柴犬のナツに近寄んなと言った日

柴犬

「しつこいな。近寄んな」

柴犬のナツに、俺が最後にかけた言葉は、それだった。

今でも、玄関のドアを開けるたびに、その声が自分の耳に戻ってくる。

俺は今、二十六歳で、都内で配送の仕事をしている。

実家は、茨城の、田んぼの中にある小さな町だ。

ナツの話をするには、小学四年の春まで戻らないといけない。

2009年の四月、親戚の農家で、柴犬の子どもが五匹生まれた。

母ちゃんが、「一匹だけ、もらってきていい」と言った。

俺は、段ボールの中でいちばん小さいやつを選んだ。

他の四匹が俺の指を噛もうとするのに、そいつだけは、指を舐めた。

人懐こいから、名前は「ナツ」にした。

四月なのにナツかよ、と父ちゃんは笑ったけど、俺は譲らなかった。

最初の夜、ナツは段ボールの中で、朝まで鳴いた。

母ちゃんは「初日は仕方ない」と言ったけど、俺は布団を持って、段ボールの横で寝た。

手を箱の中に入れると、ナツは鳴きやんで、俺の指を枕にして眠った。

翌朝、俺の手は痺れて動かなかったけど、ナツは、もう鳴かなかった。

最初の散歩は、リードを俺が持って、母ちゃんが後ろからついてきた。

ナツは、あぜ道の草を全部嗅がないと気が済まなくて、五十メートル進むのに十分かかった。

「待て」を覚えたのは、ひと月後だった。

覚えたと言っても、三秒しか待てなくて、四秒目には俺の膝に飛びついてきた。

十歳の誕生日の朝、ナツは、俺の枕元に靴下を一足、置いていった。

プレゼントのつもりだったのかは、分からない。

でも俺は、その靴下を、その日一日、履いて学校へ行った。

それからナツは、いつでも、どこでも一緒だった。

学校から帰ると、玄関の中で、尻尾を振りながら、俺の靴下を一足、くわえて待っていた。

脱ぎ捨てた靴下を、どこからか拾ってくるのだ。

母ちゃんは、「汚いからやめさせて」と言ったけど、俺はそれが好きだった。

ナツがくわえてくる靴下は、いつも俺のやつで、父ちゃんのは一度もなかった。

散歩は、朝は母ちゃん、夕方は俺の担当だった。

田んぼのあぜ道を、用水路に沿って、神社の裏まで行って帰る。

三十分の道を、ナツは、毎日初めて歩くみたいに、鼻を地面につけて歩いた。

用水路の橋のところで、ナツは必ず立ち止まって、水の音を聞いた。

「なんか、いるのか」

聞いても、ナツは答えない。

ただ、しばらく聞いてから、また歩き出す。

春は、橋の下に鴨の親子がいた。

ナツは吠えなかった。

鴨が通り過ぎるまで、座って待っていた。

俺はそれを、ナツの儀式だと思っていた。

夏祭りの夜は、花火の音が怖くて、ナツは俺のTシャツの中に頭を突っ込んだ。

雪の日は、庭で狂ったように走り回って、玄関で足を拭かれるのを嫌がった。

そういう一つ一つを、俺は、当たり前だと思っていた。

小六の運動会の日、ナツは家で留守番だった。

帰ると、玄関のたたきに、俺の体操服の靴下が、きれいに揃えて置いてあった。

揃えたのは母ちゃんだろうと思ったら、母ちゃんは「知らない」と言った。

ナツが、二足分を、口で並べたのだ。

曲がっていたけど、たしかに、並べてあった。

柴犬のナツの散歩道

中学に入ると、俺は野球部に入った。

帰りが遅くなっても、柴犬のナツは、玄関で靴下をくわえて待っていた。

練習で疲れていても、夕方の散歩だけは、俺が行った。

暗くなったあぜ道を、ナツの白い尻尾だけが、先を歩いた。

中二の夏の大会には、母ちゃんがナツを連れて、球場のフェンスの外まで来た。

俺が打席に立つと、ナツが吠えた。

審判に注意されて、母ちゃんは、ナツを抱えて駐車場へ戻った。

俺はその打席で三振したけど、帰ってからナツに、「お前のせいだぞ」と言って、頭を撫でた。

ナツは、それでも、尻尾を振っていた。

中三の修学旅行のときは、玄関でギャンギャン暴れた。

俺のリュックに噛みついて、離さなかった。

「三日で帰るって」

言っても、通じない。

母ちゃんが、ナツを抱えて、俺を送り出した。

京都から電話すると、母ちゃんは、「ナツ、玄関から動かないよ」と言った。

三日間、ナツは玄関で、俺の靴下をくわえたまま、寝ていたらしい。

帰った日、玄関のドアを開けた瞬間に、ナツは俺の胸に飛びついてきた。

その重さを、俺は今でも、腕で覚えている。

高校に入って、俺は変わった。

隣町の高校で、いわゆる不良ってやつらと、つるむようになった。

野球はやめた。

バイクの後ろに乗って、夜中までコンビニの駐車場にいた。

家に帰るのは、深夜だった。

初めて午前二時に帰った夜、玄関の電気は消えていた。

暗闇の中で、ナツの目だけが、玄関のたたきの上で光っていた。

吠えもせず、怒りもせず、ただ、靴下をくわえて待っていた。

俺は、その目を見ないようにして、靴を脱いだ。

翌朝、母ちゃんが、「ナツ、三時まで玄関にいたよ」と言った。

「ふーん」

それだけ言って、俺は、牛乳を飲んだ。

ナツは、俺の足元で、昨日の靴下を、まだくわえていた。

玄関を開けると、ナツはやっぱり、靴下をくわえて待っていた。

でも俺は、ナツの頭を、適当に一回撫でるだけで、部屋に上がった。

夕方の散歩は、母ちゃんの担当になっていた。

「たまには行ってやりなよ」

「眠い」

そんな会話を、何度したか分からない。

ナツは、俺が玄関を出るときも、靴下をくわえて、ついてきた。

「おいてけ。汚れる」

そう言って、俺はドアを閉めた。

父ちゃんと、一度だけ、玄関で怒鳴り合ったことがある。

「お前、ナツの顔、最近見たか」

「見てるよ。毎日いるじゃん」

「いるのと、見るのは違う」

俺は、父ちゃんを押しのけて、外に出た。

ナツが、閉まるドアの隙間から、俺を見ていた。

その頃、ナツの散歩は、少しずつ短くなっていた。

神社の裏まで行かずに、用水路の橋で折り返すようになった、と母ちゃんが言った。

「年だからね」

母ちゃんは、そう言った。

七歳は、まだ年じゃない。

そんなことも、俺は知らなかった。

夜中に台所で、母ちゃんが、ナツの皿を洗っているのを見たことがある。

ナツの皿の横に、小さな薬の袋があった。

「なにそれ」

「ビタミン。年だから」

母ちゃんは、袋を、流しの下にしまった。

俺は、それ以上、聞かなかった。

聞いていれば、と今でも思う。

日曜の朝の玄関

高二の、十月の日曜だった。

いつものように、昼前に起きて、仲間のところへ行こうとした。

台所で、母ちゃんが、背中を向けたまま言った。

「今日は、早く帰ってきて」

「なんで」

「なんでも。早く帰ってきて」

俺は、返事をしなかった。

母ちゃんの手が、皿を洗う途中で止まっていたのに、気づかなかった。

玄関で靴を履いていると、ナツが来た。

靴下をくわえていなかった。

代わりに、俺のズボンの裾を、くわえて引っ張った。

「なんだよ」

離さない。

しつこいぐらいに、まとわりついてきた。

前足で、俺の膝を何度も叩いた。

今思えば、あんなにしつこく来たことは、一度もなかった。

でも、そのときの俺は、ナツのことなんて頭になかった。

仲間との待ち合わせに、遅れそうだった。

「しつこいな。近寄んな」

俺は、ナツの体を、足で押しのけた。

ナツは、玄関のたたきに、尻もちをついた。

それでも、尻尾は振っていた。

俺は、ドアを閉めた。

あのとき、ナツが何を言おうとしていたのか。

たぶん、神様くらいしか、分かっていなかったと思う。

神様と、母ちゃんと。

仲間と遊んでいた、その日の夕方だった。

コンビニの駐車場で、スマホが鳴った。

仲間の一人が、エナジードリンクの缶を蹴って、誰かが笑っていた。

俺は、画面を見て、少し面倒だと思った。

その「面倒だ」を、俺は、九年経っても、自分に許せていない。

母ちゃんからだった。

「もしもし。なんかよう」

「あのね。ナツが、その」

「ナツがなんだよ。さっさと言えよ」

戸惑う母ちゃんに、俺はイライラしていた。

「今まで言わなかったんだけどね。ナツ、がんだったの。今、危ない状態なの」

「は。あのアホ犬が、いなくなるわけないじゃん。何言ってんの」

最初、遊んでいる俺をからかってるのかと思った。

母ちゃんは、そういう冗談を言う人じゃないのに。

「お願い。信じて。帰ってきて」

電話の向こうで、母ちゃんの声が、裏返った。

嘘には、聞こえなかった。

俺は、仲間に何も言わずに、走った。

「おい、どこ行くんだよ」

後ろから声がしたけど、振り返らなかった。

バイクの後ろに乗るより、走ったほうが早い気がした。

田んぼのあぜ道を、用水路に沿って、走った。

いつもの散歩道を、逆向きに。

橋のところで、水の音が、やけに大きく聞こえた。

ナツが毎日立ち止まって聞いていた音だった。

俺は、立ち止まらなかった。

途中で、近所のじいさんが、「どうした」と声をかけてきた。

答えずに、走った。

家の屋根が見えたとき、玄関の灯りが、昼間なのについていた。

稲刈りの終わった田んぼの匂いが、喉の奥まで入ってきた。

息が切れて、脇腹が痛くて、それでも足を止めたら、間に合わない気がした。

皿の横の薬の袋

家に着いたとき、ナツは、玄関のたたきに、毛布を敷かれて横になっていた。

自分の寝床じゃなく、玄関で。

母ちゃんが、「ここがいいって、動かないの」と言った。

俺が、帰ってくる場所だからだ。

ナツは、俺の足音で、顔を上げた。

尻尾が、一回だけ、床を叩いた。

朝、足で押しのけた俺を、ナツは、同じ尻尾で迎えた。

「ナツ。おい」

「落ち着いて」

「落ち着けるか。ふざけんな。おい、ナツ」

俺は、いつの間にか、涙を流しながら、ナツを抱えていた。

ナツの体は、朝、足で押しのけたときより、ずっと軽かった。

いや、朝から軽かったのだ。

気づかなかっただけだ。

ナツは、時折、俺の涙を、舌で舐めた。

舐める力は、もう、ほとんどなかった。

「ナツ。まけんな。まだ、いくなよ」

「お願いだから。もうちょっと。まだ、いくなって」

泣きすぎて、言葉にならなかった。

父ちゃんが、仕事から帰ってきて、玄関で立ち尽くした。

何も言わずに、俺の後ろに座って、ナツの背中に手を置いた。

母ちゃんが、流しの下から、薬の袋を取り出して、台所の机に置いた。

袋の口は、開いていた。

「三か月前に、分かったの」

「あんたが、ナツに構わなくなってたから。言ったら、もっと遠ざかる気がして」

「違うな。あんたに、嫌な思いをさせたくなかったんだ」

母ちゃんは、泣かなかった。

泣く代わりに、ナツの耳の後ろを、ずっと撫でていた。

毎晩、台所で、薬を餌に混ぜていたのだ。

散歩が短くなったのは、年のせいじゃなかった。

獣医には、手術はできない、と言われていたらしい。

「痛みを取る薬だけ。それで、できるだけ普通に過ごさせてあげてって」

「今朝ね、あんたが出ていったあと、玄関で、ずっとドアを見てたの」

「あんたの散歩に、行きたかったんだと思う」

俺は、何も言えなかった。

朝、ズボンの裾を引っ張ったのは、散歩の誘いだった。

靴下をくわえてこなかったのは、くわえる力より、俺を引く力を選んだからだ。

最後の散歩の、誘いだった。

橋で折り返していたのは、そこまでしか、歩けなかったからだ。

それでも、ナツは、毎朝、母ちゃんと橋まで行った。

俺が走って帰ってくる道を、確かめるみたいに。

「ナツ」

何回言ったか、分からない。

俺の、その言葉を最後に、柴犬のナツは、息を引き取った。

玄関の、俺が帰ってくる場所で。

その夜、俺は、玄関のたたきに、朝まで座っていた。

父ちゃんが、途中で毛布を一枚、肩にかけてくれた。

何も言わなかった。

朝、母ちゃんが、ナツの皿を洗って、流しの下の袋を捨てた。

皿は、捨てなかった。

俺は、その日から、仲間のところへ行かなくなった。

誰にも、理由は言わなかった。

用水路の橋の水音

あれから、九年になる。

仲間とは、高校を出て、自然と縁が切れた。

あの日、何も言わずに走った俺を、あいつらは一度も責めなかった。

それだけは、今も感謝している。

俺は配送の仕事を始めて、毎日、知らない家の玄関のドアを叩いている。

ドアが開いて、中から犬が飛び出してくると、今でも、少しだけ息が止まる。

先週、配達先の家で、柴犬が靴下をくわえて出てきた。

飼い主のおばあさんが、「汚いでしょう、ごめんなさいね」と笑った。

「いえ。うちのも、そうでした」

そう言うのが、精一杯だった。

おばあさんは、「でした、って言ったわね」と、小さく言った。

それから、「この子にも、いつか言うのね」と、柴犬の頭を撫でた。

トラックに戻って、しばらく、エンジンをかけられなかった。

去年、散歩の記録が今日も届くという話を読んで、スマホの前で動けなくなった。

俺には、ナツの散歩の記録なんて、一つも残っていない。

あの頃、俺はスマホで、仲間の写真ばかり撮っていた。

ナツの写真は、母ちゃんのガラケーに、三枚だけある。

三枚とも、ナツが靴下をくわえている。

正月に実家へ帰ると、玄関の横に、小さな写真立てが置いてある。

その前に、母ちゃんは、今も、あの皿に水を入れて、置いている。

「もう要らないでしょ」

「あんたが帰ってくる日だけ、置いてるの」

母ちゃんは、そう言って、台所へ戻った。

俺は、帰るたびに、夕方、一人で散歩道を歩く。

父ちゃんが、一度だけ、黙ってついてきたことがある。

橋のところで、二人で水の音を聞いた。

「いるのと、見るのは違う」

父ちゃんは、あの日と同じ言葉を、今度は静かに言った。

「分かってる」

九年かかって、やっと、そう答えられた。

田んぼのあぜ道を、用水路に沿って、神社の裏まで。

橋のところで、立ち止まって、水の音を聞く。

何がいるのかは、今でも分からない。

ただ、ナツが毎日立ち止まった場所で、同じだけの時間、立っている。

それが、九年遅れの、俺の散歩だ。

父ちゃんの道具袋で待っていた犬の話を、母ちゃんが最近読んだらしい。

「犬は、待つのが仕事なんだって」

電話で、そう言っていた。

今年の正月、母ちゃんが、押し入れから、ナツの毛布を出してきた。

「処分できなくてね。あんた、持ってく」

毛布は、ナツの匂いがもうしなかった。

九年分の、押し入れの匂いだった。

それでも、角のほつれ方は、ナツが毎晩、前足で掻いていた形のままだった。

玄関で、九年ぶりに、その毛布を広げた。

毛布の内側に、縫い目がほどけて、ポケットみたいになった場所があった。

そこに、靴下が、一足だけ、入っていた。

小さい靴下だった。

小四の俺のサイズの、片方だけの靴下だった。

ナツは、七年間、それを、誰にも見つからないように、寝床の内側に隠していた。

俺が高校で靴下を履き替えて、拾う靴下がなくなっても、ナツには、最初の一足があった。

俺は、玄関のたたきに座って、その靴下を握った。

母ちゃんが、後ろで、何も言わずに立っていた。

ナツ、これ、見てるか。

ごめんな。近寄んな、なんて言って。

ごめんな。最後の朝、足で押しのけて。

ごめんな。お前が三か月、黙って我慢してたのに、何も気づかなかった俺で。

ナツ、一緒にいてくれて、ありがとな。

片方だけの靴下は、今、俺のアパートの、玄関にある。

帰ると、まず、それを見る。

ナツ、だいすきだ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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