三センチのドアの向こうで点呼を聞いた

夕暮れの校舎、扉の隙間から漏れる光

教室の後ろのドアは、柏木先生の授業のときだけ、いつも三センチ開いていた。

夜間の定時制では、ドアが開いていることなど珍しくもない。

寒い季節には、閉めてほしいと誰かが言うくらいだった。

それでも先生の数学の時間だけは、あの三センチのドアだった。

二センチでも、四センチでもない。

指が一本、すっと入る幅だ。

俺はその幅を、十五年間、ただの癖だと思っていた。

今は三十三歳で、フードデリバリーの配達員をしている。

自転車で夜の街を走り、他人の夕飯を運ぶ。

冷めないうちに届けること。それだけが仕事だ。

マンションの三階で、インターホン越しに「ありがとうございます」と言われる。

ドアが開き、手だけが出てきて、袋を受け取る。

その手の甲を見るたびに、俺はなぜか、鉛筆で書いた小さな数字を思い出す。

顔を見られることのない仕事が、俺には合っていた。

匂いも、声も、どこにも残らない。

それが楽だと思う自分を、俺はずっと、好きになれずにいる。

あの三センチのドアの話を、俺はこれまで誰にもしなかった。

話す相手がいなかったのではない。

話せば、自分が何者だったのかを、説明しなければならなくなる。

九月の終わり、配達の帰りに公民館の前を通った。

掲示板に、色の褪せたポスターが一枚貼ってあった。

「市立北稜高校定時制 閉校記念 資料展」。

今年の三月で、六十八年の歴史を閉じた学校だった。

俺はブレーキをかけて、片足を地面についた。

胸の奥で、チョークの粉が舞うような音がした。

会期は三日間。最終日は明後日だった。

ポスターの左下に、展示品の一覧が小さく印刷されていた。

学籍簿、卒業アルバム、校歌の楽譜。

そして、出席簿。

その三文字で、喉の奥が小さく鳴った。

俺はその中の一冊に、自分の名前があることを知っていた。

あの冊子の中の俺が、どれだけ欠席していたかも知っていた。

知っているつもりだった。

高校を出てから、俺は一度も、あの学校の前を通らなかった。

避けていたわけではない。通る用事が、なかっただけだ。

そう言い聞かせてきた。

スマホが震えて、配達の依頼が入った。

ハンバーグ弁当が一つ、七分で届けられる距離だった。

俺はペダルを踏み込む前に、もう一度だけポスターを見た。

油の匂いのする作業着

十八歳の春、俺は北稜高校の定時制に入った。

昼は金属加工の工場で働き、夕方から学校へ通った。

始業は午後五時四十五分。

工場を定時に出ても、自転車を飛ばして、ぎりぎりの時間だった。

作業着を着替える暇は、なかった。

切削油の匂いが、袖にも襟にもしみついていた。

石鹸で洗っても、落ちない匂いだった。

昼休みに、工場の主任が俺の肩を叩いたことがある。

「お前、夜学に行ってるんだってな。感心だ」

「いえ。ほかにやることもないので」

「それが偉いんだよ」

主任は笑って、自分の缶コーヒーを一口飲んだ。

褒められたのに、俺は少しも嬉しくなかった。

夜学、という言葉が、どこか「遅れてきた者」を指しているように聞こえたからだ。

教室に入ると、その匂いが先に席へ着く。

俺はそれが恥ずかしかった。

同じクラスには、十代の俺のほかに、四十代の主婦や、中国から来た青年がいた。

隣の席は、七十一歳の菊江さんだった。

子どもの頃、戦争で学校へ行けなかったのだという。

「自分の名前を書けるようになったんは、四十になってからや」

「そうなんですか」

「だからここへ来るんが、楽しくて仕方ない」

菊江さんは、ノートの端に、何度も自分の名前を書いていた。

字はいびつだったが、一画ずつ、力が入っていた。

俺はその字を見て、少しだけ恥ずかしくなった。

「あんた、毎日いい匂いさせとるね」

初日に、菊江さんはそう言った。

「油の匂いです。すみません」

「謝ることはないよ。働いてきた人の匂いや」

俺は返事ができなかった。

菊江さんは笑って、黄色い飴をひとつ、俺の机に置いた。

口に入れると、レモンの酸味が舌の奥に刺さった。

初めての授業の夜、先生は出席を取る前に、教室を見回した。

「わからないところは、わからないと言ってください」

小さな声だった。

「わからないことは、恥ではありません。わかったふりをするほうが、あとで高くつきます」

俺は机の下で、作業着の膝をつかんだ。

わからないふりをして生きてきたわけではない。

ただ、わからないと口にする場所が、これまでどこにもなかった。

先生は、一人ずつ名前を呼んだ。

呼ばれた者は、はい、と答える。それだけのことだ。

「広瀬くん」

「はい」

自分の名前が、教室の空気の中で、普通の音として響いた。

それが妙に、耳に残った。

柏木先生は、数学の担任だった。

当時五十八歳。背は低く、白髪が多く、眼鏡の奥の目だけがいつも眠そうだった。

声の小さい人だった。

大きな声を出さなくても、教室は不思議と静かになった。

柏木先生は、黒板を右の端から書き始める人だった。

普通は左から書く。右から書くと、字が教卓の影に隠れる。

それでも先生は、同じ順番を崩さなかった。

「先生、左から書かないんですか」

一度だけ、菊江さんが聞いたことがある。

「右からだと、運動になるでしょう」

先生は眠そうな目のまま言った。

「歳を取ると、腕をよく伸ばさないと」

教室に笑いが起きた。

俺も笑った。本当の理由など、考えもしなかった。

そして、あのドアだ。

教室の後ろ側のドアは、重い引き戸だった。

先生は授業の前に、後ろのドアを三センチだけ開けた。

換気のためだろうと、みんなが思っていた。

俺も、そう思っていた。

緑の灯の下の欠席

五月の夜だった。

授業が始まる十分前、俺は廊下の自販機の前にいた。

缶コーヒーを買おうとして、百円玉を握っていた。

曲がり角の向こうから、笑い声が聞こえた。

「あの油くさいやつ、今日も来てるぞ」

「隣の席の婆さん、よく平気だよな」

同じクラスの、俺より二つ年上の二人だった。

悪意というほどのものではなかったと思う。

ただの雑談だ。

けれど俺は、百円玉を握ったまま動けなくなった。

袖を鼻に近づけると、切削油の匂いがした。

自分では、もうその匂いがわからなくなっていた。

それが一番怖かった。

俺は教室に入らなかった。

廊下の突き当たりの非常口まで歩いて、鉄の扉に背中をつけた。

扉は冷たかった。初夏なのに、骨に響く冷たさだった。

頭の上で、非常口の緑の灯が、ジーッと小さく鳴っていた。

帰ろうと思った。

思ったのに、足が動かなかった。

チャイムが鳴り、廊下が静まった。

そのとき、教室のほうから先生の声が流れてきた。

「では、前回の続きから」

小さな声だった。

それなのに、廊下の端まで届いた。

後ろのドアが、三センチ開いていたからだ。

その細い隙間から、声と、チョークの音と、蛍光灯の白い光が、廊下の床に細く伸びていた。

俺は壁にもたれて、その光の帯を見ていた。

コツ、コツ、と黒板を叩くチョークの音がした。

廊下の窓の外では、校庭のナイターの灯が消えかけていた。

蚊が一匹、耳のそばを飛んだ。

追い払う気力も、なかった。

授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、俺は階段を駆け降りた。

誰にも顔を見られないように。

自転車のライトが、暗い坂道を白く照らした。

ペダルを漕ぎながら、先生の声を、頭の中で繰り返した。

「前回の続きから」。たったそれだけの言葉が、なぜか胸に残っていた。

その夜、俺は教室に入らないまま、四十分だけ先生の声を聞いて帰った。

翌日の夜、菊江さんが小声で聞いた。

「昨日は、どうしたの」

「腹をこわして」

「そうかね。ほら」

机の上に、黄色い飴が置かれた。

「お腹にはよくないけど、気持ちには効くよ」

俺は黙って、飴を口に入れた。

その日、先生は何も言わなかった。

出席を取るときも、俺の名前をいつもの調子で呼んだ。

「広瀬くん」

「はい」

前の晩のことには、一言も触れなかった。

ただ、授業が終わって皆が帰り支度をしているとき、先生は俺の机のそばで足を止めた。

「昨日は、風が強かったですね」

「……はい」

先生は、それ以上何も聞かなかった。

教卓へ戻って、出席簿を静かに閉じた。

俺は、ばれていないのだと思った。

休んだ夜は、ただ休んだだけだ。先生は知らない。

そう思い込むことで、やっと息ができた。

三センチのドアの前

そこから、俺の「欠席」が始まった。

昼の仕事で嫌なことがあった日。

誰かに匂いのことを言われた気がした日。

そういう夜、俺は教室の前まで来て、入れなくなった。

自転車置き場で息を整え、階段を上がり、突き当たりの非常口の前に立つ。

背中に、冷たい鉄。頭の上に、緑の灯。

そして右手の少し先で、三センチのドアが、細い光を漏らしていた。

俺は廊下の側から、授業を聞いた。

そのとき俺は、自分は休んでいるのだと信じていた。

教室の席に座っていないのだから、欠席だ。

当たり前の理屈だった。

それでも、足は学校へ向かった。

家に帰って一人でいるより、先生の声のそばにいるほうが、ましだったからだ。

先生は、ときどき声をほんの少しだけ大きくした。

「ここは、大事ですよ」

教室の誰に向けた言葉だったのか。

そのときの俺は、考えなかった。

ドアの横の壁には、縦に細長い小窓があった。

そこから、黒板の右の端だけが、斜めに見えた。

右端に書かれた、問題の番号と最初の式。

俺はそれを、手の甲に鉛筆で写した。

解き方は声で聞いた。

家に帰ってから、一人で続きを解いた。

運のいいことに、廊下から読める場所に、いつも一番大事な式が書いてあった。

俺は、それを偶然だと思っていた。

二年の冬のことだ。

いつもの非常口の前に、パイプ椅子が一脚、置いてあった。

誰かが掃除のときに忘れたのだろうと思った。

俺は少し迷ってから、そこに腰を下ろした。

金属の座面は冷たかったが、立っているより、ずっと楽だった。

その椅子は、次の週も、その次の週も、同じ場所にあった。

理由を考えると怖くなる気がして、俺は考えなかった。

卒業までに、あの椅子に座った夜は、十を超えた。

雨の夜もあった。

濡れた作業着が冷えて、歯が鳴った。

そんな夜は、先生の声が、ストーブのように温かかった。

雪の夜もあった。

一月の、風の強い晩だ。

廊下の窓ガラスが、風に押されてカタカタと鳴っていた。

俺は指先をポケットで温めながら、先生の声を聞いた。

その夜の授業は、どういうわけか、いつもより少しゆっくり進んだ。

同じ式を、先生は二度、言い直した。

わかったか、と問うように。

教室の誰かが、もう一度と頼んだわけではなかった。

それでも先生は、廊下にまで届くように、言葉を置いていった。

冬には、菊江さんが卒業まで残ったおにぎりを、そっと廊下に置いていってくれたこともある。

黙って置かれた、塩だけのおにぎりだった。

どうして俺がいるとわかったのか。聞けなかった。

三年の冬、進路面談があった。

放課後の誰もいない教室で、先生と二人きりだった。

窓の外は、もう真っ暗だった。

「広瀬くんは、卒業したら、どうしますか」

「今の工場で、続けようと思ってます」

「そうですか」

先生は、机の上の出席簿を、ゆっくり開いた。

「出席日数は、足りていますよ」

「でも、先生」

俺は膝の上で拳を握った。

「俺、休んだ夜が、何回もあります」

先生は眠そうな目で、出席簿を見た。

「出席簿には、ありませんね」

「え」

「ありません。このまま行けば、卒業できます」

その言い方に、俺は救われたような、突き放されたような気持ちになった。

見逃されたのだ、と思った。

情けをかけられたのだ、と。

卒業式の夜、先生は後ろのドアの前で、俺に言った。

「席は、空けてありますから」

「え」

「また、いつでも」

冗談だと思って、俺は笑った。

「卒業した人間の席なんて、ないですよ」

「あります」

先生は、それだけ言った。

そしていつものように、ドアを三センチだけ残して、職員室へ歩いていった。

閉校の資料展

最終日の前日の夜、俺は配達を早めに切り上げて、公民館へ行った。

二階は、古い紙と、床のワックスの匂いがした。

和室にガラスケースが並び、卒業アルバムや校歌の楽譜が飾られていた。

受付に、白髪の小柄な女性がいた。胸に「森」という名札をつけている。

展示室の隅で、古いテープから校歌が流れていた。

音が割れて、歌い手の声が震えていた。

俺は校歌を、一度も歌ったことがなかった。

「北稜の、定時制の方ですか」

「はい。十五年前に卒業しました」

「出席簿を、見たいんですが」

「複写ですけど、どうぞ。めくっていいですよ」

森さんは、白い手袋を渡してくれた。

「私ね、定時制の事務を三十年していたの」

「柏木先生は、今どうしていますか」

森さんは、少し声を落とした。

「去年の秋に、喉の手術をなさってね。今は声が出ないの」

「閉校式にも、出られなかった」

「ええ。でもこの展示、出席簿を飾ろうと言い出したのは先生なのよ」

「先生が?」

「ご自分の手で、この年度の分を選んでね」

森さんは、ケースの中の古い写真を指さした。

昭和の終わりごろの、夜の教室だった。

黒板の前に先生が立ち、後ろのドアが細く開いている。

写っている先生は、まだ若かった。

「どの年も、後ろのドアを開けておく人でした。私が閉めると、また開けに来るの」

「三センチ、でしょう」

森さんは、目を丸くした。

「あら、ご存じなの」

「毎回、見ていましたから」

俺は、それ以上は言えなかった。

俺は手袋をして、青い表紙の冊子を開いた。

一年次の、横長の頁。

自分の名前が、上から七番目にあった。

「広瀬 航」。

日付ごとの升目に、小さな「出」の字が、ずらりと並んでいた。

その升目の右下の隅に、鉛筆で、ごく小さな点が打たれた日がいくつもあった。

最初は、紙の染みかと思った。

指でなぞると、鉛筆の硬い筋が、紙をわずかに凹ませていた。

点のある日付を、目で追った。

五月十四日。

雨の降っていた夜だ。自転車置き場で、傘を持つ手が震えていた。

六月二日、六月九日。

全部、覚えのある日だった。

全部、非常口の前に立っていた夜だった。

一年次に十一。二年次に九。三年次に七。四年次に四。

合わせて、三十一。

俺が廊下に立った夜の数と、ぴったり同じだった。

手袋の指が、紙の上で止まった。

息が、うまく吸えなかった。

先生は、知っていたのだ。

俺が廊下にいたことを。

その夜を、欠席ではなく出席として、出席簿に残していたことを。

点は、先生だけが読める印だったのだろう。

「出席簿には、ありませんね」と先生は言った。あれは、嘘ではなかった。

三センチのドアは、廊下に立つ俺のために開けてあったのだ。

右の端から書いたのは、廊下の小窓から見える場所だったからだ。

運動になるから、と先生は笑って言った。

あの笑いは、教室の誰にも本当のことを悟らせないための、嘘だった。

二年の冬の、あのパイプ椅子も、そうだったのだろう。

頁の上に、水滴がひとつ落ちた。

俺は慌てて、手袋の甲で拭った。

出席簿の中の俺は、四年間、一日も休んでいなかった。

ホワイトボードの右端

翌日の午後、俺は市民病院の四階へ行った。

廊下の突き当たりの病室のドアが、三センチ開いていた。

ベッドの上で、先生は上体を起こしていた。

痩せていた。白髪は、前より少なくなっていた。

喉に、白いガーゼが当ててあった。

窓の外の欅から、葉が一枚、ゆっくり落ちた。

膝の上に、小さなホワイトボードが載っていた。

「先生。広瀬です」

先生の目が、細くなった。

眠そうな目は、十五年前のままだった。

俺は、出席簿を見たと言った。

点の数を、数えたと言った。

先生はペンを持ち、ボードの右の端から、ゆっくり書いた。

『次は、中で聞きなさい』

俺は、手の甲を握りしめた。

昔、鉛筆で式を写した場所だ。

今は何も書かれていないのに、ざらりとした鉛筆の感触が、皮膚に残っている気がした。

「先生。俺は一度も、あの席に座れませんでした」

先生はペンを走らせた。

『ずっと、座っていましたよ』

俺は、はい、と答えた。

声が、思ったより小さく出た。

先生は、うなずいた。

その手首は細く、血管が透けて見えた。

握れば、折れてしまいそうだった。

だから代わりに、ベッドの柵を強く握った。

帰りぎわ、廊下から振り返ると、先生がこちらを見て、指を一本立てていた。

一本分の幅だった。

俺は病室のドアを、三センチだけ開けたまま出た。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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