
私の机の上には、十五年以上、メロンの形をしたアイスの空き容器が置いてある。
緑色のプラスチックで、縁には網目の模様が刻まれている。
親友は、これを「メロンカップの盃」と呼んだ。
今日は、そのメロンカップの盃にまつわる話を書いておきたい。
小学六年生の秋だった。
放課後、親友の千晴と私は、担任の先生に頼まれて、職員室の隣の資料室へ向かった。
古い紙の匂いと、埃の匂いがする部屋だった。
窓から斜めに入る日差しの中で、細かい塵がゆっくり舞っていた。
私たちの仕事は、学年の名簿の束を、番号順に並べ直すことだった。
千晴とは、小学二年の遠足で同じ班になってから、ずっと一緒だった。
帰り道が同じで、給食の牛乳の飲み方まで、お互いに真似し合うような仲だった。
千晴はおしゃべりで、作業の間も、昨日のテレビの話をやめなかった。
私は相槌を打ちながら、青い表紙の名簿を一冊ずつ棚に戻していた。
名簿の隅の二文字
「あっ」
千晴が、小さな声を上げた。
振り向くと、千晴は開いたままの名簿を両手で持って、固まっていた。
私は何気なく、その紙をのぞき込んだ。
私の名前の欄の、いちばん後ろに、見慣れない二文字が書かれていた。
『養女』。
意味は、すぐにわかった。
わかってしまったから、頭の中が真っ白になった。
千晴の手は、名簿の上で止まったまま、動かなかった。
隠すことも、閉じることも、できなかったのだと思う。
私たちは、しばらく何も言わずに、その二文字を見つめていた。
私はそれまで、今の両親を、実の両親だと信じて疑ったことがなかった。
運動会の弁当も、風邪の夜の額の手も、全部、当たり前のものだと思っていた。
その足元が、音もなく崩れていくようだった。
「先生には、内緒にしておこう」
やっとのことで千晴が言い、私たちは作業を終わらせた。
どうやって教室を出たのか、私は覚えていない。
廊下の窓から、グラウンドで遊ぶ下級生の声が聞こえた。
すれ違った先生に「どうした、元気がないな」と声をかけられた。
私は「大丈夫です」と、笑うことしかできなかった。
昇降口で靴を履き替える間、千晴は私の鞄を黙って持っていてくれた。
メロンカップの盃
家に帰る道の途中で、足が動かなくなった。
どんな顔で玄関を開ければいいのか、わからなかったのだ。
私は通り道の公園に入り、ブランコに腰を下ろした。
錆びた鎖が、きい、と鳴った。
夕方の公園には、もう誰もいなかった。
金木犀の甘い匂いが、冷たくなった風に混じっていた。
遠くで、犬を散歩させる人の足音がした。
ブランコの影が、地面に細く長く伸びていた。
砂場の隅に、誰かが忘れた赤いバケツが転がっていた。
立ち上がろうとしても、膝に力が入らなかった。
千晴は、隣のブランコに黙って座った。
帰っていいよと言っても、首を横に振るだけだった。
空が、だんだん茜色から群青に変わっていった。
街灯がひとつ、ぱちりと点いた。
長い沈黙のあとで、千晴が急に立ち上がった。
「よし。じゃあ私と、姉妹の盃を交そう」
私は、何を言われたのかわからなかった。
千晴はランドセルを開けて、中から緑色の容器を取り出した。
給食のあとに、駄菓子屋で買って食べた、メロンアイスの空き容器だった。
メロンの形をした、あのプラスチックのカップだ。
千晴は水飲み場へ走って、蛇口をひねり、カップに水を汲んできた。
そして、ひと口飲んでから、私に差し出した。
「盃の契りは、血の繋がりより強いんだよっ」
一体、何のテレビを見たのだろう。
時代劇の台詞を、そのまま真似しているらしかった。
メロンのカップを両手で持って、胸を張る千晴の姿が、おかしくてたまらなかった。
気がつくと私は、泣きながら笑っていた。
カップの水は、少しだけ生ぬるくて、プラスチックの味がした。
私はそれを、ひと口で飲み干した。
「これ、あげる」
千晴はそう言って、空になったカップを私の手に持たせた。
私はそれを、ランドセルの奥に大事にしまった。
帰り道、千晴は私の家の角まで、何も言わずについてきてくれた。
別れ際に「明日も、ふつうに学校行こうね」と手を振った。
角を曲がる千晴の背中が、夕闇に溶けていくまで、私は見送っていた。
机の上のメロンカップ
その夜、私は何も言わずに、いつも通りに夕飯を食べた。
母は、私の好きなかぼちゃの煮物を作ってくれていた。
「どうしたの、今日は静かね」
母の声は、いつもと同じように優しかった。
私は「なんでもない」と答え、母の顔を見られなかった。
あの名簿のことは、結局、今に至るまで両親には話していない。
けれど、勉強机の端には、あのメロンカップの盃が、いつも置いてあった。
中学生になって、わけもなく親に反発したくなる時期が来た。
母の小言が煩わしくて、部屋に閉じこもり、扉を強く閉めた夜もあった。
そのたびに、机の上の緑色のカップが目に入った。
すると、公園のブランコの音が、頭の中で鳴った。
私には、水を汲んでくれる友達がいる。
そう思うと、振り上げた拳が、不思議と下りていった。
高校進学のときは、学費のことで悩んだ。
家に余裕がないことは、薄々わかっていた。
行きたい学校があるとは、どうしても親に言い出せなかった。
夜、机に突っ伏した私を、メロンのカップだけが静かに見守っていた。
翌朝、私は親に打ち明け、奨学金の相談に乗ってもらった。
あのとき、一人で抱え込まずに済んだのは、あのカップのおかげだったと思う。
千晴にこのことを話したことは、一度もなかった。
言えば、笑われる気がしたし、照れくさくもあった。
成人式の朝には、母が私の振袖の帯を、息を詰めて結んでくれた。
鏡の中で、母の指が、帯の端を何度も整えていた。
私はその手を見ながら、あの二文字を思い出した。
血の繋がりがあろうとなかろうと、この手が私を育てたことに変わりはない。
「ありがとう」とだけ言うと、母は照れて「動かないで」と笑った。
帯の締まる感触が、いつまでも背中に残った。
二人きりの居酒屋
それから十数年が経ち、私の結婚が決まった。
式の直前、千晴と二人で、小さな居酒屋に入った。
カウンターの奥で、焼き鳥の煙がゆらゆらと揺れていた。
千晴は「お互い、すっかり大人になったね」と笑って、ビールを頼んだ。
私は、鞄の中のものが気になって、そわそわしていた。
注文を取りに来た大将が、私たちを見て「姉妹かい」と訊いた。
千晴と私は、顔を見合わせて、少しだけ笑った。
私は、鞄の底に、あのメロンカップをこっそり忍ばせていた。
「あの時はありがとう」と言って、千晴を驚かせるつもりだった。
乾杯のあと、少し酔いが回ったころ、千晴が突然、ポロポロと泣き出した。
「あの時、あの時、気付かせてしまってごめんね」
私は、意味がわからなかった。
千晴は、しゃくり上げながら言った。
名簿の『養女』の文字を、とっさに手で隠さなかったこと。
そのせいで、私に知らせてしまったこと。
それをずっと、十数年のあいだ、悔やみ続けていたのだと。
私は呆然とした。
隠せなかった千晴の手が、名簿の上で止まっていた光景を思い出した。
あの小さな手が、そんなに重い後悔を抱えていたなんて。
千晴は、あの日から何度も、私の様子をそっと窺っていたのだという。
進級しても、受験の日も、私が笑うたびに、心の中でほっとしていたのだと。
十五年以上も、千晴は私より先に、あの痛みを抱えて歩いていたのだ。
私は席を立って、千晴の背中を、何も言わずに何度もさすった。
丸まった肩は、小学生のころと変わらず、小さく震えていた。
そんな事、ずっと言いたかったのに。
反抗期に親へ反発しそうな時も、学費のことを親に言えず悩んだ時も、机の上のメロンカップが見守っていてくれた。
あなたが居てくれたから、ここまでやって来られたのだと。
伝えたいことは山ほどあるのに、喉が詰まって、言葉にならなかった。
私はダーダーと涙を流しながら、鞄に手を突っ込み、緑色のカップを取り出した。
ドラえもんのような、だみ声で、やっと言えたのは、これだけだった。
「ごれ゛ぇ~」
千晴は一瞬、目を丸くした。
それから、同じようにダーダーと涙を流しながら叫んだ。
「あ゛~ぞれ゛ぇ!」
私たちは顔を見合わせて、お互いに泣きながら笑った。
店の大将が、そっと新しいおしぼりを二枚、置いていってくれた。
大将が運んできた徳利は、まだ湯気を上げていた。
私はメロンのカップに、熱燗を注いだ。
ひと口飲んで、千晴に差し出した。
もちろん、盃は、メロンカップの盃で。
あのとき公園で交わした契りを、大人になった私たちは、もう一度、静かに酌み交わした。
今度の春、千晴が結婚式を挙げる。
それで私は、この話を思い出した。
式の日は、緑色のカップを鞄に入れていくつもりだ。
今度は私が、千晴のメロンカップの盃に、お酒を注ぐ番だ。