昨日の明け方、午前四時を少し過ぎた頃、母が逝った。
風邪ひとつ引いたことのない、丈夫な人だった。それなのに、最後はあっけなかった。
俺が保育園に上がる頃には、もう、父はいなかった。
商売に失敗して、借金だけを残して、どこかへ消えたのだと、後になって聞いた。
残されたのは、母と、俺と、二つ下の妹の、三人だけだった。
葬儀のあと、誰もいなくなった家は、ひどく静かだった。
母が毎朝、包丁でまな板を叩いていた、あの音が、もう聞こえない。
その静けさが、母がもういないという事実を、何より強く、突きつけてきた。
俺は、台所にぽつんと立って、しばらく動けなかった。
流しの脇に、母の湯呑みが、ぽつんと置いてあった。
飲みかけのお茶が、もう冷たくなって、底に薄く残っていた。
その湯呑みを手に取ると、急に、こらえていたものが、あふれ出した。
俺は、四十近い大人だというのに、子どものように、声をあげて泣いた。
※
母は、朝の四時に起きて、俺たち兄妹の弁当を作った。
五時には家を出て、町の市場で、夕方まで魚をさばいた。
いったん帰って、急いで晩飯を作り、それを俺たちに食べさせると、また出ていった。
夜は、駅前のビルの、清掃の仕事だった。帰ってくるのは、いつも日付が変わる頃だ。
休みは、月に二、三回あれば、いいほうだった。
そうやって、母は、俺と妹を育てた。
夜中に、ふと目を覚ますと、母が、裸電球の下で、針仕事をしていることがあった。
俺たちの、破れた靴下やズボンを、一枚ずつ、丁寧に繕っているのだ。
昼間あんなに働いて、こんな時間まで、まだ起きている。
声をかけようとして、やめた。母の横顔が、あまりに静かで、近寄りがたかったから。
朝になると、俺の靴下は、いつのまにか、きれいに直っていた。
新しいものは、めったに買えなかった。でも、俺たちは、ぼろを着せられたことは、一度もなかった。
母の手は、いつも荒れていた。あかぎれだらけで、冬になると、血が滲んでいた。
その手で、それでも母は、毎晩、寝る前に俺たちの頭を撫でた。
魚の匂いと、洗剤の匂いの混じった手だった。今でも、その匂いを思い出せる。
小学校の運動会の日のことを、よく覚えている。
母は、朝の仕事を終えて、息を切らして、校庭に駆けつけてくれた。
作業着の上に、慌ててはおったエプロンの紐が、風に揺れていた。
俺が徒競走で三位になったとき、母は、誰よりも大きな声で、俺の名前を呼んだ。
「悠ー! よく頑張ったー!」
その声が恥ずかしくて、でも、本当は、飛び上がるほど、嬉しかった。
昼休みになると、母は「お弁当、二人で食べな」と言って、また仕事へ戻っていった。
重箱には、俺と妹のぶんしか、おかずが入っていなかった。
母のぶんは、どこにもなかった。
そのことに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
※
夕飯のとき、母はよく「母さんは、さっき味見でお腹いっぱいなの」と言った。
俺と妹に、たくさん食べさせるための、優しい嘘だったのだと、今なら分かる。
育ち盛りの俺たちは、その言葉を、疑いもせず信じて、平らげていた。
母の茶碗には、いつも、申し訳程度のご飯と、漬物だけが、盛られていた。
それでも母は、俺たちが食べる姿を見るのが、いちばんの幸せだと、よく言っていた。
その言葉が、本心だったことを、今の俺は、痛いほど分かる。
母は、痩せていく一方だったのに。
中学に上がる頃、俺は、その嘘に、ようやく気づいた。
そして、こっそり新聞配達のアルバイトを始めた。少しでも、母を楽にしたかったのだ。
母にばれたとき、烈火のごとく、叱られた。
「子どもは、勉強だけしてればいいの。あんたが働く必要なんて、ないんだから」
そう言いながら、母は、また泣いていた。
俺が稼いだ、最初の給料で、母に、薄手のマフラーを買った。
母は、それを、本当に嬉しそうに、何年も、何年も、使い続けてくれた。
※
妹は、いつも母の後をついて回る、甘えん坊だった。
帰宅した母に「ぎゅっとして」と、毎日せがんでいた。
母は、どんなに疲れていても、その小さな体を、いつも、力いっぱい抱きしめた。
あの抱擁が、母自身を、どれだけ支えていたのかを、俺は今になって思う。
※
反抗期なんて、ほとんどなかった。
あんなに必死に働く母を見ていて、反抗なんて、できるはずがなかった。
いや……一度だけ、あった。
小学三年生の、誕生日の少し前のことだ。
俺は、新しい野球のグローブが欲しいと、母にねだった。
少年野球を始めたばかりで、友達はみんな、真新しいグローブを持っていた。
「俺だけ古いやつだと、馬鹿にされるんだ。みんなに笑われるんだよ」
本当は、誰も笑ってなんかいなかった。なぜ、あんな嘘をついたのだろう。
母は、しばらく黙ってから、小さな声で言った。
「ごめんね……ごめんね、悠」
そして、顔をくしゃくしゃにして、泣いた。
母が泣くところを見たのは、それが初めてだった。
俺も、なぜだか悲しくなって、つられて泣いた。
母を泣かせたのが、自分のわがままのせいだと、子どもながらに、分かっていた。
それでも、グローブが欲しいという気持ちを、消すことは、できなかった。
今思えば、あの夜の母は、いったいどんな思いで、俺の頭を撫でていたのだろう。
その夜は、母と妹と三人で、同じ布団にくるまって眠った。
※
誕生日の朝、枕元に、小さな包みが置いてあった。
開けると、中身は、グローブだった。
でも、それは、ずいぶん使い込まれた、傷だらけの中古品だった。
革は硬くなって、ところどころ、縫い目がほつれていた。
きっと、リサイクルの店で、いちばん安いものを選んだのだろう。
「新しいのじゃなきゃ嫌だ」と、言いそうになった。
でも、台所で、嬉しそうにこちらを見ている母の顔を見たら、どうしても、言えなかった。
「ありがとう、母さん。これ、すごくいいやつだ」
そう言うと、母は、心の底から、ほっとしたように笑った。
その日、俺はそのグローブを、一日中、はめていた。
硬い革を、何度も何度も、手で揉んだ。早く、自分の形になじむようにと。
次の練習の日、俺は、その中古のグローブを持っていった。
内心、誰かに何か言われやしないかと、少しだけ、びくびくしていた。
でも、誰も、グローブのことなんて、気にしていなかった。
友達の一人が、ただ一言、「お、新しいグローブ?」と聞いてきただけだった。
「うん。母さんが、買ってくれたんだ」
そう答えたとき、俺は、なぜだか、とても誇らしい気持ちになった。
あの嘘が、どれだけ母を傷つけたか。それを思うと、今でも、胸が締めつけられる。
※
それから、二十年が過ぎた。
母は、女手ひとつで、俺と妹を、大学まで出してくれた。
俺も妹も社会人になり、ようやく、少しは楽をさせてあげられると思っていた。
「もう仕事なんて辞めなよ。これからは、俺たちが母さんを養うから」
何度、そう言っただろう。
でも母は、決まって、こう返した。
「働いてないと、ボケちゃうからね」
そんな年でも、ないだろうに。
三人で温泉に行こうと、約束していた。
妹の結婚式を見るまでは、死ねないと、笑っていた。
それなのに。
なぜ、末期の癌になるまで、働き続けたんだ。
なぜ、何度言っても、病院に行ってくれなかったんだ。
母が倒れたのは、いつものように、清掃の仕事へ向かう途中だった。
駅の階段で、急に座り込んでしまったのだという。
知らせを受けて病院へ駆けつけると、母は、ベッドの上で、申し訳なさそうに笑っていた。
「ごめんね、忙しいのに、来させちゃって」
検査の結果を聞いたとき、俺は、その場に、崩れ落ちそうになった。
癌は、もう、手の施しようがないところまで、進んでいた。
母は、ずっと前から、体の異変に気づいていたはずだった。
それでも、医者にかかるお金を惜しんで、俺たちに心配をかけまいと、黙っていたのだ。
「どうして、もっと早く言ってくれなかったんだよ」
俺がそう責めると、母は、ただ、困ったように笑うだけだった。
※
先生が、言っていた。
「あんなに我慢強い患者さんは、見たことがありません」
痛み止めも、ずっと我慢していたらしい。
看護師さんには、いつも「迷惑をかけて、ごめんなさいね」と、謝ってばかりだったそうだ。
最期まで、自分のことより、人のことばかり、気にしている人だった。
見舞いに行くたびに、母は、同じ病室の人たちの心配ばかりしていた。
「隣のおばあちゃん、今日は誰もお見舞いに来ないのよ。さみしいわよね」
自分が、いちばん辛いはずなのに。
俺が果物を持っていくと、母は決まって、それを看護師さんや、隣のベッドの人に、分けてしまった。
「母さんは、いいから。あんたたちが、食べなさい」
その口癖は、最期まで、変わらなかった。
病室で、母は、震える手で、何かを書いていた。
「紙を、買ってきてほしいの」と、母は言った。
何に使うのか、そのときは、分からなかった。
病室の窓から、夕陽が差し込んでいた。
母は、その光の中で、何度も手を休めながら、ゆっくりと、ペンを動かしていた。
「母さん、無理しないで。横になってなよ」
そう言っても、母は、首を横に振った。
「これだけは、書いておかないとね」
亡くなる前の晩、母は、か細い声で、俺に言った。
「悠。あんたは、ほんとに、いい子に育ってくれたね」
「母さんは、何も、悔いはないよ」
俺は、母の手を握った。あかぎれだらけの、あの小さな手は、もう、ずいぶん細くなっていた。
その手は、もう、力を入れることも、できなくなっていた。
それでも、俺の手を、かすかに、握り返してくれた。
魚をさばき、ビルを磨き、俺たちの服を繕い続けた手だった。
この手が、たった一人で、家族を、ここまで支えてきたのだ。
「まだ、何も親孝行できてないよ。これからじゃないか」
そう言うと、母は、ゆっくりと首を振って、微笑んだ。
「あんたたちが、元気でいてくれること。それが、いちばんの親孝行だよ」
その背中が、あまりに小さくて、俺は廊下に出て、声を殺して泣いた。
※
母が逝った後、枕元に、二通の手紙が残されていた。
一通は、俺に。もう一通は、妹に。
震える手で、一文字ずつ、書いたのだろう。字は、ところどころ、歪んでいた。
俺は、自分宛ての手紙を、開いた。
封筒には、母らしい、几帳面な字で、俺の名前が書かれていた。
開く手が、震えて、なかなか、便箋を取り出せなかった。
深く息を吸って、俺は、ようやく、それを広げた。
※
『悠へ。
小さい頃から、たくさんお手伝いをしてくれて、ありがとう。
あなたは、わがままを、ほとんど言わない子でした。
妹の面倒も、よく見てくれましたね。お兄ちゃんで、いてくれて、ありがとう。
あなたが生まれてきてくれて、母さんは、本当に、本当に、うれしかった。
あなたのお嫁さんと、孫の顔を、見たかったな。
それだけが、心残りです』
※
妹宛ての手紙も、震える指で、開いた。
『美咲へ。
女の子なのに、可愛い服を、たくさん買ってあげられなくて、ごめんね。
いつも家に帰ると「ぎゅっとして」と言ってくれたあなたに、母さんは、何度、救われたか分かりません。
あなたは、あなたを心から愛してくれる人を、見つけなさい。
そして、その人のために、生きなさい。
死は、誰にでも、必ず訪れるものです。だから、悲しまないで。
もし、あなたが辛いことがあったら、いつでも、枕元に立ちますよ。なんてね。
あなたたちの母親で、いられて、幸せでした。
生まれ変わっても、また、あなたたちの母親で、ありたい。
それが、母さんの、たった一つの願いです。
体に気をつけて。寒い日は、あたたかくしてね。
それから……それから……きりがないから、もう、やめておくね。
たくさん、たくさん、ありがとう』
※
母さん。
手紙は、俺の涙で滲んで、ぼろぼろになってしまったよ。
だから、新しい紙を買ってきてくれって、言ってたんだね。
二人に、ちゃんと読ませたかったんだね。
母さん。ありがとう。ありがとう。ありがとう。
いくら言っても、足りないよ。
この二十年、何度、母さんに楽をさせてあげたいと思ってきただろう。
その願いを、ひとつも叶えられないまま、母さんは逝ってしまった。
せめて、これからは、母さんが遺してくれた優しさを、俺が、次の世代へ渡していくよ。
※
あれから、何年も経った。
妹は、優しい人と結婚して、母さんによく似た、女の子を産んだ。
俺にも、息子が生まれた。今、少年野球を始めたところだ。
この前、その子に、グローブをねだられた。
友達はみんな新しいのを持っているから、と。
俺は、新しいグローブを買ってやった。それから、もう一つ。
押し入れの奥から、あの傷だらけの中古のグローブを、引っぱり出した。
二十年以上、俺が大切に手入れしてきた、母さんがくれたグローブだ。
革は、もう、すっかり俺の手になじんで、艶を帯びている。
「これはな、父さんが、お前くらいの歳に、ばあちゃんに買ってもらったやつだ」
息子は、その古いグローブを、不思議そうに、両手で受け取った。
「ボロボロだね」と、正直な感想を言った。
俺は、笑って答えた。
「ボロボロなのは、父さんが、それだけ長いこと、大事に使ってきたからだよ」
「このグローブにはな、ばあちゃんの気持ちが、いっぱい詰まってるんだ」
息子は、よく分からないという顔をしながらも、そのグローブを、ぎゅっと胸に抱いた。
その夜、息子は、新しいグローブではなく、あの古いグローブを枕元に置いて、眠った。
寝顔を見ながら、俺は、母に、心の中で語りかけた。
母さん、見てるか。あんたの気持ちは、ちゃんと、孫にも伝わっていくよ。
あんたが俺にくれたものは、グローブなんかじゃ、なかったんだな。
どんなに貧しくても、人を思う気持ちだけは、惜しまない。その生き方そのものだったんだ。
そう言って、俺は、息子とキャッチボールを始めた。
母さん。あのグローブ、まだ、ちゃんと使ってるよ。
今度は、母さんの孫と、キャッチボールをしているよ。
いつか、そっちで会ったら、いちばんに、このことを話すからね。
あのとき「新しいのじゃなきゃ嫌だ」と言わなくて、本当に、よかった。
母さん。生まれてきてくれて、ありがとう。俺を、産んでくれて、ありがとう。
※
先日、母の命日に、家族みんなで墓参りに行った。
息子が、墓石の前で、ふいに俺に聞いた。
「ねえ、ひいばあちゃんって、どんな人だったの?」
俺は、少し考えてから、こう答えた。
「自分のことより、いつも、家族のことばかり考えてた人だよ」
「とっても、強くて、優しい人だった」
息子は、神妙な顔で、長いこと、手を合わせていた。
その小さな背中に、俺は、母の面影を、重ねていた。
きっと母は、こうして家族が増えていくことを、いちばん、喜んでくれているだろう。
線香の煙が、青い空へ、まっすぐに昇っていった。
風が吹いて、墓地の木々が、さらさらと鳴った。
母さんが、返事をしてくれたような気がして、俺は、空を見上げた。
あの日、母を泣かせた俺が、今、こうして、自分の子に、母の話をしている。
巡っていくものが、たしかに、あるのだと思う。