モンロヴィアへ
公開日: 心温まる話
太平洋戦争が終わって間もない頃、彼女は単身ニューヨークに留学しました。
ところが、待っていたのは人種差別…。
栄養失調と精神的プレッシャーが重なり、肺結核に罹ってしまったのです。
医者に、
「すぐに手術を受けなければ、手遅れになる。
モンロヴィアにアメリカで一番のサナトリウムがあるから、そこへ行きなさい」
と言われましたが、その旅費さえありません。
何とかしてモンロヴィアへの旅費をカンパなどで集め、旅立ちます。
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巨大なアメリカ大陸を、東から西への特急列車。五泊車中で過ごす長旅。高熱と吐き気のある病人にとっては苛酷な旅です。
彼女の持参した食物も三日で無くなり、車掌さんにジュースを頼みました。
その車掌さんは彼女をじーっと見て、
「あんたは病気だね、どこが悪い?」
と尋ねました。暫くしてジュースを持って来て、
「お金はいらないよ」
と言い、立ち去って行きました。
※
明くる日の朝食の時、またジュースとサンドイッチを持って来て、
「お金はいらいないよ」
とただ一言。そして、
「どこへ行く?」
と聞かれたので、終点のロサンゼルスから1時間以上、バスに乗ってモンロヴィアの病院へ行くと彼女は告げました。
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あくる日の夕刻、終点のロサンゼルスに着く予定の列車でした。
「みなさま、この列車にモンロヴィアの病院へ行く、日本人学生が乗っています。
彼女は病気です。
ワシントン鉄道省に電報し話し合ったところ、臨時停車せよということになりました。
明日一番に停車するのは、ロスではなくモンロヴィアです」
と突然、車掌さんのアナウンスが流れました。
その夜、車掌さんは沢山の重い荷物を手早くまとめてくれ、降車口に運んで下さったそうです。
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翌朝、夜明けと共にモンロヴィアに到着すると、車椅子が用意されていました。
そして、列車の一等、二等、窓と言う窓から、顔、顔、顔…。
名刺や電話番号、住所を書いたメモ、何十ドルかの札が投げられ、
「必ず治るよ、頑張って!困ったら、連絡しなさいよ!」
口々にそんな言葉が贈られました。
彼女は涙が溢れて視界が見えなくなり、いつまでもいつまでも列車を見送ったと言います。
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そして、闘病生活3年の間、見舞い客が絶えることなく来てくれたそうです。
その見舞い客とは、列車で一緒になった人々でした。
更に手術や入院費などの莫大な費用は、彼女の知らないうちに、誰かの手によって支払われていました。