少し擦り切れた父親もいました。

急いで来たのか、髪をまとめきれていない母親もいました。

どの方も、式の最中、ずっと同じ姿勢でわが子を見ていました。

私は、まず席を入れ替えてもらいました。

生徒は後ろの床へ、保護者は生徒の席へ座ります。

生徒用の椅子は小さく、大人の膝が机の天板に当たりました。

窮屈そうに座る父親の背中が、並んで見えました。

生徒たちは、その隣に正座しました。

冷たい床のリノリウムが、足に触れる音がしました。

暗幕を引くと、部屋が少し暗くなりました。

カーテン越しの光が、床に白い筋を落としていました。

壁の時計が、乾いた音で秒を刻んでいました。

教壇に立つと、見慣れた部屋が、いつもより広く感じられました。

後ろの席には、担任を務めた三年間の記憶が、すべて並んでいるようでした。

「それでは、全員、目を閉じてください」

私の声は、思ったより低く響きました。

ざわめきが、すっと引いていきました。

閉じた目の裏側

「今までの人生で、お父さんやお母さんに心配をかけたことを、思い出してください」

私は、ゆっくりと話しました。

「交通事故にあった日のこと。夜中まで帰らなかった日のこと」

「親子喧嘩で、ひどい言葉を投げた日のこと」

「学校から呼び出しの電話が行った日のことです」

誰かの鼻をすする音が、聞こえました。

最初に泣いたのは、いつも教室の隅で腕を組んでいた男子でした。

三年の夏に、自転車で転んで骨を折った生徒です。

あの日、彼の父親は、作業着のまま病院に駆けつけたそうです。

袖口には、機械油の黒い染みがついていたと、後で聞きました。

「あなたたちが高校に通えたのは、ご両親が働いてくれたからです」

「毎朝のお弁当も、制服も、教科書も、授業料も」

「それがどこから来ていたのか、考えたことがありますか」

私は一人ひとりの顔を、思い浮かべながら話しました。

毎朝、始発に近い電車で、現場へ向かう父親のこと。

夜、帰宅してから、また台所に立つ母親のこと。

保護者面談の日に、「うちの子は、家では何も話さなくて」と笑っていた方々の顔が浮かびました。

その笑顔の奥に、どれほどの心配があったのかを、私はあまり考えてこなかったのです。

「学校の先生への感謝も大切です」

「ですが、その前に、まず自分の親に感謝しなければなりません」

すすり泣きが、あちこちで始まりました。

母親たちは、ハンカチを握りしめていました。

前の列の母親は、肩をすぼめて、声を殺していました。

膝に置いた手の甲に、涙が一粒、落ちました。

その手の中指には、薄い絆創膏が巻かれていました。

台所仕事の傷かもしれません。

そう思うと、私も言葉を続けにくくなりました。

父親たちは、目を閉じたまま、じっと動きませんでした。

その背中が、小さく震えているのが分かりました。

握りしめた手

私は、少し間を置いてから言いました。

「もし、心の底から感謝しているなら、今、それを形にしましょう」

「隣にいるお父さん、お母さんの手を握ってください」

衣擦れの音がしました。

正座した生徒たちが、そっと手を伸ばします。

最初は、ためらうような指先でした。

すぐに、ぎゅっと握る力に変わりました。

私は、目を閉じた皆さんに語りかけました。

「その手は、あなたを抱き上げた手です」

「熱を出した夜に、額に当てた手です」

「あなたを育てるために、休まず働いてきた手です」

「どうか、決して忘れないでください」

私の声も、少し震えていました。

握られた母親の手は、あかぎれで荒れていました。

父親の手は、爪が厚く、節くれ立っていました。

どれも、日々の仕事の跡でした。

握った息子が、驚いたように目を開けかけて、また慌てて閉じるのが見えました。

「痛くないか」と、父親が小さな声で聞きました。

息子は、首を横に振りました。

それから、声にならない声で、何かをつぶやきました。

聞こえませんでしたが、父親の口元が、ゆっくりと緩みました。

自分の親の手が、こんなに固かったことを、初めて知ったのでしょう。

「今、握っている手に、心の中で伝えてください」

「ありがとう、と」

部屋のあちこちで、嗚咽が漏れました。

私は、しばらく何も言いませんでした。

言葉は、もう必要ありませんでした。

五分ほどだったでしょうか。

けれど、あの部屋の時間は、ふだんの何倍も長く感じられました。

窓の外で、下校する下級生の笑い声がしました。

その声が、遠い世界のもののように聞こえました。

暗い部屋の中では、ただ呼吸の音だけが重なっていました。

一人の女子生徒が、母親の指を一本ずつ確かめるように握り直していました。

小さいころ、手をつないで歩いた道を、思い出していたのかもしれません。

授業のあとに

やがて、私は静かに言いました。

「ゆっくり、目を開けてください」

まぶしそうに瞬きをして、皆が顔を上げました。

泣きはらした目が、隣の親と合いました。

どちらからともなく、手を握ったまま、笑いました。

目の縁が赤いのは、親も子も同じでした。

「お前、いつの間に、こんなに大きくなったんだ」

どこかの父親が、鼻声でそう言いました。

息子は、何も答えず、何度もうなずいていました。

照れくさそうに笑う生徒もいました。

母親の肩に、額を押しつけている生徒もいました。

父親の背広の袖を、離さない生徒もいました。

ふだんは強がっていた生徒ほど、最後まで顔を上げられませんでした。

彼らの背中は、教室で見てきたどの背中よりも、小さく見えました。

「今日の授業で伝えたかったのは、両親への感謝です」

「これで、私の最後の授業を終わります」

それだけ言って、私は教卓の前で頭を下げました。

拍手は、起きませんでした。

代わりに、椅子のきしむ音と、鼻をかむ音が、いつまでも続きました。

私が視聴覚室を出ようとしたとき、後ろから呼び止められました。

腕を組んでいた、あの男子生徒でした。

隣には、作業着の父親が立っていました。

彼は何か言おうとして、言葉に詰まっていました。

父親が、大きな手で、その頭を黙って押さえました。

それで十分でした。

廊下の窓から、校庭の桜が見えました。

風に、白い花びらが流れていました。

この桜の下を、彼らは今日、最後にくぐって帰ります。

明日からは、それぞれの土地で、それぞれの暮らしが始まります。

親元を離れる生徒も、少なくありません。

次に親の手を握るのは、いつになるのでしょうか。

きっと、すぐにはやって来ないでしょう。

だからこそ、今日の手の重さを、少しでも覚えていてほしいと思いました。

振り返ると、視聴覚室の中で、親子が抱き合っていました。

誰も、携帯電話を取り出そうとしませんでした。

写真に残すより、手のぬくもりを覚えておきたかったのでしょう。

私はそっと扉を閉めました。

廊下に出ると、急に足の力が抜けて、壁に手をつきました。

三十一年分の教室が、頭の中を通り過ぎていきました。

この授業が、彼らにとって、ただの卒業式以上のものになることを、私は願っています。

あの日の両親への感謝を、いつか思い出してくれたら、教員として何よりの幸せです。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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