俺が小学五年生だった頃、海の近くの古い町に住んでいた。
潮の匂いがいつも町に満ちていて、風の強い日は、窓ガラスが一日中、低く鳴っていた。
漁師町の子どもは、みんな日に焼けて、声が大きかった。俺も例外ではなく、勉強より、海で石を投げて遊ぶほうがずっと好きな悪ガキだった。
その年のクラスに、ほとんど学校へ来ない女の子がいた。名前を、こはるちゃんといった。
体が弱いとかで、たまに来たと思ったら、昼前にはもう早退してしまう。
正直に言えば、最初の俺は、ずるいなと思っていた。あの子だけ、好きなときに休めて、誰にも怒られない。
子どもの俺には、それが、ただの特別扱いに見えていたのだ。
※
こはるちゃんの家は、俺の家から坂を下りてすぐの、漁師町の一角にあった。
だから、連絡帳を届ける係に、自然と俺が選ばれた。
先生に放課後、呼び止められたとき、俺は思いきり、嫌な顔をした。
「先生、なんで俺なんですか。めんどくさいです」
先生は笑って、こう言った。
「お前の家が、いちばん近いからだよ。頼んだぞ」
こうして、毎日の往復が始まった。連絡帳を預かり、坂を下りて、こはるちゃんの母親に渡す。翌朝また受け取って、先生に届ける。その繰り返しだった。
放課後に友達と浜でサッカーをしたいのに、坂を下りて、また上らなければならない。
「お前、また連絡帳係かよ。可哀想にな」
友達にそうからかわれるのも、子ども心に、地味に応えた。
こはるちゃんの家の玄関は、いつも薄暗くて、奥のほうから、かすかに薬の匂いがした。
その匂いが、俺はなんとなく苦手だった。だから、連絡帳を渡すと、いつも逃げるように帰っていた。
それでも、日が経つにつれて、不思議と、その往復が苦ではなくなっていった。
こはるちゃんのお母さんは、俺が連絡帳を渡すたびに、必ず深く頭を下げた。
「いつも、本当にありがとうね。寒い日も、雨の日も」
ときには、飴玉を一つ、そっと握らせてくれることもあった。
その飴の甘さが、坂を上る帰り道の、ささやかな楽しみになっていた。
坂の途中で、よく振り返った。海が、いつも町の向こうで、銀色に光っていた。
こはるちゃんは、この海を、家の窓から見られるのだろうか。
そんなことを、ふと考えるようになっていた自分に、俺はまだ気づいていなかった。
気づけば俺は、文句を言いながらも、毎日きちんと坂を下りていた。
※
うちの母にも、一度こぼしたことがある。
「なんで俺だけ、毎日あんなことしなきゃいけないんだよ」
母は、夕飯の手を止めて、静かに言った。
「近くにいるってだけで、誰かの役に立てるのは、いいことだよ」
「その子は、あんたが来るのを、待ってるかもしれないだろう」
そのときの俺は、ふうん、と気のない返事をしただけだった。
母の言葉の本当の意味を知るのは、もっと、ずっと後のことになる。
あるとき、浜で遊ぶ友達に、何の気なしに言ってみた。
「あいつ、こはるって子、ずっと布団の中らしいぜ。学校、来たくても来れないんだって」
いつも騒がしい友達が、そのときだけ、ふっと黙り込んだ。
「……かわいそうだな」
一人が、ぽつりと言った。誰も、笑わなかった。
波の音だけが、いつまでも、ざあざあと響いていた。
その夜、布団の中で、俺はこはるちゃんの白い横顔を思い出していた。
明日、連絡帳を届けたら、今日はもう少しだけ、話してみよう。
そんなことを考えながら、いつのまにか、眠りに落ちていた。
※
一度だけ、学校でこはるちゃんと、ちゃんと話したことがある。
その日は珍しく、彼女が午前中だけ登校していた。窓際の席で、外をじっと見ていた。
色の白い、痩せた子だった。風が吹いたら、飛んでいってしまいそうだと思ったのを、よく覚えている。
俺が連絡帳を渡しに近づくと、こはるちゃんは、ほんの少しだけ笑った。
「いつも、ありがとう。坂、大変でしょう」
その声が、思っていたよりずっと優しくて、俺は照れて、ぶっきらぼうに答えてしまった。
「べつに。ついでだから」
本当は、ついでなんかじゃなかった。それでも、素直には言えなかった。
こはるちゃんは、窓の外で遊ぶ子どもたちを、ずっと、まぶしそうに見ていた。
「あのね、わたし、おにごっこって、したことないの」
ぽつりと、そう言った。
「走ったら、すぐ、苦しくなっちゃうから」
俺は、なんて返せばいいのか分からなくて、ただ「ふうん」と言った。
少しの沈黙のあと、こはるちゃんは、おずおずと聞いてきた。
「ねえ、おにごっこって、どんなふうにやるの」
俺は、手振りを交えて、一生けんめい説明した。
鬼が数を数えるあいだに、みんなが散らばって隠れること。捕まったら、次は自分が鬼になること。
「足の速い子は、なかなか捕まらないんだ。俺はすぐ捕まるけどな」
そう言うと、こはるちゃんは、口に手を当てて、くすくす笑った。
「じゃあ、わたしが鬼になったら、ぜったい、つかまえてあげる」
その笑顔を、俺は今でも、はっきりと覚えている。
教室いっぱいの朝の光の中で、彼女は、本当に楽しそうだった。
その横顔の、本当の意味を、あの頃の俺は、まだ分かっていなかった。
※
次に登校できたら、これを見せようと思って、俺は一枚の絵を描いた。
浜辺と、学校の運動場と、そこで遊ぶみんなの絵だ。下手くそな、棒人間ばかりの絵だった。
でも、こはるちゃんは、その後しばらく、学校に来なかった。
だから絵は、ランドセルの底で、少しずつ、くしゃくしゃになっていった。
渡せないまま、季節だけが、静かに過ぎていった。
その頃には、玄関の奥の様子も、少しずつ目に入るようになっていた。
廊下の隅に、たたまれた車椅子。棚に並んだ、たくさんの薬の瓶。
壁には、点滴の管を吊るすための、金具がついていた。
こはるちゃんの病気が、軽いものではないことを、俺はようやく、子どもなりに察し始めていた。
それでも、まさか、と思っていた。子どもは、明日が必ず来ると、信じて疑わないものだから。
※
ある日、ふと魔が差して、俺はこはるちゃんの連絡帳の中を、こっそり覗いてしまった。
ただの、興味本位だった。中に何が書いてあるのか、知りたかっただけだ。
そこには、彼女のものらしい、細くて丁寧な字で、ページいっぱいに、こう綴られていた。
『今日も一日、お布団の中で、すごしました』
『窓のそとから、女の子たちの笑い声が、聞こえてきます』
『わたしも学校に行けたら、あの輪の中に、入れるのかな』
『はやく、みんなと、おにごっこが、したいです』
俺は、その場で、動けなくなった。
学校を休めることを、楽だと思っていた。特別扱いされて、ずるいと思っていた。
でも、こはるちゃんの文字は、学校に行けないことの寂しさと、ただ普通に、みんなと遊びたいという願いで、いっぱいだった。
毎日、当たり前のように学校へ通っている自分が、急に、ひどく申し訳なく思えた。
運動場をまぶしそうに見ていた、あの横顔の意味が、ようやく、胸に落ちた。
「おにごっこ、したことないの」。あの言葉が、耳の奥で、何度も響いた。
※
だから俺は、その日の連絡帳の隅に、こっそり、こう書き込んだ。
『学校で、みんな待ってるからな。体が良くなったら、絶対に一緒に遊ぼうな』
鉛筆の字は、震えて、少し歪んでしまった。
それでも、消さなかった。これだけは、どうしても、伝えたかった。
連絡帳を返すとき、いつもより少しだけ、心臓が速く鳴っていた。
明日、こはるちゃんは、これを読んでくれるだろうか。
返事は、書いてくれるだろうか。
そんなことを考えながら、その夜は、なかなか寝つけなかった。
くしゃくしゃになった絵も、明日こそ、お母さんに預けようと決めた。
※
翌朝、返ってきた連絡帳の隅に、小さな返事があった。
『よんでくれて、ありがとう。とてもうれしかったです』
たったそれだけの一行が、俺は飛び上がるほど、嬉しかった。
その日から、俺たちの、小さな文通が始まった。
先生に見つからないように、ページのいちばん下の隅で、二人だけの言葉を交わすのだ。
『今日、浜で大きな貝をひろったよ。今度もっていくな』
『うれしい。わたし、海を、もう何年も見ていないの』
その返事を読んで、俺は胸が、きゅっと痛くなった。
こんなに近くに海があるのに、彼女は、その波を見ることすら、できないでいた。
『元気になったら、いちばんに海を見に行こう。俺が連れていくよ』
そう書くと、次の日、こう返ってきた。
『やくそく。ゆびきりね』
俺は、連絡帳のページに、小さな小指の絵を描いて、返した。
会えなくても、声を聞けなくても、その数行のやり取りが、俺の一日の中心になっていった。
放課後の坂道が、いつのまにか、まったく苦ではなくなっていた。
早く明日になれ、と、毎晩思うようになっていた。
※
けれど、その文通は、長くは続かなかった。
ある週から、こはるちゃんの返事が、ぱたりと途絶えた。
連絡帳には、お母さんの字で『今日もお休みします』とだけ、書かれるようになった。
それでも俺は、毎日、隅っこに言葉を書き続けた。
『はやく元気になってな。貝、まだとってあるからな』
返事がなくても、書くのをやめなかった。きっと、読んでくれていると、信じていたから。
毎朝、連絡帳を開くのが、怖くなっていった。
返事がない、白いページを見るたびに、胸の奥が、ひやりと冷たくなった。
それでも、貝はちゃんと机の上で、彼女に渡される日を待っていた。
早く元気になって、一緒に海を見に行こう。そればかりを、俺は祈っていた。
※
次の朝、いつものように坂を下りて、こはるちゃんの家のチャイムを鳴らした。
出てきたお母さんは、目が真っ赤だった。
「もう、連絡帳は、届けなくていいのよ」
あまりにも、突然だった。
「どうして、ですか」
俺が聞くと、お母さんは、唇を噛んで、それから、絞り出すように言った。
「こはるね、昨日の夜に、眠るように、逝ったの」
当時の俺は、勉強もできない、ただの悪ガキだった。それでも、その言葉の意味は、はっきりと伝わってきた。
……こはるちゃんは、いなくなったのだ。もう、一緒に遊ぶことは、できないのだ。
そう分かった瞬間、涙が、勝手に溢れてきた。
止めようとしても、止まらなかった。玄関先で、俺はただ、子どものように泣きじゃくった。
会ったのは、たった数回。ろくに話したことも、なかった。それなのに、涙だけが、後から後から流れた。
ランドセルの底の絵を、とうとう渡せなかったことが、悔しくて、たまらなかった。
※
泣き続ける俺に、お母さんは、そっと連絡帳を差し出した。
「これを、あなたに持っていてほしいの」
「学校に、一度もちゃんと通えなかったあの子のことを、せめて、あなただけは、忘れないでいてくれる?」
俺は、何度もうなずいた。声には、ならなかった。
代わりに、くしゃくしゃの絵を、お母さんに手渡した。
「これ、こはるちゃんに、見せたかったんです」
お母さんは、その絵をしばらく見つめてから、こう言った。
「あの子ね、あなたが連絡帳を届けてくれる日を、いつも楽しみにしていたのよ」
「『今日は来てくれるかな』って、窓の外を、ずっと見ていたの」
その言葉が、俺の胸の、いちばん柔らかいところに、深く刺さった。
お母さんは、その絵を胸に抱いて、深く、頭を下げた。
連絡帳は、思っていたよりも、ずっと重かった。
その重さが、こはるちゃんが生きていた、たしかな証のように思えた。
潮風が、坂の下から吹き上げてきて、俺の濡れた頬を、冷たく撫でていった。
※
家に帰って、俺は連絡帳を、最後のページまで、震える指でめくった。
俺が書き込んだ、あの歪んだ文字の、すぐ下。
そこに、こはるちゃんの、あの細い字で、短い返事が、たしかにあった。
亡くなる、ほんの数日前に、書いたのだろう。
『ありがとう。いつかきっと、遊ぼうね』
その一行を見た瞬間、俺はまた、声をあげて泣いた。
約束は、果たせなかった。一緒におにごっこをすることは、もう、永遠にできない。
それでも、彼女は、たしかに、俺の言葉を受け取ってくれていた。
指切りの約束を、俺は、果たせなかった。
こんなに近くにある海を、ついに、一度も見せてあげられなかった。
拾った貝は、机の上で、ずっと俺の帰りを待っていた。
その貝を握りしめて、俺は、声がかれるまで泣いた。
待っていてくれた人がいた。母の言葉の意味が、ようやく、本当に分かった。
※
そんな俺も、もうすぐ三十になる。
あの連絡帳は、今も、机の引き出しの、いちばん奥に、しまってある。
就職して、町を出て、結婚して、子どもが生まれた。
楽しいことも、たくさんあった。けれど、泣きたくなるほど、辛いことの連続だった時期もある。
何もかも投げ出してしまいたいと、本気で思った夜も、一度や二度では、なかった。
そんなとき、俺はいつも、引き出しの奥から、あの連絡帳を取り出す。
そして、彼女が最期に書いた、あの一行を、何度も、何度も読み返すのだ。
『ありがとう。いつかきっと、遊ぼうね』
その言葉に触れるたび、俺は思う。
あの数行の文通は、たった数週間の、短い時間だった。
それでも、あの隅っこの言葉たちは、俺の子ども時代の、いちばん大切な宝物になった。
人と人がつながるのに、たくさんの言葉も、長い時間も、いらないのだと、彼女が教えてくれた。
行きたくても行けなかった場所が、こはるちゃんには、あった。
会いたくても会えなかった友達が、こはるちゃんには、いた。
だったら、まだ歩ける俺が、こんなところで立ち止まっているわけには、いかないのだ。
※
今でも、海風の強い日には、ふと、あの薄暗い玄関と、薬の匂いを思い出す。
あの頃は苦手だったその匂いさえ、今は、なぜか、懐かしくてたまらない。
娘が生まれたとき、俺は連絡帳のことを、妻に初めて話した。
娘が五歳になった夏、俺は家族を連れて、あの海辺の町へ帰った。
坂を下りてみると、こはるちゃんの家は、もう、なくなっていた。
更地になった土地に、夏草が、風に揺れているだけだった。
それでも、潮の匂いは、あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。
娘が「とうさん、ないてるの?」と、不思議そうに俺を見上げた。
「ううん。海の風が、しょっぱいだけだよ」
そう言って、俺は娘の手を、強く握った。
更地のそばの、波打ち際まで歩いて、俺はあの貝を、そっと海に返した。
ずっと持っていた、約束の貝だった。
「やっと、海を見せられたよ」
小さくそう呟くと、波が一つ、足元まで寄せて、静かに引いていった。
こはるちゃんが、笑ってくれた気がした。
話しながら、また少し、泣いてしまった。三十近い男が、情けない話だ。
いつか、俺が向こうへ行く日が来たら、まっさきに、こはるちゃんを探そうと思う。
そして、ずっと果たせなかった約束を、ようやく、果たすのだ。
おまたせ。さあ、おにごっこをしよう、と。
きっと彼女は、あの日見せたかった絵を、もう見てくれているはずだから。
その日まで、俺はこの連絡帳を、大切に持ち続ける。
いつかきっと、遊ぼうね。その約束を、ずっと、忘れないために。