
あれは、私の隣の席に座っていた男性が、突然亡くなった日のことでした。
金曜日の夜、お酒を飲んだ帰り道。
電車の中で気分が悪くなり、途中下車した駅のベンチに腰をかけたまま、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
享年55歳。
けれど、私たちは皆、すぐにわかっていました。
――この人は、仕事のしすぎで亡くなったのだと。
※
その時、私は祖母の納骨のため地方にいました。
お通夜には出られませんでしたが、その日のうちに東京へ戻り、翌日は休みの予定だったにもかかわらず、気が落ち着かずに会社へ向かいました。
上司に頼まれ、私は花を買いに行きました。
「社員が亡くなったので、机に飾る花をお願いします」
花屋でそう告げた瞬間、涙が溢れて止まりませんでした。
初めての経験でした。
選んだ花は、美しく咲き誇っていたけれど、香りがとても強く、今でもその匂いに触れると胸が締め付けられるように涙がこみ上げてきます。
※
亡くなった時に持っていたカバンには、家で処理する予定の膨大な資料。
そして会社のPCには、やりかけの仕事が山のように残されていました。
私を含む数人で分担しましたが、それでも到底追いつきませんでした。
そこには、とても単純だけれど時間のかかる作業が数えきれないほどありました。
私は何度か声をかけていました。
「やることがあったら言ってくださいね」
その人はいつも穏やかに笑い、
「じゃあ、考えておくね」
そう言ってくれました。
けれど、その先はいつも同じ。
結局、私が強く手を伸ばさなかったばかりに、彼は一人で仕事を抱え続けていたのです。
膨大なデータを一つ一つ集計しながら、私は涙を流しました。
――なぜもっと強く言えなかったのか。
――なぜ無理やりにでも彼の仕事を奪わなかったのか。
「もし、あの時の私が違う行動をしていたら……」
そう思うと、後悔ばかりが胸を締め付けました。
※
しばらくして、ご家族が荷物を引き取りに来られました。
小柄で華奢な奥さんと、真面目そうな女子大生の娘さん。
一人ひとりに丁寧に挨拶をされました。
私の番になった時、奥さんが私の名札を見て、ふっと小さく笑いました。
「何度か主人から聞いていました。
職場にとても真面目で優秀な女性がいて、いつも
『仕事ないですか? 何でも言ってくださいね』
と言ってくれるんだって。……あなたのことですね。
主人はとても感謝していましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙が一気に溢れました。
会社だとか、他の人がいるとか、そんなことはどうでもよかった。
――ありがとう。
私のことを、そんなふうに思ってくれていたなんて。
本当にありがとう。
心の底から、そう思いました。
※
あれから早いもので、もうすぐ三回忌を迎えます。
あの日以来、私は職場の人たちの仕事量をよく観察するようになりました。
一人に負担が集中しないように、できることがあれば積極的に「ぶん取る」こともあります。
つい先日、亡くなった男性の業務を引き継いだ後輩から、こんな言葉をもらいました。
「もしあなたが居なかったら、俺は仕事に追い詰められて死んでたかもしれない。
笑い話じゃなく、本当に。
だから、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で長い間苦しんでいた何かが、やっと救われた気がしました。
※
人の死は、あまりに突然やってきます。
そして、残された人に必ず問いかけます。
――自分はあの人に何をしてあげられたのか。
私はこれからも、その問いを抱き続けながら、働き、生きていこうと思います。