オムライスとごはんと美味かったな

食堂

オムライスとごはんを一緒に頼んだ日のことを、二十年たった今でも、昨日のように思い出す。

あれは中学を卒業して、一年が過ぎた春だった。

漢字が読めない恥ずかしさと、そのとき差し出された一言の温かさを、私は忘れられずにいる。

私の家は、母が一人で三人の子どもを育てていた。

父の顔は、写真でしか知らない。

母は昼は弁当工場に、夜は駅前のビルの清掃に出ていた。

私が眠る時間に出かけ、私が起きる前に帰ってくる。

そんな暮らしだったから、母と顔を合わせるのは、朝の十分間だけだった。

それでも母は、玄関で必ず同じことを言った。

「わからないことは、恥ずかしがらずに聞きなさい」

「聞くのは、恥じゃないからね」

母は笑ってそう言ったが、目の下には、いつも濃い隈があった。

家計は苦しかった。

ガスを止められそうになった冬もあった。

弟は小学生、妹はまだ保育園に通っていた。

私は兄として、学校に通い続ける道を選べなかった。

中学を卒業すると、すぐに町の金属加工の工場で働き始めた。

最初の給料袋の重さを、今も指先が覚えている。

その袋をそのまま母に渡すと、母は台所で、背中を向けたまま黙っていた。

流しの蛇口から、水が細く落ちつづけていた。

母はその音に紛れるように、鼻をすすった。

肩が小さく震えていた。

私は気づかないふりをして、弟のランドセルを直した。

友達と遊ぶ時間など、考えられなかった。

朝は暗いうちに家を出て、夜は星が出てから帰った。

工場の機械の音が、耳の奥にいつまでも残っていた。

旋盤の油の匂いは、石鹸で洗っても爪の間に残った。

同じ工場の先輩は、休憩のたびに、黙って缶コーヒーを分けてくれた。

その温かさに、私はまだ、礼の言い方を知らなかった。

久しぶりの同級生

働き始めて一年が経った、春の日曜日のことだ。

駅前の商店街で、中学の同級生にばったり会った。

名前は健太という。

高校の制服を着て、少し大人びた顔になっていた。

「おお、久しぶり。元気だったか」

彼は昔と変わらない声で笑った。

「せっかくだから、飯でも食おうぜ」

私は財布の中身を数えた。

昼食に使える金額は、七百円ほどだった。

それでも断ることができなかった。

久しぶりに誰かと並んで歩くのが、嬉しかったからだ。

日曜の商店街は、シャッターの半分が下りていた。

ショーウインドウに映る自分の作業靴が、急に古びて見えた。

健太の革靴は、きれいに磨かれていた。

私は歩幅を、少しだけ小さくした。

私たちは、商店街の外れにある小さな食堂に入った。

入口の暖簾は色あせて、油の匂いが染みついていた。

店の奥では、白い割烹着のおばさんが、鍋を振っていた。

壁一面に、短冊のようなメニューが貼られていた。

私はそれを見上げて、息を詰めた。

並んでいるのは、漢字ばかりだった。

中学で、満足に勉強できていなかったのだ。

読める字は、ほとんど見つからなかった。

かろうじて分かったのは、カタカナの文字だけだった。

「オムライス」

その五文字だけが、壁の中で、救いのように光って見えた。

オムライスとごはん

健太は、メニューをろくに見ずに、さっと手を挙げた。

「焼きそばと、ごはんください」

おばさんは慣れた手つきで、注文を書き留めた。

「あんたは?」

私は喉が渇いて、声が裏返りそうだった。

本当は、何を頼めばいいのかも分からなかった。

「オムライスと、ごはん」

言ってから、顔が熱くなった。

おばさんの手が、ぴたりと止まった。

隣のテーブルの作業着の男が、くすっと笑った。

店のあちこちで、小さな笑い声が漏れた。

オムライスには、もうごはんが入っている。

そんなことも、私は知らなかったのだ。

穴があったら入りたい、というのは、こういう気持ちなのだと思った。

耳たぶまで赤くなっているのが、自分でも分かった。

喉の奥が、からからに乾いていた。

うつむいた私の視界で、割り箸の袋が滲んで見えた。

そのとき、健太がすかさず手を挙げた。

「さっきのキャンセルね!」

彼は大きな声で、おばさんに言った。

「俺も、オムライスとごはん! ここのオムライスで、白飯を食うのが好きなんだよ」

おばさんは、にやりと笑った。

「あいよ。若いのは、よく食べるねえ」

笑い声は、すっと引いていった。

健太は、何事もなかったように、水を飲んでいた。

私は膝の上で、固く握っていた拳を、ゆっくりと開いた。

運ばれてきたオムライスは、黄色く光っていた。

オムライスとごはんの載った盆は、二人分とも同じ形をしていた。

向かいで、健太が先に手を合わせた。

「いただきます」と言う声が、湯気の向こうで揺れていた。

ケチャップの赤が、ふわりと広がっていた。

スプーンを入れると、湯気が顔にあたった。

口に運ぶと、卵がとろりと溶けて、甘い味が広がった。

生まれて初めて食べる、本物のオムライスだった。

半熟の卵の下から、赤いごはんが顔を出した。

小さな具のにんじんまで、甘く感じられた。

私は夢中で食べた。

添えられた白いごはんは、半分も食べられなかった。

それでも、最後まで、お腹いっぱいになった。

美味かったなという声

食堂を出たとき、午後の日差しがまぶしかった。

健太は、伸びをしながら、空を見上げた。

「美味かったな」

彼は笑顔でそう言った。

「ありがとな。付き合ってくれて」

本当に礼を言うのは、私のほうだった。

けれど、私は何も言えなかった。

彼は、私の肩を軽く叩いた。

「仕事、頑張れよ。また飯、行こうぜ」

その一言で、目の奥が熱くなった。

誰かに「仕事頑張れよ」と言われたのは、働き始めて、それが初めてだった。

工場では、私は名前ではなく、番号で呼ばれることのほうが多かったのだ。

だからこそ、あの一言は、胸の真ん中にまっすぐ届いた。

私は歩きながら、何度も袖で目をこすった。

涙があふれそうになるのを、必死にこらえた。

帰り道の商店街は、夕方の匂いがしていた。

魚屋の氷が溶ける匂いと、揚げ物の油の匂いが混じっていた。

私は歩きながら、何度も胸の中で繰り返した。

ありがとう。

その言葉を、心の底から感じたのは、あのときが初めてだった。

玄関の灯りは、まだ点いていなかった。

母は夜の仕事に出る支度をしながら、台所で味噌汁を温めていた。

家に帰って、母に話した。

「漢字が読めなくて、恥ずかしかったよ」

母は少し黙ってから、静かに言った。

「その同級生を、一生大事にしなさい」

それから、台所の引き出しから、古い国語辞典を出してきた。

「これで、少しずつ読めるようになればいい」

表紙が剥がれた辞典は、母が若いころに使っていたものだった。

私はその夜から、仕事帰りに、少しずつ漢字を覚えた。

二十年後の昼休み

健太は、今も私の親友だ。

結婚式のスピーチも、彼に頼んだ。

彼は照れくさそうに、あの食堂の話をした。

「あいつは覚えてないだろうけど」と言いながら。

覚えているに決まっている。

あれから私は、漢字をひとつずつ覚えた。

辞典の余白には、読めた字の横に小さく丸をつけた。

丸が百を超えたころ、私は初めて、新聞の見出しを声に出して読めた。

工場の休憩室で、先輩が目を丸くして拍手をしてくれた。

母はその声を、台所で黙って聞いていた。

菜箸を持った手が、一瞬だけ止まっていた。

忘れられるはずがない。

今、私は小さな板金工場を営んでいる。

従業員は、六人。

去年の春、中学を出たばかりの子が、見習いに入ってきた。

名前を、翔という。

小柄で、袖の長さの合わない作業着を着ていた。

オムライスとごはんを頼んだ十六歳の自分を、私はふと思い出した。

無口で、人の目を見て話せない子だった。

昼休み、近所の食堂へ、みんなで出かけた。

翔はメニューを前に、固まっていた。

指が震えているのが、はたから見ても分かった。

私は、すぐに気づいた。

漢字が、読めないのだ。

「翔くん」

私は、わざと軽い声で呼んだ。

「おじさんはな、ここのオムライスが好きなんだ」

翔が、顔を上げた。

「ごはんも付けて、二つください」

私は手を挙げて、注文した。

「オムライスを二つと、ごはんも二つ」

店員の女性が、不思議そうに首をかしげた。

それでも、笑顔で伝票に書き込んでくれた。

翔は、目を丸くして、私を見ていた。

運ばれてきたオムライスを、彼は黙々と食べた。

半分ほど食べたところで、ぽつりと言った。

「おじさん。ごはん、余ります」

「そうか。じゃあ、おじさんが貰おう」

私は笑って、白いごはんを引き取った。

店を出ると、春の風が、シャツの袖を揺らした。

翔は、並んで歩きながら、小さな声で言った。

「ありがとうございました。……美味かったです」

隣のテーブルでは、作業着の男たちが笑い合っていた。

けれど、笑い声の向きが、あの日とはまるで違っていた。

私は空を見上げた。

あの日、商店街の屋根の向こうにあった空と、同じ色をしていた。

小さな親切が人を支える話は、春一番の日に段ボールを抱えた二人にも書いた。

母の言葉を思い出す物語なら、母のガイドブックの話も、私は大切にしている。

読めないメニューの前で、俺は一人ではなかった。

今度は、私がそう言ってやる番だ。

「美味かったな」

私は、笑った。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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