
「出て行け」と親に言われ、家を飛び出してから6年が経った。
あのときの怒鳴り声と、自分の怒りは今でも耳に残っている。
家を出てから3年が経った頃、ひとりの女性と出会い、やがて一緒に暮らし始めた。
2年後、彼女との間に子どもができた。
その知らせは、言葉にできないほど嬉しかった。
※
人には「母性愛」だけでなく、「父性愛」も確かにあるのだと、そのとき初めて気づいた。
子どもを愛さない親なんて、本当はいないのだと思った。
彼女が妊婦健診に行く日は、毎回必ず一緒に産婦人科までついていった。
お腹の中で動く姿をエコーで見た日は、夜遅くまで名前や性別の話で盛り上がった。
元気に響く心音を聞いた瞬間、私は心の中で強く誓った。
「父さんは、お前のために頑張る」と。
未来は明るいものだと、何の疑いもなく信じていた。
※
予定日の1ヶ月前――
妻が突然、破水した。
病院では「切迫早産の兆候」と言われた。
彼女も元気だったし、何も異常がなかったからこそ、その言葉は信じられなかった。
不意に、昔どこかで耳にした嫌な言葉がよみがえった。
「八月子(はちがつご)は持たない……」
※
詳しい検査の結果、娘の心音には雑音が混じっていることがわかった。
母体への負担も大きくなり、母子ともに危険な状態になった。
そして、緊急の帝王切開が決まった。
※
よく晴れた10月のある日、娘はこの世界に生まれてきた。
最初は、小さな声で泣いたという。
でもすぐに、自力で呼吸ができないことが判明し、管で酸素を送る処置が施された。
そこからの記憶は、どこか曖昧だ。
何が現実で、何が夢なのか分からなくなっていった。
※
NICUで初めて娘と対面したとき、込み上げてくる涙を必死に堪えた。
小さな身体に繋がれた管や機械の数々。
でも、たしかに、そこに「命」はあった。
娘にかけた最初の言葉は、
「生まれて来てくれて、有難う」
だった。
※
私は母に、何年かぶりに電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえる母の声は、変わらぬ優しさと懐かしさに満ちていた。
初めて人前で泣いた。
あんなに涙を見せたことのない自分が、母の前で泣いた。
母も泣いてくれた。
「孫娘には何の罪も無いのに、何故こんなことに……」
と、絞り出すような声で言っていた。
※
医師からは、いくつもの説明があった。
そのどれもが難しく、受け止めきれない現実だった。
でも、「絶望」というのは、案外静かなものだった。
眩しいわけでも、真っ暗なわけでもない。
ただ、普段と変わらぬ日常の中で、私たちを容赦なく追い詰めていった。
※
それでも、娘はがんばった。
母乳を管から飲み、オムツを替えることもできた。
名前もつけてあげた。
出生届も出した。
戸籍上も、間違いなく「私の娘」になった。
小さくて、愛おしくて、たまらないほど可愛かった。
※
ある日、医師からの電話が鳴った。
それが何を意味するのか、言葉を聞く前からわかった。
私は娘を、初めて、そして最後にこの腕で抱いた。
その身体の小ささと重みに、涙がこぼれそうになった。
けれど、泣かなかった。
「泣く必要はない」と、自分に言い聞かせた。
※
18日間――
娘は、本当によく頑張ってくれた。
妻と二人で娘を見送り、火葬を済ませ、小さな骨壷にそっと骨を拾った。
そして、娘はやっと、父と母の住む家に帰ってきた。
※
今も時折、娘の心音が耳の奥に蘇る。
あの小さな命が、私たちに与えてくれた時間は、18日間だけだった。
でも、あの時間は、人生の中でいちばん濃く、愛に満ちていた。
――君が生まれて来てくれて、本当にありがとう。