たった一つの記憶
私の夫は、結婚する前に脳の病気で倒れてしまい、死の淵を彷徨いました。
私がそれを知ったのは、倒れてから5日も経ってからでした。
夫の家族が病院に駆け付け、携帯電話を見て私の存在に気が付き、連絡をくれたのです。
脳の病気という事で、記憶障害が出ると言われました。
お見舞いに行ったのは良いのですが、私の事を覚えているのか、それさえも分かりませんでした。
病院でご家族や医療関係者と会い、彼の病状が深刻であるという説明を再度受けました。
記憶も家族とかそのくらいは分かるけれど、当時30代だったのに自分は10代だと思い込んでいたりするとの事でした。
新しい記憶ほど抜け落ちていると言われ、私の事は分からないかもしれないと、覚悟を決めて病室に入りました。
すると、彼は私を一目見て、私の名前を呼んだのです。
お医者様が
「この人の事が分かりますか?」
と尋ねても、夫はそれに返事をする事すらできなかったのに、私の名前は覚えていてくれたのです。
思わず涙が溢れました。
「何で? 何で覚えていてくれたの?」
と彼に問い質したかったし、神様に、
「たった一つだけ記憶を残してくれてありがとうございます」
と、思わずわあわあ泣き叫びたいような、そんな気持ちで一杯になりました。
忘れられてしまう恐怖は、とても大きかったのです。
※
夫はその後、脳に水が溜まった事が原因で半年間も意識不明になりましたが、半年後に再び目を覚ました時、やっぱり私の事を覚えていてくれました。
今でも、私達がどういう出会いをしたのか、一緒に出掛けた思い出などは何一つ思い出せません。
他にも色々な事を忘れてしまい、そんな中でよく私の存在だけ覚えていてくれたと思いました。
私とどこで出会ったか、どういう風に過ごしていたかなどは全く答えられない夫に
「どうして私の名前だけは覚えていたのかな」
と尋ねると、夫は
「他は何にも覚えていないけれど、好きな人だから覚えていた」
と笑ったのです。
それを聞いて、私は夫と結婚する事を決めました。
※
夫の症状は重く、今でも記憶ができません。
10分前に食べたものも忘れてしまいます。
多分、一生介護が必要でしょう。
だけど、全て忘れてしまった中で、私の事だけは忘れないでいてくれた。
そんな愛情をくれた夫を、私は一生愛して行きたいと思います。
介護は大変ですが、今でもすぐ忘れてしまう夫は、私を日々の生活の中でよく探しています。
部屋の中で見当たらないと、声を出して私を呼んだりします。
私が姿を現すと、
「あー安心したー」
と子供のように言います。
今、私と夫の間にあるのは、本当に愛情だけです。
お金や宝石や素敵なデートもない…。
けれど、この人からこれほど素晴らしい愛情をもらえるのを、私はとても誇りに思います。
大きな障害を持った夫と結婚した私を『同情だ』『後で後悔する』と言う人もいました。
お金もとってもかかります。
でも、結婚して数年経ちますが、私は今でも毎日が満たされた気持ちで一杯になります。
いつか、本当にどちらかがこの世から居なくなる日まで、ずっと二人で寄り添って生きて行きたいです。