桜を綴じた最後の手紙

時計職人の静かな工房

俺の店には、壊れた時間を預けに来る人がいる。

カウンターに時計を置くその手つきを見れば、たいていのことは分かるようになった。

丁寧に布を解く人、放るように置く人、置いてから名残惜しそうに指先を離せない人。

時計を抱えて入ってくる人の背中には、たいてい、言葉にならない事情が、そっと貼りついている。

直してほしいのは、歯車じゃない。

その時計が刻んでいた、もう戻らない誰かの時間なのだと――この仕事を四十年やって、ようやく腑に落ちた。

あの人が店の戸を鳴らしたのは、俺がまだ二十歳そこそこ、昭和四十三年の春のことだった。

城下町の外れ、小さな天守が屋根の向こうに覗く通りで、俺は父から継いだばかりの時計店を、ひとりで開けていた。

その春の城下町は、まだ戦後の名残をあちこちに残していた。

焼け残った土蔵と、新しく建て直された商家が、肩を並べるようにして一本の通りを作っていた。

親父はよく言っていた。

「俺たちは時間を売る商売じゃない。預かる商売だ」

意味が分かったのは、ずっと後になってからだった。

俺は二十歳の年に親父を見送り、たったひとりで、この小さな店を背負うことになった。

正直に言えば、人の時間を預かるどころか、自分の明日さえ、どう刻んでいいか分からなかった。

親父が遺した道具箱には、使い込まれた鑷子や砥石が、几帳面に並んでいた。

俺はその道具の手触りだけを頼りに、毎日、見知らぬ誰かの時間と向き合っていた。

戸を開けて入ってきた女の人は、佳代さんといった。

祖父の形見だという銀の懐中時計を、白い布にくるんで、両手で抱えるようにして持ってきた。

「もう何年も、止まったままなんです」

差し出されたその時計は、蓋の内側がひどく擦れていた。

持ち主が、何度も何度も、開け閉めした証だった。

「直りますか」

俺は蓋を開け、小さなルーペを目に当てた。

中の油は飴のように固まり、芯が一本、髪の毛ほどの角度で曲がっていた。

「時間はかかります。でも、また動きます」

そう答えたとき、佳代さんの目元が、ふっとゆるんだのを、今でも覚えている。

それから佳代さんは、三日にあげず、店をのぞくようになった。

修理の進み具合を尋ねるふりをして、本当はただ、止まった時計のそばに居たかったのだと思う。

佳代さんの祖父は、北の港町から城下町へ流れてきた船具職人で、その懐中時計だけが、故郷から持ってきた唯一のものだったらしい。

「祖父はね、時間に正直な人でした」

窓から差す光の中で、佳代さんはよくそんな話をした。

「約束の時刻に一分でも遅れると、海が荒れるぞって、本気で叱るんです」

俺は手を止めずに、相槌だけを返していた。

不器用な男だった。

気の利いた言葉のひとつも、返せやしない。

それでも佳代さんは、毎日のように、店の戸を鳴らしてくれた。

夏が来ると、佳代さんは麦茶を差し入れてくれるようになった。

店に冷房なんてものはなく、扇風機の首振りだけが、油の匂いを部屋の隅へ運んでいた。

汗の浮いた俺の額を見て、佳代さんは小さく笑い、また時計の話をせがんだ。

歯車やぜんまいの理屈を語る俺の声を、佳代さんは難しい顔でうなずきながら聞いていた。

分かっていたかどうかは、今でも分からない。

ただ、聞いていたかったのだと思う。

俺の声を、店の薄暗がりごと、覚えておきたかったのかもしれない。

秋になると、佳代さんは店の隅の古い柱時計の振り子を、飽きもせず眺めていた。

「振り子って、行ったり来たりするばかりで、ちっとも前に進みませんね」

「そのくせ、ちゃんと時間は進んでいくんだから、不思議です」

俺は、気の利いた返しが浮かばずに、ただ「そうですね」と言った。

今なら、もう少しましな言葉を、返せる気がする。

桜が散って、店先の溝に花びらが溜まる頃、ようやく懐中時計は動き出した。

カチ、カチ、と。

何年ぶりかに時を刻みはじめたその音を、佳代さんは両手で包むようにして、目を閉じて聞いていた。

「ありがとう」

その一言が、やけに長く、薄暗い店の中に残った。

俺は、その音をもう少しだけ長く聞いていたくて、わざと油の馴染みを確かめるふりをした。

職人の見栄というのは、たいてい、こういう情けないところで出る。

けれど、時計が動き出したのと同じ春に、佳代さんは町を離れることになった。

父親の仕事の都合で、一家そろって北の港町へ移ると言う。

皮肉なことに、祖父が出てきたその町へ、佳代さんは帰っていくのだった。

発つ前の日、佳代さんは店に来て、カウンターに一枚の押し花を、そっと置いた。

薄い和紙に挟まれた、桜だった。

「この町の桜を、持っていきます」

「だから――手紙を、書いてもいいですか」

俺は、うなずくのが精一杯だった。

ほんとうは、行かないでくれと言いたかった。

けれど、職人の手は、道具よりも重いくせに、こういうときには、まるで動かない。

佳代さんを乗せた汽車を、俺は見送りにも行けなかった。

店を、開けていなければならなかったから――そう、自分に言い訳をして。

戸口に立って、ただ、町の北のほうの空を見ていた。

汽車の煙が、屋根の向こうで一本の細い線になり、やがて春の霞に溶けていった。

その日の夜、俺はカウンターに残された桜の押し花を、ずいぶん長いこと眺めていた。

和紙越しに透ける花びらは、もう散ったはずの春を、まだ手のひらに留めていた。

時間を預かる商売のくせに、俺はこのとき初めて、時間を止めておきたいと願った。

最初の手紙は、佳代さんが発って十日ほどで届いた。

北の町はまだ風が冷たいこと、港にひしめく船のこと、祖父とそっくりの訛りで話す老人がいること。

便箋の隅には、いつも小さな押し花が挟まれていた。

春は浜辺の浜豌豆、夏は浜茄子、秋は野菊。

季節が変わるたびに、北の花が、俺の小さな店に届いた。

俺はそれを、修理待ちの時計を並べる棚の、いちばん上の引き出しにしまった。

返事を書くのは、いつも夜だった。

昼間は他人の時間を直し、夜になって、ようやく自分の時間を綴る。

気の利かない男の手紙は、決まって時計の話ばかりになった。

歯車の話、ぜんまいの話、振り子の長さで一日がどれだけ狂うかという話。

我ながら、色気のない便りだと思った。

それでも、便箋に向かう夜だけは、北の港町と城下町が、一本の線で繋がっている気がした。

佳代さんの手紙には、季節ごとの港の匂いまで綴られていた。

春は雪解けの水と魚の匂い、夏は潮と日に灼けた網の匂い、冬は凍てついた風と、囲炉裏の煙の匂い。

読むたびに、行ったこともない北の町の景色が、俺の店の中に立ち上がった。

夏祭りの夜には、港に櫓が立ち、漁り火のような提灯が、暗い水面にいくつも映るのだと書いてあった。

いつか二人で、その灯りを見に行きましょうと、便箋の端に、小さく書き添えてあった。

俺はその一行を、何度も指でなぞった。

それでも佳代さんは、「あなたの手紙は、時計みたいに正確に届きます」と、笑って書いてくれた。

三度目の冬、佳代さんは、祖父の懐中時計が今も正確に動いていると書いてきた。

『あなたの直してくれた時間が、わたしの一日を、きちんと区切ってくれます』と。

俺はその一文を、何度も読み返した。

便箋の文字は、年を追うごとに少しずつ、線が細くなっていった。

そのことに、当時の俺は、ひとつも気づいていなかった。

今思えば、あれは佳代さんが、少しずつ無理をして筆を執ってくれていた証だったのかもしれない。

それでも便りは、季節の花を連れて、律儀に届き続けた。

一年が過ぎ、二年が過ぎた。

いつか北の町へ行く、と俺は何度も書いた。

佳代さんも、いつか城下町の桜を、もう一度見たいと書いた。

四度目の春、俺は思い切って、北行きの汽車の時刻を調べたことがあった。

けれど、修理待ちの時計が、棚に十も二十も並んでいた。

どれもこれも、誰かの大切な時間だった。

それを放って自分の春に出かけることが、俺にはどうしてもできなかった。

また来年、と俺は時刻表を畳んだ。

その「また来年」を、俺はいったい何度、畳んだだろう。

若さというのは、時間が無限にあると勘違いすることなのかもしれない。

預かった時計には期限を切るくせに、自分たちの時間には、ひとつも期限を切らなかった。

手紙が途絶えたのは、出会いから七度目の春のことだった。

季節が変わっても、北の花は、もう届かなくなった。

俺は何通か書いた。

けれど、返事はなかった。

はじめは、忙しいのだろうと思った。

やがて、別の誰かのもとへ嫁いだのだろう、と思うようになった。

それなら、それでいい。

北の港町で、暖かい家庭を持ってくれているのなら、それでいいのだ。

そう自分に言い聞かせて、俺は、最後の一通を出すのをやめた。

今にして思えば、あれは諦めではなく、逃げだった。

返事のない手紙を出し続ける怖さから、俺は目をそらしたのだ。

職人は、壊れた物には正面から向き合えるくせに、壊れたかもしれない縁には、すぐ背を向けてしまう。

引き出しの押し花だけが、季節を止めたまま、棚の上に残った。

不器用な男は、追いかけることもできず、ただ毎朝、店の戸を開け続けた。

他人の時間を直しながら、自分の時間だけが、あの七年目の春で止まっていた。

皮肉なものだ。

止まった時計を直すのが商売の男が、自分の止まった時間だけは、どうしても直せなかった。

それから、長い時間が流れた。

城下町の通りからは、一軒、また一軒と、明かりが消えていった。

呉服屋が畳まれ、寄り合い所が壊され、空き地になった。

それでも、毎朝六時に店の鍵を開ける習慣だけは、変えなかった。

客の少ない日でも、俺はカウンターの奥で、誰かの時計に油を差していた。

止まった時計の音が、再び動き出す、あの最初の一打ち。

それを聞くたびに、俺はあの春の店先を、いつも思い出していた。

町に新しい時計屋ができ、安い電池式の時計が並ぶ時代になっても、俺の店には、古い時計を抱えた人が、ぽつりぽつりと訪ねてきた。

形見の柱時計、嫁入りに持たされた目覚まし、親から子へ渡された腕時計。

どれもみな、針の奥に、誰かの面影を抱えていた。

俺はそういう時間を直すのが、性に合っていたのだと思う。

誰かが大切に握りしめてきた時間を、もう一度、動かしてやる。

それは、自分の止まった時間への、ささやかな手向けのようでもあった。

俺の髪も白くなり、手の震えを抑えるのに、若い頃の倍の集中がいるようになった。

それでも俺は、時計を直し続けた。

佳代さんの祖父の懐中時計を直した、この手を、錆びさせたくなかったのだと思う。

あの春の音を、指がまだ覚えているうちは、店を閉められなかった。

去年の春のことだった。

店の戸が、ずいぶん懐かしい鳴り方をした。

入ってきたのは、五十がらみの女の人だった。

顔立ちのどこかに、見覚えのある面影があった。

目元の、少し困ったような笑い方が、遠い春の誰かに、よく似ていた。

「不躾に、すみません」

その人は、しばらく言葉を探したあと、静かに切り出した。

「姉が――佳代が、あなたのことを、よく話していました」

佳代さんの、妹だと名乗った。

手には、古びた桐の文箱を、大切そうに抱えていた。

「姉から、ずっと預かっていたものです」

「いつか、渡せる日が来たら、と」

文箱の蓋を開けると、束ねられた手紙が、ぎっしりと詰まっていた。

それは、俺が北の町へ送った手紙の、すべてだった。

一通も捨てられず、几帳面に、日付の順に重ねられていた。

色気のない、時計の話ばかりの手紙が、二十数年、海を渡った町で、ずっと仕舞われていた。

そして、いちばん上に、一通だけ、出されることのなかった封筒が載っていた。

宛名は、俺の名前だった。

差出人の名は、書かれていなかった。

けれど、その丸みを帯びた字を、俺が見間違えるはずもなかった。

封は、切られていなかった。

妹さんが、うつむいたまま、静かに言った。

「姉は、長いこと、床に就いていました」

「手紙が、書けなくなる前に――どうしても、これだけはと」

言葉は、そこで途切れた。

それ以上は、妹さんも何も言わなかったし、俺も、訊かなかった。

訊かなくても、桐の文箱の重さが、二十数年ぶんの歳月を、静かに語っていた。

俺は、震える指で、その封を開けた。

中の便箋の隅に、桜の押し花が、一枚、挟まれていた。

色はすっかり褪せていたけれど、それが、城下町の桜だと、ひと目で分かった。

佳代さんが、町を発つ日に、この手に握って持っていった、あの春の桜だった。

便箋には、細く、整った字で、こう綴られていた。

――返事を書けなくなって、ごめんなさい。

――あなたに、止まった時計のそばで、ただ待ち続ける人生を、送らせたくなかったのです。

――だから、わたしはわざと、黙りました。

――ひどい女だと、どうか思ってください。

――でも、ひとつだけ、最後のわがままを書かせてください。

――あの春、あなたが直してくれた祖父の時計は、今も止まっていません。

――あなたが直してくれたから、わたしも、最後まで、時間を信じていられました。

俺は、便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。

窓の外を、一片の桜が、ゆっくりと横切っていった。

二十数年、俺が誤解していた沈黙の正体が、たった一枚の便箋の中に、静かに畳まれていた。

あの人は、俺に待つことをさせまいとして、自分から、そっと手を離したのだ。

待たせまいとした人のために、俺はかえって、二十数年も待ってしまった。

けれど、その歳月を、無駄だったとは思わなかった。

待つというのは、忘れずにいる、ということでもあったのだから。

妹さんが帰ったあと、俺は棚のいちばん上の引き出しを、そっと開けた。

季節を止めたままの押し花が、そこに、ちゃんとあった。

浜豌豆、浜茄子、野菊。

北の町の季節が、二十数年ぶりに、また色を取り戻していくような気がした。

俺は、最後の手紙に挟まれていた桜を、その隣に、そっと並べた。

城下町の春と、北の春が、ようやく、ひとつの引き出しの中で出会った。

二つの春のあいだに横たわっていた二十数年が、その一瞬だけ、すっと近くなった気がした。

佳代さんは、忘れたのではなかった。

黙ることで、俺の時間を、守ろうとしたのだ。

不器用なのは、どうやら、俺ひとりではなかったらしい。

窓の外では、今年もまた、桜が散りはじめていた。

俺はふと、佳代さんの祖父の言葉を、借りたくなった。

――時間に、正直に。

カウンターに座り直し、修理途中の時計に、もう一度ルーペを向ける。

店の棚には、相変わらず、誰かの止まった時計が並んでいる。

俺はそのひとつひとつに、また油を差し、芯を立て直していく。

預かった時間を、まだ直せる手が、ここにある。

それだけで、この春を、生きていける気がした。

佳代さんが最後まで信じてくれた、その時間を、今も俺は、この手で預かっている。

カチ、カチ、と。

店のどこかで、小さな秒針が、確かに時を刻んでいた。

その音は、あの日、佳代さんが両手で包んで聞いた音と、何ひとつ、変わっていなかった。

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