忘れられない暗証番号

公開日: ちょっと切ない話 | 恋愛

彼女(フリー写真)

元号が昭和から平成に変わろうとしていた頃の話です。

当時、私は二十代半ば。彼女も同じ年でした。

いよいよ付き合おうかという時期に、彼女から私に泣きながらの電話…。

「結婚は出来ない体だから付き合えない…」

夜中でしたが、気になるので彼女に会いに行きました。

そして彼女から、

「一度乳癌の手術をしているから…片胸が無いの…私」

と告白されました。私はそれを聞き、

「………でも、…それは僕にとっては結婚出来ないという条件ではないよ…」

と返しました。

私も彼女が好きでしたし、実際に片腕や片足が無くとも好きな人は好きになる(例えが悪くてすみません)性格でしたから。

そうこうしている内に、お互いが一緒に住むようになりました。

しかし幸せ気分も束の間で、彼女の肺に転移しているかもしれないという検査の連絡が入ってしまいました。

急遽入院し、後は検査の連続でした(肺への内視鏡検査は辛かったそうです)。

そして二週間が過ぎた頃のことです。

見舞い時間が過ぎ、帰りがけに彼女が

「左の足が少し引きずって歩いているみたい」

と言うので、

「症状を先生に話してみるね」

と伝えて帰りました。

次の日、先生に報告すると、

「…明日、頭を検査します」

と言われました。

私はどうして足の異常が頭の検査に繋がるのかと、驚いたのを忘れられません。

検査した夜、CTスキャンの結果を聞きに行かなくてはなりませんでした。

彼女には、

「大丈夫だよ、大したこと無いって」

と言いながらも、震えながら病院の応接室に入って行きました。

先生は若い方で、私達を真剣に励ましてくれる方でした。

その先生も現状が悔しかったらしく、第一声が

「どうしようも…」

と、少し涙を浮かべながら話してくれました。

やはり脳内にも転移していたのですが、

「癌細胞の成長が早く、周りの脳を圧迫しながら進んでいます。摘出したいが周りが柔らかくなっているので、今の医学では不可能です…」

私はもうぼろぼろに泣いていましたが、勇気を出して

「どれくらい持ちますか?」

と聞きました。

入院はしているものの、彼女はとても元気で、傍目には病人には見えませんでした。

しかし先生曰く、

「何もしなければ2ヶ月、延命処置を取れば半年だろう」

とおっしゃいました。

涙ながらにです。

「治療しても半年ですか?」

「治療とはもはや言えない、延命処置です…」

その方法とは放射線治療の事で、激しい嘔吐や脱毛、目眩を伴うものです。

私は考えました。

考えましたが、とてもその場では判断出来るものではありません。

せめて余命2年などであれば、抜けた髪も生え揃うであろう。

でも、半年なんて。

次の日、先生に外泊許可を得て、自宅に帰る二人が居ました。

その夜、彼女の方から

「検査の結果、聞かせて…嘘は無しで…」

と言われ、私は言葉に詰まりそうになりながらも、彼女を信じて正直に全てを伝えました。

この瞬間が今までの人生で最も辛かった時です。

言葉は省略させて頂きますが、二人ともぼろぼろに泣いていました。

しかし彼女は強く、残された人生をどう生きるか決断をしました。

「退院して、少しでも楽しもう!」

翌々日に病院へ帰り、先生に二人の考えを伝えたところ、

「頑張ってください!負けないで!」

と励ましていただき、2日後に退院しました。

その後、すぐに旅行社へ行きました。

そして新婚旅行の手配と『結婚しました』の葉書を作って友人一同に送り、みんなで祝ってもらいました(彼女が病気だとは誰一人知りませんでした)。

余命2ヶ月と言われながらも、彼女は本当に頑張り、退院4ヶ月後の『花の博覧会』にも(車椅子でしたが)行く事が出来、喜んでくれました。

しかし病気は確実に進行し、間もなく自宅療養が不可能な状態になり、再入院しました。

そして雨の降り頻るある晩に意識不明になり、翌朝、私の腕枕の中で帰らぬ人となりました。

恥ずかしながら、15年近く経った今も、あの頃の彼女の強さに、私は追い付くことが出来て居ません。

ここからが本題です。

二人同居を始めた頃に、銀行の口座の暗証番号や諸々の番号を統一しようと、二人の誕生日を足した『○△◇■』を決めて生活していました。

彼女が亡くなって暫くした頃に、公的な機関への書類提出で死亡診断書が必要になり、病院で2通取ったのです。

それで内1通がなぜか開封状態で手元に来たもので、見てしまったのです。

死亡原因、病名云々の中に目に留まった、

『死亡時刻、平成*年*月*日○△:◇■分……』

二人で決めた暗証番号が並んでいました。

きっと本当の偶然でしょうけれども、私は

「忘れないでね!」

と彼女が言っているのだと、今でも思っています。

勿論、死ぬまで忘れることは無いでしょう。

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