覚えたてのひらがな
淡路島・江井の線香屋の家で、五つの長女が母の車に覚えたてのひらがなを刻みました。釘だと思っていた傷の幅は、私が胸ポケットに入れていた歯の欠けた櫛と、ぴたりと同じ…
淡路島・江井の線香屋の家で、五つの長女が母の車に覚えたてのひらがなを刻みました。釘だと思っていた傷の幅は、私が胸ポケットに入れていた歯の欠けた櫛と、ぴたりと同じ…
山形・天童で将棋駒を彫る父が、三歳半の息子に初めて「とおしゃん」と呼ばれた朝の話です。妻は入院中の毎晩、おなかの子に三文字だけを教え、七年かけて二十三枚の歩兵を…
長崎・波佐見の窯場の町で、小学四年だった私は店先のブリキの消防車を盗みました。その年の誕生日、父が押入れの奥の紙袋から出したのは、まったく同じ品でした。底に並ん…
山口・下関の路線バスを二十六年運転した男性の話です。毎朝同じ便に乗る女子高生が、料金箱の前で必ず小銭を二度に分けて入れていました。その三秒が誰のために使われてい…
甲府で指輪の石留めをしています。三年前、婚約指輪を渡す前日に彼女を亡くしました。彼女が値打ちのない真鍮の輪を一年半はめ続けた理由と、工房の受付簿に毎月残されてい…
山形・庄内の羽黒門前町で絵馬の板を仕上げていた祖母は、代金の入っていない小絵馬の裏にだけ墨で点をひとつ打ち、焼かずに残していました。掛け所の四十一枚と、九つの冬…
母が入院していた小学四年の春、焼津のかつお節工場で焙乾をしていた父が、遠足の前夜に私のリュックを詰め直しました。店へ行ったのではなく三軒の家の戸を叩いていたと知…
香川・小豆島の全校八十人ほどの中学校で、一年ぶりに退院して戻ってくる同級生のために、弟が誰にも言わずに丸坊主になりました。翌朝の教室は坊主だらけ。島にたった一軒…
岡山・蒜山高原で酪農を営んでいた母は、牛舎のラジオを二十一年ものあいだ、ただの一度も消しませんでした。目を潰されて捨てられ、声を失った猫ナギ。十一年帰らなかった…
母が送ってくる青さのりの袋の口には、毎年ちがう本数の輪ゴムが巻いてありました。四万十の冬の川に一人で立ち続けた母と、大阪で働き続けてきた息子。あと何日会えるのか…
奈良・吉野で八つの山を預かる山守だった父は、山を下りるたびに道の脇の石を三つ、崩してから積み直していました。毒蛇から父を庇って噛まれた愛犬フクが、なぜ三十年もの…
四歳の姉が祖父の削った描き炭十二本を全部折った理由は、二歳の妹と交わした半分この約束でした。能登・珠洲の揚げ浜塩田を舞台に、十二本のうち一本だけに彫られていた浅…
大分・日田で下駄の台を削っていた父は、三つになる娘が掛け紙で折った空っぽの箱を、二十八年ものあいだずっと枕元に置き続けています。「キッスをいっぱい入れたの」と言…
母子家庭に育った私に野球を教えてくれたのは、四つ上の兄でした。投げる前に必ずカーブと一声かけていた本当の理由を、通夜の晩に初めて知ります。天童の駒師になった兄が…
越前の谷にあった小さな駄菓子屋。お金のない子にだけ、婆ちゃんは白い紙で菓子を包んでくれました。立ち退きを迫られたあの日、三十人の大人が黙って店の前に並びます。二…