十二月のはじめ、七歳の息子が、毎晩のように窓辺に通うようになりました。
小さな手で、何かを一生懸命に書いては、レースのカーテンの内側に、そっと立てかけているのです。
「サンタさんに、見えるところに置かないとダメなんだよ」
得意げにそう言う息子の背中を見ながら、私は胸の奥が、少しだけ痛みました。
その年の我が家は、例年のようには、クリスマスを待てない事情を抱えていたからです。
※
思えば、その年の我が家は、小さな我慢の積み重ねでした。
夏に予定していた家族旅行は、夫の入院で取りやめになりました。
息子の七歳の誕生日も、病室の小さなテーブルで、ささやかに祝いました。
ろうそくを吹き消すとき、息子は何を願ったのでしょう。
今思えば、あの頃から、あの子の願いはずっと、ひとつだけだったのかもしれません。
秋が深まり、庭のもみじが赤く色づいても、夫はそれを縁側から眺めるのがやっとでした。
「来年は、あの子と落ち葉を踏みに行きたいな」
夫がそうつぶやくたびに、私は気づかれないように、奥歯を噛みしめました。
※
夫が体を壊したのは、その年の春のことでした。
はじめは、ただの長引く風邪だと思っていました。
けれど夫の咳は、夏を越えても、秋が深まっても、止まることがありませんでした。
検査の結果を聞いた帰り道、私たちは長いあいだ、ひと言も交わせませんでした。
肺の奥に、簡単には治らない病が、静かに根を張っていたのです。
入退院を繰り返すようになり、家の中からは、いつのまにか笑い声が減っていきました。
夜になると、隣の部屋から、夫の押し殺したような咳が、途切れ途切れに聞こえてきました。
息子は、まだ幼いなりに、何かを感じ取っていたのだと思います。
その秋、私は息子を連れて、夫の病院へ見舞いに行きました。
白い廊下を歩くあいだ、息子はずっと、私の手を強く握っていました。
病室のドアを開けると、夫はベッドの上で、酸素のチューブをつけたまま、無理に明るい声を出しました。
「おう、来たか。ずいぶん大きくなったなあ」
けれど話している途中で、夫はまた、苦しそうに咳き込みました。
その音を聞くたびに、息子の小さな肩が、びくりと跳ねました。
帰りのバスの中で、息子はぽつりと言いました。
「お父さんの咳、ぼくが止めてあげたいな」
私は窓の外を見たふりをして、滲んできた涙を、そっと指でぬぐいました。
幼いこの子は、自分にできることを、ずっと探していたのです。
「お父さん、いつになったら、お外で遊べるの」
そう尋ねられるたびに、私は言葉に詰まりました。
「もう少し、もう少しだけ待っててね」
そう答えるのが、せいいっぱいでした。
※
ある日、保育園から帰った息子が、一枚の絵を見せてくれました。
クレヨンで描かれていたのは、手をつないだ三人が、大きな山の上に立っている絵でした。
「これね、お父さんが元気になったら、みんなで行くところ」
そう言って、息子はその絵を、冷蔵庫にぺたりと貼りました。
その絵は、しばらくのあいだ、台所のいちばん目立つ場所で、私たちを見守っていました。
夫が退院して帰ってきた夜、その絵を見つめながら、ぽつりと言いました。
「この山に、連れていってやれるかな」
私は、行けるよ、とだけ答えました。
それ以上の言葉は、どうしても続けられませんでした。
※
クリスマスを数日後に控えた夜、私はふと、窓辺の手紙が気になりました。
欲しいおもちゃでも書いてあるのだろうと、軽い気持ちで覗き込んだのです。
青い雪だるまの便箋に、たどたどしい鉛筆の字で、こう書かれていました。
『さんたさんへ』
『おとうさんの せきが とまる おくすりを ください』
『おねがいします』
私は、その場で立ち尽くしてしまいました。
おもちゃでも、ゲームでもなく、息子が願ったのは、たったそれだけだったのです。
台所にいた夫を呼び、黙って手紙を見せました。
夫は文字を目で追うと、ふっと困ったように笑いました。
「困ったな。これは、サンタさんでも難しい注文だ」
そう言って笑う夫の声が、わずかに震えているのが分かりました。
私は、こらえきれずに、台所の隅で少しだけ泣きました。
※
手紙を読んだ夜、私はなかなか寝つけませんでした。
隣の布団で眠る息子の寝顔を、暗がりの中で、ただ見つめていました。
この子は、どんな気持ちで、あの願いを鉛筆に込めたのでしょう。
友だちはみんな、ゲームやおもちゃをサンタにお願いするはずです。
それなのにこの子は、自分の欲しいものを、ひとつも書きませんでした。
小さな胸の中に、父を想う気持ちだけを、いっぱいに抱えていたのです。
その健気さが、いとおしくて、そして、たまらなく切なくて。
私は息子の髪を、そっと撫でました。
※
その夜、息子が寝静まったあと、私たちは小さな声で相談しました。
本当のことを言うべきか、それとも、嘘でも願いを叶えてやるべきか。
「あの子に、サンタさんはいなかったって思わせたくないんだ」
夫は、しばらく考えてから、静かにそう言いました。
「俺がどうなるかは、まだ分からない。でも、あの子の中のサンタさんだけは、生かしておいてやりたい」
私は、何も言えずに、ただうなずきました。
夫は引き出しから、ふだん飲んでいる粉薬の、空の袋を一枚取り出しました。
そして、震える手で、こう書き添えたのです。
『せきが とまる おくすり』
その不器用な文字を見て、私はまた、目の奥が熱くなりました。
相談のあと、私たちはしばらく、暗い台所で並んで座っていました。
夫は冷めたお茶をひと口飲んで、昔のことを話しはじめました。
「あの子が生まれた日のこと、覚えてるか」
「もちろん。あなた、嬉しすぎて、廊下で泣いてたじゃない」
「あのときの俺は、この子の運動会も、卒業式も、結婚式も、ぜんぶ見られると思ってた」
夫の声は、責めるでもなく、ただ静かでした。
「でも、たとえ全部は見られなくても、あの子の中に、いいお父さんとして残れたら、それでいい」
私は、夫の冷たい手の上に、自分の手をそっと重ねました。
その夜の台所の冷たさを、私は今でも、忘れることができません。
※
窓辺に手紙を置く息子の習慣は、その後も毎晩、続きました。
暖房をつけても、窓のそばは冷えます。
それでも息子は、サンタさんに見えるようにと、いちばん窓に近い場所に、手紙を立て続けました。
その小さな後ろ姿を見るたびに、私は祈るような気持ちになりました。
どうか、この子の願いだけは、叶えてあげてください、と。
誰に祈ればいいのかも分からないまま、私はただ、手を合わせていました。
※
クリスマスイブの夜、息子を寝かしつけてから、私たちは枕元にそっと贈り物を並べました。
電車のおもちゃは、夫が病院の売店で、何日もかけて選んだものでした。
「これなら、家の中でも遊べるだろう」
そう言いながら、夫はリボンを結ぶ手を、何度もとめては、咳をしました。
あの薬の袋に、不器用な字で願いを込めるとき、夫の指先は、かすかに震えていました。
夫が薬の袋に文字を書いていたとき、私はそっと、その背中を見ていました。
「効くといいな」と、夫は小さくつぶやきました。
病に効く薬でないことは、二人とも分かっていました。
それでも夫が願ったのは、あの子の心に効く薬でした。
信じる気持ちを、まっすぐに守ってやりたい。
その一心で、震える手は、一文字ずつ、丁寧に書き進められていきました。
書き終えると、夫はその袋を、まるで宝物のように、両手で包みました。
「これで、あの子は笑ってくれるかな」
私は、笑ってくれるに決まってる、と答えました。
その夜の夫の横顔を、私は一生、忘れないと思います。
カーテンの隙間から、雪が静かに降りはじめているのが見えました。
「明日の朝、あの子はどんな顔をするかな」
夫が、子どものように、楽しそうに笑いました。
その笑顔を、私はずっと、まぶたの裏に焼きつけておこうと思いました。
※
クリスマスの朝が来ました。
枕元には、息子がずっと欲しがっていた電車のおもちゃと、あの薬の袋が並べてありました。
目を覚ました息子は、おもちゃよりも先に、その薬の袋に飛びつきました。
「きた! サンタさん、ちゃんと持ってきてくれた!」
その声は、家じゅうに響くほど、嬉しそうでした。
息子は薬の袋を握りしめると、朝食をとっていた夫のもとへ、一目散に駆けていきました。
「お父さん! サンタさんが、お父さんの咳が止まるお薬くれたの! 早く飲んで!」
夫は一瞬、言葉を失ったように見えました。
それから、ゆっくりとその袋を受け取り、白湯と一緒に、中身を飲み干しました。
「お……なんだか、体の調子が、だんだん良くなってきたみたいだぞ」
夫がそう言うと、息子は飛び跳ねて喜びました。
「ほんと!? やったあ!」
飲み干したあと、夫は息子の頭を、大きな手でくしゃくしゃと撫でました。
「ありがとうな。世界でいちばん効く薬だ」
息子は誇らしげに胸を張りました。
「だってサンタさんに、ちゃんとお願いしたもん」
その無邪気な声が、朝の台所に、まっすぐ響きました。
窓の外では、昨夜の雪が、庭をうっすらと白く染めていました。
私は炊きたてのご飯をよそいながら、この朝が、いつまでも続けばいいのにと願いました。
※
「これでお父さん、また元気になるね」
息子は、無邪気に続けました。
「そしたら、いっしょに山に登ったり、動物園に行ったり、運動会も見にきてくれるよね」
その言葉を聞いた瞬間、夫の顔が、くしゃりと歪みました。
声を押し殺すようにして、夫は、肩を震わせはじめました。
「ぐっ……うっ」
私は、もらい泣きしそうになるのを、必死でこらえました。
コンロにかけた味噌汁を、わざと大きな音を立ててかき混ぜ、なんとか涙を散らそうとしました。
息子が、驚いたように夫を見上げました。
「お父さん、どうして泣いてるの?」
夫は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも笑ってみせました。
「これはな、薬がよく効いてる証拠なんだ。効き目で、涙が出てくるんだよ」
息子は、その下手な嘘を、なんの疑いもなく信じて、また笑いました。
あとになって、夫は私に打ち明けました。
あの朝、息子の言葉を聞いた瞬間、自分が泣いていることに、自分でも気づかなかったと。
運動会、動物園、山登り。
それは、夫がいちばん、あの子と一緒にやりたかったことばかりでした。
叶えてやれないかもしれない約束を、あの子は無邪気に、未来の話として口にしたのです。
「あんなに嬉しくて、あんなに苦しい涙は、生まれて初めてだった」
夫はそう言って、照れたように笑いました。
※
クリスマスの朝、息子が駆けていったあとの台所に、しばらく静けさが残りました。
夫は、味噌汁をよそった私のお椀を見て、ふっと笑いました。
「涙、入ってるぞ」
「あなたのだって、入ってたじゃない」
そんな他愛のないやり取りが、なぜだか、ひどく愛おしく感じられました。
窓の外では、雪が、音もなく降り続いていました。
私たちは並んで、その白い庭を、長いあいだ眺めていました。
言葉はもう、いりませんでした。
※
その後、息子は近所の友だちの家へ、もらったおもちゃを持って遊びに出かけました。
元気に駆けていく小さな背中を、私たちは窓から、いつまでも見送っていました。
玄関の戸が閉まる音を確かめてから、夫がぽつりと言いました。
「来年は、君がサンタさんだ」
私は、夫の顔を見ることができませんでした。
「しっかり、頼むよ」
その声を聞いた瞬間、こらえていたものが、いっぺんにあふれ出しました。
私は、その場にしゃがみこんで、声を上げて泣きました。
作りかけの味噌汁のお椀に、涙が、いくつもいくつも落ちて混ざりました。
※
その日の午後、夫は久しぶりに、縁側で日向ぼっこをしました。
細くなった手で、湯のみを包むようにして持ちながら、庭をぼんやりと眺めていました。
「なあ、来年のクリスマスは、君があの子のサンタをやるんだ」
「あなたも、いっしょにやるのよ」
私がそう言うと、夫はただ、穏やかに微笑むだけでした。
その横顔が、冬の柔らかな光に包まれていたのを、今でも覚えています。
言葉にしなくても、私たちはお互いの想いを、痛いほど分かっていました。
※
夫が静かに旅立ったのは、その翌年の、桜が散りはじめた頃でした。
最期まで、息子の前では、決して弱音を吐きませんでした。
翌年のクリスマス、私は夫との約束どおり、ひとりでサンタの役を務めました。
枕元に贈り物を並べながら、私は何度も、あの人の不器用な字を思い出しました。
息子は、サンタさんからの贈り物を見つけて、変わらず無邪気に喜んでくれました。
その笑顔が、私にとって、何よりの救いでした。
あの子は、お父さんがサンタさんだったことを、いつか気づくでしょうか。
それとも、もう気づいていて、知らないふりをしてくれているのでしょうか。
中学生になった今でも、息子はクリスマスの朝になると、決まって冷蔵庫の前に立ちます。
そこには、あのとき貼った、山の絵が、今も色あせたまま貼ってあるのです。
「来年はさ、ぼくがお母さんのサンタになろうかな」
先日、息子が照れくさそうにそう言ったとき、私はこらえきれずに、台所で泣いてしまいました。
願いは、ちゃんと受け継がれていました。
あの朝、夫が遺した言葉は、小さな種のように、この子の中で静かに育っていたのです。
※
今でも、雪の降る朝には、あの台所の光景がよみがえります。
湯気の立つ味噌汁、息子の弾けるような笑い声、そして、夫の濡れた笑顔。
あれは、悲しい思い出ではありません。
私たち家族が、いちばん深く愛し合っていた、温かな朝の記憶です。
サンタさんは、贈り物を運んでくるだけの存在ではないのだと、今は思います。
大切な人を想う気持ちそのものが、きっとサンタさんなのです。
※
あの日から、季節はいくつも巡りました。
窓辺に手紙を置いていた小さな手は、今ではずいぶん大きくなりました。
あの一年で、私は学びました。
幸せというのは、特別な日にあるのではないのだと。
ただ三人で同じ食卓を囲み、同じ味噌汁の湯気を見つめる。
そんな当たり前の朝こそが、いちばんの宝物だったのだと。
病が教えてくれたのは、悲しみだけではありませんでした。
残された時間を、どう大切に使うか。
その問いの答えを、夫は最後まで、笑顔で示し続けてくれました。
毎年クリスマスが近づくと、私は決まって、あの青い雪だるまの便箋を思い出します。
自分のためではなく、誰かのために、たったひとつの願いを書いたあの子のことを。
サンタさんは、本当にいるのかと、もし今、あの子に聞かれたら。
私は迷わず、こう答えるでしょう。
いるよ、と。
あの青い便箋は、今も大切に、引き出しの奥にしまってあります。
色あせた鉛筆の文字を見るたびに、私の胸はあたたかくなります。
あの子の祈りは、確かに、誰かに届いていたのだと思えるからです。
だってあの朝、確かに我が家にも、サンタさんは来てくれたのですから。