日曜の朝いちばんに焼くのは、決まってクリームパンだ。
鉄板から下ろしたばかりのそれは、掌に載せると火傷しそうなほど熱くて、艶のある焦げ茶の背中から、バターと卵の匂いが立ちのぼる。
尾道の、坂のいちばん下。うちは祖父の代から続く、間口二間の小さなパン屋である。
店番は私と、耳の遠くなった母。海から上がってくる潮の匂いと、焼きたてのパンの匂いが混じるのが、この店の朝の匂いだ。
クリームパンのカスタードは、祖父が残した配合のままだ。卵を一つ余分に入れて、砂糖を控えて、炊き上げの最後に火から下ろして百回混ぜる。腕が痺れるからやめようと思ったことは何度もあるが、これを変えたら、うちの店がうちの店でなくなる気がして、変えられない。
坂の町のパン屋に、大した繁盛はない。それでも、誰かの朝ごはんと、誰かの思い出を焼いているのだと思えば、火の前に立てる。
祖父は生前、口癖のようにこう言っていた。
「パンいうんはな、こねる仕事やのうて、待つ仕事や。生地が膨れるんを、人間は待つことしかできん。慌てて窯に入れたら、固いだけのもんが焼ける」
子どもの頃は、なんの話かと聞き流していた。この歳になって、店に立って、ようやく分かってきた気がする。パンだけの話では、なかったのだ。
あの親子が初めて来たのは、五年前の、よく晴れた日曜だった。
※
「いらっしゃい」
運送会社の名前の入った作業着の、若いお父さんだった。まだ二十代の後半だろうか。その足元に隠れるようにして、三つくらいの、目のくりくりした男の子がいた。
男の子はトングを持つお父さんの袖を引いて、ショーケースの中を指差した。
「これ、なあに」
「クリームパンやで」
「くりーむぱん」
男の子は、呪文でも覚えるみたいに繰り返した。
お父さんはクリームパンをひとつと、牛乳をひとつ。それだけ買って、店の隅の、イートインというのも気恥ずかしい古い木のテーブルに座った。
うちで食べていく客は珍しい。私はなんとなく、レジの陰から二人を見ていた。
「くりーむぱん、おいしいねぇ」
「ん、美味しいね」
「おかーちゃんにも、あげたいねぇ」
「そだね」
「おかーちゃん、いつおっき?」
「んー、お母ちゃんはとっても疲れとるからな。いつ起きるか、分からんのよ」
「そっかあ」
男の子は、それ以上訊かなかった。小さな口をいっぱいに開けて、クリームパンの続きにかぶりついた。頬にクリームがついていた。
帰り際、お父さんはレジで、クリームパンをもうひとつ買った。
「これ、袋、別にしてもらえますか」
「はい。……贈りもんですか」
「母ちゃんのぶんです」と、男の子が先に答えた。
お父さんは困ったように笑って、頭を下げて、男の子と手を繋いで坂を下りて行った。
「感じのええ親子じゃねえ」と、奥から母が言った。
「お母さんは、日曜は仕事なんかね」
「さあね。ほいでも、ええ子に育っとるわ」
その時は、それだけの会話だった。毎週の顔なじみになるとも、あの袋の意味を知る日が来るとも、思っていなかった。
※
それから毎週、日曜の昼前に、二人は来るようになった。
男の子はそうちゃんといった。お父さんが「そうた」と呼ぶのを、私と母はいつの間にか「そうちゃん」と呼んでいた。
注文はいつも同じ。クリームパンひとつと牛乳ひとつ。それと帰り際に、袋を別にした「おかーちゃんのぶん」がひとつ。
お父さんは、自分の分を一度も買わなかった。
「お父さんは、よろしいんですか」と一度だけ訊いたことがある。
「僕は、ええんです。朝、食べてきたんで」
そう言って笑った横顔が、少し痩せたように見えた。
そうちゃんはよく喋る子だった。テーブルの向こうから、店じゅうに聞こえる声で、お父さんに一週間の報告をする。
「あのな、そうた、ぶーぶー、かけたよ」
「三輪車か。すごいなあ」
「おかーちゃんに、みせたいねぇ」
「そやね。見せたいなあ」
お父さんの相槌は、いつも半拍だけ遅れた。その半拍の間に、この人がどれだけのものを飲み込んでいるのか、当時の私はまだ知らなかった。
雨の日曜も、二人は来た。小さな長靴と、大きな作業靴が、店の入り口に並んで雨粒を落としていた。
「あめ、ざんざんじゃねえ」
「ざんざんじゃなあ。ほいでも来たんか」
「だって、にちようびじゃもん」
そう言って、そうちゃんは長靴の先で、とん、と床を鳴らした。まるで、当たり前のことを訊くなという顔だった。
そうちゃんにとって、日曜にうちへ来ることは、雨で流れるような用事ではないらしかった。私はその日、二人のテーブルに、黙って熱いココアを二つ置いた。母が奥で、知らんふりをして頷いていた。
※
事情を教えてくれたのは、常連の佳代さんだった。坂の上の病院で、看護師をしている人だ。
「あの親子、日曜にここへ寄っとるんじゃね」
ある夕方、店じまいの間際に来た佳代さんが、ぽつりと言った。
「お母さんね、うちの病院におってんよ。もう一年になるかな。仕事帰りの雨の晩に、車にね」
お母さんは、眠ったまま目を覚まさないのだという。
「面会時間の都合でね、日曜の昼からしか、ゆっくり会えんの。あの子、毎週、お母さんの枕元にクリームパンを置くんよ」
「置いたパンは、面会が終わると、お父さんが持って帰るんよ。ほいで次の週、また新しいのを置く。病室にパンの匂いがすると、なんでかね、あの部屋だけ、ちょっと生きとる感じがするんよ」
佳代さんは、それからもうひとつ教えてくれた。お父さんは日曜だけでなく、毎晩、仕事帰りに病院へ寄っているのだという。面会時間はとっくに終わっている時刻に、談話室から病室の方角へ、頭をひとつ下げて帰る。それを夜勤の看護師たちは、もう誰も止めないのだと。
「食べられんのは、あの子も分かっとる。ほいでも置くの。ほんで帰り際に、また来るね、ゆうて手ぇ振るんよ」
私は、袋を別にする理由を、初めて知った。
「ねえ、それ、切ない話にしてしもうたらいけんのやけど」と、佳代さんは慌てて手を振った。
「あの親子、病室では、ようけ笑うんよ。あの子がお母さんの耳元で一週間ぶんの報告をして、お父さんが横で相槌を打って。あの三十分だけ見とったら、どこにでもおる、仲のええ家族なんじゃけえ」
その晩、私は売れ残ったクリームパンを一人で食べながら、なぜだか涙が出て仕方なかった。
翌週から、私は日曜のクリームパンを、少しだけ多めに焼くようになった。あの親子の分が、絶対に売り切れてしまわないように。
母は何も言わなかったが、日曜の朝だけ、カスタードを炊く鍋を、黙って火に掛けておいてくれるようになった。耳は遠くても、そういうことには聡い人なのだ。
※
年が明けた頃、ふと気が付いたことがあった。
そうちゃんのお母さんを、私はたぶん、知っている。
六年ほど前、毎朝、開店と同時にクリームパンをひとつだけ買いに来る若い奥さんがいた。お腹の大きな人だった。
「つわりがひどうて、ご飯が全然だめなんです。ほいでもね、なんでか、ここのクリームパンだけは食べられるんよ」
ある朝、その人は自分のお腹を撫でて、笑いながらこう言った。
「この子、クリームパンでできとるんです」
十月十日、毎朝きっちりひとつ。産み月の前の日まで通って、それきり来なくなった。無事に生まれたのだろうと、母と話していた。
思い出せば、あの奥さんは、いつも店の前の坂を見下ろして、同じことを言っていた。
「この坂、お腹が大きいと、なかなかの難所ですねえ。ほいでも、上りきったらパンの匂いがするけん、頑張れるんよ」
産み月が近づいた頃、「生まれたら、この子にもここのパン、食べさせてええですか」と訊くので、「歯が生えてからにしんさい」と母が笑った。あの朝の約束が、こんな形で果たされているとは、思いもしなかった。
あの奥さんの、目のくりくりした感じ。そうちゃんに、そっくりだった。
次の日曜、私はそうちゃんに、そっと訊いてみた。
「そうちゃんは、ほんまにクリームパンが好きじゃねえ」
そうちゃんは、口の周りを白くしたまま、得意げに胸を張った。
「そうた、くりーむぱん、だいすき。うまれるまえから、たべとったんよ」
「おかーちゃんがゆうとった」と、そうちゃんは付け足した。
お父さんが、はっとしたように顔を上げて、それから、とても静かに笑った。
眠っているお母さんが、元気だった頃、この店のパンの話を、あの子にしてやっていたのだ。
この子は、生まれる前から、うちのパンで育っていた。
私はレジの奥で、しばらく手が動かせなかった。
※
春の終わりの日曜だった。
「そうた、ゆーえんちいきたい!」
テーブルの向こうで、そうちゃんが急に言った。
「ん?」
「ゆーえんちいって、かんらんしゃ!おかーちゃんいっしょ!」
「そやね。お母ちゃんと行きたいね、三人で。お母ちゃんが起きたら……」
お父さんの言葉が、そこで途切れた。
そうちゃんは、じいっとお父さんの顔を覗き込んだ。
「おとーちゃん? だいじょうぶ? えーんえーん?」
「大丈夫。えーんえーんしてないよ。お父ちゃんは、大丈夫やから」
私は棚の整理をするふりをして、二人に背中を向けた。それ以上、見ていられなかった。
大丈夫なわけが、なかった。二十代の若さで、働きながら、三つの子を育てて、眠ったままの奥さんのところへ毎週通って。
それでもこの人は、日曜の昼に、子どもとパンを食べる三十分を、一度も欠かさないのだ。
そうちゃんが幼稚園に上がった年、お遊戯会があったらしい。月曜に納品先で会った佳代さんが、目を赤くして教えてくれた。
「あの子ね、母の日の絵に、寝とるお母さんの顔を描いたんて。ほいでね、先生に、おかーちゃんはねんねの名人なんよ、って自慢したんと」
誰に教わったわけでもなく、三つや四つの子は、子どもなりの精いっぱいで、母親の眠りを守っているのだった。
夏には、祭りの日曜があった。そうちゃんは、金魚の柄の甚平を着て、鼻の頭に汗の粒を並べて店に来た。
「じんべ、おかーちゃんがこうたんよ」
「ほう、ええ柄じゃねえ」
「うまれたときにな、おっきいのも、いっしょにこうたんて。おっきくなったら、きるんよ」
お父さんが、静かに言い足した。「生まれた年の夏に、あいつが、三歳用と五歳用を買うたんです。気の早いやつで」
眠っているお母さんの買った五歳用の甚平を、この子が着る夏は、もうすぐそこまで来ていた。それまでに目を覚ましてほしいと、柄にもなく、私は店の神棚に手を合わせた。
※
その日の帰り、私は店の窓から、坂の下のバス停が見えることに、初めて感謝した。
ベンチに並んで座った二人の、小さいほうの背中が、もぞもぞと動いた。
そうちゃんが、「おかーちゃんのぶん」の袋から、クリームパンを取り出したのだ。
あ、食べてしまうんか——と思った私の目の前で、そうちゃんは、それをお父さんの手に、ぐいぐいと握らせた。
お父さんが首を振る。そうちゃんは、もっとぐいぐい押しつける。
窓越しに、声は聞こえない。けれど、そうちゃんの口が動くのが分かった。
あとで佳代さんから聞いた。あの子は病院でも、同じことをしていたのだと。
枕元にパンを置いて、お母さんの耳元で何かを聞いて、それから、帰りのバス停でお父さんに言うのだ。
「おかーちゃんが、おとーちゃんにたべてって、いうたもん」
お父さんは、いつも自分の分を買わない。そうちゃんは、それをちゃんと知っていた。
三つの子は、お母さんの分のパンを口実にして、毎週、お父さんに昼ごはんを食べさせていたのだ。
おかあちゃんのぶんは、はじめから、おとうちゃんのぶんやった。
バス停のベンチで、若いお父さんは、クリームパンを両手で持って、うつむいたまま、ゆっくりゆっくり食べていた。
その背中に、そうちゃんの小さな手が、ぽんぽんと乗っていた。
夕方の光が、海のほうから坂を上ってきて、二人のベンチをしばらく照らしていた。バスが来て、二人が乗り込んで、見えなくなるまで、私は窓辺を離れられなかった。
※
次の日曜から、私は「おかーちゃんのぶん」の袋に、こっそりもうひとつ、パンを入れるようになった。
お代はいらない。売れ残りと言い張ればいい。
三週目に、お父さんはレジで袋の重さに気づいて、私の顔を見た。私は知らん顔で、「毎度ありがとうございます」とだけ言った。
お父さんは何か言いかけて、やめて、深く、深く頭を下げた。
あとにも先にも、あの人がうちの店で口にした自分の話は、一度きりだ。三つ目の袋を渡した時、受け取りながら、独り言のように言った。
「あいつが起きたら、いちばんに、ここのパンの匂いを嗅がせたいんです。病室のやない、焼きたてのやつを」
「ほんなら、起きた日は、何時でも焼きますけん。夜中でも、店を開けますけん」
約束は、まだ果たされていない。けれど、期限の切れない約束というものが、この世にはある。
それだけの話だ。それだけのことしか、私にはできなかった。
※
冬のある日曜、二人は来なかった。
次の日曜も、その次も来なかった。私と母は、口には出さないまま、悪いほうの想像ばかりした。佳代さんに訊く勇気も出なかった。
四度目の日曜の昼、店の戸が開いて、白い息と一緒に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「くりーむぱん、ください!」
そうちゃんだった。その後ろで、お父さんが、これまで見たことのない顔で笑っていた。
「おかーちゃんの、ゆびがな、うごいたんよ!」
「先週、指が動いたんです。先生が、ゆっくりやけど、ええ兆しやて」
風邪でしばらく来られなかったことを詫びながら、お父さんは、クリームパンを三つ、買った。
「三つで、よろしいん?」
「はい。今日は、僕のぶんも」
私は、三つの袋を別々にせず、ひとつの袋にまとめて入れた。お父さんは、それを見て、少しだけ泣きそうな顔をした。
その日のそうちゃんは、店を出るまでずっと喋り通しだった。指が動いたこと。目もそのうち開くと先生が言ったこと。観覧車は逃げないから、ゆっくりでいいとお父さんが言ったこと。
「かんらんしゃはな、まっとってくれるんよ」
「そうか。待っとってくれるんか」
「うん。そうたも、まっとれるよ。まつの、じょうずになったけん」
待つのが上手になった、と三つの子に言わせる歳月を思って、私は袋の口を折る手に、少しだけ力を込めた。
その夜、店じまいのあとで、私は祖父の言葉を思い出していた。
パンは、待つ仕事や。慌てたら、固いだけのもんが焼ける。
あの親子は、誰よりも上手に、待っている。膨れるのを、目を覚ますのを、観覧車の順番が来るのを。だったら私は、その待ち時間に、焼きたてのパンを差し入れる係でいよう。
※
あれから月日が経ち、そうちゃんはもう小学生になった。お母さんの回復は、いまもゆっくりゆっくり、坂を上っている途中だと聞く。
それでも日曜の昼、うちの店には、変わらずあの親子が来る。テーブルに三つ目の椅子を置くのが、いつからか私の癖になった。
焼きたてのクリームパンの匂いは、今日も店いっぱいに立ちこめている。あの匂いの向こうに、いつか三人並んだ姿を見る日を、私と母は勝手に待っている。
観覧車の約束が、いつか叶いますように。
そしていつか、目を覚ましたあのお母さんに、言いたいことがある。あなたが十月十日かけて育てた男の子は、クリームパンひとつで、ちゃんとお父さんを支えきりましたよ、と。
クリームパンの親子に、どうか、幸のあらんことを。