声を失った猫が一度だけ鳴いた夜

猫

声を失った猫が、俺の部屋で一度だけ鳴いた夜がある。

昔話だけど、あの晩のことは、今でも昨日のことのように思い出せる。

空き地で鳴いていた子猫

尾道の坂の下に、草ぼうぼうの空き地があった。

梅雨明けの蒸し暑い夕方、そこから、かすれた声がずっと聞こえていた。

最初は、鳥かと思った。

近づくと、草の根元に、段ボールの切れ端が落ちていた。

その陰に、小さな塊がうずくまっていた。

子猫だった。

目は、目やにで固く塞がっていた。

毛は泥と膿で固まり、どこが顔かもわからない。

正直に言えば、化け猫のようで、触るのを躊躇した。

「おい、生きとるんか」

返事のかわりに、子猫は口を開けた。

鳴いている。

声の限りに、鳴いている。

けれど出てくるのは、息の漏れる音ばかりだった。

俺は上着を脱いで、その塊をくるんだ。

想像していたより、ずっと軽かった。

そのまま、坂の途中の動物病院へ走った。

閉院間際だった。

白衣の先生は、眼鏡の奥で眉を寄せた。

「目は、洗えば開くかもしれん」

「ただ、命の保証は、できませんよ」

「それでも、お願いします」

自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。

その夜、子猫は点滴を受け、俺は待合室の椅子で朝を待った。

自販機の缶コーヒーは、ひと口も減らなかった。

壁の時計が、五分ごとに、小さく音を立てた。

廊下の奥から、先生が何度か、ガラス越しに様子を見に来た。

夜明け前、先生は小声で言った。

「まだ、息はあります」

その一言だけで、俺は椅子の上で、膝から力が抜けた。

鳴かない美猫の暮らし

一週間後、目が開いた。

薄い琥珀色の目だった。

毛並みは、ひと月もすると、見違えるほど艶が出てきた。

白に、背中だけ薄い灰色の斑。

近所の人に「ええ猫じゃのう」と声をかけられるたび、俺は少し誇らしかった。

名前は、ゆきにした。

拾った日の空に、梅雨明けなのに、白い綿毛が舞っていたからだ。

ゆきは、鳴かない猫だった。

あの空き地で声の限りに鳴き続けたせいだろう。

声帯が潰れていると、先生は言った。

「治らんと思いなさい。でも、本人は苦にしとらんよ」

その言葉どおり、ゆきは苦にしなかった。

腹が減ると、俺の足元に来て、口だけを大きく開けた。

ゆきは、口だけを大きく開けて、声のない鳴き方をした。

最初は、それを見るたびに胸が詰まった。

だが、そのうち慣れた。

声のかわりに、ゆきは尻尾で話した。

立てた尻尾が震えれば、嬉しい。

床に叩きつければ、機嫌が悪い。

俺が帰ると、玄関の磨りガラス越しに、灰色の影がじっと立っていた。

仕事で遅くなった夜も、ゆきは起きて待っていた。

「ただいま」

返事は、声のない口の動きだった。

「うん、ごめん。遅くなった」

会話は、それで成り立っていた。

当時の俺は、小さな印刷会社を、学生時代からの友人と二人で回していた。

忙しかったが、楽しかった。

刷り上がった紙の匂いと、ゆきの体温があれば、それで十分だと思っていた。

日曜の午後には、窓辺に二人で並んで、尾道水道を通る船を数えた。

渡船の汽笛が鳴ると、ゆきは耳だけをぴくりと動かした。

自分の喉からは、もう二度と出ないはずの音だった。

それでも、他人の声に耳を貸すことは、決してやめない猫だった。

俺は、それがたまらなく好きだった。

ゆきは、船が通るたびに尻尾を一度だけ揺らした。

声のない会話に、俺はいつのまにか、不自由を感じなくなっていた。

隣の家の男の子が、ある日、窓越しにゆきを覗いて言った。

「このネコ、なんで鳴かんの」

「声を失った猫なんよ。小さいころ、鳴きすぎてな」

「かわいそう」

「そうでもないで。ほら、尻尾を見てみい」

ゆきは、男の子の声に合わせて、尻尾をゆっくり左右に振った。

男の子は、それで納得したように、にっと笑った。

それから毎週、その子は、ゆきに会いに来るようになった。

電気を消した部屋

三十九の秋に、すべてが崩れた。

共同経営者の友人が、会社の口座の金を持って、いなくなった。

月末の入金確認で、通帳の数字が、桁ごと足りないことに気づいた。

何度見ても、数字は変わらなかった。

友人の携帯は、すでに繋がらなくなっていた。

机の引き出しには、鍵だけが、きれいに揃えて置いてあった。

取引先への支払いは、全部、俺の名前で残った。

電話が鳴るたびに、背中が冷たくなった。

知らない番号には、出られなくなった。

やがて、会社の鍵を返す日が来た。

工場のシャッターが降りる音は、思ったより短かった。

その晩から、俺は部屋の電気をつけなくなった。

カーテンを閉めて、床に座って、壁を見ていた。

飯は、食べたり食べなかったりした。

朝が来るのが、怖かった。

朝が来れば、また電話が鳴る。

また誰かに、頭を下げなければならない。

それを考えるだけで、体が動かなくなった。

ゆきは、そんな俺のそばを、離れなかった。

膝の横に座って、じっと俺の顔を見ていた。

腹が減っているはずなのに、餌の皿の前には、いつも一度戻るだけだった。

そのうち俺は、ゆきの皿に水を足すのも、忘れた。

「悪いな、ゆき」

「俺、もう、何もしたくないんじゃ」

ゆきは、瞬きを一つして、俺の手の甲に額をこすりつけた。

その温かさにすら、何も返せなかった。

ドアを叩く音がした日もあった。

息を殺して、居留守を使った。

しばらくして、郵便受けに、何かが差し込まれる音がした。

夜中にそっと開けてみると、ドアノブに、小さなビニール袋が下がっていた。

中には、まだ温かいおにぎりが二つと、メモ用紙が入っていた。

〈食べんさい。三好〉

向かいに住む、七十過ぎの未亡人の字だった。

俺は、おにぎりを一つ食べた。

もう一つは、半分にちぎって、ゆきの皿に乗せた。

ゆきは、匂いだけ嗅いで、また俺の膝に戻ってきた。

声を失った猫の一声

その晩のことは、時間まで覚えている。

夜の十一時を少し過ぎていた。

窓の外で、風が電線を鳴らしていた。

俺は、床の上で膝を抱えたまま、動けずにいた。

このまま何もかも手放して、朝を迎えなければいい。

そんなことを、ぼんやり考えていた。

そのとき、ゆきが窓の桟から降りて、俺の足元にまとわりついた。

いつもの、声のない口の動きだった。

俺は目を閉じた。

そのときだ。

掠れた、小さな、しかし確かに音のある声が、暗がりに響いた。

「ニャー」

「ニャー、ニャー」

俺は、目を開けた。

ゆきが、鳴いていた。

喉を絞るような、潰れた声だった。

子猫のころに空き地で枯らしたはずの声が、そこにあった。

あの日まで一度も鳴かなかった猫が、俺の足元で、鳴いた。

ゆきは逃げなかった。

抱き上げた腕の中で、琥珀色の目だけが、まっすぐ俺を見ていた。

それは、あの空き地で初めて目が開いた朝と、同じ目だった。

俺は、手を伸ばして、ゆきを抱き上げた。

細い体が、小刻みに震えていた。

声を出すたびに、喉が痛むのだろう。

それでもゆきは、鳴くのをやめなかった。

「わかった。わかったから」

気づけば、俺は泣いていた。

声を抑えることもできず、猫を抱いたまま、床に額をつけて、泣いた。

泣き疲れて顔を上げると、窓の外が白み始めていた。

俺は、台所へ行って、ゆきの皿に、水を満たした。

それから、冷蔵庫の奥にあった猫缶を、開けた。

ゆきは、ごはんを食べながら、時々こちらを振り返った。

その目に映っている自分の顔を、俺は初めて、ちゃんと見た気がした。

その日の昼、俺は、固定電話の前に座った。

いちばん怖かった番号から、順に、かけていった。

頭を下げることは、思ったほど、立てなくなるほどのことではなかった。

支払いの猶予は、半分の取引先が、のんでくれた。

残りの半分とは、今も毎月、分割で付き合っている。

会社は畳んだが、三年かけて、借りたものは返し終えた。

今は、小さな倉庫で伝票を整理する仕事をしている。

夜、帰ってくると、ゆきは相変わらず、玄関の磨りガラスの向こうに立っている。

口だけを開けて、声のない出迎えをする。

俺は、それで十分だと思っている。

あれから、ゆきの声が出たのは、あの晩の一度きりだった。

先生に診てもらったが、理由は、わからなかった。

「たまたま、残っていた息が通ったのかもしれません」

先生は、そう言った。

数日後、三好さんに、空になった弁当箱を返しに行った。

「あの晩、うちの猫が、鳴きまして」

「ほう。あの声の出ん子がかね」

三好さんは目を丸くして、それから、皺の深い目を細めた。

「それは、あんたを呼んだんよ」

それ以上、三好さんは、何も言わなかった。

俺は、そうは思っていない。

うちの猫は、俺の命の恩人だ。

今でも十八年以上、長生きしてくれている、最高の猫だ。

母が毎月こっそり冷凍庫に残していた、炊き込みご飯の話を読んだことがある(母が最後に作った炊き込みご飯)。

名前を添えて渡された鉢植えが、よその家の窓辺で咲き続けた話もある(親指姫のチューリップを選んだ子)。

声を失った猫のことを思うと、いつも、小さな存在が人を引き戻す力に、頭が下がる。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。