母が縫っていた革の日記

写真の一枚もない家でした

うちは、母ひとり子ひとりの、貧しい家でした。

父は、私が生まれて半年で病に倒れ、写真の一枚も残っていません。

私が育ったのは、讃岐の東のはずれ、手袋を作る町です。

この町では、どの路地からもミシンの音がしていました。

革の匂いと、糸の焼ける匂いが、家々の戸の隙間から漏れてきます。

私と母は、その路地のいちばん奥の、日の差さない借家に住んでいました。

壁は薄く、冬は隙間風が入り、夏は瀬戸内の生ぬるい空気がよどみます。

それでも母は、いつも背筋を伸ばして、針を動かしていました。

カメラを買う余裕など、もちろん、どこにもありません。

母は、革の端切れに私を縫いました

ですから母は、私の育っていく姿を、別のやり方で残そうとしました。

手のひらほどの革の端切れに、針と糸で、私の姿を一枚ずつ縫い取ったのです。

母は、町の手袋工場から仕事を持ち帰る、手差しの職人でした。

機械では縫えない指の股を、一針ずつ手で縫い合わせる役です。

昼は工場へ通い、夜は家で内職の束を仕上げる。

そして、すべての仕事を終えた夜更けに、母は最後に必ず、私の一枚を縫いました。

裸電球の下で、糸を通す母の横顔を、私は布団の中から、よく見ていました。

母には、決まった順番がありました。

手袋を縫うとき、いちばん先に手をつけるのは、必ず親指と人差し指の股でした。

そこがいちばん力のかかる場所で、いちばん縫いにくい場所なのだと言います。

母は、私を縫うときも、必ず、指の股から縫いはじめました。

絵で言えば、顔でも輪郭でもなく、腕と体の間の、狭い隅からです。

子どもの私には、その順番が、ずいぶん奇妙に思えました。

路地には、似たような暮らしの家が軒を連ねていました。

隣のおばさんは、よく欠けた茶碗にいりこを分けてくれました。

みんな貧しかったけれど、その分、互いの暮らしにそっと手を添え合っていました。

母は、よその子の繕い物まで、頼まれれば嫌な顔ひとつせず引き受けます。

「困ったときは、お互いさまや」が、母の口癖でした。

そんな母の手は、いつも針だこで、ごつごつとしていました。

その手で頭を撫でられると、ちくりとして、けれど、たまらなく安心したものです。

手袋の町の朝は、白い綿手袋を裏返して干す風景から始まりました。

物干しにずらりと並んだ手が、風で一斉に手招きをします。

子どもの頃、私はあれが少し怖くて、少し好きでした。

母は、その下で自転車の荷台に束を縛りながら、いつも同じことを言います。

「よその手ぇばっかり縫うとるけど、うちの手はあんたのぶんもあるけんな」

意味を訊いても、母は笑って答えませんでした。

平仮名の一行が、添えてありました

はいはいをする私。

初めて二本の足で立った私。

熱を出して泣いている私。

母は、その日その日の私を、不器用な運針で、革の上に写し取りました。

決して上手な刺繍ではありません。

顔は歪み、手足の長さもまちまちで、ときには首が妙に長かったりします。

それでも母は、どうにかして私の今日を、形に残しておきたかったのだそうです。

端切れの隅には、母の手で、小さな文字も縫い取られていました。

「きょうは ひとりで たった」

「ねつを だして ぐずる ばんでした」

「はじめて おかあさんと よんでくれた」

そんな一行が、ひと針ひと針、たどたどしい運針で添えてあります。

平仮名ばかりの、けれど真心のこもった、母だけの記録でした。

私が熱を出した夜、母は仕事を放り出して、一晩中、額の手拭いを替え続けました。

朝になって熱が下がると、母は安心したのか、針箱の前で、こくりと舟を漕いでいました。

その日の一枚には、「ねつが さがって ほっとした あさ」と縫い取られていました。

母は、私の苦しみも、自分の安堵も、ぜんぶ糸にして残していたのです。

今思えば、あの端切れの一枚一枚が、母の日記でもあったのでしょう。

その革が、ひと月ふた月と重なって、母の針箱の底で、分厚い束になっていきました。

年に一度、私の誕生日になると、母はその束を取り出して、二人で畳に広げます。

「ほら、この頃はこんまかったんよ」と、母は嬉しそうに笑いました。

私も、自分の知らない自分の姿を見るのが、なんだか不思議で、好きでした。

それは、貧しい我が家にあった、たった一つの贅沢でした。

小学四年の春に、友達が来ました

ところが、小学四年生の春のことです。

学校から、友達を三人、家に連れて帰った日がありました。

狭い借家を珍しがって、友達は部屋のあちこちを覗き込みます。

そして、押し入れの隅に積んであった、あの革の束を見つけてしまいました。

止める間もなく、友達はそれを引っぱり出して、畳に広げます。

赤ん坊の私の、歪んだ刺繍と、平仮名の文字。

友達は、それを回し読みして、げらげらと笑い出しました。

「なにこれ、へたくそ」

「写真も撮れんくらい、貧乏なん」

笑い声と、貧乏という言葉が、狭い部屋に響きました。

私は、顔から血の気が引いていくのを感じました。

ただ、笑われたくない、その一心で、私は何も言えずにうつむいていました。

友達が帰ったあと、部屋には、私ひとりが残されました。

胸の奥で、恥ずかしさと、惨めさが、ぐるぐると渦を巻いています。

私は、かっとなって、その束を抱え込みました。

縫い目に指をかけ、一枚、また一枚と、力任せに引き裂きます。

革は思ったより丈夫で、簡単には裂けません。

それが余計に腹立たしくて、私は歯を使い、爪を立てました。

ぶつ、ぶつ、と、母の縫った糸が、音を立てて切れていきます。

歪んだ私の顔が、平仮名の文字が、ばらばらに裂けていきました。

裂いた革を、私は屑入れに、乱暴に突っ込みました。

これさえなければ、もう誰にも笑われずに済む。

子どもの私は、本気で、そう思い込んでいたのです。

破り終えると、息が上がって、手が小刻みに震えていました。

それでも、すっきりなどは、少しもしませんでした。

母は、叱りませんでした

夕方、仕上げた品を届けに行っていた母が、帰ってきました。

ただいま、と言いかけた母の声が、屑入れの前で、ふつりと止まります。

はみ出した革を見つけて、母は、その場に立ち尽くしました。

そして、声を上げずに、ぽろぽろと、涙をこぼし始めたのです。

私は、叱られるのが怖くて、笑われたから裂いたのだと、つっかえながら言い訳をしました。

けれど母は、ただ首を横に振って、泣き続けるばかりでした。

その晩、母は、いつものように夕餉の支度をしました。

私を叱ることも、責めることも、ありません。

ただ、いつもより口数が少なく、目が赤いだけでした。

私も、自分のしたことの大きさが分からないまま、布団に潜って眠りました。

母の悲しみの深さを、その夜の私は、まだ何も分かっていなかったのです。

夜中に見た、母の背中

夜中に、ふと目を覚ましました。

茶の間にだけ、まだ、ぼんやりと灯りがついています。

襖の隙間から覗くと、母が背を丸めて、何かをしていました。

屑入れから拾い集めた革を、畳の上に、一枚ずつ並べていたのです。

そして、裂けた縫い目に細い糸を通し、もう一度、根気よく綴じ合わせていました。

革を縫うには、あらかじめ目打ちで穴を開けなければなりません。

母は、その穴を一つずつ探しながら、元の針目に糸を戻していました。

切れて読めなくなった平仮名を、母は元の形を思い出しながら、縫い直します。

傍らには、私が引きちぎった糸くずまでが、捨てられずに、小皿に取ってありました。

昼の仕事で疲れ切っているはずの母の指が、休むことなく動いています。

その指は、長年の運針で、節くれだって硬くなっていました。

母の指が、震えながら、私の幼い日々を、もう一度この世に繋ぎとめていました。

裸電球の灯りの中で、母の影が、壁の上で静かに揺れていました。

私は、襖の陰で、声も出せずに、その背中を見ていました。

自分が引き裂いたものが、どれほど大切なものだったのか。

母が、何を縫い続けてきたのか。

その意味が、ようやく、子どもの胸にも届き始めていました。

けれど、声をかける勇気がなくて、私はそっと、布団に戻りました。

枕に顔を埋めて、声を殺して泣きました。

たった一つの宝物

翌朝、目を腫らした母が、綴じ直した束を、私の前にそっと置きました。

ひと晩かけて、母はそのほとんどを、繋ぎ直していたのです。

そして、申し訳なさそうに、こう言いました。

「恥ずかしい思いを、させてしもたね。ごめんな」

叱られると思っていた私は、その言葉に、かえって胸を突かれました。

母は、自分が悪いのだと、本気で詫びていたのです。

「でもな」と、母は綴じ直した束を、両手でそっと撫でました。

「母さんはな、写真機を買うてやれんかった代わりに、これを縫うてきたんよ」

「下手くそでも、これが、母さんの、たった一つの宝物なんよ」

その言葉を聞いた瞬間、堪えきれずに、涙が溢れました。

私は束に顔を伏せて、ごめんなさい、ごめんなさい、と、それだけを繰り返しました。

母は、節くれだった手で、私の頭を、何度も撫でてくれました。

泣かんでええ、もう、ええんよ、と、優しく言いながら。

いちばん細かく裂かれていた一枚

母が繋ぎ直した束の中に、一枚だけ、どうしても元に戻らないものがありました。

裂け目が細かすぎて、糸を通す穴がもう残っていないのです。

母はその一枚だけを、和紙に包んで、針箱の底へしまいました。

私はそれを、自分の姿だと思っていました。

けれど、その一枚に縫われていたのは、私ではありませんでした。

細身の男の人が、赤ん坊を抱いて、少しだけ体を斜めにしている姿。

隅の一行には、「このひとを わすれない ように」とありました。

写真の一枚もない父を、母は一度だけ、記憶の薄れる前に縫っていたのです。

私がいちばん細かく裂いていたのは、父の一枚でした。

あの日、私は父の顔を、この世からもう一度、消してしまったのでした。

そのことを知ったのは、ずっとあと、母が亡くなってからです。

母は最後まで、その一枚のことを、一度も口にしませんでした。

言えば、私が二重に自分を責めると分かっていたのでしょう。

母は、いちばん力のかかる場所を、いつも自分ひとりで抱える人でした。

母の買い物のメモが絵だったという話を読んだとき、私は母の平仮名を思い出しました。母の買い物メモは絵だったという短編です。

私が独り立ちして家を出るとき、母は駅まで来ませんでした。

玄関で、風呂敷包みをひとつだけ持たせて、それきりです。

包みの中には、着替えと、母が縫った白い手袋が一双入っていました。

大阪の冬は讃岐より寒いから、と、書き置きが添えてあります。

その手袋の指の股を、私はしばらく、指でなぞっていました。

縫い目は、驚くほど細かく、まっすぐでした。

母が私に持たせたのは、母の仕事のいちばん良いところだったのです。

その手袋は、四年目の冬に、片方をなくしました。

残った片方を、私は今も引き出しに入れています。

捨てられなかったのは、なくした片方がいつか戻る気がしていたからです。

戻らないものがあると知ったのは、革の一枚のときと同じでした。

工場の仲間が教えてくれたこと

葬儀のあと、工場で母と長く机を並べていた、寺西さんという人が訪ねてきました。

寺西さんは、母の帳面を持ってきてくれました。

毎月の欄に、「くず革 何匁 何円」と、細かい字で書かれています。

端切れは工場のあまりをもらっていたのだと、私はずっと思っていました。

「持ち出しはご法度でな。あんたのお母さん、目方で買うとったんよ」

母は、自分の手間賃から、私を縫うための革を、毎月買っていたのでした。

寺西さんは、指の股のことも教えてくれました。

「股から縫うんは、いちばん難しいけんな。そこがきれいなら、あとは何とでもなる」

母は、いちばん難しいところから、私を縫いはじめていたのです。

顔でも、着ているものでもなく、腕と体の間の、いちばん力のかかる隅から。

母にとって私は、まず、そこから作られるものだったのでした。

それから寺西さんは、少し迷ってから、こんな話をしました。

「あんたのお母さんもな、子どもの時分に、同じことをしとるんよ」

母もまた、自分の母の縫った物を恥ずかしがって、押し入れに隠したことがあるのだそうです。

だから母は、私を叱ることができなかったのでした。

「あの子は、うちと同じ思いをしとる。そう言うて、泣いとったよ」

母が泣いていたのは、束が裂かれたからではなかったのです。

寺西さんは、帰りぎわに、工場での母の話をひとつしてくれました。

手差しの仕事は、上がりの数で賃金が決まります。

母は数の多い人ではなく、いつも真ん中より下だったそうです。

けれど、母の縫った手袋は、返品が一度もなかった。

「遅いんやのうて、股のとこだけ、余計に時間かけとったんよ」

速く縫えば賃金は上がるのに、母は最後までそこを削りませんでした。

私を縫うときと、同じ順番で、同じところに時間をかけていたのです。

私は寺西さんに、母が笑った日のことを覚えているか、と訊きました。

寺西さんは、少し考えて、こう答えました。

「あんたが中学に受かった日な。あの人、机で一回だけ、声出して笑うたよ」

その日の一枚に、母は何と縫っていたのか。

束を探しても、その年の一枚だけが見当たりません。

あるいは、あの春に私が裂いたまま、戻らなかったのかもしれません。

いちばん誇らしいもの

翌日、学校で、私は友達と目を合わせられませんでした。

貧乏、という言葉が、耳の奥で、まだ鳴り続けていたからです。

家に帰る道々、私は、母の夜なべの横顔ばかり考えていました。

それなのに私は、その大切なものを、自分の手で裂いてしまったのです。

あの朝、私は、貧しさよりも恥ずかしいものなど、何一つないのだと知りました。

母が縫い続けてくれたものこそが、世界で一番、誇らしいものだったのです。

それからの母は、相変わらず、夜なべで針を動かし続けました。

ただ、あの日を境に、私はもう二度と、母の束を恥じることはありません。

私が中学に上がる頃、母の目は、細かい運針で、ずいぶん弱っていました。

それでも母は、私の節目節目を、震える手で、革に縫い続けてくれました。

入学の日、初めて給料をもらった日、私が独り立ちして家を出た日。

母の最後の一枚には、「ひとりで やっていけるね もう だいじょうぶ」とありました。

祖母や母の手仕事が、言葉の代わりだったという話は、ほかにもあります。祖母は大根を四つに切ったを読んだ晩、私は針箱を開けてしまいました。

私は今も、あの分厚い束を、簞笥のいちばん奥にしまっています。

綴じ跡のある一枚を広げると、たどたどしい刺繍の私が、こちらを見上げて笑っています。

隣には、平仮名で、あの日の私の様子が、母の字で綴られています。

写真の一枚もない我が家に、母は、糸で描いた何十枚もの私を残してくれました。

私にも、やがて子が生まれました。

初めて我が子を抱いたとき、私の手は、写真を撮るより先に、針箱を探していました。

母の癖が、こんなところにも流れているのかと、おかしくなりました。

結局うまくは縫えませんでしたが、私は今でも、子の節目に何かを残そうとしてしまいます。

そして必ず、指の股から縫いはじめます。

いちばん難しいところから始めておけば、あとは何とでもなるのだと、母に教わったからです。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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