ガイドブックの赤鉛筆の線

母の遺品から出てきた東京のガイドブックには、赤鉛筆の線が引いてあった。

浅草。

皇居。

そして、私が東京でよく行っていた焼肉屋の名前にも。

母は一度も東京へ来たことがない。

来ないかと誘うたびに、人ごみは苦手やから、と断っていた。

その母が、行ったこともない町の地図に、十二年かけて線を引いていた。

私がその意味を取り違えていたことに気づいたのは、葬式が済んで一月も経ってからだ。

実家は、富山の八尾という、坂の多い町にある。

浅草

石畳の通りの両側に、格子の家が並んでいる。

九月の風の盆には、よその人でいっぱいになる町だ。

母はその三日間、家の二階から下を見ていた。

「よう来られるねえ、あんなに」

そう言いながら、決して下へは降りなかった。

踊りの列が家の前を通るときだけ、母は障子を少し開けた。

胡弓の音が坂を上ってくる。

その音が遠ざかるまで、母は障子の隙間から動かなかった。

翌朝、通りを掃くのは母の役目だった。

よその人が落としていった紙くずを、黙って集めていた。

「来てもろたら、片付けるのは当たり前やろ」

そういう人だった。

町を出た私が言えた義理ではないが、八尾は狭い町だ。

誰かに何かを頼めば、次の日には通り中が知っている。

母は、その中で三十年以上暮らしてきた。

人ごみが苦手だという言葉の重さを、私は測り損ねていた。

人ごみが苦手だというのは、本当のことだったと思う。

私が東京へ単身赴任したのは、三十四のときだ。

妻と娘は、勤め先の都合で名古屋に残った。

だから私は、東京にひとりで住んでいた。

月に一度は実家に電話をかけた。

父が出ることもあったが、たいていは母が出た。

話す内容は、いつも似たようなものだった。

こっちは寒い、そっちはどうだ。

そんな話を、二十分ほどする。

母は、自分の話をほとんどしない人だった。

父の話も、近所の噂も、あまりしなかった。

話すのは、野菜の値段と、天気と、私のことだけだ。

父は、電話の途中で代わることをほとんどしなかった。

「母さんが話したがっとるすけ」

そう言って、受話器を渡していたらしい。

それを聞いたのも、母がいなくなってからだ。

そのかわり、私の話は細かいところまで訊いた。

昼に何を食べたか。

どの駅で乗り換えるのか。

会社から駅まで、どれくらい歩くのか。

私は、退屈な質問だと思っていた。

電話の終わりはいつも母のほうから切った。

長電話になると電話代が気になるらしく、二十分で切り上げる。

受話器を置く前に、必ず一拍あった。

言いかけて、やめる音だと思ったことが何度かある。

そのたび私は、何、と訊かずに待った。

待っても、母は何も言わなかった。

そして、じゃあね、と言って切った。

人ごみは苦手やから

東京に来ないかと誘ったのは、数えるほどだ。

最初は、赴任して二年目の春だった。

「桜、こっち早いよ。見に来んけ」

「人ごみは苦手やから」

その一言で、話は終わった。

次は、娘が小学校に上がった年の連休だった。

「せっかくやし、東京駅まで迎えに行くし」

「駅の中で迷子になるわ」

母は笑って、そう言った。

私も笑って、それ以上は押さなかった。

三度目は、父が定年になった年だ。

「二人で来ればいいが。旅行がてら」

「お父さんが、電車嫌いやしね」

後ろで父が、そんなことないぞ、と言うのが聞こえた。

母は受話器を手で押さえて、何か言っていた。

そのあと、話題は野菜の値段に変わった。

断られるたびに、私は少しほっとしていたと思う。

呼べば、こちらが案内をしなければならない。

平日は仕事があるし、休日は洗濯と買い物で終わる。

四畳半に机ひとつのような部屋に、親を泊めるわけにもいかない。

だから、断ってくれると、話が早かったのだ。

そう思っていた自分のことを、今でもうまく許せない。

母は、そのたびに一度は理由を言った。

人ごみ。

迷子。

父が電車嫌い。

理由が毎回違っていたことに、私は気づかなかった。

四度目はなかった。

誘わなくなったのは、断られ慣れたからだ。

その頃には、私のほうも生活に追われていた。

会社では中間管理職の仕事が増えていた。

名古屋の家に帰るのも、二月に一度が精いっぱいだった。

電話の回数は減らなかったが、内容は短くなった。

それでも母は、私が何を食べたかを必ず訊いた。

訊かれるままに、私は答えた。

きのうは駅の立ち食いそば。

おとといは会社の近くの定食屋。

そんな話に、何の意味があるのかと思っていた。

三月の朝の電話

母が倒れたのは、三月の朝だった。

台所で洗い物をしている途中だったという。

父が気づいたときには、もう声をかけても返事がなかった。

脳梗塞だった。

病院に運ばれて、その日の夕方に亡くなった。

私が新幹線で駆けつけたときには、すべてが終わっていた。

廊下の椅子に、父が一人で座っていた。

「間に合わんかったな」

父は、そう言っただけだった。

通夜も葬式も、あっという間に過ぎた。

町内の人が次々に来て、父の代わりに私が頭を下げ続けた。

焼香の列が途切れたとき、近所の女性が私の手を握った。

「お母さん、あんたの話ばっかりしとったよ」

私は、ありがとうございます、としか言えなかった。

その人は、母と同じ班で町内の掃除をしていた人だった。

「東京の話、よう聞かされたわ」

「東京の、ですか」

「うん。あんたの会社の近くに坂があるとか、そういう話」

私は、その坂のことを一度だけ電話で話した覚えがあった。

何年前のことかも思い出せないような、どうでもいい話だ。

それを、母は近所で繰り返していたらしい。

四十九日までは、月に二度、名古屋から実家へ通った。

父は、母の物に触ろうとしなかった。

「お前が見てくれ」

そう言って、居間のこたつから動かない。

私は、押し入れから順番に片付けていった。

着物。

アルバム。

父の背広。

使っていない座布団が、十枚も出てきた。

客の少ない家で、誰のために取ってあったのか分からない。

布団も、来客用が二組、押し入れの奥にしまってあった。

干した跡があり、カバーは洗濯して畳んであった。

そのカバーの内側に、小さく名前が縫いつけてあった。

私の名前と、妻の名前だった。

二組とも、一度も使われていない。

母の寝室の、鏡台の下の引き出しだけが、鍵のかかる作りだった。

鍵は、鏡台の裏に、テープで留めてあった。

そのテープは、何度も貼り直した跡があった。

つまり母は、この引き出しを繰り返し開けていたことになる。

引き出しは、思ったより深かった。

中に入っていたのは、数えるほどのものだけだ。

父と写った若い頃の写真が一枚。

私の小学校の名札。

それと、一冊の本。

手に取ると、ページのあいだに何かが挟まっている感触があった。

私はそれを、あとで見ることにして、いったん引き出しの上に置いた。

その日は、雪囲いを外す作業が残っていたからだ。

夕方まで外にいて、居間に戻ってから、ようやく開いた。

浅草に引かれた赤鉛筆の線

引き出しの中に、一冊の本が入っていた。

東京のガイドブックだった。

表紙は日に焼けて、背は白く割れていた。

開くと、糊の匂いがした。

何度も開いた本の、独特の匂いだ。

ページをめくって、私は手を止めた。

赤鉛筆の線が、あちこちに引いてあった。

浅草寺の項に、二重の線。

皇居の外苑に、ページの端まで届く長い線。

上野の動物園にも、線があった。

そして、巻末の飲食店の一覧。

そこに、私が東京でよく行っていた焼肉屋の名前があった。

店名の下に、赤鉛筆の線が引いてある。

さらに、その横の余白に、私の名前が書いてあった。

母の字だった。

ほかにも、名前の書かれた場所がいくつもあった。

神保町の古本屋の通り。

豊洲の市場。

羽田空港の展望デッキ。

どれも、私の名前が添えられていた。

私は、居間へ本を持っていった。

父は、老眼鏡をかけ直してから受け取った。

こたつの天板に本を置き、両手で押さえるようにして開く。

ページをめくる音だけが、しばらく続いた。

外は、まだ雪が残っていた。

軒からの雫が、一定の間隔で縁側に落ちていた。

父は、こたつの上でそれを開いて、しばらく黙っていた。

それから、指で線をなぞった。

「行きたかったんやと」

父の声は、いつもより低かった。

「行きたかったんやけど、嫁さんのほうがええやろって、我慢しとった」

「そんなん、言うてくれれば」

「お前が誘ってくれるのを、待っとったんや」

私は、その場に座り込んだ。

三度も誘ったのに、と言いかけて、口をつぐんだ。

誘い方が悪かったのだと、そのときようやく分かった。

私は、来ないかとしか言っていない。

日にちを決めて、切符を送ったことは一度もない。

迎えに行くと言ったのも、口の上だけだ。

母は、こちらが本気で段取りを組むのを待っていた。

断り文句は、そのための余地を残す言い方だった。

人ごみが苦手やから。

そう言われて引き下がるかどうかを、たぶん見られていた。

私は、毎回引き下がった。

一度だけ、母のほうから日にちを口にしたことがある。

十一月の終わりの電話だった。

「十二月の頭なら、店も落ち着くんやけどね」

私は、その意味をその場で取り違えた。

「忙しいんやったら、無理せんでいいよ」

そう答えて、話を年末の予定に移した。

母は、そうやね、とだけ言った。

あの電話を、私は何度も思い返す。

母が自分から日にちを言ったのは、あのときが最初で最後だった。

連れて行く、と一度も言っていなかった。

十二年前の版

その晩、私は本の奥付を見た。

発行は、十二年前の春だった。

私が東京へ単身赴任した、その年である。

母は、私が東京へ行った年に、この本を買っていた。

近所に書店はない。

町なかの文具店に頼んで、取り寄せたのだと思う。

ページの端が、場所によって擦り切れ方が違っていた。

浅草の項がいちばん傷んでいる。

次が、巻末の飲食店の一覧だ。

地図のページには、細かい折り目がついていた。

折り目は、路線図のところに集中している。

私の勤め先の最寄り駅のあたりが、いちばん黒ずんでいた。

指で何度もなぞった跡だ。

会社から駅まで何分歩くのかを、母は毎回訊いていた。

その距離を、母は地図の上で歩いていたのだと思う。

私は、本を裏返して振ってみた。

間から、メモ用紙が一枚落ちた。

スーパーの広告の裏を切ったものだ。

そこに、日付と、短い言葉が並んでいた。

四月十二日、あさくさの店でどぜう。

六月三日、かいしゃのちかくの坂。

九月十日、はねだのてんぼうだい。

どれも、私が電話で話したことだった。

話した覚えのないものは、ひとつもなかった。

私は、メモの日付を、頭の中で数えた。

月に一度の電話の日付と、きれいに重なっていた。

母は、電話を切ったあと、この紙に書いていたのだ。

書く場所は、たぶん台所だった。

スーパーの広告は、いつも冷蔵庫の横に重ねてあった。

父に見られないように書いていたのかどうかは、分からない。

訊いても、父は首を振るだけだった。

「知らんかったな」

「見せてもらったことも、ないですか」

「ないな。一度も」

父は、そう言ってから、しばらく天井を見ていた。

こたつの上のガイドブックは、開いたままになっていた。

浅草のページだった。

私はそれを閉じて、鏡台の引き出しに戻しに行った。

鍵はかけなかった。

それから、湯呑みの茶を飲み干して、こう付け足した。

「あの人は、貸しを作らん人やったからな」

「貸し、ですか」

「頼むと、こっちに借りができる。そう思っとったんやろ」

父の言い方は、責めているようにも、庇っているようにも聞こえた。

たぶん、その両方だったのだと思う。

そして、本を開いて、その場所を探した。

見つけたところに、赤鉛筆で線を引いた。

天気欄の東京

父にメモを見せると、父は老眼鏡を外して目を押さえた。

そして、思い出したように言った。

「母さん、毎朝、新聞の天気のとこ見とったわ」

「天気?」

「東京んとこだけ、指で押さえてな」

私は、母が電話を切るときの口癖を思い出した。

母は電話を切るとき、いつも同じことを訊いた。

「そっちは、まだ暑いんか」

私はいつも、暑い、とか、寒い、とだけ答えていた。

天気の話は、話題がなくなったときのものだと思っていた。

違った。

母は毎朝、新聞の天気欄の東京のところを、指で押さえていた。

それを一年、二年と続けて、十二年になっていた。

私が東京で寒い思いをしていないか、それだけを確かめていたのだ。

四十九日が過ぎて、私は名古屋の家に戻った。

ガイドブックは、持ち帰って本棚に立てた。

娘が、表紙を見て言った。

「おばあちゃん、東京行きたかったの?」

私は、少し考えてから答えた。

「東京じゃなくて、お父さんのとこ」

娘は、よく分からないという顔をした。

それでいいと思った。

娘は、その日のうちにガイドブックを引っ張り出して眺めていた。

そして、線の引いてあるページを数えていた。

「三十四個ある」

十二年で三十四個。

月に一度の電話のうち、線を引けた回数がそれだけだったということだ。

残りの電話では、場所の話が出なかったのだろう。

娘はそのあと、白い紙に東京の地図を写しはじめた。

「おばあちゃんの分、書いといたげる」

そう言って、赤い色鉛筆で線を引いた。

線の場所は、まったくでたらめだった。

それでも私は、その紙を本に挟んだ。

そう思うと、自分の話の内容までが悔やまれた。

秋になって、私は一度だけ、父を東京に連れて行った。

切符は、私が買って送った。

東京駅の中央改札で待ち合わせ、そこから地下鉄に乗った。

父は、券売機の前で三分近く立ち止まった。

「どれ買えばええんや」

「これでいい。あとは払うし」

改札を通るときも、父はカードを裏返しに当てて止められた。

そういうことの一つひとつが、思ったより時間を食った。

銀座線のホームで、父は人の少ない車両を探して端まで歩いた。

座席に座ると、膝の上で手を組んだまま前を見ていた。

「母さん、これ乗れたと思うか」

私は答えられなかった。

父も、答えを待ってはいなかったと思う。

浅草の仲見世を、二人でゆっくり歩いた。

父は人を避けるのが下手で、何度も肩をぶつけていた。

「母さん、確かにこれは駄目やったな」

そう言って、父は笑った。

私は笑えなかった。

仲見世の突き当たりで、父は一度足を止めた。

そして、本堂のほうを見上げた。

「母さんは、どこに線引いとったかな」

「二重線でした。ここだけ二本」

父は、うん、とだけ言った。

私たちはそこで写真を一枚撮って、すぐに人の流れに押し出された。

帰りの新幹線で、父は窓のほうを向いたまま眠った。

米原を過ぎたあたりで目を覚まし、ぽつりと言った。

「連れてきてくれて、ありがとうな」

礼を言われる筋合いではなかった。

十二年遅れの、代わりの旅行である。

それでも私は、うん、とだけ答えた。

母はきっと、この人ごみの中でも平気だったと思う。

隣に私がいれば、の話だが。

赤鉛筆の線が引かれていたのは、私が電話で話した場所ばかりだった。

行きたい場所に線を引いていたのではない。

息子が歩いた場所に、線を引いていた。

同じように、言葉にされなかった思いの話として、

親の心を知る時を、私は年に一度読み返す。

転校生の父が歌い出した日も、同じ棚に並べてある。

ガイドブックには、今も私が線を足している。

母が書けなかった場所を、私が歩いて、赤鉛筆で引く。

十二年分には、まだ遠く及ばない。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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