兄が彫り続けた歩

兄の彫った歩は、駒袋に落とすと、ほかの駒より鈍い音がした。

子供の頃から、それが不思議でならなかった。

同じ黄楊を、同じ厚さに挽いて、同じ字母紙を貼って彫るのだ。

音が変わるはずがない。

それなのに兄の歩だけは、袋の底で、こつん、ではなく、ごつん、と鳴った。

私はそれを、兄の手が不器用だからだと思っていた。

三十年、そう思っていた。

実家は、山形の天童で駒を彫っている。

父の代で三代目、私で四代目になる。

表に出ることのない仕事だ。

盤の上で名を呼ばれるのは駒の書体であって、彫った者の名ではない。

それでも父は、朝の六時に工房の戸を開け、昼の三時に鑿を置いた。

その間に、兄の彫る音がずっと混ざっていた。

兄の名は実という。

生まれたときに、脳に傷を負ったのだと聞かされている。

言葉は最後まで、単語をいくつか繋ぐところまでしか届かなかった。

けれど、手だけは別だった。

兄は五つのときに父の鑿を握り、それからずっと、歩ばかりを彫っていた。

駒は、彫るまでに手間がかかる。

黄楊の板を寝かせて乾かし、木目を見て、盤に映えるほうを表に取る。

字母紙という薄い紙に書かれた字を貼り、その輪郭を印刀でさらう。

輪郭を落としたら、内側をさらって、漆を埋める。

一組四十枚。

歩だけで、そのうち十八枚を占める。

だから駒師の家では、歩は「数の駒」と呼ばれる。

数を揃えるための駒、という意味だ。

一番数が多くて、一番目立たない。

兄がそれを彫っているのは、一番易しいからだと、私も、町の人も、たぶん父以外の全員がそう思っていた。

天童は、冬になると駒の音がよく通る町だ。

雪が音を吸うのだと父は言っていたが、私はいまだにその理屈が分からない。

分からないまま、四十年、その音の中にいる。

私が兄を、はっきりと恥じたことがある。

小学校の二年だったと思う。

参観日の帰り、同級生が私に耳打ちをした。

「お前んちの兄ちゃん、なんでいつも同じとこ歩いてんの」

兄は、決まった道しか歩けなかった。

角を曲がる位置まで決まっていて、雪の日でも、そこだけ律儀に踏み跡が残った。

私は、その踏み跡が恥ずかしかった。

家に帰って、玄関で長靴を脱ぎながら、私は言った。

「兄ちゃんなんて、ばかじゃないか」

台所にいた母は、鍋を火から下ろす手を止めなかった。

叱られると思っていた私は、拍子抜けして、それからひどく心細くなった。

母は振り返らずに、こう言っただけだった。

「あゆむ、ご飯だず」

その晩、母は父にも何も言わなかったらしい。

後になって、母はこう話した。

「あんたが自分で気づくまで、待つことにしたんだず。人から言われて気づいたことは、身につかんもの」

母は、五年待った。

恥ずかしいと思ったことは、一度きりではない。

中学に上がった年の秋、兄が私の学校の前を通るのを見た。

兄は決まった道しか歩けない。

その決まった道が、たまたま私の通学路と重なっていたのだと、そのときは思った。

友達が三人いた。

私は、兄に気づかないふりをして、そのまま校門を入った。

兄はいつもの速さで、いつもの角で曲がって、帰っていった。

夕方、家に帰ると、兄は工房にいた。

私は工房の入り口で靴を脱ぎながら、聞こえるように舌打ちをした。

兄は顔を上げなかった。

父が、鑿を置いた。

父が仕事の途中で手を止めるのを、私はそれまで見たことがなかった。

「あゆむ」

「はい」

「実は、なして毎日あの道ば通ると思う」

私は答えられなかった。

父は、それ以上何も言わずに、また鑿を握った。

その日から二十八年、私はその問いを一度も思い出さなかった。

思い出したのは、去年の五月だ。

兄が小学校の一年に上がった年、母は誕生日に兄の同級生を家に呼んだ。

兄は、招くという意味も、招かれるという意味も、たぶん分かっていなかった。

座敷に子供が七人並んで、母が切り分けたカステラを配った。

最初の十分は、それでうまくいっていた。

崩れたのは、誰かが兄の皿を先に取ったときだった。

兄は立ち上がって、その子の肩を殴った。

声も出さずに、二度、三度と殴った。

座敷が静まり返った。

私はまだ四つで、何が起きているのか分からないまま、ただ兄の背中を見ていた。

そのとき、私は兄と殴られた子のあいだに入ったのだそうだ。

自分ではまったく覚えていない。

母が何度も語ったので、他人の話として覚えている。

私は兄の前に立って、こう言ったらしい。

「にいちゃん、なぐるならぼくをなぐって。ぼくならいたくないから」

兄は手を止めた。

そして、私の頭に、掌を置いた。

母は台所へ引っ込んで、しばらく戻ってこなかった。

戻ってきたときには、カステラをもう一本、切り分けていた。

私が小学校に上がった年、隣の席になったのは健二という子だった。

右の手が、生まれつき肘から先がなかった。

体育のある日は、体操着に着替えるのに時間がかかる。

最初の週、健二はいつも遅れて校庭に出てきた。

二週目から、遅れなくなった。

先生は不思議に思って、ある日、教室をそっと覗いたのだそうだ。

そこで、私が健二の袖に腕を通させているのを見た。

先生はそれをみんなに話そうとして、やめた。

「あれは、あの子が自分で決めてやっていることだから、大人が横から名前をつけるもんでない」

後にそう聞いた。

七夕の前の日、参観日があった。

先生が、子供たちの短冊を一枚ずつ読み上げていった。

ゲームが欲しい、犬を飼いたい、背が伸びますように。

そのあいだに、私の短冊があった。

「かみさま けんちゃんのうでが はやくはえてきますように」

先生は、そこで一度、言葉を切った。

それから、着替えのことを、みんなの前で話した。

教室の後ろで、母親たちが顔を見合わせた。

廊下の隅に、健二の母親が立っていた。

自分の子が迷惑をかけているのではないかと、いつも教室に入らず、廊下の隅で参観していた人だった。

その人が、引き戸を開けて入ってきた。

そして私の机の横に膝をついて、床に手をついた。

「ありがとうね。ありがとうね。ありがとうね」

同じ言葉を、何度も繰り返した。

私は、どうしていいか分からずに、机の縁を握っていた。

そのとき、教室の一番後ろのドアのところに、母が立っていた。

母は、健二の母親ではなく、私のほうを見ていなかった。

天井のあたりを見て、口を固く結んでいた。

健二とは、中学で別々になった。

それきりだと思っていたら、三十を過ぎたころ、年賀状が来るようになった。

差出人の欄に、義肢装具士、と刷ってあった。

去年、父の葬式に来てくれた。

香典を出す手つきが、私よりよほど器用だった。

「あゆむくん、俺、袖に腕通すの、いまだにあのときのやり方だよ」

「左からだろ」

「そう。左から」

それだけ言って、健二は笑った。

私も笑った。

笑ってから、少し泣きそうになったので、外へ出て煙草を吸うふりをした。

私は煙草を吸わない。

父が倒れたのは、去年の二月だ。

朝、工房の戸を開けたところで、そのまま膝をついた。

救急車を呼んだのは兄だった。

言葉は出なくても、番号は指が覚えていた。

父は三日だけ持って、四日目の明け方に息を引き取った。

七十九だった。

葬式が済んで、四十九日も済んで、工房の片づけを始めたのが五月の連休だ。

黄楊の板が、乾燥のために積んである。

一番古いものには、私が生まれる前の年の墨書きがあった。

その棚の下に、桐の箱が三つ並んでいた。

中は、全部、歩だった。

数えたら、三千枚を超えた。

兄が彫った歩だ。

売り物にならない駒を、父はずっと捨てずに取っておいたことになる。

私はそのとき、正直に言えば、腹が立った。

仕事にならないものを三十年も彫らせて、それを捨てもせずに溜めていた父の考えが、分からなかった。

夕方、母に、その箱のことを言った。

母は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。

それから、押し入れから父の帳面を出してきた。

仕事の帳面だ。

何を何枚仕上げて、いくらで納めたか、それだけが書いてある。

母は、途中のページを開いて、私の前に置いた。

昭和五十一年八月十四日。

私の誕生日だ。

そこには、注文も、納品も、何も書かれていなかった。

帳面の八月十四日には、実、歩を彫りはじむ、とだけ書いてあった。

帳面を、前後にめくった。

八月十三日には、書体名と枚数が几帳面に書いてある。

八月十五日にも、同じように書いてある。

その一日だけが、仕事の記録ではなかった。

父は、三十年分の帳面を、同じ書き方で通した人だ。

納品先の名前も、値段も、一度も略さなかった。

その人が、たった一日だけ、仕事と関係のないことを書いた。

私は、その一行を、しばらく読めなかった。

文字は読めるのだ。

意味のほうが、入ってこなかった。

母が言った。

「病院から帰ってきた日だず。あんたを抱いて、実に見せたの」

「そしたらあの子、そのまま工房さ行って、父さんの鑿ば握ったんだ」

兄は五つだった。

父は、初めて彫らせる駒に歩を選んだのではなかった。

兄が、自分で歩を選んだのだ。

「父さんはね、実には歩しか彫らせん、って言ったことは一度もない」

「あの子が、歩しか彫らんかったんだず」

私は、桐の箱をもう一度開けた。

三千枚の歩を、掌に何枚もすくって、裏を返した。

歩の裏は、と、と読む字が入る。

成ったときの字だ。

盤の上で敵陣に入れば、歩は成って、金と同じ働きをする。

将棋を知らない人には、ただの裏面にしか見えない。

私は、その裏の字を、指の腹でなぞった。

なぞって、指が止まった。

表の歩の字より、裏のとの字のほうが、彫りが深い。

一枚だけではない。

三枚めくっても、十枚めくっても、同じだった。

兄が三十年彫り続けた歩は、一枚残らず、裏の字のほうが深かった。

駒師は、裏の字を深く彫らない。

盤の上で裏返る駒は、指で弾かれ、爪に当たり、いちばん傷む。

深く彫れば、その分だけ木が薄くなって、欠けやすくなる。

だから普通は、表より浅く仕上げる。

兄は、その逆をやっていた。

三十年、一枚も違えずに、逆をやっていた。

駒袋の底で鈍い音がした理由が、そこにあった。

彫りが深ければ、木は軽くなる。

軽くなった駒は、落ちたときに乾いた音を立てない。

私が三十年、兄の不器用さだと思っていた音は、兄が裏側を深く彫った分の音だった。

母が言った。

「あの子、字は読めんかったけどね」

「と、っていう字だけは、書けたんだず」

それから、母は湯呑みを置いて、こう続けた。

「あゆむ、って名前は、父さんがつけたんだよ」

「実が生まれたとき、父さんは、この子は一生、成らんかもしれん、って言ったの」

「だから次の子には、歩む、ってつけたんだって」

私は、自分の名前の由来を、四十を過ぎて初めて聞いた。

父は、名前の話を一度もしなかった。

照れくさかったのだと母は言うが、私はそうは思わない。

言ってしまえば、兄に聞こえるからだ。

成らんかもしれん、という言葉が、兄の耳に入るからだ。

父はたぶん、それだけの理由で、二十年以上黙っていた。

兄がそれを知っていたはずはない。

知っていたはずはないのに、兄は私が生まれた日に、歩を彫りはじめた。

そして、成ったときの字だけを、深く彫り続けた。

母が一度だけ、兄に将棋を教えようとしたことがあるらしい。

盤を出して、駒を並べて、歩の動かし方から始めた。

兄は、盤を見なかった。

駒を一枚ずつ手に取って、裏を返して、並べ直した。

四十枚全部、裏を上にして並べたのだそうだ。

母は、それを片づけながら泣いたと言った。

「あの子は、駒ば動かす気がないんだって、あのとき思ったの」

今なら分かる。

兄は、裏の側から盤を見ていた。

まだ成っていないものが、いつか成る側から。

兄の左の手の甲には、五百円玉ほどの古い傷がある。

物心ついたときからあったので、私はそれを、生まれつきのものだと思っていた。

その晩、母に聞いた。

母は、また少し黙ってから言った。

「あんたが三つのとき、ストーブの上のやかんさ手ば伸ばしたんだ」

「実が、先に握ったの」

「あの子、熱いって言葉、知らんかったから」

私はそのとき、初めて、あの参観日の日に母が天井を見ていた理由が分かった気がした。

私は、自分が兄をかばったのだと思って生きてきた。

なぐるならぼくをなぐって、と言った四つの自分を、どこかで誇りに思っていた。

順番が、逆だったのだ。

私は、先にかばわれていた。

自分が受け取ったものを、意味も分からないまま、健二に渡していただけだった。

七夕の短冊も、体操着の袖も、私が思いついたことではなかった。

兄の左手が、私に教えていた。

そして、父の問いの答えも、そのとき分かった。

実は、なして毎日あの道ば通ると思う。

兄が決まった道しか歩けないのは本当だ。

けれど、その道を決めたのは兄自身だ。

母に確かめた。

「あんたが小学校さ上がった春に、道ば変えたの」

「それまでは川のほうさ行ってたんだず」

兄は、私が学校にいる時間に、私の学校の前を通っていた。

毎日、同じ時刻に、同じ速さで。

何をするわけでもない。

中を覗くわけでもない。

ただ、門の前を通って、角を曲がって帰るだけだ。

それを二十八年、続けていた。

私が舌打ちをした日も、兄は次の日も、その道を通った。

四十九日のあと、私は駒の注文を三月ぶんほど断った。

手が動かなかったわけではない。

彫るたびに、裏を返してしまうのだ。

自分の彫った歩の裏を見て、浅い、と思ってしまう。

六月の終わりに、東京の店の人がわざわざ天童まで来た。

工房で兄が彫っているのを、長いこと黙って見ていた。

帰りぎわに、その人が言った。

「お兄さんの歩、一組ぶんだけ、うちで売らせてもらえませんか」

私は断った。

売るためのものではない、と言うと、その人は素直に頷いた。

それから、こう付け足した。

「じゃあ、いつか気が変わったら教えてください。三十年待ちますから」

冗談の言い方が上手な人だった。

私は、その日から少しだけ、また彫れるようになった。

今、工房には二人いる。

兄は相変わらず朝の六時に戸を開ける。

父が置いていった時計は、もう合わせなくても兄が合っている。

私は注文の駒を彫り、兄は歩を彫る。

売り物にはならない。

それでいい。

父が三十年、桐の箱に溜めておいたのだから、私が捨てる理由がない。

先月、初めて、兄に一枚もらった。

自分の駒袋に入れて、盤の脇に置いている。

昨日、天童の駒を扱ってくれている東京の店から、電話があった。

新しい書体で一組、という話だった。

私は電話を切ってから、兄の背中を見た。

背中は、私が四つのときに見た背中と、同じ角度で丸まっていた。

「にいちゃん」

呼ぶと、兄は手を止めずに、少しだけ首を傾けた。

それが、兄の返事だ。

「にいちゃんの歩、使ってもいいか」

兄は、こちらを見なかった。

ただ、彫りかけの一枚を、私のほうへ、指で滑らせて寄越した。

私はそれを受け取って、裏を返した。

と、の字が、深かった。

今朝、私が彫った歩を、駒袋に落としてみた。

こつん、と鳴った。

乾いた、軽い音だった。

私はまだ、裏を深く彫れない。

兄が、隣で笑ったような気がした。

たぶん、笑っていない。

兄は、笑い方も、うまくない。

それでも私は、あの音の差が埋まるまで、この仕事を続けようと思っている。

兄が三千枚彫るのに三十年かかった。

私には、たぶんもっとかかる。

父の帳面は、まだ工房の棚に置いてある。

新しい頁に、私も一行だけ書いた。

日付と、それから、実、今日も歩を彫る、と。

仕事の記録ではない。

けれど、うちの帳面には、そういう行が一行だけあってもいいのだと、去年の五月に教わった。

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