
母は、本が嫌いな人だと思っていました。
読んでいるところを、一度も見たことがなかったからです。
それなのに、母が渡してくる本は、どれも、途中のページの角が一つだけ折ってありました。
新しい本に、どうして最初から折り目がついているのか。
私はそれを、本屋の癖のようなものだと思っていました。
そう思ったまま、八年が過ぎました。
体育のあとの教室
私が通っていたのは、北九州の門司にある県立高校でした。
坂の途中に校門があって、そこから海峡が細く見えます。
家は高台の団地の四階で、窓を開けると、船の汽笛が届きました。
友達はいませんでした。
避けられていたというより、私に興味を持つ人がいなかったのだと思います。
授業以外の時間は、ずっと文庫本を読んでいました。
それくらいしか、することがなかったのです。
二年の秋、体育の授業が終わって、汗のまま教室に戻りました。
いつものように自分の席に座ろうとして、足が止まりました。
机の上に、私の本が置いてありました。
正確に言えば、本だったものが置いてありました。
背が割かれ、束が裂かれ、ページが扇のようにばらけていました。
みんながこちらを見ていました。
笑っている顔はありませんでした。
女子も、戸惑ったような顔で、こちらを見ているだけでした。
誰も何も言いませんでした。
私も、何も言いませんでした。
気づいたら、切れ端を一枚ずつ拾って、机の上で揃えていました。
揃うはずがないのに、揃えようとしていました。
指先が震えて、紙の角が指に刺さりました。
その痛みだけが、はっきりしていました。
切れ端の一枚に、扉のページがありました。
そこだけが、きれいなまま残っていました。
私はそれを、いちばん下に伏せて置きました。
チャイムが鳴って、担任が入ってきました。
担任は、机の上を見ませんでした。
見なかったのか、見て見ないふりをしたのかは、いまも分かりません。
その日の掃除の時間に、私の席のまわりだけ、誰も箒を持ってきませんでした。
床に落ちた紙は、給食の残りのように、隅へ隅へと寄せられていきました。
私は自分の机の下だけを、手で拾いました。
五時間目は、現代文でした。
教科書を開くと、指に紙の匂いがついていました。
※
放課後、私は切れ端をレジ袋に入れて持ち帰りました。
捨てる場所を考えながら、坂を下りました。
教室のゴミ箱に入れると、明日、誰かが見るかもしれない。
途中のコンビニに捨てると、家に何も持って帰らないことになる。
結局、団地の下の集積場に置いてきました。
部屋に上がると、母はまだ仕事から戻っていませんでした。
私は制服のまま、窓の桟に肘をついて、海峡を見ていました。
母が買ってくれた本でした。
それだけが、どうしようもなく苦しかったのです。
※
次の週の月曜日、机の中に、紙が一枚入っていました。
その本のページでした。
皺を、指で丁寧に伸ばしたあとがありました。
ノートに挟んで押していたのだと思います。
誰が入れたのかは、書いてありませんでした。
私は教室を見回しましたが、こちらを見ている人は、誰もいませんでした。
そのページは、いまも持っています。
百七十三ページでした。
そのときは、その数字に何の意味も感じませんでした。
月に一冊の約束
母は、駅前のクリーニング店で働いていました。
受付とプレスの両方をやる店で、夏はシャツの山に囲まれて立ち通しです。
帰ってくると、髪と腕に、蒸気とアイロンの匂いが残っていました。
その母が、月に一冊だけ、私に本を買ってくれていました。
給料日の翌週の、水曜日でした。
「はい、今月ぶん」
と言って、紙袋も何もなく、そのままテーブルに置くのです。
私は「ありがとう」と言って受け取り、その晩のうちに半分ほど読みました。
読むのは、たいてい風呂のあとでした。
団地の四階は、夜になると下の道の音がよく通ります。
ページをめくる音のほうが、外の音より小さいくらいでした。
読み終わると、母は必ず訊きました。
「どうやった、あれ」
私は、あらすじを話しました。
母は台所に立ったまま、背中で聞いていました。
ときどき、手を止めて、こう訊きました。
「その人は、最後、どうなったと」
私は、最後まで話しました。
母は「ふうん」と言うだけでした。
感想を言うわけでもなく、褒めるわけでもありません。
ただ、最後まで聞いてくれました。
その時間が、私の一か月の中で、いちばん長く喋る時間でした。
※
本のことを、私は誰にも話しませんでした。
切り裂かれた本のことも、もちろん話しませんでした。
いじめ、という言葉を、当時の私は使いませんでした。
その言葉を使ってしまうと、自分がその中にいることを認めることになる気がしたのです。
言えば、母が学校に電話をかけるかもしれない。
そうなったら、次の月から、本は来なくなる気がしていました。
いま思えば、そんな理屈はどこにもありません。
ただ、あのころの私は、月に一冊の本と、母の「どうやった」を、失うのが怖かったのです。
四十分の休憩
その冬、母が弁当を忘れて出た日がありました。
私は学校を早退した帰りに、それを店まで持って行きました。
クリーニング店の受付の奥は、蒸気で白く曇っていました。
母は、裏の休憩室にいました。
パイプ椅子には座らず、洗濯機に寄りかかって立っていました。
手に、何かを持っていました。
私が近づくと、母はそれを畳んで、エプロンの前掛けに入れました。
「なんね、あんた」
「弁当」
「あら」
母は笑って、弁当箱を受け取りました。
私はそのとき、母が持っていたのは、預かり札の控えだと思っていました。
店の伝票は、その大きさで、その色だったからです。
店を出るとき、受付の奥から、母の同僚の方が顔を出しました。
「あんたが、息子さんね」
「はい」
「いつも聞かされとうよ」
私は、意味が分からないまま会釈をして、外に出ました。
帰り道、坂を下りながら、なぜ立ったまま見ていたのだろうと少しだけ考えました。
けれど、それ以上は考えませんでした。
母は、一日じゅう立っている人でしたから。
※
あとで分かったことですが、母の休憩は昼の四十分だけでした。
その四十分のうち、弁当に十分。
残りの三十分を、母は洗濯機に寄りかかって使っていました。
座らないのは、座ると立てなくなるからだと、同僚の方があとで教えてくれました。
ページの角
翌月の水曜日、母はいつもどおりに本をテーブルに置きました。
私は表紙を見て、息が止まりました。
切り裂かれたのと、同じ本でした。
同じ題名、同じ著者、同じ厚さ。
母は何も言いませんでした。
「はい、今月ぶん」
それだけでした。
私も、何も訊けませんでした。
その本には、いつもどおり、途中のページの角が一つ折ってありました。
百七十二ページ。
前の一冊と、同じ場所でした。
そのとき初めて、私はこの折り目が本屋のものではないと知りました。
けれど、誰が、何のために折ったのかは、まだ分かりませんでした。
※
その本の裏表紙をめくったとき、値段の欄に、鉛筆で書いた数字を消した跡がありました。
薄く残った線が、光の向きによって見えました。
帯もありませんでした。
私はそのとき、母が新しい本を買えなかったのだと思いました。
けれど本当のところは、逆でした。
その本は、新刊ではもう手に入らなかったのです。
中村さんという人
母のことが分かったのは、私が二十四になった年でした。
クリーニング店の常連だった中村さんという人が、店に来なくなったと母が言いました。
私は花を持って、病院へ見舞いに行きました。
中村さんは、昔、門司港の近くで古書店をやっていた人です。
店を畳んでからは、自宅の一室に本を積んで暮らしていました。
ベッドの上で、その人は私を見て、先に笑いました。
「ああ。あんたが、あの子か」
「あの子、ですか」
「毎月、お母さんが本を頼みに来よったろうが」
私は、言葉が出ませんでした。
「注文は、いつも一つだけ。うちの子が、途中でやめられん本ば一冊、て」
中村さんは、続けました。
「厚さだけは、月によって違うとよ」
「厚さ、ですか」
「学校の話をせん月は、厚いのにしてくれ、て言われよった」
窓の外で、貨物船が汽笛を鳴らしました。
私は、母が本の題名を紙に書いて持ち帰り、辞書で読み方を調べていたことを、そのとき知りました。
中村さんの店の帳面には、母が来た日付が八年ぶん残っていました。
そして、その帳面の最後の年に、同じ本が二度、続けて注文されていました。
※
「あの月はな、探すのに難儀した」
中村さんは、天井を見たまま言いました。
「もう版元にも無うてな。福岡まで出て、三軒目でようやく見つけたと」
「母が、そう言ったんですか」
「言わん。理由は、いっぺんも聞いとらん」
中村さんは、少しだけ首を動かして、私を見ました。
「ただ、いつもは受け取ったらすぐ帰る人が、あの日だけ、店で座っとった」
「座って、何を」
「読みよった。立ったまま持てんかったんやろ」
私は、休憩室の母を思い出しました。
あのとき前掛けに入れたものが、伝票でなかったことに、ようやく気づいたのです。
「中村さんが、本を選びよったんですか」
「いや」
中村さんは、首を横に振りました。
「選ぶのはお母さん。わしはただ、あるかどうかを探すだけたい」
「母が、選んで」
「題名ば、紙に書いてくると。字は、あんまり上手やなかったばってん」
中村さんは、少しだけ笑いました。
「わしが、読み方ば教えたことが一遍だけある。そしたら次から、ふりがなば振って持ってくるごとなった」
「母が、ふりがなを」
「辞書ば買うたて言いよったよ。あの人、辞書は自分の金で買うたとよ」
私は、うつむきました。
本は毎月買ってもらっていたのに、辞書のことは、一度も聞いたことがありませんでした。
「あの人はな」
中村さんは、天井のほうを向いたまま言いました。
「一遍だけ、うちの店で泣いたことがあると」
「泣いた」
「本ば探しに来た日たい。見つかったて言うたら、そのまま棚のほうば向いてしもうた」
「何か、言いましたか」
「言わん。ばってん、帰りしなに一言だけな」
中村さんは、そこで少し息を継ぎました。
「うちの子は、本ば読みよるときだけ、目が動きよります、て」
私は、その言葉の意味が、しばらく分かりませんでした。
あのころの私は、家でほとんど喋りませんでした。
母は、私の目が動いている時間を、月に一度だけ、金で買っていたのです。
一枚だけ返してきた人
百七十三ページを誰が返したのかは、去年、思いがけない場所で分かりました。
母の店の忘年会に、頭数合わせで呼ばれたのです。
同じテーブルに、私と同い年の女性がいました。
母の同僚だった方の、娘さんでした。
名前を聞いて、私は思い出しました。
高校のとき、私の後ろの席にいた人でした。
「わたし、あのとき何もできんかった」
その人は、烏龍茶のグラスを両手で持って、そう言いました。
「机の中の紙、あなたやったんですか」
「うん」
「なんで、一枚だけ」
「全部拾えんかったけん」
その人は、少し笑って、続けました。
「掃除の時間まで待っとったら、もう箒で寄せられとった」
「そうやったんですね」
「本のこと、うちの母が知っとったとよ。あなたのお母さんが、店でずっと話しよったけん」
私は、グラスを置きました。
「毎月ね、今度はこれば買うたて、報告しよったって」
「報告」
「自慢やったとよ、あれは」
店の休憩室で、母が何を喋っていたのかを、私は初めて知りました。
読めているかどうかも分からない本の題名を、母は毎月、人に言っていたのです。
※
母は、若いころ、働きづめだった人です。
本を読む習慣は、たぶん、一度も持ったことがありませんでした。
だから、四十分で読める量は、たかが知れています。
それでも母は、私が半日で読む本を、一か月かけて追いかけていました。
追いつけない月があるのは、当たり前のことでした。
その追いつけなかった場所が、あの角の折り目です。
折ってあったのは
母は、渡す前に、自分で読んでいました。
折ってあったのは、母がその日までに読めたところでした。
クリーニング店の休憩は、昼の四十分だけです。
母はそこで読み、続きを夜に読み、水曜日の朝までに読み終えようとしていました。
読み終えられなかった月は、折り目が残ったまま私の手に渡ります。
だから、私が「どうやった」と訊かれるとき、母はときどき、続きを本当に知らなかったのです。
「その人は、最後、どうなったと」
あれは、話をさせるための質問ではありませんでした。
母は、本当に、知りたかったのです。
※
厚さのことも、あとで分かりました。
私が学校の話をしない月は、厚い本が来ていました。
母は、学校のことを直接は訊きませんでした。
代わりに、私が長く喋る材料を、厚さで用意していたのです。
あの秋の本は、それまででいちばん厚い一冊でした。
私は、九月と十月、学校の話を一度もしていません。
母は、私が黙っていることに、とっくに気づいていました。
気づいていて、何も訊かず、本を厚くしただけでした。
いじめのことを、母が知っていたかどうかは、いまも分かりません。
訊いたことはありません。
訊けば、母はきっと「知らんかった」と言うでしょう。
そう言うために、母は八年、何も言わずにいたのだと思います。
※
そして、二冊目のことです。
母は、ゴミの集積場に出す係でした。
あの晩、私が置いてきたレジ袋を、母は見ています。
切れ端の中に、表紙の背の部分が残っていたはずです。
母は題名を読み、中村さんに頼み、福岡まで出ました。
そして、二冊目にも、同じ百七十二ページの角を折って、私に渡しました。
母は、同じ本を二度買った理由を、一度も言いませんでした。
訊けば、私が話さなければならなくなるからです。
折り目の位置まで揃えたのは、何もなかったことにするための、母のやり方でした。
棚の前に立つ癖
私はいま、門司港で船の乗り場の仕事をしています。
本屋には、あまり行きません。
行くのは、古い本を置いている店のほうです。
棚の前に立つと、私は本を横から見る癖がつきました。
小口に、折り目のあとがあるかどうかを見ているのです。
誰かが読んで、途中で置いて、また戻ってきた本を、つい選んでしまいます。
母はまだ、同じ店で働いています。
この前、実家に寄ったとき、台所の棚に、私が高校のときに読んだ本が並んでいました。
そのうちの何冊かに、角の折り目が残っていました。
私は、そのうちの一冊を抜いて、百七十二ページを開きました。
紙が、そこだけ柔らかくなっていました。
何度も、そこを開いたのだと思います。
母が、背中で言いました。
「読み終わったとよ、それは」
「いつ」
と、訊きかけて、やめました。
母は、蛇口を大きく開けました。
水の音が、台所を埋めました。
私は本を棚に戻し、折り目を直しませんでした。
汽笛が鳴って、窓の桟が少しだけ震えました。
——同じような静けさの物語として、母の味や、もう一回出来るよも、私は折り目をつけながら読みました。
今月も、私は自分で本を買います。
そして、読み終わる前に、角を一つ折ります。