
インドの砂漠地帯で、私は傭兵としてパキスタン軍と対峙していた。
敵味方の区別もつかぬほどの荒涼とした景色の中、銃声が飛び交い、朝も昼もなく砲弾が夜空を裂いていた。
そんな中、遠くから誰かが歌う声が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが、明らかに味方ではない声音に、私は反射的に銃をそちらに向けた。
その瞬間、背後から上官の拳が飛んできて、私は地面に叩きつけられた。
何が起きたのか理解できぬまま見渡すと、奇妙な静寂が広がっていた。
パキスタン側も、我々側も、一発の銃弾も発射しないまま息を潜めている。
砂ぼこりの向こうに現れたのは、一列に歩を進める数人の老人たちだった。
白髪混じりの彼らは、手には小さな日の丸の旗を掲げ、静かに歌い続けていた。
やがて老人たちは視界から消えたが、その背を見送るまで、誰も引き金を引かなかった。
※
二日間、砂漠に戦闘の音は戻らなかった。
停戦命令は出ていない。にもかかわらず、誰も再び銃を構えなかった。
不安と戸惑いを胸に、私は上官に尋ねに行った。
「なぜ、戦いは止まったのですか?」
上官は静かに答えた。
「歌っていたのは、日本の軍歌だった。旗は日の丸だったそうだ」
その言葉を聞いたとたん、私は膝から崩れ落ちた。
戦場の砂に頬を打たれながら、嗚咽と共に涙があふれた。
第二次世界大戦で散った戦友を弔うために、この地まで来てくれた日本人がいる。
信じられないほどの敬意に、胸が締めつけられた。
※
後に知ったことだが、パキスタン軍の兵士たちもまた、彼らが元・インド独立のため英国軍と戦った日本人兵士の遺志を思い、銃を置いたという。
敵味方の枠を超え、「命と命をつなぐ歌声」が、短い奇跡を生んだのだ。
※
半年後、私は傭兵を辞め、日本に留学する道を選んだ。
異国の地で身につけた銃より、学問と友情を選んだのだ。
日本語を学び、文字を覚え、いつか再び日の丸を心から理解したいと願った。
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数年後、桜舞う日本の春。
夜桜を見ながら飲む一杯の酒に、ふと一枚の桜の花びらがコップに落ちた。
透明な酒の中で、淡いピンクが揺れる。
その美しさに、また泣いた。
戦場で歌った老人たちの顔が浮かび、私の胸は熱く震えた。
日本人であることの幸福を、私はかけがえのない思いでかみしめたのだった。