欲しかったファミコン

机の隅に、錆びて蓋も開かなくなった、一本のハンドクリームの缶が置いてある。

来客はみな、なぜこんな汚いものを、と訝しげな顔をする。けれど俺にとっては、どんな高価な置物より、手放せないものだ。

この缶のことを話すには、俺がまだ、ファミコンを持っていなかった頃まで、時間を巻き戻さなければならない。

瀬戸内の、船の汽笛がよく聞こえる小さな港町だった。潮の匂いと、魚を捌く水の音が、町の隅々まで染みついていた。

父は、俺が四つのときに、時化の夜の漁に出たまま、帰らなかった。海は、何も返してくれなかった。

父の顔を、俺はもう、ほとんど覚えていない。覚えているのは、大きな手のひらと、潮で焼けた首筋の匂いくらいだ。

母はその日から、三つの仕事をかけ持ちした。朝は市場で発泡スチロールの箱を運び、昼は駅前の食堂で皿を洗い、夜は茶の間で、内職の封筒に糊を貼った。

母の指の腹は、いつも糊で白く乾いて、ところどころ皮がめくれていた。

それでも母は、俺と妹の前では、決して疲れた顔を見せなかった。寝顔だけが、その日の重さを物語っていた。

「お父さんは、海の上から、ちゃんと見ててくれてるからね」

それが、母の口ぐせだった。母は、海を恨むことを、自分に禁じているようだった。

同じ団地の三階に住む翔太の家には、ファミコンがあった。

放課後になると、俺は磁石みたいに、翔太の部屋へ吸い寄せられた。

ブラウン管の小さなテレビの前で、ひげの配管工が土管に潜るたび、世界がくるりとひっくり返るような心地がした。

「お前、ほんと下手だな。そこ、ジャンプだろ」と翔太が横で笑う。

「うるさいな、もう一回だけ貸せよ」と俺はコントローラーを握り直す。

四角いボタンの感触が、指先にまだ残っている気がする。あの硬さが、当時の俺には、宝石みたいに思えた。

夕方の六時、台所のほうから、翔太の母親の声がする。

「翔太ー、ごはんよ。お友達も、よかったら食べていく?」

「いえ、帰ります。ありがとうございます」と、俺はいつも、同じ返事をした。

玄関で靴を履きながら振り返ると、湯気の立つ食卓に、湯気の立つカレーが見えた。

うちの夕飯は、たいてい味噌汁と、母が市場でわけてもらった煮干しの佃煮だった。

団地の階段を下りながら、俺は鼻に残ったカレーの匂いを、わざと深く吸い込んだ。羨ましいと口に出したら、母に悪い気がして、言えなかった。

秋には、運動会があった。

父親が子どもを肩車して、ゴールテープのところで待つ。そういう家が、いくつもあった。

俺の応援席には、仕事を一つ抜けて駆けつけた母が、一人で立っていた。

「がんばれー!」と、母は誰よりも大きな声で叫んでくれた。

俺はリレーのアンカーで、二人抜いて、一位でテープを切った。

ゴールの先で、母が、エプロン姿のまま、両手を広げて待っていた。

父はいなかったけれど、その日、俺は世界でいちばん幸せな子どもだったと思う。

だからこそ、俺は、母にこれ以上、苦労をかけたくなかった。

五年生の秋のことだ。給食費を集める茶封筒から、千円札が一枚、消えた。

担任が「正直に言いなさい」と教室を見回したとき、何人かの視線が、いちばん先に、俺の机のあたりで止まった。

誰も、はっきりとは言わなかった。ただ、隣の席の子が、椅子を少しだけ、俺から遠ざけた。

「あいつんち、母子家庭だしさ」と、廊下で誰かが囁くのが聞こえた。悪気のない声ほど、深く刺さる。

俺は、何も盗っていなかった。けれど、潔白を証明する言葉を、俺は持っていなかった。貧しさは、それだけで、疑いの理由になった。

千円は、数日後、別の子の筆箱の底から出てきた。先生は俺に謝らなかったし、囁いた子たちも、何事もなかったように、また俺と遊んだ。

けれど、椅子を遠ざけられた、あの乾いた音だけは、いつまでも耳に残った。

その夜、俺は台所で背中を丸めている母に、つい、言ってしまった。

「なあ、なんでうちは、こんなに貧乏なんだよ」

封筒に糊を塗る母の手が、ぴたりと止まった。

振り向いた母の目を、俺は今でも忘れられない。怒ってもいない。泣いてもいない。ただ、申し訳なさだけが、そこに静かに溜まっていた。

「ごめんね」と、母は言った。たったそれだけだった。

俺はそれ以上、何も言えなくなって、布団に潜り込んだ。傷つけたかったわけじゃない。ただ、誰かに、お前は悪くないと、言ってほしかっただけだ。

暗い天井を見上げながら、俺は決めた。もう二度と、母にあんな目を、させない、と。

中学に上がると、俺は新聞配達を始めた。年をごまかして雇ってくれた販売店の主人には、今でも感謝している。

朝の四時、まだ街灯だけがぼんやり光る坂道を、重い束を積んだ自転車で上った。

夏は汗が目に染み、冬は握りが千切れそうに冷えた。配り終えるころには、指の感覚が、すっかり無くなっていた。

灯台の下の一軒家まで配ると、痩せた老犬が、いつも尻尾を振って待っていた。冷たい鼻先を、俺の手にこすりつけてくる。その温もりだけが、俺の朝の救いだった。

その家のおじいさんは、ときどき「ご苦労さん」と、温かい缶のお汁粉を一本、俺に握らせてくれた。

「坊主、何のために、そんなに働いとるんや」と、ある凍えた朝、おじいさんが聞いた。

「欲しいものが、あるんです」と俺は、白い息を吐きながら答えた。

「ええのう。欲しいもんがあるうちは、人間、強うおれる」と、おじいさんは目尻に皺を寄せて笑った。

半年で、俺は二万円を貯めた。ファミコン本体と、欲しかったソフトが一本、買える金額だった。

郵便局の通帳の数字を見るたび、胸の奥が、ぽっと、温かくなった。

配達を始めて、最初の冬のことだ。

その朝は、めずらしく、町に雪が舞っていた。瀬戸内では、雪はそうそう降らない。

手袋を持っていなかった俺の指は、自転車のハンドルの上で、感覚を失っていた。

配り終えて家に帰ると、母が、まだ起きていた。夜なべの内職を、片付けているところだった。

「おかえり。冷たかったでしょう」

母は、自分のかじかんだ手で、俺の両手を包んだ。あかぎれだらけの、あの手で。

母の手も、決して温かくはなかった。けれど、二つの冷たい手を擦り合わせていると、不思議と、じんわり温もりが生まれた。

「無理して、働かなくていいのよ」と、母は小さな声で言った。

「無理なんかしてないよ」と俺は嘘をついた。

本当は、欲しいものがあったから、頑張れた。けれど、その欲しいものが、いつのまにか、ファミコンから、別の何かに、変わり始めていた。

母の手を温めながら、俺は、その正体を、まだうまく言葉にできずにいた。

よく晴れた日曜日、俺は隣町の電器屋まで、一時間かけて自転車を漕いだ。

潮風を切って坂を下りながら、頭の中ではもう、何度も何度も、マリオが土管に潜っていた。

店に着くと、ガラスのショーケースの中で、それは確かに、俺を待っていた。

白とえんじ色の、本体。長いあいだ、夢に見た、かたち。

「これ、くださ……」

そう言いかけて、棚に手を伸ばした、ちょうどその瞬間だった。

なぜか、頭の中に、妹の脚が、浮かんだ。

妹の美咲は、いつも俺のお下がりのジャージを穿いていた。

裾を二回折って、安全ピンで留めて。それでも本人は「あったかいから好き」と、口を尖らせて笑っていた。

先月、体育の時間に、その長すぎる裾を踏んで転んだと、美咲は膝小僧に絆創膏を貼っていた。

血の滲んだ絆創膏を見たとき、俺は、何も言えなかった。

そして、母の手。ひび割れて、あかぎれで、冬になると指の節から血が滲む、あの手。

夜なべの内職で、母の指紋は、もうほとんど、擦り切れていた。

ショーケースの前で、俺の伸ばした手が、宙で止まった。

店員のお兄さんが、不思議そうに、俺を見ている。

俺は、口の中で乾いた唾を飲み込んで、もう一度、言った。

「やっぱり、こっちをください」

指さしたのは、隣の棚にあった、子ども用の小さなジャージと、レジ横の、いちばん安いハンドクリームだった。

「ゲームは、いいの? さっきから、ずっと見てたみたいだけど」と、お兄さんは少し驚いた顔をした。

「いいんです。来年でも、買えるんで」と俺は笑った。

本当は、来年もきっと買えないと、心のどこかで知っていた。それでも、なぜか、悔しくはなかった。

家に帰って、俺は何でもない顔をつくって、二つの包みを差し出した。

「美咲、これ穿けよ。いつまでもお下がりじゃ、可哀想だろ」

美咲は、新しいジャージを胸に抱いて、しばらく黙ってから、上目遣いで聞いた。

「……お兄ちゃんの、欲しかったやつは?」

小さな妹は、俺が何のために、毎朝新聞を配っていたか、ちゃんと知っていた。

「俺はもう大きいから、あんなのいらねえんだよ」と、俺は妹の頭を、くしゃくしゃと撫でてやった。

母には、ハンドクリームを、台所の棚にそっと置いた。何も言わずに。

母は、それが俺の配達のお金から出たものだと、すぐに気づいたと思う。

でも母は、ありがとうとも、もったいないとも、言わなかった。ただ、しばらく蛇口の水を出しっぱなしにして、こちらに背を向けていた。

流れる水の音に紛れて、母が小さく、鼻をすするのが聞こえた。

俺はテレビをつけて、観てもいない番組を、わざと大きな音で流した。台所のほうを、見ないようにして。

その夜、俺は布団の中で、なぜだか少しだけ、誇らしい気持ちで眠った。

それから、十五年が経った。

俺は港町を出て、神戸の小さな建設会社で、図面を引く仕事に就いた。妹の美咲は、立派な看護師になった。母は今も、あの団地で一人、暮らしている。

あの新聞配達のおじいさんは、もう亡くなった。老犬も、そのあとを追うように逝ったと、人づてに聞いた。

去年の春、俺の結婚式の、前日のことだ。

挨拶に立ち寄った実家で、母は、古い菓子箱を、宝物のように両手で抱えて、奥から出てきた。

「これね、あんたに、見せたかったの」

箱の中から出てきたのは、すっかり錆びて、蓋も開かなくなった、一本のハンドクリームの缶だった。

見覚えのある、いちばん安い、あのハンドクリーム。

「一度も、使ってないの」と、母は言った。

「もったいなくて、どうしても使えなかった。あんたが、自分のファミコンを諦めて、買ってくれたものだもの」

母は、俺があの電器屋で、何を諦めたのか、ずっと前から、知っていた。

近所の電器屋のおばさんが、「息子さん、ゲームやめて、妹さんのジャージ買って帰ったよ」と、あの日のうちに、母に伝えていたのだという。

「気づいてたなら、なんで、何も言わなかったんだよ」と、俺は声を絞り出した。

「言ったら、あんたが、恥ずかしがると思って。あの子は、そういう子だから、ってね」

母は、十五年ものあいだ、それを箱の中で、そっと守っていた。指のあかぎれは、もうとっくに、治っていたのに。

俺は、その錆びた缶を握りしめて、子どものように泣いた。三十を過ぎた男が、台所の隅で、声を上げて、泣いた。

あの日、ショーケースの中で俺を待っていたものより、ずっと大切なものを、俺はちゃんと選べていたのだと、この歳になって、ようやく分かった。

翌日の式で、母を前に挨拶を述べる段になって、俺は、生まれて初めて、その言葉を口にした。

「母さん。産んでくれて、育ててくれて……ありがとう」

声が震えて、その先が、続かなかった。

母は、あのときと同じ手で、俺の背中を、何度も何度も、撫でてくれた。

あかぎれの、すっかり治った、柔らかい手だった。

妹のことを、少し話しておきたい。

美咲は看護師になってから、月に一度、必ず実家へ帰る。

帰ると、まず母の手を取って、温めたタオルで包み、丁寧にクリームを塗り込むのだという。

「お母さんの手、ずっとあかぎれだったでしょ。今度は、私が治す番だから」

そう言って、美咲は母の指を、一本ずつ、優しく揉んでいた。

あの長すぎたお下がりのジャージを穿いていた子が、いつのまにか、人の痛みを和らげる手を、持つようになっていた。

「お兄ちゃんが、あの日ジャージを買ってくれたこと、私、ずっと覚えてるよ」と、美咲は言う。

「だから私、人に何かしてあげられる仕事に、就きたかったの」

優しさは、こうして、知らないうちに、誰かへと受け継がれていくのかもしれない。

結婚式の朝、控室で、妻になる人が、あの錆びた缶のことを聞いてきた。

俺がぽつぽつと話すと、彼女は黙って最後まで聞いて、それから、そっと俺の手を握った。

「あなたのそういうところを、私は好きになったんだと思う」と、彼女は言った。

「お義母さんに、ちゃんとお礼を言わなきゃね。私たちを、繋いでくれた人だもの」

その言葉で、俺は式が始まる前から、もう少しで泣きそうになった。

母が守り続けたのは、ただの古い缶ではなかった。あの日の俺の気持ちごと、母は十五年、抱きしめていてくれたのだ。

披露宴の終わりに、母が、招待客の前で短く挨拶をした。

人前で話すのが苦手な母は、原稿を握る手を、少し震わせていた。

「この子は、小さい頃から、自分のことは後回しにする子でした」

「貧しい思いを、たくさんさせてしまいました。それでも、まっすぐに育ってくれた」

「どうか、この子と一緒に、たくさん笑ってあげてください」

母は、それだけ言って、深く頭を下げた。会場のあちこちで、ハンカチを出す音がした。

妹の美咲は、最前列で、子どものように、声を上げて泣いていた。

俺は、新郎の席で、唇を噛んで、天井を見上げていた。そうしないと、こらえきれそうになかった。

父がいたら、なんと言っただろう、とふと思った。

きっと、潮で焼けた、あの大きな手で、黙って俺の肩を叩いてくれただろう。海の上から、ちゃんと見ていてくれたなら。

その夜、宴の片付けが終わった会場で、俺は母に、もう一度だけ、小さな声で言った。

「母さん、長生きしてくれよな」

母は、「あんたこそ」と笑って、また、俺の背中を撫でた。

いま、その缶は、俺の机の隅にある。

先日、五歳になる息子が、それを指さして「これ、なあに」と聞いた。

俺は息子を膝に乗せて、ゆっくりと話して聞かせた。父さんが昔、どうしても欲しいものを諦めて、おばあちゃんに、これを贈った話を。

息子は、最後まで聞いて、それから、ぽつりと言った。

「とうさんは、やさしいね」

あの頃の俺が諦めたゲームのことを、息子は、きっと笑うだろう。それでいい。

笑える日々があることが、あの冬を越えた、何よりの答えなのだから。

今度の夏休みには、息子を連れて、あの港町へ行こうと思っている。

汽笛の鳴る波止場で、海に向かって、手を合わせるつもりだ。

父さんに、孫を、紹介してやりたい。それから、ファミコンの話も、もう一度してやろう。

違うんだ、と俺は思った。優しかったのは、いつだって、俺じゃない。

海の上から見守ると言った父も、あの目をした母も、ずっと我慢して笑っていた妹も。みんな、俺よりずっと、優しかった。

俺はただ、その優しさを、少しだけ、返したかっただけなのだ。

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