サンタさんへの手紙

十二月のはじめ、七歳の息子が、毎晩のように窓辺に通うようになりました。

小さな手で、何かを一生懸命に書いては、レースのカーテンの内側に、そっと立てかけているのです。

「サンタさんに、見えるところに置かないとダメなんだよ」

得意げにそう言う息子の背中を見ながら、私は胸の奥が、少しだけ痛みました。

その年の我が家は、例年のようには、クリスマスを待てない事情を抱えていたからです。

思えば、その年の我が家は、小さな我慢の積み重ねでした。

夏に予定していた家族旅行は、夫の入院で取りやめになりました。

息子の七歳の誕生日も、病室の小さなテーブルで、ささやかに祝いました。

ろうそくを吹き消すとき、息子は何を願ったのでしょう。

今思えば、あの頃から、あの子の願いはずっと、ひとつだけだったのかもしれません。

秋が深まり、庭のもみじが赤く色づいても、夫はそれを縁側から眺めるのがやっとでした。

「来年は、あの子と落ち葉を踏みに行きたいな」

夫がそうつぶやくたびに、私は気づかれないように、奥歯を噛みしめました。

夫が体を壊したのは、その年の春のことでした。

はじめは、ただの長引く風邪だと思っていました。

けれど夫の咳は、夏を越えても、秋が深まっても、止まることがありませんでした。

検査の結果を聞いた帰り道、私たちは長いあいだ、ひと言も交わせませんでした。

肺の奥に、簡単には治らない病が、静かに根を張っていたのです。

入退院を繰り返すようになり、家の中からは、いつのまにか笑い声が減っていきました。

夜になると、隣の部屋から、夫の押し殺したような咳が、途切れ途切れに聞こえてきました。

息子は、まだ幼いなりに、何かを感じ取っていたのだと思います。

その秋、私は息子を連れて、夫の病院へ見舞いに行きました。

白い廊下を歩くあいだ、息子はずっと、私の手を強く握っていました。

病室のドアを開けると、夫はベッドの上で、酸素のチューブをつけたまま、無理に明るい声を出しました。

「おう、来たか。ずいぶん大きくなったなあ」

けれど話している途中で、夫はまた、苦しそうに咳き込みました。

その音を聞くたびに、息子の小さな肩が、びくりと跳ねました。

帰りのバスの中で、息子はぽつりと言いました。

「お父さんの咳、ぼくが止めてあげたいな」

私は窓の外を見たふりをして、滲んできた涙を、そっと指でぬぐいました。

幼いこの子は、自分にできることを、ずっと探していたのです。

「お父さん、いつになったら、お外で遊べるの」

そう尋ねられるたびに、私は言葉に詰まりました。

「もう少し、もう少しだけ待っててね」

そう答えるのが、せいいっぱいでした。

ある日、保育園から帰った息子が、一枚の絵を見せてくれました。

クレヨンで描かれていたのは、手をつないだ三人が、大きな山の上に立っている絵でした。

「これね、お父さんが元気になったら、みんなで行くところ」

そう言って、息子はその絵を、冷蔵庫にぺたりと貼りました。

その絵は、しばらくのあいだ、台所のいちばん目立つ場所で、私たちを見守っていました。

夫が退院して帰ってきた夜、その絵を見つめながら、ぽつりと言いました。

「この山に、連れていってやれるかな」

私は、行けるよ、とだけ答えました。

それ以上の言葉は、どうしても続けられませんでした。

クリスマスを数日後に控えた夜、私はふと、窓辺の手紙が気になりました。

欲しいおもちゃでも書いてあるのだろうと、軽い気持ちで覗き込んだのです。

青い雪だるまの便箋に、たどたどしい鉛筆の字で、こう書かれていました。

『さんたさんへ』

『おとうさんの せきが とまる おくすりを ください』

『おねがいします』

私は、その場で立ち尽くしてしまいました。

おもちゃでも、ゲームでもなく、息子が願ったのは、たったそれだけだったのです。

台所にいた夫を呼び、黙って手紙を見せました。

夫は文字を目で追うと、ふっと困ったように笑いました。

「困ったな。これは、サンタさんでも難しい注文だ」

そう言って笑う夫の声が、わずかに震えているのが分かりました。

私は、こらえきれずに、台所の隅で少しだけ泣きました。

手紙を読んだ夜、私はなかなか寝つけませんでした。

隣の布団で眠る息子の寝顔を、暗がりの中で、ただ見つめていました。

この子は、どんな気持ちで、あの願いを鉛筆に込めたのでしょう。

友だちはみんな、ゲームやおもちゃをサンタにお願いするはずです。

それなのにこの子は、自分の欲しいものを、ひとつも書きませんでした。

小さな胸の中に、父を想う気持ちだけを、いっぱいに抱えていたのです。

その健気さが、いとおしくて、そして、たまらなく切なくて。

私は息子の髪を、そっと撫でました。

その夜、息子が寝静まったあと、私たちは小さな声で相談しました。

本当のことを言うべきか、それとも、嘘でも願いを叶えてやるべきか。

「あの子に、サンタさんはいなかったって思わせたくないんだ」

夫は、しばらく考えてから、静かにそう言いました。

「俺がどうなるかは、まだ分からない。でも、あの子の中のサンタさんだけは、生かしておいてやりたい」

私は、何も言えずに、ただうなずきました。

夫は引き出しから、ふだん飲んでいる粉薬の、空の袋を一枚取り出しました。

そして、震える手で、こう書き添えたのです。

『せきが とまる おくすり』

その不器用な文字を見て、私はまた、目の奥が熱くなりました。

相談のあと、私たちはしばらく、暗い台所で並んで座っていました。

夫は冷めたお茶をひと口飲んで、昔のことを話しはじめました。

「あの子が生まれた日のこと、覚えてるか」

「もちろん。あなた、嬉しすぎて、廊下で泣いてたじゃない」

「あのときの俺は、この子の運動会も、卒業式も、結婚式も、ぜんぶ見られると思ってた」

夫の声は、責めるでもなく、ただ静かでした。

「でも、たとえ全部は見られなくても、あの子の中に、いいお父さんとして残れたら、それでいい」

私は、夫の冷たい手の上に、自分の手をそっと重ねました。

その夜の台所の冷たさを、私は今でも、忘れることができません。

窓辺に手紙を置く息子の習慣は、その後も毎晩、続きました。

暖房をつけても、窓のそばは冷えます。

それでも息子は、サンタさんに見えるようにと、いちばん窓に近い場所に、手紙を立て続けました。

その小さな後ろ姿を見るたびに、私は祈るような気持ちになりました。

どうか、この子の願いだけは、叶えてあげてください、と。

誰に祈ればいいのかも分からないまま、私はただ、手を合わせていました。

クリスマスイブの夜、息子を寝かしつけてから、私たちは枕元にそっと贈り物を並べました。

電車のおもちゃは、夫が病院の売店で、何日もかけて選んだものでした。

「これなら、家の中でも遊べるだろう」

そう言いながら、夫はリボンを結ぶ手を、何度もとめては、咳をしました。

あの薬の袋に、不器用な字で願いを込めるとき、夫の指先は、かすかに震えていました。

夫が薬の袋に文字を書いていたとき、私はそっと、その背中を見ていました。

「効くといいな」と、夫は小さくつぶやきました。

病に効く薬でないことは、二人とも分かっていました。

それでも夫が願ったのは、あの子の心に効く薬でした。

信じる気持ちを、まっすぐに守ってやりたい。

その一心で、震える手は、一文字ずつ、丁寧に書き進められていきました。

書き終えると、夫はその袋を、まるで宝物のように、両手で包みました。

「これで、あの子は笑ってくれるかな」

私は、笑ってくれるに決まってる、と答えました。

その夜の夫の横顔を、私は一生、忘れないと思います。

カーテンの隙間から、雪が静かに降りはじめているのが見えました。

「明日の朝、あの子はどんな顔をするかな」

夫が、子どものように、楽しそうに笑いました。

その笑顔を、私はずっと、まぶたの裏に焼きつけておこうと思いました。

クリスマスの朝が来ました。

枕元には、息子がずっと欲しがっていた電車のおもちゃと、あの薬の袋が並べてありました。

目を覚ました息子は、おもちゃよりも先に、その薬の袋に飛びつきました。

「きた! サンタさん、ちゃんと持ってきてくれた!」

その声は、家じゅうに響くほど、嬉しそうでした。

息子は薬の袋を握りしめると、朝食をとっていた夫のもとへ、一目散に駆けていきました。

「お父さん! サンタさんが、お父さんの咳が止まるお薬くれたの! 早く飲んで!」

夫は一瞬、言葉を失ったように見えました。

それから、ゆっくりとその袋を受け取り、白湯と一緒に、中身を飲み干しました。

「お……なんだか、体の調子が、だんだん良くなってきたみたいだぞ」

夫がそう言うと、息子は飛び跳ねて喜びました。

「ほんと!? やったあ!」

飲み干したあと、夫は息子の頭を、大きな手でくしゃくしゃと撫でました。

「ありがとうな。世界でいちばん効く薬だ」

息子は誇らしげに胸を張りました。

「だってサンタさんに、ちゃんとお願いしたもん」

その無邪気な声が、朝の台所に、まっすぐ響きました。

窓の外では、昨夜の雪が、庭をうっすらと白く染めていました。

私は炊きたてのご飯をよそいながら、この朝が、いつまでも続けばいいのにと願いました。

「これでお父さん、また元気になるね」

息子は、無邪気に続けました。

「そしたら、いっしょに山に登ったり、動物園に行ったり、運動会も見にきてくれるよね」

その言葉を聞いた瞬間、夫の顔が、くしゃりと歪みました。

声を押し殺すようにして、夫は、肩を震わせはじめました。

「ぐっ……うっ」

私は、もらい泣きしそうになるのを、必死でこらえました。

コンロにかけた味噌汁を、わざと大きな音を立ててかき混ぜ、なんとか涙を散らそうとしました。

息子が、驚いたように夫を見上げました。

「お父さん、どうして泣いてるの?」

夫は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも笑ってみせました。

「これはな、薬がよく効いてる証拠なんだ。効き目で、涙が出てくるんだよ」

息子は、その下手な嘘を、なんの疑いもなく信じて、また笑いました。

あとになって、夫は私に打ち明けました。

あの朝、息子の言葉を聞いた瞬間、自分が泣いていることに、自分でも気づかなかったと。

運動会、動物園、山登り。

それは、夫がいちばん、あの子と一緒にやりたかったことばかりでした。

叶えてやれないかもしれない約束を、あの子は無邪気に、未来の話として口にしたのです。

「あんなに嬉しくて、あんなに苦しい涙は、生まれて初めてだった」

夫はそう言って、照れたように笑いました。

クリスマスの朝、息子が駆けていったあとの台所に、しばらく静けさが残りました。

夫は、味噌汁をよそった私のお椀を見て、ふっと笑いました。

「涙、入ってるぞ」

「あなたのだって、入ってたじゃない」

そんな他愛のないやり取りが、なぜだか、ひどく愛おしく感じられました。

窓の外では、雪が、音もなく降り続いていました。

私たちは並んで、その白い庭を、長いあいだ眺めていました。

言葉はもう、いりませんでした。

その後、息子は近所の友だちの家へ、もらったおもちゃを持って遊びに出かけました。

元気に駆けていく小さな背中を、私たちは窓から、いつまでも見送っていました。

玄関の戸が閉まる音を確かめてから、夫がぽつりと言いました。

「来年は、君がサンタさんだ」

私は、夫の顔を見ることができませんでした。

「しっかり、頼むよ」

その声を聞いた瞬間、こらえていたものが、いっぺんにあふれ出しました。

私は、その場にしゃがみこんで、声を上げて泣きました。

作りかけの味噌汁のお椀に、涙が、いくつもいくつも落ちて混ざりました。

その日の午後、夫は久しぶりに、縁側で日向ぼっこをしました。

細くなった手で、湯のみを包むようにして持ちながら、庭をぼんやりと眺めていました。

「なあ、来年のクリスマスは、君があの子のサンタをやるんだ」

「あなたも、いっしょにやるのよ」

私がそう言うと、夫はただ、穏やかに微笑むだけでした。

その横顔が、冬の柔らかな光に包まれていたのを、今でも覚えています。

言葉にしなくても、私たちはお互いの想いを、痛いほど分かっていました。

夫が静かに旅立ったのは、その翌年の、桜が散りはじめた頃でした。

最期まで、息子の前では、決して弱音を吐きませんでした。

翌年のクリスマス、私は夫との約束どおり、ひとりでサンタの役を務めました。

枕元に贈り物を並べながら、私は何度も、あの人の不器用な字を思い出しました。

息子は、サンタさんからの贈り物を見つけて、変わらず無邪気に喜んでくれました。

その笑顔が、私にとって、何よりの救いでした。

あの子は、お父さんがサンタさんだったことを、いつか気づくでしょうか。

それとも、もう気づいていて、知らないふりをしてくれているのでしょうか。

中学生になった今でも、息子はクリスマスの朝になると、決まって冷蔵庫の前に立ちます。

そこには、あのとき貼った、山の絵が、今も色あせたまま貼ってあるのです。

「来年はさ、ぼくがお母さんのサンタになろうかな」

先日、息子が照れくさそうにそう言ったとき、私はこらえきれずに、台所で泣いてしまいました。

願いは、ちゃんと受け継がれていました。

あの朝、夫が遺した言葉は、小さな種のように、この子の中で静かに育っていたのです。

今でも、雪の降る朝には、あの台所の光景がよみがえります。

湯気の立つ味噌汁、息子の弾けるような笑い声、そして、夫の濡れた笑顔。

あれは、悲しい思い出ではありません。

私たち家族が、いちばん深く愛し合っていた、温かな朝の記憶です。

サンタさんは、贈り物を運んでくるだけの存在ではないのだと、今は思います。

大切な人を想う気持ちそのものが、きっとサンタさんなのです。

あの日から、季節はいくつも巡りました。

窓辺に手紙を置いていた小さな手は、今ではずいぶん大きくなりました。

あの一年で、私は学びました。

幸せというのは、特別な日にあるのではないのだと。

ただ三人で同じ食卓を囲み、同じ味噌汁の湯気を見つめる。

そんな当たり前の朝こそが、いちばんの宝物だったのだと。

病が教えてくれたのは、悲しみだけではありませんでした。

残された時間を、どう大切に使うか。

その問いの答えを、夫は最後まで、笑顔で示し続けてくれました。

毎年クリスマスが近づくと、私は決まって、あの青い雪だるまの便箋を思い出します。

自分のためではなく、誰かのために、たったひとつの願いを書いたあの子のことを。

サンタさんは、本当にいるのかと、もし今、あの子に聞かれたら。

私は迷わず、こう答えるでしょう。

いるよ、と。

あの青い便箋は、今も大切に、引き出しの奥にしまってあります。

色あせた鉛筆の文字を見るたびに、私の胸はあたたかくなります。

あの子の祈りは、確かに、誰かに届いていたのだと思えるからです。

だってあの朝、確かに我が家にも、サンタさんは来てくれたのですから。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。