娘の結婚式の朝、家の棟の鬼が、わずかに傾いていた。
前の晩に吹いた南風のせいだ。
礼服のズボンのまま梯子を掛けて、俺は屋根に上がった。
嫁に行く娘の家の屋根で、親父が鬼瓦を直している。
間抜けな話だと思う。
それでも、今日だけは曲がったまま放っておけなかった。
俺は鬼師だ。
愛知の高浜で、三州瓦の鬼瓦を彫っている。
粘土の板を積み上げて、篦で顔を起こして、乾かして、窯に入れる。
そういう仕事を、二十五の年からずっとやってきた。
棟に据わった鬼の、目のあたりを掌で押した。
指先に、朝の露が冷たく残っていた。
※
佐和子と出会ったとき、俺は二十五で、向こうは三十三だった。
工房の隣の食堂で働いていた人だ。
昼にいつも同じ定食を頼む俺に、ある日、黙って卵を一つ多く付けてくれた。
それだけの人だった。
次の日も、その次の日も、卵は一つ多かった。
四日目に、さすがに聞いた。
「あの、これ、間違うてませんか」
「間違うてません」
「なんでですか」
佐和子さんは、俺の手を指した。
爪の間に、乾いた粘土が白く入っていた。
洗っても、あの白は三日は抜けない。
「そういう手の人は、昼にちゃんと食べんと、夕方に手元が狂うから」
それだけ言って、次の客の注文を取りに行ってしまった。
なぜ手元の話をしたのか、そのときの俺には分からなかった。
分かったのは、二十五年も先のことだ。
ただ、その人には十三になる娘がいた。
千夏という。
初めて三人で飯を食った日、千夏はほとんど喋らなかった。
茶碗を持つ手が、ずっと膝の上で止まっていた。
俺も何を言えばいいのか分からず、粘土のことばかり喋った。
鬼瓦は、屋根の一番高いところに座って、家のほうを見ずに外を睨んでいるのだと。
千夏が初めて顔を上げた。
「なんで、こっち見んの」
「見んでええんや。外におるもんを、追い返す役やから」
「ふうん」
それきりだった。
その年の秋に籍を入れて、三人で暮らし始めた。
子どもは、作らなかった。
金の話もあったが、それだけではない。
千夏の顔を思うと、この子が一人でちょうどいいと、二人とも同じことを言った。
※
千夏は、俺の作る鬼を、いつも顔を伏せて置いた。
工房の隅で宿題をしていて、机の端に置いた試し彫りの小さな鬼を、必ず裏返す。
怖いんだろうと思った。
あんな顔を、女の子が正面から見て楽しいはずがない。
「怖かったら、しまうで」
「怖ないよ」
そう言って、また裏返して置く。
妙な癖だと思ったが、聞き返しはしなかった。
血の繋がらない父親が、娘の癖にいちいち踏み込むのが、俺には怖かった。
その距離を、俺はずっと守っているつもりでいた。
窯出しの朝だけは、千夏を工房に呼んだ。
窯の口を開けると、まだ熱が残っていて、顔の産毛が焦げそうになる。
その熱の中に、焼き上がった鬼が並んでいる。
いぶし瓦は、焼いた直後が一番きれいだ。
銀色の膜が、粉を吹いたように光る。
「触ったらあかんぞ。手の脂が付くと、そこだけ色が変わる」
「わかっとる」
千夏は手を後ろで組んで、屈んで、鬼の顔を下から覗いた。
それから、いつものように、一番小さい試し彫りを裏返した。
熱いはずなのに、指の腹で、そっと。
「熱いやろ」
「熱ない」
嘘に決まっている。
あとで見たら、親指の腹が赤くなっていた。
それでも俺は、その手を取らなかった。
取っていい手なのか、俺には判断がつかなかった。
※
佐和子が逝ったのは、千夏が十七の秋だ。
買い物からの帰り、県道の交差点だった。
知らせを受けて工房を飛び出したとき、俺の手には湿った粘土がついたままだった。
病院の廊下で、その粘土が乾いて、爪の間で白く粉になっていったのを覚えている。
葬式が済んで、家に二人だけになった。
台所の椅子が一つ余った。
俺も千夏も、その椅子をどけようとしなかった。
騒ぎ出したのは、佐和子の側の親戚だった。
四十九日も明けないうちに、伯母だという人が家へ来た。
「あなた、まだ二十九でしょう」
「はい」
「その歳で、血の繋がらない、しかも十七の娘さんと二人でって、世間はどう見ますか」
茶を出した手が止まった。
そういうふうに見えるのか、と初めて知った。
言われてみれば、二十九の男と十七の女だ。
夫婦だと言われても、外から見れば通ってしまう歳の並びだった。
「うちで預かるから、千夏ちゃんは渡しなさい」
「渡す、いうもんやないと思います」
「あなたに何ができるの」
その問いにだけは、答えが用意できなかった。
俺にできるのは、粘土を積んで、顔を彫って、窯を焚くことだけだ。
晩飯の献立ひとつ、まともに考えたことがなかった。
伯母が帰ったあと、襖の向こうから千夏が出てきた。
聞こえていたらしい。
「今さらこんな、土の匂いのするおっさんと、どないかなるかい」
笑いながらそう言って、勝手に冷蔵庫を開けた。
「卵、あと二個ある。焼くよ」
俺は返事の代わりに、洗い物の水を出した。
水音がやたらと大きく聞こえた。
最初の一年は、ひどいものだった。
俺は米の研ぎ方も知らなかった。
晩飯はほとんど、千夏が学校から帰って作った。
それが情けなくて、ある日、弁当を作ってみた。
朝の五時に起きて、本を見ながら、卵を焼いた。
焦げた。
次の日も焦げた。
四日目に、やっと巻けた。
その日の晩、千夏が言った。
「今日の卵焼き、砂糖入っとった」
「入れた」
「お母さんも、入れとった」
俺は流しを向いたまま、しばらく動けなかった。
入れろと教わったわけではない。
ただ、この家の卵焼きは甘かった、というだけの話だ。
高校の進路面談にも、俺が行った。
担任は、進学は難しいでしょうかと遠回しに聞いてきた。
金の話をしているのだと、途中で気がついた。
「行かせます」
「ご無理のない範囲で」
「無理はします」
担任は困った顔をして、それきり黙った。
帰り道、自転車を押して歩く千夏が、前を向いたまま言った。
「うち、就職でええよ」
「あかん」
「お父さん、うちが出て行ったら楽になるやんか」
俺は自転車のかごに鞄を放り込んだ。
「楽になりたい人間が、朝の五時に卵焼くか」
千夏が、ふっと笑った。
それきり、就職の話はしなくなった。
それから八年、俺の作れる料理は、ほとんど増えなかった。
増えたのは、卵の焼き方だけだった。
※
それから八年、俺たちは二人で暮らした。
楽ではなかった。
三者面談で学校へ行くと、担任は必ず、俺の顔と千夏の顔を二度ずつ見比べた。
血が繋がっていないことは、書類のどこかに書いてあったのだと思う。
「お父さん、でよろしいんですよね」
「はい」
「失礼しました」
失礼でも何でもない。
ただ、二度見比べられるたびに、屋根の上の鬼のことを思った。
あれは、外を睨むのが仕事だ。
睨まれるほうの気持ちは、彫っている俺が一番知らなかった。
部活で遅くなった千夏を、工房の軽トラで迎えに行った晩のことだ。
校門の前に停めていたら、翌週、学校に通報が入った。
生徒が知らない男の車に乗っている、と。
職員室に呼ばれ、俺は免許証と、佐和子の除籍の写しを鞄から出した。
そういうものを、いつも持ち歩くようになっていた。
帰りの車で、千夏は窓の外を見たまま言った。
「もう、迎えはええよ」
「ええことない」
「うちのせいで、お父さんが変な目で見られるやんか」
信号が赤になった。
俺は前を向いたまま答えた。
「鬼はな、睨まれる役や。それが屋根の上に据わっとる理由や」
千夏は何も言わなかった。
ただ、家に着いて靴を脱ぐとき、小さな声で、ありがとう、と言った気がする。
聞き返さなかった。
※
三回忌の日のことも書いておきたい。
親戚は誰も来なかった。
二人で線香を上げて、それで終わりのはずだった。
仏壇の前を片付けていて、位牌の脇に小さな瓦の欠片が置いてあるのに気づいた。
試し彫りの鬼の、角のところだけが折れたやつだ。
いつだったか、乾燥中に落として割ってしまい、俺が屑箱へ放ったものだった。
それが、割れ口を下にして、伏せて置いてある。
「これ、拾たんか」
「あかんかった」
「あかんことはないけど」
千夏は線香の灰をならしながら言った。
「割れても、裏はあるやん」
意味が分からなかった。
割れた鬼に価値はない。
裏も表も、屑は屑だ。
俺はそう思ったが、口には出さずに、欠片を元の場所へ戻した。
戻すときに、指が滑って表を上に置いてしまった。
翌朝には、また伏せてあった。
※
千夏が二十五になった春、話がある、と言われた。
結婚したい人がいる、と。
二十五。
俺が佐和子と一緒になった歳と、同じだった。
相手の男は、次の日曜に工房へ来た。
スーツで来るなと言ったのに、律儀にスーツで来て、土間で靴下を汚していた。
棚に並べた鬼の前で、その男が立ち止まった。
「持ってみてもいいですか」
「落としても知らんぞ」
両手で抱え上げて、思ったより重いです、と笑った。
それから、そいつは鬼を抱えたまま、少しだけ千夏のほうを見た。
千夏を見る目が、やわらかかった。
それで充分だった。
諦めもついた。
その晩、駅前の居酒屋で、婿になる男と二人で飲んだ。
ビールを一杯注いだところで、そいつが頭を下げた。
「千夏さんから、聞いています」
「何をや」
「お義父さんが、ずっと、免許証と一緒に持ち歩いていた紙のことです」
俺は箸を置いた。
あの写しのことは、千夏には言っていない。
職員室に呼ばれたことも、言っていない。
「あの子、知っとったんか」
「鞄の中を、一度だけ見てしまったそうです」
「そうか」
「泣きながら、元に戻したと言うてました」
俺はビールを飲んだ。
ぬるくなっていた。
知られていたのなら、あの子はあの八年を、どんな気持ちで飯を炊いていたのだろう。
聞けなかった。
聞いたら、俺のほうが持たなかった。
※
披露宴は、六月の土曜だった。
バージンロードというものを、俺は歩いた。
歩きながら、この娘の腕がこんなに軽かったかと思った。
十三の秋、初めて三人で飯を食った日から、十二年が経っていた。
控室の前で、佐和子の側の伯母とすれ違った。
あの日、千夏を渡しなさいと言った人だ。
白髪が増えていた。
向こうから、先に頭を下げてきた。
「あのときは、失礼を申しました」
「いえ」
「あの子の顔を見たら、もう、何も言うことがありません」
それだけ言って、伯母は先に会場へ入っていった。
俺は廊下でネクタイを直した。
八年かかって、たった二言だ。
それでも、その二言のために、俺はずっと立っていたのだと思う。
花嫁の手紙が始まったのは、皿が下げられたあとだ。
千夏は紙を広げて、最初の一行でもう声を詰まらせた。
「お母さんがいなくなったとき、私は十七でした」
「お父さんはまだ二十九で、私がいたら、絶対に足枷になると思っていました」
「だから、これからも一緒に住むのが当たり前みたいな顔をしていてくれたことが、本当に嬉しかったです」
そこまでは、なんとか堪えていた。
次の一行で、堪えられなくなった。
「お母さんが、再婚した年に私に言ったことがあります」
「あの人の名前はな、鬼の裏に彫ってあるんよ、って」
「誰にも見えんところに、小そう彫ってあるんやって」
会場が静かになった。
俺の耳の奥だけが、鳴っていた。
鬼瓦の裏には、彫った者の銘を入れる。
俺の銘は、誠の一字だ。
名前を辻本誠一という。
屋根に上がってしまえば、誰の目にも触れない場所だ。
「だから私は、お父さんの鬼を、いつも裏返して置いてました」
「表の顔は、よその人が見たらええと思ってたので」
あの子は十二年、俺の鬼を、ずっと裏返して置いてきたのだ。
怖かったのではない。
怖い顔のほうは、はじめから見る気がなかったのだ。
俺はテーブルの下で、掌をズボンに擦りつけた。
粘土などついていないのに、そうしないと手の置き場がなかった。
「私のお父さんは、お父さんだけです」
「お母さんがいなくなってからも、ずっと幸せな子のままでいられたのは、お父さんがお父さんでいてくれたからです」
そこで、こらえていたものが全部こぼれた。
隣の席で、婿さんが黙ってハンカチを差し出してきた。
重いです、と鬼を抱え上げたときと同じ顔をしていた。
※
式の翌週、千夏は荷物をまとめて家を出た。
出て行ったあとで気がついた。
箪笥の引き出しに、紙が貼ってある。
「ぱんつ」
「しゃつ」
「くつした」
ぜんぶ、ひらがなだった。
二十五の女が、五十過ぎの親父に貼っていく字ではない。
阿呆にされたものだと笑って、それから、手が止まった。
同じ場所に、同じ高さで、前にも紙が貼ってあったことを思い出したのだ。
十三年前。
佐和子と千夏が越してきた最初の週だ。
知らない家で暮らすことになった娘のために、佐和子が箪笥という箪笥にひらがなを貼った。
あのときも、ぜんぶ、ひらがなだった。
俺は、その紙を剥がした覚えがない。
いつの間にか無くなっていた、としか思っていなかった。
千夏は、覚えていたのだ。
母親が自分のために貼った紙の高さを、十三の秋から、ずっと。
※
もう一つ、あとで分かったことがある。
式のあと、伯母から電話がかかってきた。
用件は仏壇の話だったが、切りぎわに、こんなことを言われた。
「佐和子の父親はね、瓦を葺く人だったんですよ」
「葺き師さんですか」
「ええ。あの子は小さい頃から、屋根に上がる父親を下から見とった子です」
受話器を持ったまま、俺は天井を見た。
鬼の裏に銘が入っていることを、佐和子は知っていたのだ。
俺が教えたのではない。
あの人は、父親の手つきで、それを知っていた。
食堂で、俺の爪の白いのを見て、卵を一つ多く付けた理由も、そこでやっと繋がった。
粘土であれ、瓦土であれ、あの白は同じ白だ。
佐和子は、俺の手を見て、父親の手を見ていたのだと思う。
そして娘に、こう言い置いた。
あの人の名前は、鬼の裏に彫ってある、と。
屋根に上げてしまえば誰にも見えないところを、見に行きなさい、と。
あの母娘は、俺の知らないところで、俺の見えない側を先に見ていた。
※
屋根の鬼は、あの朝、両手で押したらすぐに座り直した。
据わりが浅かっただけだ。
降りるときに、ふと下から見上げた。
外を睨む顔しか見えない。
裏に彫った一字は、屋根に上げてしまえば、もう誰にも見えない。
それでいい、と思っていた。
思っていたが、見ていた者が一人いた。
俺は間違っていなかった。
大変だったが、父親という立場を選んで良かった。
佐和子と一緒になって良かった。
あの子の父親になって良かった。
家は静かになった。
台所の椅子は、いま二つ余っている。
それでも、どけるつもりはない。
この秋から、新しい仕事が一つ入った。
千夏たちが建てる家の、棟の鬼だ。
寸法は小さくていい、と婿さんは言った。
今の家は屋根が浅いですから、と。
俺は粘土を積みながら、裏の銘を、いつもより少しだけ深く彫った。
屋根に上げれば、誰にも見えない。
見えないところを、あの子は覗きに来る。
そのときに、爪が引っかかるくらいの深さで彫っておいた。
窯から出したら、まず伏せて置いてやろうと思う。
あの子が来る前に、一度だけ、自分で裏を見ておきたい。
この二十五年、俺は表ばかり彫ってきた。
裏を見てもらえる仕事だとは、思っていなかった。