俺の下手な字と彼女の鉛筆

青空(フリー写真)

「いつかまた絶対迎えに行くから」

別れ話の最後に、俺は改札の前でそう言った。

彼女は、いつもの調子で笑って、こう返した。

「何ゆってんねん〜。もうその頃には結婚してるわ! うぬぼれんなよ〜」

それが、三年ちょっと付き合った彼女と交わした、最後のまともな会話になった。

中学の頃に親父が逝ったとき、俺は大して泣かなかった。

葬式の間も、ただ立って線香の煙を見ていた。

そんな俺が、彼女のときだけは、人目も憚らずに泣いた。

元カノを亡くした話を、いま、ここに書いておく。

上手くまとまる自信はない。

俺の下手な字も、拙い文章も、昔から少しも変わらない。

それでも、書いておかないと、あの人のことが本当にいなくなってしまう気がした。

覚えている人が減れば、彼女の笑い声も、一緒に薄れていくだろう。

だから、読みにくくても、最後まで付き合ってほしい。

大阪の南の、小さな居酒屋から始まる話だ。

遺されたものが、あとから意味を持つ話は、他にもある。

母が最後に作った炊き込みご飯や、蝋燭の夜と母の割烹着がそうだ。

俺の下手な字

彼女と出会ったのは、大阪の南にある居酒屋のバイト先だった。

俺は厨房で皿を洗い、彼女はホールで注文を取っていた。

閉店後の賄いを食べながら、先に話しかけてきたのは彼女のほうだった。

「あんた、伝票の字ぃ、ミミズが這うてるみたいやな」

「読めるやろ」

「読まれへんから、毎回あたしが解読しとるんやん」

そう言って彼女は、腹を抱えて笑った。

それから何かにつけて、彼女は俺の下手な字をからかった。

付き合い始めてからも、それは変わらなかった。

俺は不器用で、口で気持ちを伝えるのが苦手だった。

だから、バイトの休憩中や、会えない日の夜に、ときどき手紙を書いた。

便箋一枚の短いものだ。

「今日は雨で足が重かった。でも、帰りに食べたたこ焼きは美味かった」

そんな、どうでもいいことばかり書いた。

彼女は受け取るたびに、わざと声に出して読んだ。

間違えたふりをして、俺の字を変な言葉に読み替えては、また笑った。

「ここ、『愛してる』ちゃうの? 『愛しとる』やなくて『愛想ない』て読めるわ」

「そんなこと、書いてへん」

「ほな、書き直し」

そう言いながら、彼女は便箋を大事そうに二つに折って、鞄のポケットに差し込んだ。

その仕草を、俺は何度も見ていたはずなのに、意味を考えたことがなかった。

ホールに立つ彼女は、エプロンのポケットに、いつも短くなった鉛筆を一本差していた。

注文を取るとき、芯の先を軽く舐めてから、伝票に走らせるのが癖だった。

「ボールペンのほうが楽やろ」と言うと、彼女は首を振った。

「鉛筆はな、間違えても消せるから好きやねん」

その言葉の意味を、俺はずっと後になるまで知らなかった。

付き合って最初の冬、俺は初めて手紙を渡した。

難波の駅の地下で、人混みを避けながら、無言で封筒を差し出したのだ。

彼女は環状線の電車の中で、それを開いたらしい。

次の日の昼に、「声に出して読んだら、隣のおばちゃんが笑うてたわ」と連絡が来た。

恥ずかしさで顔が熱くなったのを、今でも覚えている。

楽しい日々だった。

けれど、俺は自分の不安定な仕事のことで、いつも苛立っていた。

バイトから電気工事の見習いに移ったばかりで、朝は早く、給料は安かった。

上手くいかない日は、全部を彼女にぶつけた。

彼女は怒らなかった。

ただ、少し困ったような顔で、俺の隣に座っていた。

四年のあいだ

別れを切り出したのは、俺のほうだった。

「ちゃんとした男になるまで、お前に会わせる顔がない」

そんなかっこいい理由を並べたが、本当はただ、逃げたかっただけだ。

彼女は何も訊かなかった。

改札の前で、俺は先ほどの言葉を口にした。

そして、彼女は笑った。

その笑顔が、あまりに普通だったから、俺は安心してしまった。

また会える、と思い込んだのだ。

当然、迎えに行くつもりだった。

でも、なかなか行けなかった。

仕事が一人前になるまで、と自分に言い訳をした。

次は、貯金ができるまで。

その次は、見栄を張れるだけの車を買ってから。

気がつけば、四年も彼女を待たせていた。

スマホには、彼女の番号が残っていた。

何度か画面を開いては、通話ボタンを押せずに閉じた。

年賀状も、誕生日のメッセージも、一度も送らなかった。

彼女が今どうしているのかを知るのが、怖かったからだ。

誰かの隣で笑っているかもしれない。

それなら、それでいいと、自分に言い聞かせていた。

言い聞かせながら、心のどこかで、まだ待っていてくれると信じていた。

勝手な話だ。

一度だけ、彼女の誕生日に、最寄りの駅まで行ったことがある。

改札を出る人の流れを、一時間ほど眺めていた。

彼女の姿は、見つからなかった。

見つからなくて、ほっとしたのだと思う。

その足で居酒屋に入り、一人で熱燗を二本飲んだ。

帰りの環状線は、窓に映る自分の顔がひどく情けなくて、ずっと床を見ていた。

仕事は、少しずつ一人前に近づいていた。

それでも、まだ迎えに行ける自分ではないと、毎年同じ答えを出していた。

電気工事の現場で、初めて一人で配線を任された日があった。

仕上げのスイッチを入れた瞬間、部屋の明かりが一斉に灯った。

親方は「悪うないな」とだけ言って、缶コーヒーを投げてよこした。

それが、褒め言葉の全部だった。

一番に伝えたい相手の顔が浮かんだが、俺はポケットのスマホを握ったまま、また画面を閉じた。

報告書に書く俺の下手な字を、誰かに笑ってほしいと、そのとき思った。

夜の事務所に残って、同僚が帰ったあとの静けさの中で、ひとり日報の続きを書いた。

書けば書くほど、字は右へ傾いて、行からはみ出した。

本当は、答えなど最初から出ていたのに。

そんな折に、共通の友人から電話が来た。

「落ち着いて聞いてな。あいつ、先週、亡くなったんや」

受話器を持ったまま、俺は何も言えなかった。

「癌やった。もう、一年以上、闘病しとったらしい」

彼女はまだ二十代だった。

若いから進行が早かったのだと、友人は声を落として言った。

家族からも、彼女本人からも、病気のことは一言も連絡がなかった。

俺に知らせないでほしいと、彼女自身が頼んでいたのだと、後で聞いた。

葬儀場の母親

葬式には行った。

斎場の入口に立つと、足が前に出なくなった。

受付の机に、白い紙と、芳名帳の万年筆が置かれていた。

名前を書こうとして、手が止まった。

自分の下手な字で、彼女の名前の下に、自分の名を書いていいのかと思ったのだ。

それでも結局、一文字ずつ、ゆっくり書いた。

受付の若い女性は、俺の字を、ちらりと見て、何も言わずに頷いた。

その沈黙が、ありがたかった。

黒い服の人たちの間を、俺は壁際に沿って歩いた。

祭壇の写真の彼女は、記憶の中よりも少し痩せて、それでも同じ顔で笑っていた。

焼香を終えて外に出ようとしたとき、後ろから声をかけられた。

昔、何度か家で夕飯をごちそうになった、彼女の母親だった。

「○○くん、来てくれはったんやね」

母親の目は、赤く腫れていた。

「あの子、ずっと待っとったんよ。あんたのこと」

俺は、返事ができなかった。

母親は、小さな紙袋を抱えていた。

「見てほしいもんがあるんや。ちょっとだけ、ええかな」

控室の隅で、母親は紙袋の中身を、そっと机に置いた。

便箋の束だった。

角が丸くなり、折り目が白く擦り切れていた。

仲が良かった頃に、俺が書いた手紙だった。

「入院してからも、ずっと枕元に置いて、読み返しとったよ」

「病院の夜は長いやろ。看護師さんに頼んで、鉛筆と消しゴムを買うてきてもろたんや」

母親は、机の上の便箋を、指先でそっと撫でた。

「あの子、何してんのかと思ったら、一枚ずつ、何かを書き込んどってな」

「聞いても、笑うだけで教えてくれへんかった」

俺は黙って、便箋を見つめていた。

鉛筆は、間違えても消せるから好きだと言った彼女を、思い出していた。

母親の言葉を聞きながら、俺は一番上の一枚を手に取った。

読み慣れた、自分のひどい字が並んでいる。

その行間に、薄い鉛筆の跡があることに、そのとき初めて気がついた。

目を凝らして、息が止まった。

俺の下手な字の横に、鉛筆の小さな字で、全部ふりがなが振ってあった。

読みにくい字を、彼女は何度も何度も、一文字ずつ読み解いていたのだ。

ミミズが這うているようだと笑ったあの字を、病室のベッドで、一人で。

「あの子な、『この字、ほんまは読みやすいねん』て、よう言うてたよ」

母親はそう言って、少しだけ笑った。

俺は、その場にしゃがみ込んで、声をこらえて泣いた。

中学の頃に親父が逝ったときも、泣かなかった俺が。

もう俺も三十歳近い。

結婚する気には、今もなれない。

一人でぼちぼち生きて、いつか自分の順番が来たら、それでいいと思っている。

彼女の分まで幸せになろうなんて、全く思わない。

ただ、天国が本当にあるなら、そのときは真っ先に彼女に会いに行きたいとは思う。

会ったら、まず、字の練習をしたと言うつもりだ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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