愛しき娘へ残す手紙

公開日: 悲しい話 | 戦時中の話

戦闘機

素子、
素子は私の顔をよく見て、にこにこと笑ひましたよ。

私の腕の中で安心したやうに眠りもしたし、また一緒にお風呂にも入りました。

お前が大きくなって、私のことが知りとうなった時は、お前のお母様である住代伯母様に、どうか私のことをようお聞きなさい。

私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。きっと伯母様が見せて下さいます。

「素子」といふお名前は、私がつけました。

素直な心をもち、やさしゅうて、思ひやりの深い人に育って欲しいと願ひ、お父様が考へたのです。

私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんとなり、仕合せになられるのを見届けたうございます。

けれど、若しも私がその前に逝ってしまひ、お前が私を見知らぬまゝ育ってしまふことがあっても、どうか決して悲しんではなりません。

お前が大きくなり、父に会いたいと思ふやうになったら、どうか九段の御社へ参りなさい。

そして、心の底から深く念ずれば、必ずお父様のお顔が、お前の心の中に浮かんでまいります。

父は、お前を「幸福者」と思ひます。

なぜなら、お前は生まれながらにして、父に生き写しでありましたし、他の方々も皆、「素子ちゃんを見ると、眞久さんに会うているやうな気がする」と、よく申されておりました。

また、お前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望とされて、心からお前を大切にして下さいます。

お母様も亦、ご自分の全生涯をかけて、ただただ素子の幸福をのみ念じて、生き抜いて下さるのです。

ですから、たとへ父に万一のことがあっても、決して「親なし児」などと思うてはなりません。

父は、常にお前の身辺を護って居ります。

やさしゅうて、人に可愛がられる人になって下さい。

お前が大きくなって、父のことを想ひ始めたその時に、この便りを、どうか読んで貰ひなさい。

昭和十九年 ○月吉日
父より 植村素子へ

追伸

素子が生まれた時に、おもちゃにして遊んでおられたあの小さな人形は、父が頂戴して、自分の飛行機にお守りとして携えております。

ですから、素子はいつも、父と一緒に空を飛んでいたのですよ。

素子が知らずにいると困りますから、どうかこれを教へて差し上げます。

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