姉が刻んだ二本目の傷

姉が刻んだ二本目の傷

窪川の祖母の家は、床がよく鳴る家でした。

台所へ行くのに、必ず三回きしみます。

その音を聞くと、いまでも冬の朝の匂いを思い出します。

玄関を入ってすぐの、黒い大黒柱。

そこに、鉛筆の傷がびっしり並んでいました。

窪川の祖母の家の柱には、傷がいつも二本ずつ並んでいました。

私はそれを、二十七になるまで、ただの落書きだと思っていたのです。

四万十の川漁師の家

父は、四万十川の中流で漁をしています。

春は青のり、夏は鮎、秋は落ち鮎。

冬になると川から上がって、土木の現場に出ます。

川だけでは食えないので、そういう働き方をしている人が、この辺りには何人もいます。

母は、製材所の事務をしていました。

もともと体の弱い人で、月に一度、中村の病院まで検診に通っていました。

バスを乗り継いで、片道二時間近くかかります。

母が家にいない日は、父が飯を炊きました。

べちゃべちゃで、姉はいつも文句を言っていたそうです。

火振り漁の夜

父の仕事で、いちばん好きだったのは火振り漁です。

夏の夜、舟の舳先で松明を振って、その光と影で鮎を網へ追い込みます。

川面が赤くなって、対岸の木が、いっぺんに影絵になります。

小学生のころ、私は何度か連れて行ってもらいました。

父は舟の上では、ほとんど喋りません。

喋らないのに、私が座り直すと、必ず舟の傾きを直します。

背中で人の重さを測っている人です。

あの夜の川の匂いは、いまも鼻の奥に残っています。

水と、藻と、少し焦げた松の匂いです。

七つ上の姉

姉は、私より七つ上です。

私が生まれたとき、姉は幼稚園の年長でした。

気の強い人で、いまも私に頭が上がりません。

子どものころ、姉は私を「あんた」としか呼びませんでした。

「あんた、そこ座り」

「あんた、それ持ち」

私はずっと、姉に少し疎まれているのだと思っていました。

七つも下の弟妹というのは、そういうものだと思っていたのです。

その思い違いに気づいたのは、去年の秋でした。

父が飯を炊いた日

母が検診で家を空ける日、父は必ず自分で飯を炊きました。

水加減が下手で、たいていべちゃべちゃです。

姉はそれを、毎回きちんと文句を言ったそうです。

「お父ちゃんの米、のりみたい」

父は怒らずに、「のりも売れるき、ええやろ」と返す。

青のり漁の家らしい会話です。

その日の夜だけは、父と姉が二人きりでした。

母がいない台所で、二人が同じ茶碗を持っている。

あの三ヶ月に、姉が父のそばにいられた時間は、たぶんほとんどありません。

だから姉は、月に一度の検診の日を、いつまでも覚えていたのだと思います。

母が入院した年のこと

私が自分の生まれたときの話を、きちんと聞いたことはありませんでした。

祝いの席で父が少し喋って、母が「もうええって」と止める。

いつもそれで終わりです。

母が話したがらないので、私も訊きませんでした。

去年、その柱のある家を壊すことになりました。

祖母が施設に入って、空き家になって五年です。

片づけに行った日、私は柱の前でしゃがみ込みました。

傷は、二本ずつ、ほとんど同じ高さで並んでいます。

低いほうから順に、上へ、上へ。

ところが、途中の三ヶ月ぶんだけ、様子が違いました。

片方の線が、もう片方より、ずっと下にあるのです。

しかも、そのぶんだけ、鉛筆の色が薄い。

私は父を呼びました。

父が話したこと

父は、しばらく柱を見ていました。

それから、うちの母がその年の春に検診でひっかかったことを話しはじめました。

母は、体が弱いこともあって、月に一度きちんと診てもらっていました。

私がいることが分かったのも、その検診でのことです。

ただ、私は本来いなければならない場所にいませんでした。

そのままだと、母の体のほうが持たない。

当時の医療では、母子ともに助かるのは一万人に一人だと言われたそうです。

もし生まれたとしても、体のどこかに障害が残るかもしれない、とも。

「産むのは、諦めたほうがええ」

そう言われた帰りのバスで、母は一言も喋らなかったと、父は言いました。

頭を下げた夜

父は、その週のうちに中村の病院へ行きました。

作業着のまま、川の匂いのついたまま行ったそうです。

受付で名前を言って、夜の八時まで待って、当直の先生に頭を下げました。

「なんとか、なりませんろうか」

それだけを、何度も言ったのだと言います。

父は口の重い人です。

その父が、他人に頭を下げているところを、私は一度も見たことがありません。

先生は、できることとできないことをはっきり話してくれたそうです。

そのうえで、母を三ヶ月、病院で預かってくれることになりました。

四月の終わりから、七月の終わりまでです。

姉が置いていかれた三ヶ月

母が入院しているあいだ、姉は窪川の祖母の家に預けられました。

父は川と現場と病院を回るので、家にはほとんど帰れません。

姉は、六つでした。

幼稚園も、窪川のほうへ移りました。

友達も全部、いっぺんに変わったわけです。

祖母は姉を可愛がって、毎日アイスを買ってやったそうです。

姉は一度も泣かなかったと、祖母は言っていました。

ただ、夜になると玄関の柱のところに座っている。

そればかりは、やめさせられなかったと。

二本目の傷

柱の傷を刻んでいたのは、祖母ではありませんでした。

姉です。

祖母が、姉の背丈を月に一度測ってやっていたのは本当です。

ところが姉は、自分の線を引いてもらったあと、鉛筆を借りて、もう一本を自分で引いていました。

二本目の傷は、私の背丈ではありませんでした。

まだ生まれてもいない妹の、そのときの大きさのつもりだったのです。

姉は、生まれてもいない妹の背丈を、ひと月ごとに測っていたのです。

薄いほうの三本が、それでした。

四月、五月、六月。

母が病院にいた三ヶ月ぶんです。

祖母の話

柱のことを聞いたあと、私は施設の祖母に会いに行きました。

祖母は九十を過ぎて、新しいことはあまり覚えていません。

それでも、姉の話をすると、はっきり顔つきが変わりました。

「あの子は、よう我慢する子やった」

そう言って、自分の膝のあたりを手で示しました。

そのころの姉の背の高さです。

祖母は、姉が二本目を引いていることに気づいていました。

気づいて、何も言わなかったのです。

「あれを取り上げたら、あの子、行き場がのうなるけん」

祖母は毎月、鉛筆を削って、柱のそばに置いておいたのだそうです。

削った鉛筆を置く。

それが祖母のやり方でした。

高さの決め方

不思議なのは、その三本の間隔でした。

やたらと正確なのです。

下から順に、少しずつ、しかし確実に上がっている。

姉に電話で訊いてみました。

姉はいま、高知市の病院で看護師をしています。

電話の向こうで、姉は少し笑って、それから黙りました。

「幼稚園に、赤ちゃんの育つ表が貼っちゃったが」

月ごとに、赤ちゃんがどれくらい大きくなるかを描いた紙が、廊下に貼ってあったのだそうです。

姉はそれを、毎日見て、覚えて帰っていました。

そして、その通りの高さに線を引いていたのです。

六つの子が、廊下の掲示を丸暗記して、柱に印をつけていた。

私は電話を持ったまま、しばらく声が出ませんでした。

薄い線の理由

ひとつ、姉に訊きそびれていたことがありました。

三本の線だけが、どうしてあんなに薄いのか。

後日、電話でそれを訊くと、姉はあっさり答えました。

「消せるようにしちょったが」

私は、意味が分かるまで少しかかりました。

姉は、私が生まれてこなかった場合のことを、ちゃんと考えていたのです。

そのときは、自分で全部消すつもりだった。

だから、力を入れずに引いていた。

六つの子が、そこまで考えて鉛筆を持っていたことになります。

信じていた、というのとは少し違います。

信じきれないまま、それでも毎月引き続けた。

私は、そのほうがずっと強いことだと思います。

一万人に一人の話

もうひとつ、姉が教えてくれたことがあります。

父は、姉にも「一万人に一人」の話をしていました。

六つの子に、隠しても仕方がないと思ったのでしょう。

ただし、父の言い方は、こうだったそうです。

「一万人おったら、一人は助かるがやと」

「ほんなら、うちがその一人ぞ」

姉はそれを、そのまま信じました。

疑う理由が、どこにもなかったからです。

だから毎月、柱に二本目を引いた。

助からないかもしれない子の背丈を、助かる前提で測り続けたのです。

「あんた、あれ、けっこう自信あったで」

電話の向こうで、姉はそう言って笑いました。

三ヶ月の病室

母の三ヶ月がどんなものだったのか、私はいまでもよく知りません。

母は、そこだけは頑として話しません。

父から聞いたのは、ふたつだけです。

ひとつは、母がほとんどベッドから起き上がれなかったこと。

もうひとつは、母が毎日、窓のほうを向いて寝ていたことです。

窓の外に、大きな椎の木があったのだそうです。

その木の葉が、四月から七月にかけて、色を変えていきます。

母はその変化だけを見て、日にちを数えていました。

時計も日めくりも、あまり見たくなかったのだと思います。

窪川で姉が柱を測っていたころ、母は病室で葉の色を測っていた。

私は、この二つの数え方が、どこかでつながっているような気がしてなりません。

窪川の幼稚園

姉が移った窪川の幼稚園のことも、あとで聞きました。

途中から入ってきた子は、やはり浮きます。

姉は、しばらく一人で砂場にいたそうです。

それでも、家に帰ってからは「たのしかった」としか言わなかった。

祖母がそれを見抜いていて、夕方になると必ず、外に連れ出していました。

用がなくても、二人で郵便局まで歩く。

それだけのことを、毎日していたそうです。

「あの子は、家におったら、柱の前に座るけん」

祖母のその言い方を、私は忘れられません。

待合の椅子

父が病院で頭を下げた夜、姉もその場にいました。

預ける先がなくて、連れて行くしかなかったのです。

姉は、待合のいちばん端の椅子に座らされていました。

そこから、父が頭を下げているのが見えたそうです。

父の背中と、蛍光灯と、青いスリッパ。

姉が覚えているのは、それだけだと言います。

「お父ちゃん、ずうっと下向いちょった」

その日から姉は、父の前で泣かなくなりました。

六つの子が、そう決めたのです。

疎まれていたのではありませんでした。

姉は、私が生まれるずっと前から、私のために我慢を覚えた人だったのです。

いちばん上の一本

柱の傷は、七月でいったん終わっています。

そのあと、少し離れた高いところに、一本だけ濃い線が引いてあります。

ずいぶん力を入れて引いたらしく、木がへこんでいました。

父に訊くと、私が生まれた日の夜だと言います。

祖母の家に帰ってきた父が、姉を抱き上げて、その高さで引かせたのだそうです。

本当の私は、そんなに大きくありません。

その線は、姉が届く精一杯の高さでした。

父は、正しい高さより、姉の手の届くところを選んだのです。

私はその線を、指でなぞりました。

木のへこみが、まだはっきり残っていました。

母が話さなかった理由

家を壊す前の日、母にこの話をしました。

母は台所で洗い物をしながら、背中を向けたまま聞いていました。

それから、こう言いました。

「あんたに聞かせたら、あんたが自分のこと、重たいと思うやろ」

母が三十年近く黙っていた理由が、それでした。

命をもらったという話は、受け取る側にとっては借りにもなります。

母は、私に借りを負わせたくなかったのです。

「けんど、姉ちゃんのことは、聞いてよかったと思うわ」

そう言って、母はやっと振り返りました。

目が赤かったので、私は見なかったふりをしました。

解体の前の晩

家を壊す前の晩、私は一人であの家に泊まりました。

電気は止まっていたので、懐中電灯を持っていきました。

床は、やはり三回きしみました。

柱の前に座って、光を当てて、下から順に傷を見ていきました。

低いところの二本は、ほとんど同じ高さで並んでいます。

私が生まれてからは、姉の線と私の線です。

私の線のほうが、途中から追い越します。

追い越したあたりで、姉の線が止まります。

姉が高校で家を出た年です。

その先は、私の線だけが数年続いて、それも止まります。

柱というのは、家族が家にいた期間を、そのまま残しているものだと知りました。

私はその晩、あまり眠れませんでした。

柱を切り出す

解体の日、父は業者に頼んで、大黒柱の傷のある部分だけを切り出してもらいました。

長さにして一メートルほどです。

それを軽トラに積んで、家まで運びました。

いまは、私の部屋の壁に立てかけてあります。

父は何も言いませんでしたが、切り出すことは最初から決めていたはずです。

解体の見積もりを取る前から、業者に電話をしていたのを、あとで母から聞きました。

口の重い人ほど、手が早いのだと思います。

姉に会いに行く

先月、高知市の姉のところへ行きました。

柱の写真を、携帯で見せました。

姉は、薄い三本のところを指で拡大して、じっと見ていました。

それから、こう言いました。

「うち、あんたが生まれてくるって、いっこも疑わんかったで」

「そんで、生まれてきたやん」

私は何も言えませんでした。

姉が看護師になった理由を、私はいままで訊いたことがありませんでした。

訊かなくても、たぶん、あの待合の椅子から続いているのだと思います。

帰り際、姉は私の背中を一回だけ叩いて、「あんた、ちゃんと食べや」と言いました。

やっぱり「あんた」でした。

鉛筆の削り方

切り出した柱を部屋に立てかけてから、気づいたことがあります。

薄い三本だけ、線の端がわずかに広がっているのです。

鉛筆の芯が丸いまま引くと、そうなります。

祖母は毎月、鉛筆を削って置いていたと言っていました。

削ったのに、姉は削れた先を使わなかったことになります。

母に話すと、少し考えてから言いました。

「消しやすいように、わざと丸めたがやないの」

私は柱の前で、しばらく動けませんでした。

川に立つ

いま私は、父と一緒に川に出ています。

青のりの時期は、腰まで水に浸かって、指先で藻の伸び具合を確かめます。

冷たくて、最初の三十分は手の感覚がありません。

父はいつも、私より二十歩ほど上流にいます。

振り返りません。

ただ、私が足を滑らせたときだけ、なぜか必ずこちらを向いています。

音で分かるのだと思います。

私も、いつかそうなるのでしょう。

もらった命の話

私は自分の生まれについて、長いあいだ何も知りませんでした。

知らないまま、まあまあ元気に生きてきました。

いま知って、重たいかと言われれば、正直、少し重たいです。

それでも、知らないままよりずっといいと思っています。

三ヶ月ぶんの薄い線を引いた六つの子がいて、頭を下げた父がいて、三ヶ月動けなかった母がいる。

その三人ぶんの時間の上に、私の背丈があります。

柱の、いちばん上の濃い一本。

あれは私の背丈ではなく、姉の手が届いた高さでした。

私はこれから、その高さに追いつくところから始めるつもりです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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