連絡帳の約束

俺が小学五年生だった頃、海の近くの古い町に住んでいた。

潮の匂いがいつも町に満ちていて、風の強い日は、窓ガラスが一日中、低く鳴っていた。

漁師町の子どもは、みんな日に焼けて、声が大きかった。俺も例外ではなく、勉強より、海で石を投げて遊ぶほうがずっと好きな悪ガキだった。

その年のクラスに、ほとんど学校へ来ない女の子がいた。名前を、こはるちゃんといった。

体が弱いとかで、たまに来たと思ったら、昼前にはもう早退してしまう。

正直に言えば、最初の俺は、ずるいなと思っていた。あの子だけ、好きなときに休めて、誰にも怒られない。

子どもの俺には、それが、ただの特別扱いに見えていたのだ。

こはるちゃんの家は、俺の家から坂を下りてすぐの、漁師町の一角にあった。

だから、連絡帳を届ける係に、自然と俺が選ばれた。

先生に放課後、呼び止められたとき、俺は思いきり、嫌な顔をした。

「先生、なんで俺なんですか。めんどくさいです」

先生は笑って、こう言った。

「お前の家が、いちばん近いからだよ。頼んだぞ」

こうして、毎日の往復が始まった。連絡帳を預かり、坂を下りて、こはるちゃんの母親に渡す。翌朝また受け取って、先生に届ける。その繰り返しだった。

放課後に友達と浜でサッカーをしたいのに、坂を下りて、また上らなければならない。

「お前、また連絡帳係かよ。可哀想にな」

友達にそうからかわれるのも、子ども心に、地味に応えた。

こはるちゃんの家の玄関は、いつも薄暗くて、奥のほうから、かすかに薬の匂いがした。

その匂いが、俺はなんとなく苦手だった。だから、連絡帳を渡すと、いつも逃げるように帰っていた。

それでも、日が経つにつれて、不思議と、その往復が苦ではなくなっていった。

こはるちゃんのお母さんは、俺が連絡帳を渡すたびに、必ず深く頭を下げた。

「いつも、本当にありがとうね。寒い日も、雨の日も」

ときには、飴玉を一つ、そっと握らせてくれることもあった。

その飴の甘さが、坂を上る帰り道の、ささやかな楽しみになっていた。

坂の途中で、よく振り返った。海が、いつも町の向こうで、銀色に光っていた。

こはるちゃんは、この海を、家の窓から見られるのだろうか。

そんなことを、ふと考えるようになっていた自分に、俺はまだ気づいていなかった。

気づけば俺は、文句を言いながらも、毎日きちんと坂を下りていた。

うちの母にも、一度こぼしたことがある。

「なんで俺だけ、毎日あんなことしなきゃいけないんだよ」

母は、夕飯の手を止めて、静かに言った。

「近くにいるってだけで、誰かの役に立てるのは、いいことだよ」

「その子は、あんたが来るのを、待ってるかもしれないだろう」

そのときの俺は、ふうん、と気のない返事をしただけだった。

母の言葉の本当の意味を知るのは、もっと、ずっと後のことになる。

あるとき、浜で遊ぶ友達に、何の気なしに言ってみた。

「あいつ、こはるって子、ずっと布団の中らしいぜ。学校、来たくても来れないんだって」

いつも騒がしい友達が、そのときだけ、ふっと黙り込んだ。

「……かわいそうだな」

一人が、ぽつりと言った。誰も、笑わなかった。

波の音だけが、いつまでも、ざあざあと響いていた。

その夜、布団の中で、俺はこはるちゃんの白い横顔を思い出していた。

明日、連絡帳を届けたら、今日はもう少しだけ、話してみよう。

そんなことを考えながら、いつのまにか、眠りに落ちていた。

一度だけ、学校でこはるちゃんと、ちゃんと話したことがある。

その日は珍しく、彼女が午前中だけ登校していた。窓際の席で、外をじっと見ていた。

色の白い、痩せた子だった。風が吹いたら、飛んでいってしまいそうだと思ったのを、よく覚えている。

俺が連絡帳を渡しに近づくと、こはるちゃんは、ほんの少しだけ笑った。

「いつも、ありがとう。坂、大変でしょう」

その声が、思っていたよりずっと優しくて、俺は照れて、ぶっきらぼうに答えてしまった。

「べつに。ついでだから」

本当は、ついでなんかじゃなかった。それでも、素直には言えなかった。

こはるちゃんは、窓の外で遊ぶ子どもたちを、ずっと、まぶしそうに見ていた。

「あのね、わたし、おにごっこって、したことないの」

ぽつりと、そう言った。

「走ったら、すぐ、苦しくなっちゃうから」

俺は、なんて返せばいいのか分からなくて、ただ「ふうん」と言った。

少しの沈黙のあと、こはるちゃんは、おずおずと聞いてきた。

「ねえ、おにごっこって、どんなふうにやるの」

俺は、手振りを交えて、一生けんめい説明した。

鬼が数を数えるあいだに、みんなが散らばって隠れること。捕まったら、次は自分が鬼になること。

「足の速い子は、なかなか捕まらないんだ。俺はすぐ捕まるけどな」

そう言うと、こはるちゃんは、口に手を当てて、くすくす笑った。

「じゃあ、わたしが鬼になったら、ぜったい、つかまえてあげる」

その笑顔を、俺は今でも、はっきりと覚えている。

教室いっぱいの朝の光の中で、彼女は、本当に楽しそうだった。

その横顔の、本当の意味を、あの頃の俺は、まだ分かっていなかった。

次に登校できたら、これを見せようと思って、俺は一枚の絵を描いた。

浜辺と、学校の運動場と、そこで遊ぶみんなの絵だ。下手くそな、棒人間ばかりの絵だった。

でも、こはるちゃんは、その後しばらく、学校に来なかった。

だから絵は、ランドセルの底で、少しずつ、くしゃくしゃになっていった。

渡せないまま、季節だけが、静かに過ぎていった。

その頃には、玄関の奥の様子も、少しずつ目に入るようになっていた。

廊下の隅に、たたまれた車椅子。棚に並んだ、たくさんの薬の瓶。

壁には、点滴の管を吊るすための、金具がついていた。

こはるちゃんの病気が、軽いものではないことを、俺はようやく、子どもなりに察し始めていた。

それでも、まさか、と思っていた。子どもは、明日が必ず来ると、信じて疑わないものだから。

ある日、ふと魔が差して、俺はこはるちゃんの連絡帳の中を、こっそり覗いてしまった。

ただの、興味本位だった。中に何が書いてあるのか、知りたかっただけだ。

そこには、彼女のものらしい、細くて丁寧な字で、ページいっぱいに、こう綴られていた。

『今日も一日、お布団の中で、すごしました』

『窓のそとから、女の子たちの笑い声が、聞こえてきます』

『わたしも学校に行けたら、あの輪の中に、入れるのかな』

『はやく、みんなと、おにごっこが、したいです』

俺は、その場で、動けなくなった。

学校を休めることを、楽だと思っていた。特別扱いされて、ずるいと思っていた。

でも、こはるちゃんの文字は、学校に行けないことの寂しさと、ただ普通に、みんなと遊びたいという願いで、いっぱいだった。

毎日、当たり前のように学校へ通っている自分が、急に、ひどく申し訳なく思えた。

運動場をまぶしそうに見ていた、あの横顔の意味が、ようやく、胸に落ちた。

「おにごっこ、したことないの」。あの言葉が、耳の奥で、何度も響いた。

だから俺は、その日の連絡帳の隅に、こっそり、こう書き込んだ。

『学校で、みんな待ってるからな。体が良くなったら、絶対に一緒に遊ぼうな』

鉛筆の字は、震えて、少し歪んでしまった。

それでも、消さなかった。これだけは、どうしても、伝えたかった。

連絡帳を返すとき、いつもより少しだけ、心臓が速く鳴っていた。

明日、こはるちゃんは、これを読んでくれるだろうか。

返事は、書いてくれるだろうか。

そんなことを考えながら、その夜は、なかなか寝つけなかった。

くしゃくしゃになった絵も、明日こそ、お母さんに預けようと決めた。

翌朝、返ってきた連絡帳の隅に、小さな返事があった。

『よんでくれて、ありがとう。とてもうれしかったです』

たったそれだけの一行が、俺は飛び上がるほど、嬉しかった。

その日から、俺たちの、小さな文通が始まった。

先生に見つからないように、ページのいちばん下の隅で、二人だけの言葉を交わすのだ。

『今日、浜で大きな貝をひろったよ。今度もっていくな』

『うれしい。わたし、海を、もう何年も見ていないの』

その返事を読んで、俺は胸が、きゅっと痛くなった。

こんなに近くに海があるのに、彼女は、その波を見ることすら、できないでいた。

『元気になったら、いちばんに海を見に行こう。俺が連れていくよ』

そう書くと、次の日、こう返ってきた。

『やくそく。ゆびきりね』

俺は、連絡帳のページに、小さな小指の絵を描いて、返した。

会えなくても、声を聞けなくても、その数行のやり取りが、俺の一日の中心になっていった。

放課後の坂道が、いつのまにか、まったく苦ではなくなっていた。

早く明日になれ、と、毎晩思うようになっていた。

けれど、その文通は、長くは続かなかった。

ある週から、こはるちゃんの返事が、ぱたりと途絶えた。

連絡帳には、お母さんの字で『今日もお休みします』とだけ、書かれるようになった。

それでも俺は、毎日、隅っこに言葉を書き続けた。

『はやく元気になってな。貝、まだとってあるからな』

返事がなくても、書くのをやめなかった。きっと、読んでくれていると、信じていたから。

毎朝、連絡帳を開くのが、怖くなっていった。

返事がない、白いページを見るたびに、胸の奥が、ひやりと冷たくなった。

それでも、貝はちゃんと机の上で、彼女に渡される日を待っていた。

早く元気になって、一緒に海を見に行こう。そればかりを、俺は祈っていた。

次の朝、いつものように坂を下りて、こはるちゃんの家のチャイムを鳴らした。

出てきたお母さんは、目が真っ赤だった。

「もう、連絡帳は、届けなくていいのよ」

あまりにも、突然だった。

「どうして、ですか」

俺が聞くと、お母さんは、唇を噛んで、それから、絞り出すように言った。

「こはるね、昨日の夜に、眠るように、逝ったの」

当時の俺は、勉強もできない、ただの悪ガキだった。それでも、その言葉の意味は、はっきりと伝わってきた。

……こはるちゃんは、いなくなったのだ。もう、一緒に遊ぶことは、できないのだ。

そう分かった瞬間、涙が、勝手に溢れてきた。

止めようとしても、止まらなかった。玄関先で、俺はただ、子どものように泣きじゃくった。

会ったのは、たった数回。ろくに話したことも、なかった。それなのに、涙だけが、後から後から流れた。

ランドセルの底の絵を、とうとう渡せなかったことが、悔しくて、たまらなかった。

泣き続ける俺に、お母さんは、そっと連絡帳を差し出した。

「これを、あなたに持っていてほしいの」

「学校に、一度もちゃんと通えなかったあの子のことを、せめて、あなただけは、忘れないでいてくれる?」

俺は、何度もうなずいた。声には、ならなかった。

代わりに、くしゃくしゃの絵を、お母さんに手渡した。

「これ、こはるちゃんに、見せたかったんです」

お母さんは、その絵をしばらく見つめてから、こう言った。

「あの子ね、あなたが連絡帳を届けてくれる日を、いつも楽しみにしていたのよ」

「『今日は来てくれるかな』って、窓の外を、ずっと見ていたの」

その言葉が、俺の胸の、いちばん柔らかいところに、深く刺さった。

お母さんは、その絵を胸に抱いて、深く、頭を下げた。

連絡帳は、思っていたよりも、ずっと重かった。

その重さが、こはるちゃんが生きていた、たしかな証のように思えた。

潮風が、坂の下から吹き上げてきて、俺の濡れた頬を、冷たく撫でていった。

家に帰って、俺は連絡帳を、最後のページまで、震える指でめくった。

俺が書き込んだ、あの歪んだ文字の、すぐ下。

そこに、こはるちゃんの、あの細い字で、短い返事が、たしかにあった。

亡くなる、ほんの数日前に、書いたのだろう。

『ありがとう。いつかきっと、遊ぼうね』

その一行を見た瞬間、俺はまた、声をあげて泣いた。

約束は、果たせなかった。一緒におにごっこをすることは、もう、永遠にできない。

それでも、彼女は、たしかに、俺の言葉を受け取ってくれていた。

指切りの約束を、俺は、果たせなかった。

こんなに近くにある海を、ついに、一度も見せてあげられなかった。

拾った貝は、机の上で、ずっと俺の帰りを待っていた。

その貝を握りしめて、俺は、声がかれるまで泣いた。

待っていてくれた人がいた。母の言葉の意味が、ようやく、本当に分かった。

そんな俺も、もうすぐ三十になる。

あの連絡帳は、今も、机の引き出しの、いちばん奥に、しまってある。

就職して、町を出て、結婚して、子どもが生まれた。

楽しいことも、たくさんあった。けれど、泣きたくなるほど、辛いことの連続だった時期もある。

何もかも投げ出してしまいたいと、本気で思った夜も、一度や二度では、なかった。

そんなとき、俺はいつも、引き出しの奥から、あの連絡帳を取り出す。

そして、彼女が最期に書いた、あの一行を、何度も、何度も読み返すのだ。

『ありがとう。いつかきっと、遊ぼうね』

その言葉に触れるたび、俺は思う。

あの数行の文通は、たった数週間の、短い時間だった。

それでも、あの隅っこの言葉たちは、俺の子ども時代の、いちばん大切な宝物になった。

人と人がつながるのに、たくさんの言葉も、長い時間も、いらないのだと、彼女が教えてくれた。

行きたくても行けなかった場所が、こはるちゃんには、あった。

会いたくても会えなかった友達が、こはるちゃんには、いた。

だったら、まだ歩ける俺が、こんなところで立ち止まっているわけには、いかないのだ。

今でも、海風の強い日には、ふと、あの薄暗い玄関と、薬の匂いを思い出す。

あの頃は苦手だったその匂いさえ、今は、なぜか、懐かしくてたまらない。

娘が生まれたとき、俺は連絡帳のことを、妻に初めて話した。

娘が五歳になった夏、俺は家族を連れて、あの海辺の町へ帰った。

坂を下りてみると、こはるちゃんの家は、もう、なくなっていた。

更地になった土地に、夏草が、風に揺れているだけだった。

それでも、潮の匂いは、あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。

娘が「とうさん、ないてるの?」と、不思議そうに俺を見上げた。

「ううん。海の風が、しょっぱいだけだよ」

そう言って、俺は娘の手を、強く握った。

更地のそばの、波打ち際まで歩いて、俺はあの貝を、そっと海に返した。

ずっと持っていた、約束の貝だった。

「やっと、海を見せられたよ」

小さくそう呟くと、波が一つ、足元まで寄せて、静かに引いていった。

こはるちゃんが、笑ってくれた気がした。

話しながら、また少し、泣いてしまった。三十近い男が、情けない話だ。

いつか、俺が向こうへ行く日が来たら、まっさきに、こはるちゃんを探そうと思う。

そして、ずっと果たせなかった約束を、ようやく、果たすのだ。

おまたせ。さあ、おにごっこをしよう、と。

きっと彼女は、あの日見せたかった絵を、もう見てくれているはずだから。

その日まで、俺はこの連絡帳を、大切に持ち続ける。

いつかきっと、遊ぼうね。その約束を、ずっと、忘れないために。

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