クリームパンの親子

日曜の朝いちばんに焼くのは、決まってクリームパンだ。

鉄板から下ろしたばかりのそれは、掌に載せると火傷しそうなほど熱くて、艶のある焦げ茶の背中から、バターと卵の匂いが立ちのぼる。

尾道の、坂のいちばん下。うちは祖父の代から続く、間口二間の小さなパン屋である。

店番は私と、耳の遠くなった母。海から上がってくる潮の匂いと、焼きたてのパンの匂いが混じるのが、この店の朝の匂いだ。

クリームパンのカスタードは、祖父が残した配合のままだ。卵を一つ余分に入れて、砂糖を控えて、炊き上げの最後に火から下ろして百回混ぜる。腕が痺れるからやめようと思ったことは何度もあるが、これを変えたら、うちの店がうちの店でなくなる気がして、変えられない。

坂の町のパン屋に、大した繁盛はない。それでも、誰かの朝ごはんと、誰かの思い出を焼いているのだと思えば、火の前に立てる。

祖父は生前、口癖のようにこう言っていた。

「パンいうんはな、こねる仕事やのうて、待つ仕事や。生地が膨れるんを、人間は待つことしかできん。慌てて窯に入れたら、固いだけのもんが焼ける」

子どもの頃は、なんの話かと聞き流していた。この歳になって、店に立って、ようやく分かってきた気がする。パンだけの話では、なかったのだ。

あの親子が初めて来たのは、五年前の、よく晴れた日曜だった。

「いらっしゃい」

運送会社の名前の入った作業着の、若いお父さんだった。まだ二十代の後半だろうか。その足元に隠れるようにして、三つくらいの、目のくりくりした男の子がいた。

男の子はトングを持つお父さんの袖を引いて、ショーケースの中を指差した。

「これ、なあに」

「クリームパンやで」

「くりーむぱん」

男の子は、呪文でも覚えるみたいに繰り返した。

お父さんはクリームパンをひとつと、牛乳をひとつ。それだけ買って、店の隅の、イートインというのも気恥ずかしい古い木のテーブルに座った。

うちで食べていく客は珍しい。私はなんとなく、レジの陰から二人を見ていた。

「くりーむぱん、おいしいねぇ」

「ん、美味しいね」

「おかーちゃんにも、あげたいねぇ」

「そだね」

「おかーちゃん、いつおっき?」

「んー、お母ちゃんはとっても疲れとるからな。いつ起きるか、分からんのよ」

「そっかあ」

男の子は、それ以上訊かなかった。小さな口をいっぱいに開けて、クリームパンの続きにかぶりついた。頬にクリームがついていた。

帰り際、お父さんはレジで、クリームパンをもうひとつ買った。

「これ、袋、別にしてもらえますか」

「はい。……贈りもんですか」

「母ちゃんのぶんです」と、男の子が先に答えた。

お父さんは困ったように笑って、頭を下げて、男の子と手を繋いで坂を下りて行った。

「感じのええ親子じゃねえ」と、奥から母が言った。

「お母さんは、日曜は仕事なんかね」

「さあね。ほいでも、ええ子に育っとるわ」

その時は、それだけの会話だった。毎週の顔なじみになるとも、あの袋の意味を知る日が来るとも、思っていなかった。

それから毎週、日曜の昼前に、二人は来るようになった。

男の子はそうちゃんといった。お父さんが「そうた」と呼ぶのを、私と母はいつの間にか「そうちゃん」と呼んでいた。

注文はいつも同じ。クリームパンひとつと牛乳ひとつ。それと帰り際に、袋を別にした「おかーちゃんのぶん」がひとつ。

お父さんは、自分の分を一度も買わなかった。

「お父さんは、よろしいんですか」と一度だけ訊いたことがある。

「僕は、ええんです。朝、食べてきたんで」

そう言って笑った横顔が、少し痩せたように見えた。

そうちゃんはよく喋る子だった。テーブルの向こうから、店じゅうに聞こえる声で、お父さんに一週間の報告をする。

「あのな、そうた、ぶーぶー、かけたよ」

「三輪車か。すごいなあ」

「おかーちゃんに、みせたいねぇ」

「そやね。見せたいなあ」

お父さんの相槌は、いつも半拍だけ遅れた。その半拍の間に、この人がどれだけのものを飲み込んでいるのか、当時の私はまだ知らなかった。

雨の日曜も、二人は来た。小さな長靴と、大きな作業靴が、店の入り口に並んで雨粒を落としていた。

「あめ、ざんざんじゃねえ」

「ざんざんじゃなあ。ほいでも来たんか」

「だって、にちようびじゃもん」

そう言って、そうちゃんは長靴の先で、とん、と床を鳴らした。まるで、当たり前のことを訊くなという顔だった。

そうちゃんにとって、日曜にうちへ来ることは、雨で流れるような用事ではないらしかった。私はその日、二人のテーブルに、黙って熱いココアを二つ置いた。母が奥で、知らんふりをして頷いていた。

事情を教えてくれたのは、常連の佳代さんだった。坂の上の病院で、看護師をしている人だ。

「あの親子、日曜にここへ寄っとるんじゃね」

ある夕方、店じまいの間際に来た佳代さんが、ぽつりと言った。

「お母さんね、うちの病院におってんよ。もう一年になるかな。仕事帰りの雨の晩に、車にね」

お母さんは、眠ったまま目を覚まさないのだという。

「面会時間の都合でね、日曜の昼からしか、ゆっくり会えんの。あの子、毎週、お母さんの枕元にクリームパンを置くんよ」

「置いたパンは、面会が終わると、お父さんが持って帰るんよ。ほいで次の週、また新しいのを置く。病室にパンの匂いがすると、なんでかね、あの部屋だけ、ちょっと生きとる感じがするんよ」

佳代さんは、それからもうひとつ教えてくれた。お父さんは日曜だけでなく、毎晩、仕事帰りに病院へ寄っているのだという。面会時間はとっくに終わっている時刻に、談話室から病室の方角へ、頭をひとつ下げて帰る。それを夜勤の看護師たちは、もう誰も止めないのだと。

「食べられんのは、あの子も分かっとる。ほいでも置くの。ほんで帰り際に、また来るね、ゆうて手ぇ振るんよ」

私は、袋を別にする理由を、初めて知った。

「ねえ、それ、切ない話にしてしもうたらいけんのやけど」と、佳代さんは慌てて手を振った。

「あの親子、病室では、ようけ笑うんよ。あの子がお母さんの耳元で一週間ぶんの報告をして、お父さんが横で相槌を打って。あの三十分だけ見とったら、どこにでもおる、仲のええ家族なんじゃけえ」

その晩、私は売れ残ったクリームパンを一人で食べながら、なぜだか涙が出て仕方なかった。

翌週から、私は日曜のクリームパンを、少しだけ多めに焼くようになった。あの親子の分が、絶対に売り切れてしまわないように。

母は何も言わなかったが、日曜の朝だけ、カスタードを炊く鍋を、黙って火に掛けておいてくれるようになった。耳は遠くても、そういうことには聡い人なのだ。

年が明けた頃、ふと気が付いたことがあった。

そうちゃんのお母さんを、私はたぶん、知っている。

六年ほど前、毎朝、開店と同時にクリームパンをひとつだけ買いに来る若い奥さんがいた。お腹の大きな人だった。

「つわりがひどうて、ご飯が全然だめなんです。ほいでもね、なんでか、ここのクリームパンだけは食べられるんよ」

ある朝、その人は自分のお腹を撫でて、笑いながらこう言った。

「この子、クリームパンでできとるんです」

十月十日、毎朝きっちりひとつ。産み月の前の日まで通って、それきり来なくなった。無事に生まれたのだろうと、母と話していた。

思い出せば、あの奥さんは、いつも店の前の坂を見下ろして、同じことを言っていた。

「この坂、お腹が大きいと、なかなかの難所ですねえ。ほいでも、上りきったらパンの匂いがするけん、頑張れるんよ」

産み月が近づいた頃、「生まれたら、この子にもここのパン、食べさせてええですか」と訊くので、「歯が生えてからにしんさい」と母が笑った。あの朝の約束が、こんな形で果たされているとは、思いもしなかった。

あの奥さんの、目のくりくりした感じ。そうちゃんに、そっくりだった。

次の日曜、私はそうちゃんに、そっと訊いてみた。

「そうちゃんは、ほんまにクリームパンが好きじゃねえ」

そうちゃんは、口の周りを白くしたまま、得意げに胸を張った。

「そうた、くりーむぱん、だいすき。うまれるまえから、たべとったんよ」

「おかーちゃんがゆうとった」と、そうちゃんは付け足した。

お父さんが、はっとしたように顔を上げて、それから、とても静かに笑った。

眠っているお母さんが、元気だった頃、この店のパンの話を、あの子にしてやっていたのだ。

この子は、生まれる前から、うちのパンで育っていた。

私はレジの奥で、しばらく手が動かせなかった。

春の終わりの日曜だった。

「そうた、ゆーえんちいきたい!」

テーブルの向こうで、そうちゃんが急に言った。

「ん?」

「ゆーえんちいって、かんらんしゃ!おかーちゃんいっしょ!」

「そやね。お母ちゃんと行きたいね、三人で。お母ちゃんが起きたら……」

お父さんの言葉が、そこで途切れた。

そうちゃんは、じいっとお父さんの顔を覗き込んだ。

「おとーちゃん? だいじょうぶ? えーんえーん?」

「大丈夫。えーんえーんしてないよ。お父ちゃんは、大丈夫やから」

私は棚の整理をするふりをして、二人に背中を向けた。それ以上、見ていられなかった。

大丈夫なわけが、なかった。二十代の若さで、働きながら、三つの子を育てて、眠ったままの奥さんのところへ毎週通って。

それでもこの人は、日曜の昼に、子どもとパンを食べる三十分を、一度も欠かさないのだ。

そうちゃんが幼稚園に上がった年、お遊戯会があったらしい。月曜に納品先で会った佳代さんが、目を赤くして教えてくれた。

「あの子ね、母の日の絵に、寝とるお母さんの顔を描いたんて。ほいでね、先生に、おかーちゃんはねんねの名人なんよ、って自慢したんと」

誰に教わったわけでもなく、三つや四つの子は、子どもなりの精いっぱいで、母親の眠りを守っているのだった。

夏には、祭りの日曜があった。そうちゃんは、金魚の柄の甚平を着て、鼻の頭に汗の粒を並べて店に来た。

「じんべ、おかーちゃんがこうたんよ」

「ほう、ええ柄じゃねえ」

「うまれたときにな、おっきいのも、いっしょにこうたんて。おっきくなったら、きるんよ」

お父さんが、静かに言い足した。「生まれた年の夏に、あいつが、三歳用と五歳用を買うたんです。気の早いやつで」

眠っているお母さんの買った五歳用の甚平を、この子が着る夏は、もうすぐそこまで来ていた。それまでに目を覚ましてほしいと、柄にもなく、私は店の神棚に手を合わせた。

その日の帰り、私は店の窓から、坂の下のバス停が見えることに、初めて感謝した。

ベンチに並んで座った二人の、小さいほうの背中が、もぞもぞと動いた。

そうちゃんが、「おかーちゃんのぶん」の袋から、クリームパンを取り出したのだ。

あ、食べてしまうんか——と思った私の目の前で、そうちゃんは、それをお父さんの手に、ぐいぐいと握らせた。

お父さんが首を振る。そうちゃんは、もっとぐいぐい押しつける。

窓越しに、声は聞こえない。けれど、そうちゃんの口が動くのが分かった。

あとで佳代さんから聞いた。あの子は病院でも、同じことをしていたのだと。

枕元にパンを置いて、お母さんの耳元で何かを聞いて、それから、帰りのバス停でお父さんに言うのだ。

「おかーちゃんが、おとーちゃんにたべてって、いうたもん」

お父さんは、いつも自分の分を買わない。そうちゃんは、それをちゃんと知っていた。

三つの子は、お母さんの分のパンを口実にして、毎週、お父さんに昼ごはんを食べさせていたのだ。

おかあちゃんのぶんは、はじめから、おとうちゃんのぶんやった。

バス停のベンチで、若いお父さんは、クリームパンを両手で持って、うつむいたまま、ゆっくりゆっくり食べていた。

その背中に、そうちゃんの小さな手が、ぽんぽんと乗っていた。

夕方の光が、海のほうから坂を上ってきて、二人のベンチをしばらく照らしていた。バスが来て、二人が乗り込んで、見えなくなるまで、私は窓辺を離れられなかった。

次の日曜から、私は「おかーちゃんのぶん」の袋に、こっそりもうひとつ、パンを入れるようになった。

お代はいらない。売れ残りと言い張ればいい。

三週目に、お父さんはレジで袋の重さに気づいて、私の顔を見た。私は知らん顔で、「毎度ありがとうございます」とだけ言った。

お父さんは何か言いかけて、やめて、深く、深く頭を下げた。

あとにも先にも、あの人がうちの店で口にした自分の話は、一度きりだ。三つ目の袋を渡した時、受け取りながら、独り言のように言った。

「あいつが起きたら、いちばんに、ここのパンの匂いを嗅がせたいんです。病室のやない、焼きたてのやつを」

「ほんなら、起きた日は、何時でも焼きますけん。夜中でも、店を開けますけん」

約束は、まだ果たされていない。けれど、期限の切れない約束というものが、この世にはある。

それだけの話だ。それだけのことしか、私にはできなかった。

冬のある日曜、二人は来なかった。

次の日曜も、その次も来なかった。私と母は、口には出さないまま、悪いほうの想像ばかりした。佳代さんに訊く勇気も出なかった。

四度目の日曜の昼、店の戸が開いて、白い息と一緒に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

「くりーむぱん、ください!」

そうちゃんだった。その後ろで、お父さんが、これまで見たことのない顔で笑っていた。

「おかーちゃんの、ゆびがな、うごいたんよ!」

「先週、指が動いたんです。先生が、ゆっくりやけど、ええ兆しやて」

風邪でしばらく来られなかったことを詫びながら、お父さんは、クリームパンを三つ、買った。

「三つで、よろしいん?」

「はい。今日は、僕のぶんも」

私は、三つの袋を別々にせず、ひとつの袋にまとめて入れた。お父さんは、それを見て、少しだけ泣きそうな顔をした。

その日のそうちゃんは、店を出るまでずっと喋り通しだった。指が動いたこと。目もそのうち開くと先生が言ったこと。観覧車は逃げないから、ゆっくりでいいとお父さんが言ったこと。

「かんらんしゃはな、まっとってくれるんよ」

「そうか。待っとってくれるんか」

「うん。そうたも、まっとれるよ。まつの、じょうずになったけん」

待つのが上手になった、と三つの子に言わせる歳月を思って、私は袋の口を折る手に、少しだけ力を込めた。

その夜、店じまいのあとで、私は祖父の言葉を思い出していた。

パンは、待つ仕事や。慌てたら、固いだけのもんが焼ける。

あの親子は、誰よりも上手に、待っている。膨れるのを、目を覚ますのを、観覧車の順番が来るのを。だったら私は、その待ち時間に、焼きたてのパンを差し入れる係でいよう。

あれから月日が経ち、そうちゃんはもう小学生になった。お母さんの回復は、いまもゆっくりゆっくり、坂を上っている途中だと聞く。

それでも日曜の昼、うちの店には、変わらずあの親子が来る。テーブルに三つ目の椅子を置くのが、いつからか私の癖になった。

焼きたてのクリームパンの匂いは、今日も店いっぱいに立ちこめている。あの匂いの向こうに、いつか三人並んだ姿を見る日を、私と母は勝手に待っている。

観覧車の約束が、いつか叶いますように。

そしていつか、目を覚ましたあのお母さんに、言いたいことがある。あなたが十月十日かけて育てた男の子は、クリームパンひとつで、ちゃんとお父さんを支えきりましたよ、と。

クリームパンの親子に、どうか、幸のあらんことを。

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