写真の一枚もない家でした
うちは、母ひとり子ひとりの、貧しい家でした。
父は、私が生まれて半年で病に倒れ、写真の一枚も残っていません。
私が育ったのは、讃岐の東のはずれ、手袋を作る町です。
この町では、どの路地からもミシンの音がしていました。
革の匂いと、糸の焼ける匂いが、家々の戸の隙間から漏れてきます。
私と母は、その路地のいちばん奥の、日の差さない借家に住んでいました。
壁は薄く、冬は隙間風が入り、夏は瀬戸内の生ぬるい空気がよどみます。
それでも母は、いつも背筋を伸ばして、針を動かしていました。
カメラを買う余裕など、もちろん、どこにもありません。
※
母は、革の端切れに私を縫いました
ですから母は、私の育っていく姿を、別のやり方で残そうとしました。
手のひらほどの革の端切れに、針と糸で、私の姿を一枚ずつ縫い取ったのです。
母は、町の手袋工場から仕事を持ち帰る、手差しの職人でした。
機械では縫えない指の股を、一針ずつ手で縫い合わせる役です。
昼は工場へ通い、夜は家で内職の束を仕上げる。
そして、すべての仕事を終えた夜更けに、母は最後に必ず、私の一枚を縫いました。
裸電球の下で、糸を通す母の横顔を、私は布団の中から、よく見ていました。
※
母には、決まった順番がありました。
手袋を縫うとき、いちばん先に手をつけるのは、必ず親指と人差し指の股でした。
そこがいちばん力のかかる場所で、いちばん縫いにくい場所なのだと言います。
母は、私を縫うときも、必ず、指の股から縫いはじめました。
絵で言えば、顔でも輪郭でもなく、腕と体の間の、狭い隅からです。
子どもの私には、その順番が、ずいぶん奇妙に思えました。
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路地には、似たような暮らしの家が軒を連ねていました。
隣のおばさんは、よく欠けた茶碗にいりこを分けてくれました。
みんな貧しかったけれど、その分、互いの暮らしにそっと手を添え合っていました。
母は、よその子の繕い物まで、頼まれれば嫌な顔ひとつせず引き受けます。
「困ったときは、お互いさまや」が、母の口癖でした。
そんな母の手は、いつも針だこで、ごつごつとしていました。
その手で頭を撫でられると、ちくりとして、けれど、たまらなく安心したものです。
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手袋の町の朝は、白い綿手袋を裏返して干す風景から始まりました。
物干しにずらりと並んだ手が、風で一斉に手招きをします。
子どもの頃、私はあれが少し怖くて、少し好きでした。
母は、その下で自転車の荷台に束を縛りながら、いつも同じことを言います。
「よその手ぇばっかり縫うとるけど、うちの手はあんたのぶんもあるけんな」
意味を訊いても、母は笑って答えませんでした。
平仮名の一行が、添えてありました
はいはいをする私。
初めて二本の足で立った私。
熱を出して泣いている私。
母は、その日その日の私を、不器用な運針で、革の上に写し取りました。
決して上手な刺繍ではありません。
顔は歪み、手足の長さもまちまちで、ときには首が妙に長かったりします。
それでも母は、どうにかして私の今日を、形に残しておきたかったのだそうです。
※
端切れの隅には、母の手で、小さな文字も縫い取られていました。
「きょうは ひとりで たった」
「ねつを だして ぐずる ばんでした」
「はじめて おかあさんと よんでくれた」
そんな一行が、ひと針ひと針、たどたどしい運針で添えてあります。
平仮名ばかりの、けれど真心のこもった、母だけの記録でした。
※
私が熱を出した夜、母は仕事を放り出して、一晩中、額の手拭いを替え続けました。
朝になって熱が下がると、母は安心したのか、針箱の前で、こくりと舟を漕いでいました。
その日の一枚には、「ねつが さがって ほっとした あさ」と縫い取られていました。
母は、私の苦しみも、自分の安堵も、ぜんぶ糸にして残していたのです。
今思えば、あの端切れの一枚一枚が、母の日記でもあったのでしょう。
※
その革が、ひと月ふた月と重なって、母の針箱の底で、分厚い束になっていきました。
年に一度、私の誕生日になると、母はその束を取り出して、二人で畳に広げます。
「ほら、この頃はこんまかったんよ」と、母は嬉しそうに笑いました。
私も、自分の知らない自分の姿を見るのが、なんだか不思議で、好きでした。
それは、貧しい我が家にあった、たった一つの贅沢でした。
※
小学四年の春に、友達が来ました
ところが、小学四年生の春のことです。
学校から、友達を三人、家に連れて帰った日がありました。
狭い借家を珍しがって、友達は部屋のあちこちを覗き込みます。
そして、押し入れの隅に積んであった、あの革の束を見つけてしまいました。
止める間もなく、友達はそれを引っぱり出して、畳に広げます。
赤ん坊の私の、歪んだ刺繍と、平仮名の文字。
※
友達は、それを回し読みして、げらげらと笑い出しました。
「なにこれ、へたくそ」
「写真も撮れんくらい、貧乏なん」
笑い声と、貧乏という言葉が、狭い部屋に響きました。
私は、顔から血の気が引いていくのを感じました。
ただ、笑われたくない、その一心で、私は何も言えずにうつむいていました。
※
友達が帰ったあと、部屋には、私ひとりが残されました。
胸の奥で、恥ずかしさと、惨めさが、ぐるぐると渦を巻いています。
私は、かっとなって、その束を抱え込みました。
縫い目に指をかけ、一枚、また一枚と、力任せに引き裂きます。
革は思ったより丈夫で、簡単には裂けません。
それが余計に腹立たしくて、私は歯を使い、爪を立てました。
ぶつ、ぶつ、と、母の縫った糸が、音を立てて切れていきます。
歪んだ私の顔が、平仮名の文字が、ばらばらに裂けていきました。
※
裂いた革を、私は屑入れに、乱暴に突っ込みました。
これさえなければ、もう誰にも笑われずに済む。
子どもの私は、本気で、そう思い込んでいたのです。
破り終えると、息が上がって、手が小刻みに震えていました。
それでも、すっきりなどは、少しもしませんでした。
※
母は、叱りませんでした
夕方、仕上げた品を届けに行っていた母が、帰ってきました。
ただいま、と言いかけた母の声が、屑入れの前で、ふつりと止まります。
はみ出した革を見つけて、母は、その場に立ち尽くしました。
そして、声を上げずに、ぽろぽろと、涙をこぼし始めたのです。
私は、叱られるのが怖くて、笑われたから裂いたのだと、つっかえながら言い訳をしました。
けれど母は、ただ首を横に振って、泣き続けるばかりでした。
※
その晩、母は、いつものように夕餉の支度をしました。
私を叱ることも、責めることも、ありません。
ただ、いつもより口数が少なく、目が赤いだけでした。
私も、自分のしたことの大きさが分からないまま、布団に潜って眠りました。
母の悲しみの深さを、その夜の私は、まだ何も分かっていなかったのです。
※
夜中に見た、母の背中
夜中に、ふと目を覚ましました。
茶の間にだけ、まだ、ぼんやりと灯りがついています。
襖の隙間から覗くと、母が背を丸めて、何かをしていました。
屑入れから拾い集めた革を、畳の上に、一枚ずつ並べていたのです。
そして、裂けた縫い目に細い糸を通し、もう一度、根気よく綴じ合わせていました。
革を縫うには、あらかじめ目打ちで穴を開けなければなりません。
母は、その穴を一つずつ探しながら、元の針目に糸を戻していました。
※
切れて読めなくなった平仮名を、母は元の形を思い出しながら、縫い直します。
傍らには、私が引きちぎった糸くずまでが、捨てられずに、小皿に取ってありました。
昼の仕事で疲れ切っているはずの母の指が、休むことなく動いています。
その指は、長年の運針で、節くれだって硬くなっていました。
母の指が、震えながら、私の幼い日々を、もう一度この世に繋ぎとめていました。
裸電球の灯りの中で、母の影が、壁の上で静かに揺れていました。
※
私は、襖の陰で、声も出せずに、その背中を見ていました。
自分が引き裂いたものが、どれほど大切なものだったのか。
母が、何を縫い続けてきたのか。
その意味が、ようやく、子どもの胸にも届き始めていました。
けれど、声をかける勇気がなくて、私はそっと、布団に戻りました。
枕に顔を埋めて、声を殺して泣きました。
※
たった一つの宝物
翌朝、目を腫らした母が、綴じ直した束を、私の前にそっと置きました。
ひと晩かけて、母はそのほとんどを、繋ぎ直していたのです。
そして、申し訳なさそうに、こう言いました。
「恥ずかしい思いを、させてしもたね。ごめんな」
叱られると思っていた私は、その言葉に、かえって胸を突かれました。
母は、自分が悪いのだと、本気で詫びていたのです。
※
「でもな」と、母は綴じ直した束を、両手でそっと撫でました。
「母さんはな、写真機を買うてやれんかった代わりに、これを縫うてきたんよ」
「下手くそでも、これが、母さんの、たった一つの宝物なんよ」
その言葉を聞いた瞬間、堪えきれずに、涙が溢れました。
私は束に顔を伏せて、ごめんなさい、ごめんなさい、と、それだけを繰り返しました。
母は、節くれだった手で、私の頭を、何度も撫でてくれました。
泣かんでええ、もう、ええんよ、と、優しく言いながら。
※
いちばん細かく裂かれていた一枚
母が繋ぎ直した束の中に、一枚だけ、どうしても元に戻らないものがありました。
裂け目が細かすぎて、糸を通す穴がもう残っていないのです。
母はその一枚だけを、和紙に包んで、針箱の底へしまいました。
私はそれを、自分の姿だと思っていました。
けれど、その一枚に縫われていたのは、私ではありませんでした。
※
細身の男の人が、赤ん坊を抱いて、少しだけ体を斜めにしている姿。
隅の一行には、「このひとを わすれない ように」とありました。
写真の一枚もない父を、母は一度だけ、記憶の薄れる前に縫っていたのです。
私がいちばん細かく裂いていたのは、父の一枚でした。
あの日、私は父の顔を、この世からもう一度、消してしまったのでした。
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そのことを知ったのは、ずっとあと、母が亡くなってからです。
母は最後まで、その一枚のことを、一度も口にしませんでした。
言えば、私が二重に自分を責めると分かっていたのでしょう。
母は、いちばん力のかかる場所を、いつも自分ひとりで抱える人でした。
母の買い物のメモが絵だったという話を読んだとき、私は母の平仮名を思い出しました。母の買い物メモは絵だったという短編です。
※
※
私が独り立ちして家を出るとき、母は駅まで来ませんでした。
玄関で、風呂敷包みをひとつだけ持たせて、それきりです。
包みの中には、着替えと、母が縫った白い手袋が一双入っていました。
大阪の冬は讃岐より寒いから、と、書き置きが添えてあります。
その手袋の指の股を、私はしばらく、指でなぞっていました。
縫い目は、驚くほど細かく、まっすぐでした。
母が私に持たせたのは、母の仕事のいちばん良いところだったのです。
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その手袋は、四年目の冬に、片方をなくしました。
残った片方を、私は今も引き出しに入れています。
捨てられなかったのは、なくした片方がいつか戻る気がしていたからです。
戻らないものがあると知ったのは、革の一枚のときと同じでした。
工場の仲間が教えてくれたこと
葬儀のあと、工場で母と長く机を並べていた、寺西さんという人が訪ねてきました。
寺西さんは、母の帳面を持ってきてくれました。
毎月の欄に、「くず革 何匁 何円」と、細かい字で書かれています。
端切れは工場のあまりをもらっていたのだと、私はずっと思っていました。
「持ち出しはご法度でな。あんたのお母さん、目方で買うとったんよ」
母は、自分の手間賃から、私を縫うための革を、毎月買っていたのでした。
※
寺西さんは、指の股のことも教えてくれました。
「股から縫うんは、いちばん難しいけんな。そこがきれいなら、あとは何とでもなる」
母は、いちばん難しいところから、私を縫いはじめていたのです。
顔でも、着ているものでもなく、腕と体の間の、いちばん力のかかる隅から。
母にとって私は、まず、そこから作られるものだったのでした。
※
それから寺西さんは、少し迷ってから、こんな話をしました。
「あんたのお母さんもな、子どもの時分に、同じことをしとるんよ」
母もまた、自分の母の縫った物を恥ずかしがって、押し入れに隠したことがあるのだそうです。
だから母は、私を叱ることができなかったのでした。
「あの子は、うちと同じ思いをしとる。そう言うて、泣いとったよ」
母が泣いていたのは、束が裂かれたからではなかったのです。
※
※
寺西さんは、帰りぎわに、工場での母の話をひとつしてくれました。
手差しの仕事は、上がりの数で賃金が決まります。
母は数の多い人ではなく、いつも真ん中より下だったそうです。
けれど、母の縫った手袋は、返品が一度もなかった。
「遅いんやのうて、股のとこだけ、余計に時間かけとったんよ」
速く縫えば賃金は上がるのに、母は最後までそこを削りませんでした。
私を縫うときと、同じ順番で、同じところに時間をかけていたのです。
※
私は寺西さんに、母が笑った日のことを覚えているか、と訊きました。
寺西さんは、少し考えて、こう答えました。
「あんたが中学に受かった日な。あの人、机で一回だけ、声出して笑うたよ」
その日の一枚に、母は何と縫っていたのか。
束を探しても、その年の一枚だけが見当たりません。
あるいは、あの春に私が裂いたまま、戻らなかったのかもしれません。
いちばん誇らしいもの
翌日、学校で、私は友達と目を合わせられませんでした。
貧乏、という言葉が、耳の奥で、まだ鳴り続けていたからです。
家に帰る道々、私は、母の夜なべの横顔ばかり考えていました。
それなのに私は、その大切なものを、自分の手で裂いてしまったのです。
あの朝、私は、貧しさよりも恥ずかしいものなど、何一つないのだと知りました。
母が縫い続けてくれたものこそが、世界で一番、誇らしいものだったのです。
※
それからの母は、相変わらず、夜なべで針を動かし続けました。
ただ、あの日を境に、私はもう二度と、母の束を恥じることはありません。
私が中学に上がる頃、母の目は、細かい運針で、ずいぶん弱っていました。
それでも母は、私の節目節目を、震える手で、革に縫い続けてくれました。
入学の日、初めて給料をもらった日、私が独り立ちして家を出た日。
母の最後の一枚には、「ひとりで やっていけるね もう だいじょうぶ」とありました。
祖母や母の手仕事が、言葉の代わりだったという話は、ほかにもあります。祖母は大根を四つに切ったを読んだ晩、私は針箱を開けてしまいました。
※
私は今も、あの分厚い束を、簞笥のいちばん奥にしまっています。
綴じ跡のある一枚を広げると、たどたどしい刺繍の私が、こちらを見上げて笑っています。
隣には、平仮名で、あの日の私の様子が、母の字で綴られています。
写真の一枚もない我が家に、母は、糸で描いた何十枚もの私を残してくれました。
※
私にも、やがて子が生まれました。
初めて我が子を抱いたとき、私の手は、写真を撮るより先に、針箱を探していました。
母の癖が、こんなところにも流れているのかと、おかしくなりました。
結局うまくは縫えませんでしたが、私は今でも、子の節目に何かを残そうとしてしまいます。
そして必ず、指の股から縫いはじめます。
いちばん難しいところから始めておけば、あとは何とでもなるのだと、母に教わったからです。