雨に溶けた涙

雨の夜の静かな公園

二十年前のことだ。

あの夜の雨の匂いを、俺は今でも覚えている。

アスファルトが濡れて光る、あの独特の匂い。排水溝に流れ込む水の音。そして、傘もささずに立ち尽くす、一人の少年の背中。

当時、俺は都営の団地に住んでいた。

五階建ての棟が向かい合うように並ぶ、よくある昭和の団地だ。壁はところどころ色が剥げていて、階段の手すりは錆びていた。

築何十年だったか、正確には覚えていない。でも、窓を開ければ向かいの棟のベランダが見えて、洗濯物が風に揺れている、そんな距離感だった。

棟と棟の間には小さな公園があった。滑り台とブランコと砂場だけの、どこにでもある公園。子どもたちが遊ぶのは夕方までで、夜になると誰もいなくなる。

あの夜も、そうだった。

気づいたのは、夜の十時頃だった。

風呂上がりにベランダに出て煙草を吸おうとしたとき、下の公園に人影が見えた。

雨が降っていた。弱い雨ではなく、傘がなければ数分でずぶ濡れになるような雨だった。

その人影は、公園のブランコの横に立っていた。傘をさしていない。動かない。

最初は酔っ払いだと思った。この辺りは飲み屋が近いから、酔って公園に迷い込む人間はたまにいる。

でも、しばらく見ていて気づいた。酔っ払いにしては姿勢がまっすぐすぎる。

そして、その人影は向かいの棟を、じっと見上げていた。

三階あたりの、ある一つの窓を。

煙草を一本吸い終わっても、その人影は動かなかった。

俺は部屋に入り、テレビをつけ、缶ビールを開けた。ニュースを見て、バラエティを少し見て、日付が変わる頃にもう一度ベランダに出た。

まだいた。

同じ場所に、同じ姿勢で。

雨は相変わらず降り続いていて、街灯の光に照らされた雨粒が斜めに流れていた。その雨の中に、その人影はまるで柱のように立っていた。

さすがに不気味だった。

背筋がぞくりとして、俺はベランダの戸を閉めた。

布団に入ったが、なかなか寝つけなかった。あの人影のことが頭から離れなかった。あれは何だ。何を見ている。なぜ、あんな雨の中で。

午前二時頃、どうしても気になって、もう一度ベランダに出た。

カーテンの隙間から、そっと下を覗いた。

いた。

まだいた。四時間以上、同じ場所に。

雨は少し弱まっていたが、止んではいなかった。

俺は思わず声をかけようかと思った。でも、五階から下に向かって「おい」と叫ぶのも妙だし、わざわざ下まで降りていくほどの理由も見つからなかった。

結局、俺はカーテンを閉めて、布団に潜った。

翌朝、目が覚めたのは六時頃だった。

雨はまだ降っていた。昨日ほど強くはないが、しとしとと降り続いている。

真っ先にベランダに出た。

いた。

まだ、いた。

朝の薄い光の中で、ようやくその姿がはっきり見えた。

少年だった。十代後半か、二十歳前後。細い体。黒い髪が雨に濡れて額に張りついている。白いTシャツが肌に貼りつき、肩のラインが浮き出ていた。

ジーンズも靴もびしょ濡れだった。

そして、やはり向かいの棟の三階のある窓を、じっと見上げていた。

その目は、俺のいる五階からでも分かるほど、何かに取り憑かれたように動かなかった。

怒りでも、恐怖でもない。もっと深い何かだった。

俺は、見ていられなくなった。

傘を持って、下に降りた。

エレベーターのない団地の階段を駆け下りて、公園に出た。

近づいてみると、少年はさらに若く見えた。十七、八くらいだろうか。顔は青白く、唇が紫がかっていた。寒さで震えているのかと思ったが、震えてはいなかった。むしろ、体のどこにも力が入っていないように見えた。

ただ立っている。それだけだった。

「おい」と俺は声をかけた。「大丈夫か」

少年は俺に気づいて、ゆっくりと顔を向けた。

その目を見た瞬間、俺は言葉を失った。

泣いているわけではなかった。涙は、もうとっくに流し尽くした後のような目だった。赤く充血して、まぶたが腫れて、でもそこにはもう何も残っていないような、空っぽの目。

「……すみません」

少年が言った。声はかすれていたが、礼儀正しかった。

「すみません。ご迷惑をおかけして」

俺は傘を差し出した。「とりあえず、これ使え。風邪ひくぞ」

少年は傘を見て、それから俺を見た。

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

大丈夫じゃないだろう。八時間以上、雨の中に立っている人間が大丈夫なわけがない。

でも俺は、それ以上何も言えなかった。

少年の目に、何か触れてはいけないものを感じたからだ。

俺は傘をブランコの手すりに引っ掛けて、「置いとくから、使いたくなったら使え」とだけ言って、棟に戻った。

部屋に戻って、窓から見下ろした。

少年は傘を手に取っていなかった。ブランコの手すりにかけたまま、相変わらず同じ場所に立っていた。

俺は朝飯を食べ、洗濯をし、昼飯を食べた。

その間、何度もベランダに出た。

少年は動かなかった。

正午を過ぎた頃、少年が少しだけ動いた。

向かいの棟の窓に向かって、深く、深く頭を下げた。

長い礼だった。十秒、二十秒。雨に打たれながら、ただ頭を下げ続けていた。

そして、顔を上げると、ゆっくりとブランコの手すりから傘を取り上げた。

傘を開かなかった。

ただ、手に持ったまま、公園を出ていった。

ふらふらとした足取りで、団地の入口の方へ。

角を曲がって、見えなくなった。

俺はベランダの手すりを握ったまま、少年の消えた方向をしばらく見つめていた。

あの少年が何者だったのか、俺が知ったのは三日後だった。

向かいの棟に住む知り合いの田中さんという中年の女性がいて、たまたま階段で会ったときに、俺は聞いてみた。

「あの公園に、雨の中ずっと立ってた男の子、知ってますか」

田中さんは一瞬、顔を曇らせた。

「ああ……あの子ね」

田中さんは、重い口を開いた。

「三階の、佐藤さんちの——佐藤さんとこの娘さん、知ってる?」

佐藤さんの名前は聞いたことがあったが、家族構成までは知らなかった。

「娘さんがね、亡くなったのよ。一ヶ月くらい前に」

俺は足を止めた。

「十六歳だったの。急性白血病で。見つかったときにはもう、手遅れだったって」

十六歳。

あの少年が見上げていた窓は、三階の——。

「あの男の子は、娘さんの彼氏だったの」

田中さんの声が、少し震えた。

「同じ高校でね。付き合い始めたばかりだったって聞いたわ。それなのに——」

田中さんが話してくれた内容を、俺は今でも一つ一つ覚えている。

その娘さん——名前は聞いたが、ここでは仮にユキとする——は、明るくて、人懐っこい子だったらしい。団地の住人にも愛想がよくて、すれ違うたびに「こんにちは」と笑顔で挨拶していたという。

高校に入って、あの少年と知り合った。

クラスは違ったが、図書室でよく顔を合わせたらしい。二人とも本が好きだったのだ。

付き合い始めたのは夏前。ユキの友達が後で教えてくれたところによると、告白したのはユキの方だったという。

少年は照れ屋で、最初は返事ができなかった。三日後に、手紙で「よろしくお願いします」と返した。ユキはその手紙を、お守り代わりに筆箱に入れていたそうだ。

夏休みに入って、二人で花火大会に行った。それが、最初で最後のデートになった。

八月の終わり、ユキが倒れた。

検査の結果、急性白血病だった。

見つかったときには、すでに進行していた。

ユキは入院した。少年は毎日、学校が終わると病院に通った。片道一時間の道のりを、自転車で通ったという。

ユキの母親が、後にこう話していたらしい。

「あの子が来ると、娘の顔色が変わるの。ぱっと明るくなるの」

少年は病室で何をしていたかというと、本を読んで聞かせていたそうだ。二人が図書室で出会ったときに話題にしていた本を、最初から読み直していた。ユキが「この本、好きだったんだよね」と言った一冊を。

ユキの容態は日に日に悪くなった。

ある日、少年が病室に入ると、ユキが泣いていた。

「ごめんね。私、もうだめかもしれない」

少年は何も言わず、ユキの手を握った。

「本の続き、読んでいい?」

ユキは涙を拭いて、小さく頷いた。

少年は、何事もなかったように、前日の続きから読み始めた。

声は震えていなかったという。

でも、ページをめくる手が、時折止まったという。

ユキが亡くなったのは、九月の初めだった。

十六歳の誕生日の、三日前だった。

少年は通夜にも葬儀にも来たが、一度も泣かなかったと田中さんは言った。

ユキの母親が「あの子、大丈夫かしら」と心配していたそうだ。

葬儀の後、少年はユキの両親に深く頭を下げて、こう言ったという。

「本の続きを、最後まで読めなくて、すみませんでした」

ユキの母親は、その言葉を聞いて初めて崩れるように泣いたそうだ。

あの夜。

少年が雨の中で立っていたのは、ユキの部屋の窓を見上げるためだった。

もう誰もいない部屋。カーテンは閉められ、灯りは消えている。

でも、少年にとっては、あの窓の向こうにまだユキがいたのだろう。

ベッドの上で本を読んでもらうのを待っている、ユキが。

「あの子ね」と田中さんは目を伏せて言った。「あの夜だけじゃないのよ。何度か来てたみたい。雨の日だけ」

雨の日だけ。

なぜ雨の日だったのか、俺にはわからなかった。

でも、後になって思った。

もしかしたら、雨の日なら泣いていても、誰にも気づかれないから——。

涙と雨が混ざって、区別がつかないから——。

あの少年は、泣いていたのだ。

八時間以上、あの場所で、ずっと。

俺の目には涙が見えなかった。でも、あの空っぽの目は、泣き尽くした後の目だったのだ。

それから数ヶ月して、俺は団地を引っ越した。

仕事の都合だった。

引っ越しの日、ふと公園のブランコの方を見た。

あの日俺が手すりにかけた傘は、もうなかった。少年が持って帰ったのだとしたら、少しだけ救われた気がした。

あの少年がその後どうなったのか、俺は知らない。

田中さんとも連絡は途絶えた。団地のことを思い出すこともほとんどなくなった。

あれから二十年。

俺は四十を過ぎて、結婚して、娘が一人いる。

先日、娘が高校に入学した。制服を着た娘を見送りながら、ふとあの少年のことを思い出した。

あの少年も、今は三十代の後半だろう。

どこかで元気にしているだろうか。

誰かと出会い、家庭を持ち、笑って暮らしているだろうか。

それとも、今でも雨の日には、あの団地の公園を思い出すだろうか。

先週、娘が学校から帰ってきて、「お父さん、今日ね」と楽しそうに話しかけてきた。

「図書室で、ちょっと気になる男の子がいてね」

俺は「ほう」と言いながら、胸の奥がちくりとした。

娘はまだ続けた。「その子ね、いつも同じ席で本読んでるの。話しかけてみようかなって」

俺は箸を置いて、娘の顔を見た。

十六歳の、明るい目。

ユキと同じ年だ。

「……話しかけてみたらいいんじゃないか」

俺は、そう言った。

娘は「えー、恥ずかしいよ」と笑った。

俺も笑った。笑いながら、心の中で祈った。

どうか、この子の日常が、穏やかに続きますように。

図書室で出会った二人の時間が、長く、長く、続きますように。

雨の日になると、今でもあの少年のことを思い出す。

傘もささずに、ずぶ濡れで、ただ一つの窓を見上げていたあの背中。

俺はあのとき、何もしてやれなかった。

傘を一本、手すりにかけただけだ。

でも、もしあの少年がこの文章を読んでいたら、伝えたい。

あの夜、あなたのことを見ていた人間がいたこと。

あなたの背中が、二十年経った今も忘れられないこと。

あなたが雨の中で流した涙は、きっとユキに届いていたこと。

そして、あなたがあの場所に立ち続けたことは、弱さではなく、強さだったということ。

あの雨の夜、あなたは確かに、誰よりも強かった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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